HELL-CLIMBER 藤丸立香   作:みそそ

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第2話

それは、現世の一神教の教科書において、こう記されていた場所だった。

 

――『神に背き、己を全能と過信した、最も傲慢なる野蛮の悪魔が棲まう檻』。

 

「おいおい、冗談だろ……」

 

宮殿を見上げた瞬間、クー・フーリンが足を止め、ニヤニヤと楽しげに口角を上げた。

 

(ククク、面白くなってきやがった。地獄に来て最初に拾ったのが堕天使で、その次は急に地獄のラスボス級の悪魔のところに突っ込んでいくか。とんでもねえ引きの強さだぜ、このマスターは!)

 

しかし、ハードな歩行で少し疲れていた藤丸は、そんな大物の気配など露ほども気にしていなかった。

 

「うわ、すごい綺麗な建物! よし、ちょっと中で休ませてもらおう」

 

「待て、藤丸! 警戒心がなさすぎる! この禍々しい黄金の気配……中にいるのは並の悪魔ではないぞ!」

 

エミヤの必死の制止も虚しく、藤丸は「お邪魔しまーす!」と軽快な声を上げ、宮殿の巨大な黄金の扉をガラガラと押し開けてしまった。

 

現世の無機質な白とは真逆の、贅を尽くした極彩色の空間。床には真紅の絨毯が敷かれ、周囲にはきらびやかな財宝の山がうず高く積まれている。

 

藤丸はロビーの高級そうなソファを見つけると、躊躇なくそこにドカッと腰を下ろし、ふぅ、と息を吐いた。

 

「おい、雑種ども。我が宮殿に、一言の赦しも得ず足を踏み入れるとは――」

 

その時、玉座の奥から、低く、地鳴りのように冷徹な声が響いた。

財宝の山を背に、真紅のシャツに黒い高級スーツを乱れなく纏った男――ギルガメッシュが、腕を組んで不機嫌そうに座っていた。その真っ赤な瞳が、侵入者たちを獰猛に値踏みするように睨みつける。

 

「ここは貴様ら雑種のための宿屋ではないわ!!」

 

「(即座に干将・莫耶の双剣を投影し、藤丸の前に立ちはだかる)……やはりか!魔王、ギルガメッシュ……!」

 

エミヤが戦闘態勢を取り、宮殿の空気が一瞬で氷結する。一歩間違えれば、その覇気だけで魂ごと消し飛ばされかねない極限の緊迫感。

 

だが、藤丸はエミヤの背中からひょこっと顔を出すと、緊張感の欠片もないトーンで手を振った。

 

「あ、ごめんなさい! ちょっと足が疲れちゃって。あの、お近づきの印にパンケーキ食べる?」

 

「……は?」

 

最古の魔王の眉が、不快そうに、そして深い困惑を伴ってピクリと跳ね上がった。

 

「お近づきの印に、パンケーキ……だと?」

 

ギルガメッシュの端正な顔が、不快感と深い困惑で歪む。

宮殿の空気が数段階、重くなった。エミヤは「終わった」と胸中で冷や汗を流し、干将・莫耶の柄を握る手に凄まじい力を込める。クー・フーリンだけが、壁に背を預けたまま「さあ、どう転がるかねえ」と楽しげに口角を上げていた。

 

これこそが地獄の試練。一歩間違えれば、その不敬の罪だけで魂ごと塵へと帰される、運命の『死の選択肢』の始まりだった。

 

ギルガメッシュはゆっくりと玉座から立ち上がると、真紅の瞳を細め、鋭い槍の刃のような視線で藤丸をじっと見下ろした。

 

「……おい、雑種。ならばお前は、なぜ我が宮殿に足を踏み入れた? 我の怒りを買うリスクを冒してまで、何を求めてここへ来た。答えよ。その回答次第では、そこにいる堕天使ごと、貴様らの魂を蔵の錆にしてくれるわ」

 

