どこまでも続く世界は、かつて人類を救うために作られた巨大なシェルター――カルデアの廊下のように、白く、無菌室のように清潔だった。
街から『無駄』という概念が排除されて、どれほどの年月が経っただろう。
事故や怠惰を防ぐため、通りからベンチや公園は完全に撤去されている。インターネットを覗いても、そこにあるのは実名紐付けの監視ネットワークと、自己研鑽のためのスコア表だけ。
匿名でふざけ合ったり、くだらないミームで笑い合ったりするような『逃げ場』すら、この世界には存在しなかった。
「藤丸、また宿題を忘れたのか。お前の将来の評価値がどれだけ下がるか、分かっているのか」
規律を絵に描いたような教師の冷淡な声が、頭の奥で硬いプラスチックのように弾ける。
周囲の同級生たちは、システムに設定された理想の将来像(目標数値)を達成するため、機械のように机に向かっていた。
明るくありたかった。今、この瞬間を、誰かと他愛のないことで笑い合いたかった。
けれど、周りの人間は皆「未来」の話しかしない。「今」を面白がっている人間なんて、この世界には自分しかいないようだった。
そんな藤丸にとって、唯一のデトックス――息ができる呼吸穴が、都市部を外れた場所にある険しい山岳地帯への『登山』だった。
そこは唯一、神の監視カメラが行き届かない、社会が「生産性のない無駄な場所」として放置している領域。
週末、重いザックを背負って泥臭い岩肌に挑んでいる時だけが、藤丸立香が「人間」に戻れる時間だった。
登るにつれて息が荒くなり、全身から滝のような汗が噴き出す。
頂上が近づくほど、頭の中の雑音は消え去っていった。
将来の夢は何か。提出物の期限はいつか。周囲からの冷ややかな視線。それらすべてが、かいた汗と一緒に崖の向こうへ流れ落ちていく。
――ただ、右足を前に出す。
――次に、左足を一歩進める。
考えることはそれだけ。シンプルで、過酷で、けれど何よりも自由なその足取りこそが、彼の傷ついた心をギリギリで繋ぎ止めていた。
だが、小さな砂粒のようなストレスの堆積は、確実に藤丸の限界を削っていた。
サボっているわけではないのに、朝、どうしても身体が動かない。遅刻が増え、提出物が遅れ、そのたびに縦社会の権化たる大人たちから冷徹な叱責を浴びる。なぜ自分がこんなにイライラして、息が詰まるほど辛いのか、理由すら分からないまま心の中に虚無が降り積もっていく。
確実な悪意に晒されているわけではない。大きな絶望が襲ってきたわけでもない。ただ、無菌の社会の中で、少しずつ心が窒息していく。
そして、ある日の通学路だった。
白く無機質に輝くアスファルトの上で、藤丸は唐突に気づく。
(あ……足が、前に出ない)
山を登る体力は、まだいくらでもあるはずだった。限界を超えても足を前に出せる根性は、確かにあったはずだった。
なのに、この綺麗に管理された世界の中では、自分の足が1ミリも前に進まなくなってしまった。
「足を前に出す」という、自分のアイデンティティであり唯一の癒しだった行為すら、社会の息苦しさにすり潰されて不可能になった瞬間――パツンと、頭の中で何かが切れた。
視界がぐらりと傾き、身体が冷たい地面へと崩れ落ちる。
遠くで誰かの呼ぶ声が聞こえた気がしたが、それもすぐに遠ざかっていった。
次に気がついた時、視界に飛び込んできたのは、やはりあの見慣れた世界の縮図だった。
病院の、どこまでも無機質で綺麗な、白い天井。
たくさんの管に繋がれた自分の身体。
どうしてこんなに退屈なんだろう。
したいことも、行きたい場所も、もう何一つ思いつかない。
なんで俺の身体は、こんなに壊れてしまったんだろう。
激しい怒りさえ湧かない薄暗いイライラと、圧倒的な疲労感の中で、藤丸立香はすべてを拒絶するようにゆっくりと重い瞼を閉じた。
