国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
国が、痛いと言った。
正確には、言葉じゃない。山みたいな右後ろ脚の中を、低い振動が三度走った。そのあとに来るはずの休みが、今日はやけに短かった。
継骨工になって六年。こんな返事は初めてだ。
「レン。槌を止めろ」
頭上から親方の声が落ちてきた。言われなくても止めている。止めていなかったのは、たぶん俺の心臓のほうだ。
安全索に体重を預け、足場板の端へ膝を押しつける。板の下には白い深霧。落ちれば、運がよくて窒息、悪ければ行方不明で処理される。どっちが運のいいほうかは、葬式代を払う人間に聞いてくれ。
目の前には黒い壁がある。
壁じゃない。俺たちの国を背負って歩く国獣、ラグナの外殻だ。右後ろ脚の付け根だけでも吊街の中央広場より大きい。黒い岩に見える一枚一枚が生きた甲で、その奥を響骨が通っている。
俺の仕事は、そいつを叩いて、割れそうな場所を割れる前に見つけることだった。
もう一度、調律槌を当てる。
一打目。低い。
二打目。少しだけ高い。
三打目。最初と同じ。
普段なら、ここで一拍ぶん静かになる。それから、ずっと奥を回った振動が槌の柄へ戻る。ラグナが何かを考えて返事をしている、なんて話じゃない。骨の形がそういう音を作るだけだと、王立修繕局の教本には書いてある。
教本は便利だ。書いた奴がこの足場から落ちてこない限り、間違っていても殴れない。
返りが来た。
三度。そして、詰まった休み。
右の奥歯が、きしんだ。
「外層の剥離じゃありません」
「根拠」
親方――バシュ・ドーンは、気のせいという言葉を使わない。代わりに根拠を出せと言う。出せなければ、気のせいと同じ箱に放り込まれる。筋のいいやり方だ。
俺は槌の柄から手を離し、粉墨を甲の継ぎ目へ擦り込んだ。ラグナが一歩進む。頭上のどこかで、十八万人ぶんの家と畑と便所がまとめて揺れた。
足場が指二本ぶん沈む。
粉の線は切れない。表面亀裂なし。留め金にも緩みはない。荷重は右から左へ、いつもの幅で抜けている。
なのに、奥歯はまだ疼いていた。
子供の頃に割って、響骨の欠片を詰めた歯だ。治したのはバシュで、治療代の代わりに道具洗いを三年やらされた。金勘定としてはかなり親方寄りだが、この歯のおかげで小さな打音を拾えるようになった。
拾いすぎる日もある。
「表は持ちます。奥でもう一回、同じところが鳴ってる」
「同じとは」
「三打。そのあとの休みが、半分しかない」
頭上で索具が鳴った。しばらくして、禿げた頭と白い顎髭が足場の縁から現れる。バシュは右膝をかばいながら梯子を下り、俺の隣へしゃがんだ。
最初に見るのは俺の顔でも粉墨でもなく、安全索だ。結び目を引き、腰環の留めを確かめてから、ようやく甲へ手を伸ばす。
「槌」
渡すと、親方は同じ場所を叩いた。
一打。二打。三打。
戻る音は、鈍い三打と短い休み。
バシュの眉間に縦皺が一本増えた。こっちは増えても修理代がかからないから羨ましい。
「外層作業を中止。第六足場まで上がるぞ」
「原因を見ないで?」
「二人とも落ちたら、原因が喜ぶのか」
「喜ぶかどうかは知りませんけど、明日の班が迷惑します」
「分かってるなら動け」
言い方は雑だが、命令は正しい。足場の揺れが収まる前に探り針を差し込むのは、医者が患者を階段から蹴り落としてから脈を取るようなものだ。
腰袋を閉じる。槌、探り針、粉墨、予備の継鉄。四つ。骨樹脂の小瓶を拾って五つ。
その間にも、歯の奥で低い振動が続いていた。
三打。短い休み。
三打。短い休み。
痛い。
頭の中で言葉にした途端、馬鹿らしくなった。ラグナが人語を話すなら、王城の操路官が百年も前に聞いている。俺より立派な学校を出て、俺の一年分より高い耳飾りをつけた連中だ。
