8月31日。
夏休み最後の日。だけど――もう、夜だよ……。
とってもつかれてたみたいで、ずっと眠ってたんだって。だってだって、眠れなかったから。日がのぼる頃まで。
ねむいねむい。ねむねむだよ。5時の鐘でも起きれなかったし……。
とぼとぼと、自分の部屋から出た少年は寝ぼけたまま歩き出す。漂ったコメの香りに誘われるように。
そして、食卓に。
台所とくっついた食卓。少年の母は背を向けて台所に居り、既に、少年の父と兄は席についていた。
「おそよ~だな、チヒロ」
日焼けして筋肉ムキムキで180cm程の巨体である少年の兄が、爽やかなマスクで微笑んでいた。もうすっかり油断している。もう何も起こらないと安心しきっている顔である。
「だなぁ。折角の夏休み最後の日に勿体ないぞぉ? チヒロォォ。一応聞いておくが、宿題は大丈夫かぁ? 特にぃぃ、自由研究、とかなぁぁ」
既に、酔っぱらっている。少年の兄ほどの身長に、少年の兄よりは日焼けもしてなくて色白いが薄くも筋肉質気味であり、爽やかな優男がそのまんま老けたような、白髪交じりの短髪の、アゴの髭がゴマ塩まぶしたみたいな壮年の男が、若干呂律が怪しくなりながら爽やかに言った。
ぎくり。
そう、少年の兄の顔に冷や汗が浮かぶ。
少年の方を見る。目で訴える。お願いだから、言わないでくれよ、と。
まだ寝ぼけている少年は、
「"せいすい"」
ぽそっ、と言った。
少年の兄の顔は青ざめる。調理の音で、台所の母までは聞こえていないことは確かであっても、もう、末路が見えたようなもの。
何故なら、少年の父親は少年に、
「"せいすい"ぃぃ? あぁぁ、アァルピィジーのアレかぁぁ?」
「ううん。ちがうよ」
寝ぼけ気味ながら、素直に答える少年。ここで動かねば、しかし動いたなら、ますます、と少年の兄はひとり、百面相やって動けない。
話は、無慈悲にも進んでいく。
「なら、チヒロォォ。それってピンクなことかぁぁ?」
少年の兄は、やばいやばいやばいやばい、とぶつぶつ呟き、考え込んでいる。助かるための方法を。
「どうなのかなぁ?」
少年は首を傾げた。そもそも、ピンクという意味自体分かっていないのだが、寝ぼけている少年の頭は、何故かそんな言葉を出力した。
「ねぇねぇ。お兄ちゃん、どうなの?」
寝ぼけた声で、そう話を振られ、少年の兄は、びくん、と青褪めながら、苦笑いする。そして、
「はは……。チヒロ。教えてやったじゃないか……。聖水っていうのはな、聖なる水や。神様とかが人に渡すすんごい力持った水。これで許してくれ……。そう、言ったじゃないかぁぁ……」
今にも泣き出しそうな雰囲気を出して、よわよわな声で何とも情けなくそう言った。
「ふぅ、ふぁぁぁ」
少年はまともに聞いてなかった。
何かマヌケにあくびしながら、食卓から離れてゆく。
「はぁっ……。チヒロ。顔洗って来」
と、疲れた声で少年の兄は安堵するのだった。
*
が。
少年は戻ってきた。顔を洗った様子はない。まだ、少しばかりその目元は眠そうであり、
バランッ!
少年は抱えて持ってきていた筒を、広げた。
それは、大きな厚紙。俗にいうポスター紙。
印刷されている。大きく、そして鮮やかに。
少年が、友達であるトモ君にあげたあの絵が、何故か、印刷されて、永久保存版的な御礼、という少年にとって理解不能な文言で押し付けられたものである。
それを見た少年の兄の顔は青褪めを通り越して、青白かった。終わった、という絶望の表情。
少年の父は、相変わらず酔ったままで、がははは、と豪快に笑った。
「お前、なにやってんのぉぉwww。がはははは」
と、足をじたばた、椅子に座ってのぞけり返るような勢いで。少年の兄の方を指差して、笑いに笑うのである。
そんな大声であるのだから、当然、少年の母親もさすがに気づく。
「あんた、うるわいわねぇ。暫くヤク抜きにするわよ!」
ヤク。酒のことを何故か少年の母親はそう言うのだが、家庭内の誰もそのことには突っ込まない。
そんなことは今はどうでもいいことではある。大事なのは、反応である。
「見ろよぉ。お前ぇ。我が家の長男のぉぉ、この情けない姿をよぉぉwww。"お○○○さませいすい"っ、だってよぉぉぉwww。」
他人事みたいに、他人事ではないけど他人事みたいに、父親はゲラゲラと、下衆く言う。少年の母親に。
腕を組んで、割烹着をつけた、腰まで掛かる長い黒髪に、少年の兄に迫りそうな長身。凛々しい顔つき、鋭い目付き。少なくとも十年以上前から容貌に変化が無いように見える。そんな若く、力強く、凛々しい、大きな女性である少年の母親の、仁王立ちに腕組み、に見下ろす鋭い目付きという姿勢は、圧が半端ない。
ガコンッ!
「痛てぇっ! 何しやがる! がはははははwww」
全く懲りる様子の無い少年の父親。何とも酷い有様である……。そんな少年の父親の両肩を、少年の母親は持って、その肩を、頭をグラグラグラグラ、っと揺らして、酔いを回させて、黙ら、机につっ伏させた。
そして、それでもまだ寝ぼけて、ぽけーっとそれを手に持って立っている少年に向けて。
「顔洗ってらっしゃい。プリン、付けたげるから」
笑顔で、少年の頭を撫で、少年が虚ろながらも、ふわんとした微笑みを浮かべ、ぽいと放し、捨てたそれを代わりに掴んで、両手で持って広げて、見る。
少年の兄が、お〇様聖水という文言のラベル、お嬢様の絵が描かれた缶、その底に穴を開けたであろう、そこから漏れる、ビールのような、紅茶のような、そんな色の液体を、今にも泣き出しそうな表情で飲み干そうとする姿の、絵。
「……。これ、何?」
少年の兄に向けられた、凍えるような声。見下すような、ゴミでも見るような目つきで。
少年の兄は、椅子から立ち、自身の母の前に出て、滑らかに、膝をつき、両手をつき、頭をごつん、と、床に付けた。
「……。ごめん……なさい……」
少年の兄は、屈服した。諦めて、その絵の日にあった出来事をゲロり、話に出たプリンは、兄の分が、少年の分として足されることになったのである。
戻ってきた少年は、寝ぼけていた間のことをあんまり覚えておらず、能天気に、2コのカラメルたっぷりな弾力のある手作り卵プリンに、夕食後に舌鼓をうったのだった。