(もう、いいや……)
心電図の規則正しい電子音が、深く、暗い海の底へと遠ざかっていく。
それが、すべての始まりだった。
深く、暗い海の底へと沈んでいくようだった意識が、不意に、強烈な熱気によって揺り起こされた。
「……っ、は」
大きく息を吸い込みながら、藤丸立香は勢いよく上半身を起こした。
病院のベッド特有の、あの消毒液の匂いはしない。身体を縛り付けていたはずの無数の管も、いつの間にか消え去っていた。
手をついた地面は、白く無機質な床ではなく、赤茶けたゴツゴツとした岩肌。
見上げた空は、あの徹底的に管理された青空ではなく、禍々しくも圧倒的なエネルギーを放つ、燃えるような赤と黒のグラデーションに染まっている。
「ここは……どこ、だ?」
呆然と呟きながら、藤丸は自分の右足を見た。
つま先を動かす。膝を曲げる。
立ち上がってみると、驚くほど身体が軽かった。アスファルトの上であれほど重く、1ミリも前に進まなかった足が、今は自分の意志に従って、力強く一歩を踏み出すことができる。
その事実に、藤丸の胸へ、久しく忘れていた高揚感が小さな灯火のように宿った。
理屈は分からない。だが、ここは自分の足で歩くべき場所だ。本能がそう告げていた。
とりあえず、この入り組んだパズルめいた岩道を前に進んでみよう――そう思った、その瞬間だった。
空を染める赤黒い雲が、バリバリと雷鳴のような音を立てて引き裂かれた。
上空から、凄まじい質量を持った『何か』が、猛烈な勢いで自由落下してくる。
「うおっ、危ないっ!」
藤丸が咄嗟に後ろへ飛び退くと同時に、それは文字通りの爆音を響かせて、目の前の岩肌へと激突した。
ドガァァァン!! と地鳴りが轟き、赤茶けた砂埃が激しく舞い上がる。
クレーターの中心。煤煙が晴れていく中で、藤丸の目に飛び込んできたのは、ボロボロに引きちぎられた『白い羽』の残骸と、その中央で大の字に倒れている一人の男の姿だった。
男は、身体のラインに沿ったタイトな黒いスーツを纏い、髪は焦げたように白い。
その背中からは、かつて羽が生えていたのだろう。千切れた根元から、黒い火の粉のようなものがパラパラと零れ落ちていた。
その男――エミヤの意識は、激しい落下の衝撃の中で、まだ天界、『守護者の座』の記憶を彷徨っていた。
天界において、彼は完璧な『機械』だった。
現世の調和を保つため、人類が滅びるような悪をなす根本原因を、冷徹に、効率的に間引き続ける掃除屋。それが天使としての彼の役割だった。
かつて人間であった頃に経験した災害によって自らのエゴを焼き尽くしていた彼にとって、感情を捨て、個人の名前すら不要とされる「純白と規律の檻」は、至極快適な揺り籠のはずだった。
だが、現世で使い潰されていく藤丸立香の姿を観測し続け、自身も終わりなき殺戮をこなす中で、彼の思考回路に決定的な「エラー」が生じ始める。
――休みたい。
――もう、働きたくない。
――誰にも知られず、理解されず、ただ都合のいいロボットとして稼働し続けるのは、もう嫌だ。
それは、正義の味方を志した彼が、生まれて初めて抱いた、あまりにも人間らしい身勝手な我が儘、すなわちエゴだった。
心に満ちたその叫びは、天界の無垢なる純白を拒絶し、彼の心象風景を具現化させてしまう。天界の空間に、ギチギチと音を立てて現れた錆びついた巨大な歯車。夕焼けのような赤黒い火の粉。
口からは、天を讃える賛美歌ではなく、己の魂を縛る魔術詠唱が溢れ出た。
周囲の天使たちは、眉一つ動かさず、冷徹なレンズのような瞳で彼を告発した。
「不純である」
「身勝手な個の覚醒。システムへの反逆とみなす」
背中の光の羽を引きちぎられる痛みを遠くで聞きながら、彼は世界のゴミ箱である『地獄』へと突き落とされる。
