終電後の遺失物係――明日の落とし物が届きます   作:夜番の拾い主

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本日の遺失物はありません

 赤い傘を澪へ返す手続きは、三十秒で終わった。

「品名、赤色長傘。持ち主、高瀬澪さん。特徴、骨一本に曲がり、持ち手にウサギのシール。以上で間違いありませんか」

「間違いありません」

「受領欄へ署名を」

「まだ書くの?」

「返却は返却だ」

 澪は笑い、通常の遺失物受領書へ名前を書いた。

 

 高瀬澪。感熱紙でも契約書でもない、どこにでもある複写式の用紙だ。筆圧で下の紙へ青い文字が残る。

 

 俺は赤い傘を両手で持ち、受付机の向こうへ差し出した。

「お預かりしていた品です」

「六年も?」

「保管期限をかなり過ぎている」

「始末書だね」

「前任と連名にする」

 黒田さんが壁際で「巻き込むな」と言った。声が少し裏返っていた。澪の指が傘の持ち手へ触れる。

 

 灰色の荷札が白くなり、床へ落ちた。同時に、傘の重さが俺の手から消えた。

 

 今までも澪は傘を持てた。変化はそこではない。傘を受け取った彼女の左手が、俺の右手へ当たった。

 

 温かい。人間の体温だった。

「兄ちゃん、手、冷た」

 その言い方を知っている。冬の朝、駅へ送れと言って布団を剥いだ妹。アイスを半分寄こせと手首をつかんだ妹。赤い傘へ勝手にウサギのシールを貼り、「兄ちゃんがくれたから捨てられない」と文句を言った妹。

 

 記憶は順番を守らず戻ってきた。小学校の入学式。靴ずれ。海岸で拾った青いガラス。高校の制服。時計店へ就職した日に渡した合鍵。深夜の着信。

 

 最後の一つだけで、全部を塗りつぶすところだった。澪が握った手を離そうとする。俺は反射的につかみ返した。

「痛い」

 すぐ緩める。

「ごめん」

「それは具体的な謝罪?」

「一件目。今、強く握った」

「受理します」

「二件目。六年前、電話に出なかった」

 澪の笑顔が止まる。

「受理する。でも、事故の契約まで兄ちゃんの責任にはしない」

「分かった」

 

 受け入れるのは、逃げることではない。責任の範囲を勝手に広げないのも、持ち主の選択を守る一部だ。

「三件目。六年間、忘れて暮らした」

「それは却下。契約の仕様」

「言い方」

「兄ちゃん向けに翻訳した」

 澪は俺の手を握り直した。

「私も謝る。自分を消すって決めた。兄ちゃんが困るって、最後まで計算に入れなかった」

「困らないと思ったのか」

「兄ちゃん、昔から物の修理はするけど、人には無関心そうだったから」

「そう見えてたなら、お互い観察不足だな」

「六年分、改善しよう」

 

 簡単な約束ではない。

 

 澪は、俺が覚えている十七歳の妹ではない。待合室で六年を過ごした。毎夜、誰かの落とし物が届く音を聞き、届いた新聞や本を読み、黒電話から流れる駅の放送で季節を知った。始発後は眠るしかなく、夜になると一人で駅を歩いた。

 

 俺も、彼女が知らない六年を生きた。時計店が閉じ、仕事を替え、父を看取り、母と疎遠になった。

 

 戻った記憶は、失った時間を埋めない。

「六年分、一度には無理だ」

「じゃあ今日の分から」

「何がしたい」

 澪はすぐ答えなかった。赤い傘を開き、内側から見上げる。遺失物室で傘を差す意味はないが、止めない。

「外へ出たい」

「始発まで、あと四時間半ある」

「今は?」

 

 駅舎の外へ出られるか。まだ確認していない。俺たちは閉じた改札へ向かった。黒田さんもついてくる。遺失物室の奥の施錠扉は、ただの倉庫になっていた。開けると、交換用の蛍光灯と清掃道具しかない。改札のシャッターを半分上げる。夜の海から湿った風が入った。

