終電後の遺失物係――明日の落とし物が届きます 作:夜番の拾い主
最後の夜、夜間受けは三つまとめて吐き出した。子ども用の吸入器。油で汚れた大学ノート。紺色のパスポート。
どれも翌日の品だ。荷札の返却期限は、朝八時十分、昼十二時三十二分、夕方十八時〇五分。三件を片づけない限り、返却機構の廃止は選べない。
「閉店前の在庫一掃みたいだね」
「返品期限が一日しかない在庫を、閉店日に出す店は潰れる」
「だから閉めるんじゃない?」
筋が通っている。腹が立つほどではない。昨日よりは。
黒田さんは午前零時前から来て、紙の地図と電話帳を机へ広げていた。退職者を深夜労働へ戻すのは問題だが、本人が「六年前の残業代だ」と言うので止めなかった。
吸入器の持ち主は、五歳の遠山芽衣。遺失予定は保育園前の横断歩道。ケースに病院と母親の連絡先が書いてある。これは早い。黒電話で事情をぼかし、予備の確認を頼む。
母親は最初、寝ぼけた声で警戒した。吸入器を二本確認してもらうと、保育園用ケースの留め具が割れていた。
『明日の朝、病院へ寄ります』
「駅前の横断歩道では、かばんを開けないでください」
『どうしてですか』
「留め具が外れやすい場所です」
苦しい説明だ。だが、幼児の呼吸に関わる物を、試験のために失くさせるわけにはいかない。
母親が予備を保育園へ届けると決めた瞬間、未来の吸入器が薄くなった。完全には消えない。朝の確認待ちらしい。
大学ノートの表紙には「小島製パン 配合」と油性ペンで書いてある。中身はパン生地の温度、湿度、発酵時間。十年分の修正が重なっていた。失くせば仕事が止まる。そう考えたが、澪が最終ページを開いた。
「閉店届、挟まってる」
小島製パンは駅裏の古い店だ。俺も何度かカレーパンを買った。店主の小島武志は六十一歳。閉店届の日付は空白。ノートの荷札には、持主ではなく「小島美咲」とある。
「娘さんか」
「配合を持って出ていく?」
「決めつけない。聞く」
澪が満足そうにうなずく。採点は続いているらしい。
パスポートは、三十六歳の安西礼司。航空券の控えが挟まっている。翌日二十一時発、シンガポール行き。遺失予定は十八時〇五分、駅のコインロッカー前。
三件。期限はばらばら。失う物の意味も違う。
「未処理品はこれだけか」
俺は夜間受けへ尋ねた。返事はない。
真鍮の鍵を鍵穴へ差し、左へ回す。普段は右で開く。左には止まりがなく、半回転したところで、受け箱の奥から一枚の荷札が出た。
未処理 三件
廃止受付 七月二十三日 零時〇〇分から零時十三分
必要物 夜間受け鍵、管理者署名、遺失者本人の返却意思
「三つ終われば、できる」
澪が息を吐いた。俺は時計を見た。残り二十三時間四十七分。
「終わらせる」
今度は、ほかの案を胸ポケットに隠していない。
翌日、朝七時四十五分。遠山さん親子が月白駅へ来た。芽衣は黄色い帽子をかぶり、新しいケースを首から提げている。母親は壊れた留め具を見せ、昨日まで使えていたと繰り返した。
「早く分かって助かりました」
その一言で、未来の吸入器と荷札が消えた。
救えた。明日から、同じ物は届かない。
胸の内側で、正しい歯車と間違った歯車が同時に回った。設備を残せば、また救える。残すには一人が消える。答えは出ている。それでも、迷いが消えるわけではない。澪が受付机の下から俺を見上げた。昼間の彼女は一般客から見えない。朝の光の中では輪郭が薄い。
「今、設備を残したいって思った?」
「思った」
「言えるようになったね」
「採点するな」
午前十一時、小島製パンへ行った。店の奥で、小島美咲さんは父親と口論していた。未来のノートは見せず、閉店届の件だけを尋ねる。
美咲さんは三十二歳。東京の製パン会社から戻り、店を継ぎたいと言っている。父親は設備が古く借金もあるから、自分の代で閉じるつもりだった。
「配合ノートを持って出る予定でした」
美咲さんは認めた。
「父が話を聞かないなら、別の店で同じパンを作ろうと思って」
父親が怒鳴る。
「盗んで作ったって、同じ味になるか!」
ノートはレシピではない。気温、粉の状態、店の古い発酵器の癖まで含む修理記録だ。設備と人が変われば、そのままでは動かない。
「持ち出しますか」
俺は美咲さんだけに聞いた。彼女は答えず、ノートがあるはずの棚を見る。現物はまだそこにある。当日の昼、取る前の時間だ。
「持って出たら、父は追ってこないと思います」
「追ってほしい?」
「分かりません。でも、閉店届を勝手に出されるよりは」