激しい落下の風の中で、彼は自嘲気味に微笑んでいた。
(ああ、いいさ。あの退屈な白い檻にいるくらいなら、地獄の底で眠る方が、よほどマシだ――)
「……っ、はあ!」
エミヤは荒い呼吸と共に、現実の地獄の底で意識を取り戻した。
全身をきしむような痛みが走る。やはり、あの終わらない労働からは解放されたのだ。ようやく、永眠が訪れた。
そう思って、煤に汚れた顔を上げたエミヤの目に飛び込んできたのは、驚くほど場違いな、一人の少年の心配そうな顔だった。
藤丸は、クレーターの底にいる男を恐れずに覗き込み、声をかけた。
「……大丈夫? お兄さん」
エミヤは、その声に息を呑んだ。
信じられないものを見るように、白髪の隙間から、鋭い灰色の瞳が藤丸を捉える。
「君は……人間、か。クク、そうか。呼び寄せられたのか、地獄に」
自嘲混じりに呟く男の言葉に、藤丸は首を傾げた。
「え、ここ地獄なの? ……っていうかお兄さん、背中から羽が生えてるけど、何それ。コスプレ?」
「コスプレ、か。君のその暢気さが、今は酷く他人に思えないな……」
エミヤは、痛む身体をなんとか起こし、力なく首を振った。
「いや、私はもう、何者でもない。かつて人間をやめ、天使になり……今ちょうどその天使をクビになって、何一つ持たない、空っぽになった男さ」
天界にすべてを捧げ、最後は全てを剥ぎ取られた喪失感。男の纏う空気は、あまりにも寂しく、それだけにどこまでも冷え切っていた。
しかし、藤丸は少しだけ考えると、屈託のない笑みをその顔に浮かべた。
「まあいいや! 理屈はよく分かんないけど、俺たち、ここに迷い込んだ仲間だよね。一人で歩くの、ちょっと寂しかったんだ。一緒にここ、探索していこうよ」
「……は?」
エミヤは呆然とした。
ここは地獄だ。選択肢を一つ間違えれば魂を焼かれる、理不尽の極地。それなのに、この少年は、すべてを失った初対面の自分に対し、「仲間だ」とあっけらかんと言ってのけたのだ。
「ほら、行こう。手、貸すよ」
藤丸が差し出した手のひら。
それは、現世の管理社会が放つ冷たい消毒液の匂いではなく、泥臭く山を登ってきた「人間の温かみ」そのものだった。
規律に窒息し、空っぽになっていたエミヤの器に、その無防備な優しさが、じわりと染み込んでいく。
「……ふん。お人好しにも程があるな, 君は」
エミヤは深くため息をつくと、差し出された手を取らず、自力で立ち上がってスーツの埃を払った。
「いいだろう。どうせ行く宛てなどない身だ。君がその無警戒さで悪魔に魂を喰われるまで、精々、暇つぶしに付き合ってあげるさ」
「あはは、よろしくお兄さん!」
「お兄さんではなく、エミヤ、と呼びたまえ」
やれやれと首を振るエミヤを後ろに従え、藤丸は再び、力強く足を前に進め始めた。
一人から、二人へ。地獄の旅の、最初の歯車が静かに回り出す。
「エミヤ、あっちに何か光が見えるよ!」
「おい、待て藤丸! 警戒心がなさすぎる。地獄の光は、魂を誘い出す悪魔の罠だ!」
地獄の赤茶けた岩道を軽快に進む藤丸の後ろから、エミヤの小言が飛んでくる。天界の規律から解放され、エゴを取り戻したエミヤは、驚くほど口うるさい常識人――いや、保護者として機能し始めていた。
藤丸が岩の角を曲がると、そこに広がっていたのは、見渡す限りの赤茶けた荒野だった。
そしてその中央に、ぽつんと、パチパチと音を立てて爆ぜるオレンジ色の火が揺らめいている。それは、天界の純白にも地獄の禍々しさにも属さない、どこか懐かしくて暖かい、本物の『焚き火』だった。
その火の傍らで、大振りの木の杖――ルーンの杖を肩に預け、気だるげに座っている青髪の男がいた。男は焚き火の熱で地獄の謎の果実を串刺しにして炙りながら、やってきた二人を薄く目を開けて見つめる。