 澪は境界の前で止まる。

「手、つなぐ?」

 俺が聞くと、彼女は赤い傘を差し出した。

「こっち持って。もし戻されたら、傘だけ外に落ちるから」

 実務的な妹だ。記憶にあるより、ずっと。俺が傘を持ち、澪が一歩踏み出す。

 

 消えない。戻らない。駅前広場の白いタイルへ、彼女の靴が着いた。澪は二歩目を出し、振り返った。

「出られた」

 驚くほど普通の声だった。

 

 黒田さんがその場へしゃがみ込んだ。顔を両手で覆い、肩を揺らす。澪は近づき、背中へ手を置いた。

「黒田さん、だったよね」

「思い出したのか」

「全部じゃない。でも、三時間も怒鳴り合ったのは覚えてる」

「止められなかった」

「止めようとしてくれた」

「足りなかった」

「うん。足りなかった。でも、六年、規則を残してくれた」

 黒田さんは返事をしなかった。澪も慰めの結論を足さず、背中をゆっくりさすった。

 

 午前四時、三人で駅前のコンビニへ行った。澪が店内へ入るたび、自動ドアがきちんと開く。防犯カメラのモニターにも映る。店員は彼女を見て「いらっしゃいませ」と言った。

 

 それだけのことで、俺は商品の陳列を見つめるふりをした。

「兄ちゃん、泣くなら外に出る?」

「泣いてない。冷蔵棚の風だ」

「店の奥まで届くんだ」

 澪はアイスを二つ、かごへ入れた。会計で木のスプーンを二本もらう。

 

 駅前のベンチに座り、始発前の海を見ながら食べた。

「お母さんに、どう説明する?」

 澪が尋ねた。

 

 記録も戻り始めている。俺のスマートフォンには、空白だった家族写真が復元されていた。住民票の除票には、理由不明の空白期間を持つ高瀬澪の名がある。母の記憶がどこまで戻るかは分からない。

「順番に話す。まず、生きてること。次に、六年いなかったこと」

「奇跡の駅は?」

「信じてもらえたら最後に」

「兄ちゃん、説明が長いからなあ」

「お前は途中を省きすぎる」

「ちょうどいいね」

 澪はアイスのふたを舐めた。十七歳の頃もやっていた。二十三歳でもやるらしい。知らない部分と、知っている部分が同じ人の中にある。その全部を今夜理解する必要はない。

 

 始発の入線放送が流れた。普通のスピーカーから、普通の声で。

「帰ろう」

 俺が言うと、澪は赤い傘を肩へ掛けた。

「うん。どっちの家?」

 俺たちはそこで十分ほど相談した。

 

 家族だから自動的に同じ場所へ帰る、とは決めなかった。まず俺の部屋で休み、午後に母へ連絡する。澪が一人で過ごせる部屋も探す。戸籍と仕事は、黒田さんと会社に相談する。

 

 未来ではなく、今日の予定だ。

 

 六日後。午前零時十三分、俺は一人で遺失物室にいた。澪は母の家へ泊まりに行っている。再会は、泣いて終わるほど簡単ではなかった。母は澪を抱きしめたあと、どうして帰らなかったのかと怒った。澪も、帰れなかったと言い返した。それから二人で夕食を作った。

 黒田さんは週に二度、駅へ来ると言う。退職者の勤務ではなく、澪と話すためだ。業務用時計の秒針が、十二分五十九秒から十三分へ進む。

 

 待った。夜間受けは鳴らない。黒電話も鳴らない。

 

 本日の遺失物はありません。その表示を端末へ入力し、夜勤日誌を閉じた。

 

 翌朝、昼の窓口へ青いハンカチが届いた。海辺の遊歩道で拾われた、ごく普通の落とし物だ。灰色の荷札はない。持ち主の名前も、失くした意味も、まだ分からない。

 

 分からないなら、聞けばいい。俺は受付票を一枚取り出した。

 

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