父親が何か言いかける。俺は止めない。止める権限はない。
「届は、まだ出しとらん」
「日付が空白でも、書いたじゃない」
「お前が帰る前に書いた。帰ってくると思わなかった」
美咲さんが黙った。俺は店の時計を見る。十二時二十五分。
「ノートを失くす予定まで、七分です。失くすかどうかはお二人で決めてください。ただ、持ち出すなら借りると記録してください。残すなら、複製を取る。どちらにしても、話を続ける時間は作れます」
「駅員さんが、なんでそんなことを」
父親に聞かれる。
「失くしてからでは、持ち主の希望を確認できない物があるので」
美咲さんは棚からノートを取った。父親の前で、最初から最後まで写真に撮り始める。
「原本は置いていく。閉店するかは、今日決めない」
「写真だけで焼けるか」
「だから教えて」
十二時三十二分。未来のノートが消えた。
夕方、安西さんはコインロッカーの前にいた。パスポートをジャケットの内ポケットへ入れた直後、スマートフォンへ電話が来る。安西さんは画面を見て、ロッカーの上へパスポートを置いた。
未来では、そのまま忘れる。俺は少し離れて待った。電話を切る前に声をかければ、ただの注意で終わる。持ち主が何を失くすのかは分からない。
「母さん、今からは無理だって。明日の便なんだ」
会話が聞こえる。安西さんは父親の危篤を告げられていた。海外赴任の出発と、病院。二つを同時には選べない。電話を切ったあと、彼はパスポートを見た。忘れたのではない。置いたまま、見ている。
「安西礼司さん」
俺が呼ぶと、驚いて振り返った。
「月白駅の遺失物係です。パスポートをお忘れです」
「まだ忘れてない」
「そうですね。持っていくか、置いていくか確認に来ました」
安西さんは苦笑した。
「駅員さん、そんなことまで確認するんですか」
「今日で最後です」
彼はパスポートを手に取る。表紙を開き、航空券の控えを抜いた。
「出発は延期します。でも、これは持って帰る。置いていけば、決めたんじゃなく逃げただけになる」
十八時〇五分。未来のパスポートが消えた。未処理品は、ゼロ。
午後十一時五十分、黒田さんと澪と俺は遺失物室へ戻った。机の上には赤い傘、遺失者契約書、真鍮の鍵、廃止届。三件の荷札はすべて白紙になっている。黒電話の受話器を上げる。
『廃止手続を開始しますか』
「開始する」
『以後の事前返却はできません』
「分かっている」
『回避可能だった損失について、管理者は補償を求められません』
「分かっている」
『撤回期限は零時十三分です』
声が切れた。
業務用時計は零時〇一分。俺は真鍮の鍵を机へ置く。廃止届へ署名しようとして、ペンが止まった。明日、壊れた物が届くかもしれない。薬かもしれない。命に関わる鍵かもしれない。俺がここで署名すれば、その人は普通に失くす。
澪を見た。彼女は何も言わず待っている。急かせば、俺から選択を奪うと知っている。
「怖い」
認めると、声が思ったより小さかった。
「何が?」
「明日、助けられない人がいるかもしれない」
「いると思う」
澪は否定しなかった。
「落とし物は、明日も出る。事故も、別れも。私たちが知らないところで」
「だったら――」
「でも、救えなかった明日まで兄ちゃんが先に背負ったら、誰の選択も残らない」
宮野さん。蓮。小島さん。安西さん。未来の品物が役に立ったのは、正解を押しつけたからではない。失くす前に、本人が選ぶ時間を作れたからだ。奇跡を残すために一人を消すのは、その時間を誰か一人から永久に奪う。
零時九分。俺は時計から目を離した。
「澪。帰りたい?」
「帰りたい」
「六年前の選択を、取り消したい?」
澪は赤い傘の柄を見た。
「事故を戻すなら、取り消さない。でも、奇跡を失くしていいなら、帰る」
「分かった」
初めて、返却の意思を最後まで聞けた。廃止届へ高瀬奏汰と署名する。黒田さんが証人欄へ名を書く。澪は遺失者本人の欄へ、高瀬澪、と書いた。筆圧が、六年前の契約書と同じだった。
零時十二分。真鍮の鍵を夜間受けの中へ置く。
品名 明日の遺失物返却機構
持主 月白駅
返却不要 管理者確認済
荷札を結び、受け箱を閉じた。
零時十三分。夜間受けが、内側へ落ちる音を立てた。黒電話の表示が消える。業務用時計の秒針が一度止まり、普通の一秒を刻み始めた。奥の施錠扉の向こうで、長く続いていた列車の走行音が遠ざかる。
机の上の赤い傘だけが残った。灰色の荷札へ、黒い文字が浮かぶ。
返却先 高瀬澪。