これは音だ。形だ。どこかの骨が擦れて、そう聞こえているだけ。
だから、擦れている場所を見つければいい。
仕事になった。仕事なら直せる。
梯子へ手をかけた時、ラグナが次の一歩を踏み出した。
黒い甲のはるか奥で、何かが引かれる。
東ではない。ラグナの脚は南東へ進んでいるのに、その音だけが北へ伸びた。張りすぎた荷縄みたいな一本の律が、肉と響骨をすり抜け、遠くのどこかへ引っ張っている。
その根元に、冷たい点があった。
釘。
なぜそう思ったのかは分からない。見えてもいない。だが、掌を甲へ当てた瞬間、細く硬いものが骨へ食い込む感触が、自分の右腕を通った。
次に、数が来た。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
歩みの間隔で弱くなりながら、それは九十まで続いた。
九十を最後に、音が消える。
指先が冷えた。
「レン」
肩を掴まれ、甲から手が離れた。音も切れる。
バシュが俺の顔を覗いていた。皺の深さはさっきと同じでも、顎髭の先が揺れている。ラグナの歩調とは合っていない。
「何を聞いた」
「九十」
「何の数だ」
「そこまでは。釘みたいなものが、奥にあります」
バシュの手が、ほんの少し強くなった。
俺の肩を心配して掴んだにしては位置が悪い。逃げる奴を止める持ち方だ。
「第六足場まで戻る。今日の記録には、右後脚外層、異常なしと書け」
「異常なら、たった今そこに」
「記録は俺が決める」
いつもの低い声だった。怒鳴らない。怒鳴らないまま、工具箱の蓋みたいに話を閉める。
ここで食い下がっても、足場の上でできる検査はない。俺は返事を飲み、梯子を上った。
その直前、粉墨の線よりずっと奥から、もう一度だけ三打が返った。
休みは、なかった。
第六足場まで戻ると、バシュは昇降機の鎖を外し、代わりに赤い封鎖索を二重に張った。班長印のついた木札まで下げる。異常なしの場所に使う手間じゃない。
「次の班は?」
「左前脚へ回す」
「右後ろ脚の定期は今日までです。明日から上背の祭礼荷重が乗る」
「荷重表は見た」
なら、なおさら奥を調べるべきだ。祭礼の屋台、観覧席、王城から出る騎獣車。上では祝いの飾りでも、下から見れば重りが増えるだけである。
バシュは俺の作業板を取り上げた。表の「異常なし」を親指で擦り、乾いているのを確かめる。
「今日は寝ろ。二交代ぶんだ」
「半日分の賃金で?」
「追加を俺につけろ」
気前のいい言葉だが、目がこっちを見ていない。封鎖索の向こう、俺が掌を当てた黒い甲を見ている。
「親方。あそこに何があるんです」
「お前が今、確かめていいものはない」
問いへの答えじゃない。ただ、知らない人間の逃げ方でもなかった。
バシュは封鎖札の紐を、引いてもほどけない職人結びにした。俺へ最初に教えた結びだ。勝手に入るなというより、勝手に入るなら切れ、と言われた気がした。
*
吊街は、ラグナの腹に吊られている。
家賃が安い理由としては、かなり分かりやすい。頭上には国獣の腹甲、足元には深霧、窓の外には濾過嚢から落ちる水。ラグナが坂を上れば椅子が滑り、急に止まれば昨日の煮込みが今日の床模様になる。
それでも、俺の家だ。
交代鐘が鳴る頃、共同廊下には朝食の匂いが溜まっていた。苔芋と骨鍋の煮込み。向かいの部屋の双子が、片方しか留まらない靴を奪い合っている。
「レン兄、これ」
小さいほうが靴を突き出した。留め具の革が切れている。朝飯より先に直せという顔だ。俺は壁際の台へ腰を下ろし、腰袋から細い継ぎ紐を出した。
「骨貨一枚」
「昨日はただだった」
「昨日の俺は金持ちだった」
「嘘だ」
その通りなので、留め具だけ直して返す。礼を言う前に双子は走っていった。三歩目で転ばなかったから、仕事としては成功だ。
