地獄の宮殿の夜は、どこまでも深く、賑やかに更けていく。
「マスター。お前さんはそろそろ目覚めなきゃならねえぜ」
「え……? 目覚めるって、どういうこと、クー・フーリン」
藤丸は小首を傾げた。
「俺、死んで、ここに落ちてきたんじゃなかったの?」
その素朴な疑問に、クー・フーリンはフッと低く自嘲気味に笑い、首を振った。
「ハッ、何言ってやがる。お前さん以外の地獄の住人を見な。どいつもこいつも神話の主神だの、大英雄だの、歴史を引っ繰り返した王様だの、規格外の怪物、すなわち偉人サマばかりだろ?」
兄貴はルーンの杖の先端で、宮殿の床をコツンと叩いた。
「ここはな、そういう現世のシステムから剪定された『偉大な魂』しか辿り着けねえ墓場んだよ。ただの一般人の魂が死んで迷い込めるほど、甘い場所じゃねえ。お前さんはな、マスター。――現世ではまだ、生きてるぜ」
「え……?」
絶句する藤丸の前で、クー・フーリンが宙に向かってルーンの杖をなぞるように振るう。
すると、赤黒い大気がゆらりと揺らめき、空間に青く輝く水鏡のようなビジョンが浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、あまりにも見慣れた、白く無機質で清潔な現世の情景だった。
病院の、無菌室のような病室。
無数の医療機器の管に繋がれ、蒼白な顔で深い眠りについたままの、藤丸自身の肉体。
正式に、傍らでベッドのフチを両手でぎゅっと握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流し続けている、一人の少女の姿があった。
「先輩……っ。お願いですから、目を覚ましてください、先輩……!」
ピンク色の髪を乱し、喉を詰まらせながら、壊れた人形のように藤丸の名前を呼び続ける少女――マシュ・キリエライト。
「マシュ……」
藤丸の胸の奥が、ぎゅっと引き締められるように痛んだ。
ずっと自分を待っていてくれる、現世の確かな繋がり。学校の友達や、置いてきてしまった家族。システムに摩耗されながらも、確かにそこにある愛おしい現実。
ビジョンが揺らめき、静かに消えていく。藤丸はしばらく自分の手のひらを見つめていたが、やがて、寂しそうに小さく微笑んだ。
「そう、だったんだ。俺、まだ生きてたんだね……」
地獄の宮殿の奥から聞こえる、アキレウスたちの楽しそうな笑い声。その温もりを背中に感じながら、藤丸はクー・フーリンを見上げた。
「じゃあ……そろそろ、みんなとはお別れ、なのかな。寂しいな。」
自分の居場所を見つけられたと思った。毎日がお祭りのようなこの隠れ家が、ずっと続けばいいのにと願ってしまった。
けれど、現世が自分を呼んでいる。マシュが泣いている。
お別れを覚悟し、静かに目を伏せる藤丸。
しかし、そんな少年の頭を、クー・フーリンは大きな手で乱暴に、けれど最高に愛おしそうにガシガシと撫で回した。
「バーカ。誰がお別れだなんて言ったよ」
「え?」
顔を上げた藤丸の耳に、玉座から聞こえる不敵な高笑いが届いた。
「フハハハ! 雑種が、我が同行すると言ったのだ。その我を置いて一人で帰るなど、万死に値する不敬であるぞ!」
いつの間にか腕を組んで背後に立っていたギルガメッシュが、真紅の瞳を悪戯っぽく輝かせて不敵に笑う。
エミヤもまた、エプロン姿のままフライパンを片手に、呆れたような、けれど心から嬉しそうな笑みを浮かべていた。宮殿の悪魔たちが、一斉に藤丸を囲むように集まってくる。
「いや、お前さんは合格だ、マスター」
クー・フーリンはニカッと白い歯を見せ、藤丸の右腕をグッと持ち上げた。
「手の甲を見ろ、相棒」
促されるままに、藤丸が自分の右手の甲を見つめる。
その瞬間、地獄に来た時には完全に消え去っていたはずの、鮮烈な紅い文様が、皮膚の底から脈打つように浮かび上がってきた。
――三画の、令呪。
それは、現世の管理システムがどれだけ検知しようとしても決して届かない、剪定された地獄の住人たち全員と、藤丸立香の魂が結びついた、絶対の契約の証明だった。
「俺の、手の甲に……不思議な模様がある。」
藤丸は崩れそうな体勢のまま、自身の右手に浮かび上がった鮮紅の文様を見つめた。脈打つように淡く光るそれは、紛れもなく、この地獄で出会った悪魔や堕天使、魔女達の膨大な魔力と繋がっている証拠だった。
「俺はさ、最初にここでお前さんに出会った時、『闇の中にいると、時々光が見たくなる』って言っただろ?」
クー・フーリンは藤丸の肩にガシッと腕を回し、白い歯を見せて不敵に笑う。