傲然たる魔王の尋問。普通の人間なら、その威圧感に縮み上がり、命乞いをするか、あるいは「現世や天界を倒す力を貸してください」といった、もっともらしい大義名分と言った野心を並べ立てるところだろう。

 

しかし、藤丸はまっすぐに王の瞳を見返して、一切の計算もなく言った。

 

「あ、えっと……さっきも言った通り、ちょっと歩き疲れちゃったので、ここで休もうと思いました。ロビーのソファがすごくふかふかそうだったから」

 

「……ほう? 我が宮殿を、ただの休息所に選んだと?」

 

ギルガメッシュの眉が、不快そうに動く。

 

「いいだろう。では、ここで休んだそのあと、お前はどこへ向かうつもりだ。我を足蹴にして、その先で何を目指す?」

 

「考えてません」

 

藤丸は考える素振りすらなく、即答した。

 

「……何?」

 

「だから、そのあとは何も考えてないです。ただ、今はここでお兄さんたちの話を聞きながら、ゆっくり休みたいなって」

 

一瞬の静寂。

エミヤは絶望に目を瞑った。目的も、同行によるメリットの提示もなし。それどころか、「何も考えていない」という、王に対する最悪の不敬。天界の規律で生きてきたエミヤの論理では、完全に即死のバッドエンドだった。

 

しかし、沈黙を破ったのは、宮殿の黄金の壁を激しく震わせるほどの、地鳴りのような爆笑だった。

 

「――ハハハハハ! フハハハハハハ! 素晴らしい、満点だ雑種!!」

 

「(呆然として双剣を消しそうになりながら)……は?」

エミヤが素っ頓狂な声を上げる。

 

ギルガメッシュは可笑しくてたまらないと言わんばかりに、声を上げて笑い続けた。

 

「今まで我に挑んできた、あの檻のような現世に住まう人間どもは、どいつもこいつ『将来の目標』だの『生産性』だの、システムに与えられた無価値な目的を壊れたレコードのように並べるばかり! 己が何をしたいかも分からぬまま、無菌室の飼い犬として生きる去勢された雑種どもよ! だが、お前は違うようだな!」

 

ギルガメッシュは笑い涙を拭い、獰猛で、しかし確かな歓喜に満ちた目で藤丸を見た。

 

「お前は今、己の純粋な疲労のために休み、その先は白紙だとのたまうた! 誰の指図でもない、己の意志で『空っぽ』を歩む、その贅沢さよ! よかろう、宮殿は好きに使え。空間を支配する我の特権だ。そして――その目的の無い旅、我も同行してやろう!」

 

「本当? ありがとう! 頼めばなんとかなるもんだね」

 

藤丸はぱっと顔を輝かせ、無邪気に笑った。

 

エミヤは完全に置いてきぼりにされ、頭痛をこらえるように額を押さえた。

 

(今の回答の何がよかったんだ……!? いや、そもそもこの金ピカは何を基準に生きているんだ!?)

 

そんなエミヤの苦労をよそに、クー・フーリンはすべてを予測していたかのように不敵にニヤリと笑う。

彼は杖を回しながら、藤丸の隣の最高級のソファにドカッと我が物顔で腰をかけた。

 

「へっ、だから言ったろマスター。『お前の好きなように歩け』ってな。この地獄の悪魔たちの心を動かすのは、現世のクソ真面目なルールじゃねえ。お前さんの、その飾りのねえ魂だけさ」

 

最古の魔王が、藤丸の「今を生きる我が儘」に一本釣りされた瞬間だった。

 

「ふむ。話は決まったな。ならばそこの白髪の堕天使、何を突っ立っている。我がわざわざ同行してやるのだ、今すぐ祝いの美味いものを作れ」

 

「……は?」

 

ギルガメッシュがスーツの袖を気怠げに捲りながら、当然のように顎で命令を下した。エミヤは信じられないものを見る目で、最古の魔王を睨みつける。

 