部屋へ入ると、棚の青い茶碗が朝の揺れで横倒しになっていた。縁が欠けているが、煮込みを入れても漏れない。まだ持つ。漏れない器を見た目だけで捨てるほど、吊街の暮らしは裕福じゃない。
煮込みをよそい、硬い黒パンを浸す。
天井の配管から、濾過水が一定の間隔で落ちている。ラグナが息を吸うたび水量が増え、脚を踏み出す前に少し減る。住んでいれば、鐘がなくても今が歩みのどこか分かる。
今日は、減る時間が長い。
椀の水面へ細かい輪が立った。三つ続き、途中で詰まる。仕事場で聞いた返りと同じだと気づいてしまうと、煮込みの味が薄くなった。
朝の仕事は定期点検だけだった。異常なしなら半日分の賃金が出て、昼まで寝られた。異常ありなら追加手当が出る。悪くない。
異常ありなのに、記録はなし。
最悪だ。働いて、危険を見つけて、手当だけ消えた。
そう考えると腹が立つ。腹が立つなら、これは仕事の問題だ。九十という数も、北へ引く釘も、帳簿へ載せればいい。
なのに、匙を持つ右手が止まっていた。
ラグナは、俺が生まれる前から歩いている。親が死んだ日も、俺が初めて槌を持った日も、昨夜酔った職人が洗濯索へ下着一枚で引っかかった時もだ。こいつが歩く限り、吊街は朝になり、水が落ち、煮込みが焦げる。
そのラグナが痛いと言った。
たぶん。
「……九十って何だよ」
茶碗は答えない。国よりずっと小さいくせに、口の堅さは同じらしい。
パンを飲み込み、作業記録板を引き寄せた。右後脚、外層異常なし。バシュの指示どおりに一行書く。
そこで筆を止めた。
裏面へ、三本の線と短い切れ目を九十組刻む。正式記録じゃない。ただの傷だ。見つかれば、板を雑に扱った罰金を取られる程度の。
九十組目だけ、切れ目を入れなかった。
寝る気は消えていた。
*
旧第六足場へ戻ったのは、交代から一刻後だ。
正規の昇降機を使えば班長へ通知が行く。だから濾過水管の点検梯子を下り、途中で外壁索へ移った。無許可作業は資格停止。落ちれば資格どころではない。損得はきれいに釣り合っている。
ラグナは歩き続けていた。白い深霧が朝日に染まり、足元で金属粉みたいに光る。遠くには前脚を支える作業塔。もっと上には、背上都市の端が逆さの崖のように張り出している。
目的の甲板は立入禁止の赤印で囲まれていた。
バシュが今朝つけたものじゃない。塗料が古い。少なくとも数年は経っている。
異常なしの場所を、何年も立入禁止にしている。
筋が悪い。
足場へ降りる前に、揺れが一つ多いことへ気づいた。
ラグナの歩調じゃない。人の足だ。
軽い。踵から置かず、足先で揺れを殺している。継骨工ではない。俺たちは両手が塞がっても立てるよう、靴底全体で踏む。
安全索を短く取り、足場の裏へ回る。黒い外殻と板の隙間から、革靴が見えた。
高そうな靴ではない。泥と白い霧粉で汚れ、左だけ爪先が削れている。靴の主は甲の継ぎ目へ細い金属棒を当て、もう片方の手で板を広げていた。
地図だ。
ただし道も町も描かれていない。六本の脚と、背骨らしい太い線。それを横切る黒い点が七つ。
朝に感じた冷たい釘と、位置が重なった。
俺は足場の留め具を槌で一度叩いた。
女の手が止まる。
「その棒を離せ」
振り向くより先に、女は地図板を畳んだ。速い。けれど、逃げ道は背後の梯子一本しかない。その根元には俺がいる。
黒に近い藍色の髪が肩で揺れた。顔より先に左手首が目に入る。赤い紐が三重に巻かれ、結び目が九つ。作業紐にしては細すぎるし、飾りにしては擦り切れすぎている。
「修繕局の方?」
「そんな立派な上着に見えるか」
「では、見なかったことにしてもらえますか」
「俺の仕事場へ勝手に入った奴が、俺の仕事を増やしてる。見なかったことにする値段は高いぞ」