「ここにいる奴らはみんな、この地獄と現世を繋ぐ切符を、ずーっと求めてたんだよ。現世に悪魔だの魔女だのと貶められ、歴史の裏側の暗闇に閉じ込められた俺たちを、もう一度世界へ連れ出してくれる『光』をな」
「君たちを、連れ出す……?」
「ああ。ここにいる連中は神様だの英雄だの、プライドの塊みたいな奴らばかりだ。一言でも機嫌を損ねたり、媚びへつらったりすれば、普通の人間の魂なんて3歩で消し飛ばされる。……そんな理不尽な地雷だらけの選択肢をよ、一度も間違えずに全員口説き落とした人間なんて、お前が初めてなんだぜ、藤丸」
後ろで腕を組んでいたギルガメッシュが、フンと傲然に鼻を鳴らしながら歩み出た。
「当然だ。我が直々に同行を赦した雑種が、その程度でへばられては我が審美眼が疑われる。良いか雑種、その令呪は我ら地獄の住人全員がお前に差し出した魂の契約書だ。あの退屈極まる唯一神の檻で、我らを使い魔として呼び出す権利を、特別に与えてやろう」
「そう。だから、まだお別れじゃねえぜ、マスター」
クー・フーリンがニカッと笑い、藤丸の背中をパチンと力強く叩いた。
「やれやれ、現世に呼び出されて君の宿題の心配や料理を作らされるのは御免被りたいがね……」
エミヤがため息交じりに肩をすくめる。だが、その灰色の瞳には、かつて天界で全てを諦めていた時のような冷たさは微塵もなかった。
「だが、また君が倒れるようなことがあれば、いつでも呼び出すといい。そのために、私たちは君にすべてを預けたのだから」
「アキレウスも、スカサハも、みんな……」
藤丸が周囲を見渡す、地獄の英雄たちが一斉に不敵な、そして最高に温かい笑顔を返してくれた。
現世では邪魔者扱いされ、学校の規律に窒息しかけていた自分。けれどこの地獄で、自分はこれ以上ないほど必要とされ、最強の仲間たちのマスターに選ばれたのだ。
胸の奥から、熱いエネルギーがドクドクと湧き上がってくる。現世への恐怖は、もう影も形もなかった。
「うん……! ありがとう、みんな! じゃあ、またあとでね!」
藤丸が右手の令呪をぎゅっと握りしめ、満面の笑顔で手を振る。
その瞬間、地獄の黄金宮殿が、圧倒的な白い光に包まれていった。悪魔たちの歓声と笑い声が遠ざかり、藤丸の意識は心地よい浮遊感と共に、一気に現世の肉体へと引き上げられていく。
――ピー、ピー、ピー。
規則正しい、けれどどこか冷徹な医療機器の電子音が耳に届く。
ゆっくりと重い瞼を開けると、そこにあったのは、見慣れた無菌室のような、白く無機質な病院の天井だった。
「……ん、……ぁ」
「先輩……? 先輩っ!?先輩の意識が……!」
視線を横に巡らせると、ピンク色の髪を乱したマシュが、信じられないものを見るように目を見開いていた。その目から、ボロボロと新しい涙が溢れ出す。
「マシュ……ただいま。心配かけて、ごめんね」
掠れた声でそう言って、藤丸はそっと笑ってみせた。
マシュは「先輩、先輩……っ!」と、その胸に顔を埋めて子供のように泣きじゃくった。
そのマシュの頭を左手で優しく撫でながら、藤丸はそっと、自分の右手の甲に目を落とした。
医者たちや、周囲を監視する冷たいレンズには決して映らない、鮮烈な紅い文様。
三画の令呪が、少年の皮膚の底で、静かに、しかし絶対的な力を秘めて熱く輝いていた。
夢なんかじゃない。
ボロボロに擦り切れていた藤丸立香の心には、いまや現世のディストピアなんて一撃で吹き飛ばせる、最強の地獄の楽園がその背後に控えているのだ。
藤丸立香の退院祝いは、静まり返った世界の片隅で、驚くほど温かいものになった。
「先輩、本当によかったです……!」と何度も涙を拭うマシュ。さらには、厳格な勉強のスケジュールに追われていつの間にか疎遠になっていたはずの友達や同級生たちまでもが、藤丸の病室へ、あるいは一人暮らしのアパートへと次々に駆けつけてくれた。
誰もが規律に縛られて心を擦り切らせる中で、「今」を明るく生きていた藤丸の灯火が消えかけたことが、彼らにとって大切な何かを思い出すきっかけになったのかもしれなかった。
現世の学校や、相変わらず無菌室のように白い社会の息苦しさは何も変わっていない。
けれど、退院した藤丸の心には、以前のような虚無やイライラは微塵もなかった。なぜなら、彼の一人暮らしのアパートのドアの向こうには、世界で一番贅沢な隠れ家が完成していたからだ。
「おい藤丸! また宿題を忘れたのか? まったく、現世に戻っても私の苦労が変わらないのはどういう理屈なんだ」