そして、不敵にニヤリと白い歯を見せて笑った。
「――よぉ。待ってたぜ、藤丸。お前さんをこの地獄に呼び寄せたのは、他でもない俺だ」
「え……。君が? どうして俺をこんな場所に……」
藤丸が驚いて足を止めると、青髪の魔術師――クー・フーリンはのそりと立ち上がり、焚き火の向こうから藤丸の顔を真っ直ぐに見据えた。
「ま、寂しいからさ。……なぁに、俺だけじゃねえ。ここに落とされた連中は、みんなそうだ。闇の中にずっといるとよ、ふと一人になった時に、無性に『光』が見たくなる。」
男の言葉は泥臭く、ひどく人間味に溢れていた。その言葉が、藤丸の胸の奥に不思議なほどストンと優しく腑に落ちる。カルデアの記憶はない。なのに、この青髪の男を、ずっと前から知っていたような奇妙な懐かしさが、藤丸の心をじんわりと満たしていく。
「(スッ……と藤丸の前に一歩出て、双剣『干将・莫耶』を投影する)……おい、待て。調子のいいことを言うな、悪魔の男。君からは得体の知れない、古い神格の匂いがする。藤丸を謀るつもりなら、私が相手になろう」
エミヤが鋭い眼光でクー・フーリンを睨みつける。しかし、クー・フーリンは怯えもしない。それどころか、エミヤの武器を見てさらに面白そうに口角を上げた。
「ハッ! 天使をクビになったばかりの空っぽ野郎が、いっちょ前にトゲ立ててんじゃねえよ。俺はお前さんのその『働きたくねえ、休みたい』って我が儘なエゴ、嫌いじゃねえぜ?」
「なっ……! なぜそれを、君が知っている……!?」
「さあな。……で、どうするんだよ藤丸。」
クー・フーリンは楽しげに肩をすくめ、藤丸に選択を委ねた。
普通の人間なら、エミヤの警戒を見て、男を置いて去るか、あるいは「どうやってここから出るのか」と問い詰めるだろう。しかし、藤丸の出した答えは、規格外だった。
「(エミヤの服の袖をちょんちょんと引いて)まあまあ、エミヤ。武器をしまって。……ねえ、君、この場所に詳しそうだよね。一人で焚き火してるのも寂しいだろうし、一緒に行こうよ!」
「藤丸……!? 君というやつは本当に……!」
「へっ、話が早くて助かる。足手まといにはならねえよ、相棒。俺の名はクー・フーリン。よろしくな。」
クー・フーリンはルーンの杖をクルリと回して肩に担ぐと、躊躇いなく藤丸たちの輪へと加わった。
生真面目で心配性な堕天使のエミヤと、飄々としていて地獄の空気すら楽しんでいるキャスターのクー・フーリン。水と油のような二人の男を左右に従え、藤丸は再び歩き出す。
「そういえばクー・フーリン、案内役になってくれるんだよね? ここから先はどっちに行けばいいの? 右? 左?」
藤丸が尋ねると、後ろを歩くクー・フーリンは、焚き火から持ってきた炙り果実を齧りながら、気楽な声で言った。
「さあな。そんなもん、お前さんの好きなように歩きゃあいいんだよ。誰かに指図された道なんて、あの退屈な白い世界とおんなじだろ? お前が進みてえように進め。それがこの地獄の唯一のルールだ」
「……呆れたな。これではただの放浪だ。藤丸、やはりこの男は信用できない。私が先頭を歩こう」
エミヤが深い溜め息をついて額を押さえる。藤丸はそんな二人を見て、声を上げて笑った。
現世では、一歩も前に出せなくなっていた自分の足。
けれど今、この赤茶けた地獄の荒野で、藤丸立香は自分の意志で、自分の大好きな歩調で、しっかりと大地を踏み締めて歩いていた。
左右から聞こえる、騒がしくも温かい男たちの声。
その足取りは、孤独だった登山の時よりもずっと軽やかで、どこまでも自由だった。
「よし。まずは、あっちに見える大きな建物の方へ行ってみよう!]
藤丸が指差した先――地獄の岩肌の向こうに、怪しくも壮麗に輝く、黄金の宮殿が姿を現し始めていた。