女の視線が、俺の槌、腰袋、靴、背後の梯子へ動いた。順番がいい。少なくとも、顔だけ見て職人を値踏みする上層の連中よりは話が早そうだ。
「骨貨なら十二枚」
「安い。あと、賄賂を先に金額で言うな。こっちまで共犯になる」
「受け取る前から、もう?」
「立入禁止を越えて話してる時点で、だいぶ怪しい」
返事をしながら、女は金属棒を袖へ隠そうとした。
俺は槌で足場を二度叩く。板の端が跳ね、女の足元が半歩ずれた。袖から棒が落ちる。拾うより先に踏んだ。
「人の道具を」
声が少し硬くなった。怒っているようには聞こえるが、断定はしない。初対面の人間の機嫌より、棒の先についた黒い粉のほうが重要だ。
鉄錆じゃない。骨樹脂でもない。
冷たい。
靴底越しなのに、右の奥歯が疼いた。
「これをどこへ差した」
女は答えない。琥珀色の目が、俺の口元で止まった。
「あなた、聞こえたんですね」
背中を、深霧より冷たいものが撫でた。
「何が」
「三回。そのあと、休みが足りない」
槌を握る手へ力が入った。女はそこを見て、地図板をゆっくり開く。さっき見えた七つの点。その一つから、北へ細い線が伸びている。
「これは鎮動杭です。そう呼ばれています」
「聞いたことがない」
「聞かせないための杭ですから」
話が出来すぎている。俺が朝に感じたものへ、ちょうど名前を持った女が現れた。罠なら雑だ。雑すぎて、逆に踏んだこっちが悪いと言われる類の罠だ。
だが、黒い粉は実在する。七つの点も、北へ引く線も。
「名前」
「ミラ」
「それだけか」
一拍だけ、赤い紐の結び目を親指が撫でた。
「ミラ・セト。地図を描いています」
「道のない地図を?」
「道が消される前に」
答えになっていない。けれど、問いを重ねても今は逃げ道を増やすだけだ。
俺は棒を拾い、先端の粉を指で擦った。冷たさの奥に、朝と同じ硬い点がある。
痛い。
やはり、そうとしか訳せなかった。
役人へ渡せば、俺は無許可侵入の罰金を半分にできるかもしれない。バシュへ引き渡せば、少なくとも資格は残る。どちらも現実的で、どちらを選んでも昼には寝台へ戻れる。
それなのに、俺は梯子から退いた。
「三分やる。分かることだけ話せ。分からないところを偉そうに埋めたら、今度こそ呼び笛を吹く」
ミラは俺の空けた道を見た。すぐには逃げず、地図板を足場へ置く。
「まず、九十という数を聞いたはずです」
「あんたも聞こえるのか」
「私は数えました。ラグナの歩みと、世界背骨の霧の周期を」
「数えた結果が九十。ずいぶん切りのいい脅しだな」
「では、確かめてください」
ミラは地図板の端から細い透明板を引き出した。中に白い粒が封じられ、ラグナが足を運ぶたび斜めへ流れる。水準器に似ているが、粒の戻りが遅い。
彼女は透明板を地図の太い線へ重ねた。北へ向く線と、粒が流れる向きが指一本ぶんずれている。
「これは十五年前に測ったラグナの歩みです。今朝までに、ずれは二百七十歩。今日の一歩で三歩分増えました」
「古い板が正しい証拠は?」
「ありません。だから三つ調べました。濾過水の脈、右後脚の接地時間、深霧の満ち引き。全部が同じだけずれています」
言い切ったあと、ミラの親指が赤い紐の結び目を一つ押した。声は平らでも、指先だけは急いでいる。
「九十日後に何が起きる」
「起きることは分かりません」
「分からない?」
「分からないことを、分かるようには言いません。分かるのは、霧の流れが閉じる日と、ラグナが今のままではそこへ届かないことです」
それなら脅しより性質が悪い。期限だけは正確で、失敗した結果には名前がない。
ミラの指が、北へ伸びる線をなぞった。赤い紐の結び目は、今度は動かない。
「その釘を抜けなければ、この国は九十日で帰れなくなる」