狭いアパートのキッチンに召喚され、白いエプロン姿で小言を言いながらフライパンを振るうエミヤ。
「フハハハ! 現代の雑種どものエンタメも、くだらぬが我を退屈させぬな! おい藤丸、このポテトチップスというやつ、我が蔵にない食感だぞ。もっと補充しておけ!」
六畳間の狭いソファにこれでもかと不遜に踏んぞり返り、現世のジャンクフードを片手にテレビのバラエティ番組やニュースを見て爆笑しているギルガメッシュ。
しかし、ここは徹底された絶対管理ディストピア。隣人の目や社会の規制は不気味なほど厳しい。少しでもテレビの音が大きかったり、大声で笑ったりすれば、すぐに「騒音被害・規律違反」として通報されてしまう。
「ギルガメッシュ、声が大きい! 現代のアパートの壁の薄さを理解してくれ。また隣から壁を叩かれるぞ」
「フン、我の覇気に耐え切れぬ脆い壁が悪いのだ。……ええい、息が詰まるわ! おい藤丸、令呪を出せ!」
「あはは、そうだね。じゃあ、今週末もあっちに行こうか!」
金曜日の夜。藤丸が自室の床に右手の令呪をかざすと、カチカチとパズルが噛み合うような音がして、地獄へと繋がる赤い光のゲートが開く。
一歩またぎ越えれば、そこは誰にも文句を言われない無法地帯――地獄の黄金宮殿だった。
「ただいまー!」
「おぅ、お帰りマスター! 現世のウサ晴らし、ここで盛大にやろうじゃねえか!」
ゲートをくぐり抜けた藤丸を、クー・フーリンやブリュンヒルデ、酒樽を抱えた地獄の神々や英雄たちが一斉に大歓声で迎え入れる。現世でうるさくできないなら、どれだけ大声で笑っても怒られない地獄で、毎週末お祭りをすればいい。藤丸の始めた最高にハッピーでスタイリッシュな二重生活だった。
そんな大騒ぎの宴の最中。藤丸はふと宮殿の窓から、地獄の赤黒い夜空の向こうに聳え立つ、禍々しくも圧倒的な巨大山脈を見つめた。
それは、いまだ誰も足を踏みいない、地獄で一番高い未踏の最高峰だった。
「ねえ、みんな。俺、あそこにある地獄で一番高い山に登ってみたいんだ」
藤丸の突然の宣言に、飲んでいたお茶を吹きかけそうになったエミヤが慌てて声を上げる。
「な……何を言い出すんだ君は! あそこは現世のエベレストをも凌駕する極限地帯だぞ。いくらなんでも人間が挑むには過酷すぎる!」
「うん、分かってる」
藤丸は新調した登山ザックに手を置き、悪戯っぽく、けれど本当に楽しそうに満面の笑顔を浮かべた。
「でもね、俺、こういう好きな登山をさ、命懸けで全力で楽しみたいんだ。自分の足で、あの一番高い場所まで行ってみたいんだよね。他人に敷かれたレールの上を歩き続けて腐っていくよりも、自分の命を自分のためだけに使いたい。これが、俺が現世で倒れて生死の間で、みんなに出会って出した答えだよ。」
少年が、いま、己の純粋なエゴで、最も過酷な頂を目指そうとしている。
その眩しいほどの魂の輝きを見た瞬間、宮殿にいたアクティブ系の悪魔たちが一斉に色めき立った。
「――ハハッ! 言ってくれるじゃねえかマスター! 命懸けの山登りだあ? 面白え!」
クー・フーリン・キャスターがルーンの杖をカツンと床に叩いてニカッと笑う。
「地獄の最高峰か、燃えてきたぜ! 誰が一番に頂上に着くか勝負だな、藤丸!」
アキレウスが少年のような笑みを浮かべて拳を突き出す。
「フハハハ! よかろう、人類初の快挙に、我が蔵の極上の登山ギアを惜しみなく貸し出してやろう!」
ギルガメッシュがノリノリで宝物庫のゲートを開き、現世の最高級アウトドアブランドも真っ青の、黄金に輝く防寒ジャケットやピッケルを次々と藤丸に押し付け始めた。
さっきまでの宴会ムードはどこへやら、宮殿の中はまるで「明日は修学旅行」という日の夜のような、お祭りの前のお祭り騒ぎへと変わっていく。
「エミヤ、山の上に持っていく食料、山盛りに作ってくれよな!」と英雄たちが騒ぎ、エミヤは「やれやれ、遭難されてはたまらないからね。高カロリーのレーションの準備をさせてもらうよ」と、口では文句を言いつつも一番張り切って完璧な登山計画書をまとめ始めている。
賑やかに荷物を詰め込み、あーでもないこーでもないと笑い合っている最強の仲間たちの中心で、藤丸は登山靴を履き、その紐をぎゅっと力強く結び直した。
その右手の甲には、彼ら全員の魂の絆である「令呪」が、誇らしく、そして熱く輝いている。
「よし、準備完了! ――みんな、行こう。地獄のてっぺんへ!」
藤丸が力強く声を上げると、悪魔たちの地鳴りのような大歓声が、地獄の未踏の空へとどこまでも響き渡っていった。