「言っておくが、私は君の部下になった覚えはない。それに、天使をクビになったばかりの私に、この豪華絢爛な宮殿で出せるような高級食材など持ち合わせているはずがないだろう」

 

「何を言う。お近づきの印にパンケーキと言ったのは、貴様らの主だぞ。我が蔵の最高級の蜜をくれてやる。雑種、キッチンはあっちだ。我が舌を満足させるものを作ってみせよ」

 

「エミヤのパンケーキ、すっごく美味しいらしいんだよ!」

 

藤丸がソファの上で目を輝かせて無邪気に追撃を入れる。

その純粋な期待の眼差しを向けられ、エミヤは深く、本当に深い溜め息をついた。

 

「……やれやれ。主も魔王も、どいつもこいつ勝手極まるな。いいだろう、そこまで言うなら、天界にはなかった『美味なる無駄』というやつを、その肥えた舌に叩き込んであげるとも」

 

エミヤは腕を組み、不敵に微笑んでキッチンへと向かった。

それから数十分後、黄金の宮殿に、これ以上ないほど甘く、香ばしい香りが漂い始める。

 

エミヤが宮殿の厨房で見事な手際で焼き上げたのは、厚みがあり、ふっくらと黄金色に輝く山盛りのパンケーキだった。ギルガメッシュが宝物庫のゲートから取り出した、琥珀色に煌めく極上のハチミツが贅沢にとろりと回しがけされている。

 

「おぉ、美味そうじゃねえか! いただきまーす!」

 

クー・フーリンが躊躇なく串に刺して頬張り、「ほう、いい腕じゃねえか!」と声を上げた。藤丸も口いっぱいにパンケーキを頬張り、幸せそうに頬を緩める。

 

ギルガメッシュは、フンと鼻を鳴らしながらナイフとフォークをエレガントに扱い、一口を口へと運んだ。

 

「……」

 

王の動きがピタリと止まる。

 

「どうだい、魔王サマ。お口に合わなかったかな?」

 

エミヤがキッチンからエプロン姿(どこからか調達した)のまま、腕を組んで尋ねる。

ギルガメッシュはゆっくりとフォークを置くと、不機嫌そうにそっぽを向いた。

 

「……フン。雑種の分際で、我が舌を満足させるとは生意気な。生地の弾力、蜜の絡み具合、どれをとっても我が蔵の至宝に比べれば泥水のようなものだが……まぁ、その不遜な努力だけは認めておいてやろう」

 

「(クスクスと笑いながら)ありがとう、ギルガメッシュ。気に入ってくれてよかった」

 

藤丸が笑うと、ギルガメッシュのはすでに二口目のパンケーキに手を伸ばしていた。

 

豪華な宮殿のテーブルを囲む、元天使、最古の魔王、地獄の導き手、少年。

『ただ美味いものを食べて、みんなで笑う』という贅沢な時間。その温かな空気こそが、ここにいる全員の魂の乾きを優しく潤していく。

 

お腹いっぱいになり、ソファでゴロゴロと寛ぐ藤丸の横で、クー・フーリンが地獄の果実酒を煽りながら、黄金の窓の外をルーンの杖で指差した。

 

「さて、腹も膨れたところで、次へ行こうかマスター。この地獄の先にはよ『悪魔』や『魔女』が、大勢いるんだ。そいつらがみんな、新しい地獄の住人となるお前さんに会いたがってるぜ。」

 

「そうなんだ。 よし、とりあえず挨拶しに行こう!」

 

藤丸が元気よく立ち上がる。

 

ギルガメッシュが不敵に高級スーツの襟を正し、エミヤは「警戒して行こう。相手は理不尽な悪魔どもだ。」と冷徹にいいながらも、その足取りは以前よりもずっと軽やかだった。

 

現世に馴染めずにリタイアしかけた少年が、さらに深く、賑やかな地獄の楽園へと足を進めていく。

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