国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
腹外殻へ落ちて最初に確かめたのは、俺の命ではなかった。
右手の指は白く、動かすと一本遅れて残りがついてくる。痛みより痺れが強い。血が戻らないなら副木を外す必要があるが、外した腕で次の衝撃を受ければ今度こそずれる。
判断に迷っている間に、ミラが俺の爪を押した。
「離して」
「何を」
「右手で帆索を掴んでいます」
見れば、折れた帆柱から伸びた索を固定具の指へ巻きつけていた。落ちる途中で反射したらしい。さっきの締め輪で懲りたばかりなのに、俺の右手は本人より物覚えが悪い。
左手で一本ずつ外すと、六息かけて指先へ赤みが戻った。速くはないが戻る。ミラは俺の肘、肩、瞳の順で見る。
「吐き気は」
「ない。右腕は痺れ。左腰を打った。頭は当ててない」
「本当に?」
「艇の底が先に当たった音を聞いた」
自分の身体を音で申告する患者は信用がないらしく、ミラは後頭部まで手で確かめた。俺も彼女の額の擦り傷、右膝の裂けた布、両手の動きを見る。膝は曲がり、足裏で黒い甲を踏める。額の血ももう止まりかけていた。
「骨は」
「大丈夫です」
「自分の痛みを正確に読む人には見えない」
旧坑で言われた台詞を返すと、ミラは反論せず右膝で三度しゃがんだ。荷をかけても軸はぶれず、少なくとも歩けない傷ではない。
次に道具を見ると、修繕艇は上下を戻していた。船腹の左板が割れ、帆柱は根元から折れている。艇首の一時索は王城の刃で切断され、右の索帆は裂け、左帆だけが半分残った。深霧へ沈んでいないのは、船尾へ別の索が一本張っているからだ。
ジオが投げた救助索だった。
鉤が船尾環へ噛み、はるか上の南外壁から俺たちと艇の重さを支えている。索は張り切らず、ラグナの呼吸に合わせて巻き出されていた。急に引けば、俺たちを助ける前に外殻を削る。あいつは上から見えない荷重まで数えている。
「ジオ!」
声は届かない。代わりに救助索へ調律槌の柄を当て、低く二打する。
上から三打が返るが、本人の合図ではなく南外壁の巻揚げ機が回る歯数だ。一度に三歯、休止、また三歯と、艇を引き上げるのでなく外殻の丸みに沿って横へ送っている。その休止へ別の細い打音が入った。
一打、二打、長い一打。
吊街の子供でも知っている救助符号だ。生存人数、二。こちらから二打を返す。次は負傷者。俺が一、ミラが一で二と送りかけ、ミラが俺の槌を止めた。
「私は軽傷です」
「額と膝」
「あなたは右腕、左腰、落下前から左肩」
「合計で数える符号じゃない」
一人と返すと、上から了解の一打が来た。
艇の荷室を開ける。油布の隠し台帳は中央梁へ二重に留めてあり、十六枚すべて濡れていない。作業記録板は留め具から外れ、船底へ滑っていたが、表裏とも読める。
隔離箱はラウの荷索で中央柱へ残り、一室目は白く曇っている。二室目の二片も位置が変わらず、箱の外へ黒い粉はない。
心律片の小瓶だけが見つからなかった。
ミラの地図板中央には、切れた革紐だけが残る。俺たちは艇の内側を左から順に探した。割れ板の下、帆布の折り目、排水溝。ない。
白い深霧へ落ちたなら、取り戻せない。
その一片で右腕を折った。帝国印と幼獣らしい呼び合いを、最初に持ち出した証拠でもある。失くしたと言えば、採ったことまでなかった扱いにされる。
「下です」
ミラが腹這いになり、艇と外殻の隙間へ左腕を入れた。帆柱の留め環に、革紐が引っかかっている。その先で小瓶が黒い甲へ触れ、呼吸のたび白い霜を吐いていた。
「俺が取る」
「どの腕で?」
答える前に、ミラが安全索を腰へ結び、艇の下へ半身を滑らせた。俺は左手で索を持つ。右で支えないぶん、腰環を中央柱へ通し、艇と俺とミラの三点で荷を分ける。
小瓶を回収すると、ひびはなく、封も閉じたままだった。地図板へ戻す革紐は切れているので、ミラは上着の内袋へ入れた。
人、道具、証拠。
全部ある。
そこでようやく、俺たちの下にあるものを見た。
ラグナの腹外殻は、脚の甲より薄い。黒い板の継ぎ目ごとに白い濾過毛が生え、その下を水と空気が通っている。普段なら修繕艇でも接近を避ける場所だ。呼吸のたび甲が指一本ぶん開き、閉じる時には人間の腕くらい簡単に挟む。
いまは、その開く幅が大きい。
右後ろ脚の第一基を空けたあと、ラグナは自分で荷を選んで接地した。その返りが、北側管から腹へ回っている。六本の静釘に潰されていない一本だけの道だ。
俺の右奥歯が、外殻へ触れてもいないのに鳴った。
「離れたほうがいい」
「何が来ていますか」
「まだ分からない」
分からないなら、先に条件を見る。
救助索は三歯ずつ巻かれ、あと百息ほどで腹側の保守棚へ着く。艇は割れていても、甲の上では持つ。外殻の開閉も一定。残り六基の薄板は油布の中で鳴っているが、同時充填の時ほど強くない。
危険が増えたのは俺の歯だけだ。
耳を塞いでも意味はない。音は外からでなく、詰めた響骨片を内側から揺らしている。
三打。
長い休み。
また三打。
最初に聞いた時には詰まっていた休みが、第一基を抜いてから元の長さへ戻っている。ただし、三打のあとに別の低い律が続いた。
北へ。
細い一本ではない。冷たい流れ、重い岩列、腹の下を擦る深霧。方向と圧が、過去の接地を何十層も連れてくる。
その上に、城と畑と吊街の荷がある。
外せ。
言葉になる前の圧へ、俺の頭が札をつけた。
釘を抜け。
荷を降ろせ。
北へ。
「レン」
ミラに呼ばれた時には、左の掌を甲へついていた。
触れた場所から、世界が裏返った。
ラグナの腹へ乗っていると思っていた。実際は、ラグナの中を通る重さのほんの表面に、十八万人と町と俺たちが引っかかっている。
右後ろ脚が着き、黒い甲の一枚が沈む。その荷は響骨を通って腹へ返り、心律核の手前で六つに削られ、王城から同じ一音を押し返される。
歩け。
ラグナは北へ荷を移す。
歩け。
王城釘が南東へ戻す。
その往復が八年ぶん重なっていた。どちらも俺の記憶ではなく、見えたものを人間の争いへ並べ直しているのは俺だ。それでも、北へ向く律だけは毎回消えず、深いところへ残っていた。
そこから数が来る。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
一度目に聞いた九十より、二つ少ない。
八十八。
最後に、北の流れが閉じる。身体を入れようとしても、硬くなった響骨が入口へ合わない。濾過水が細くなり、背上の荷だけが残る。
死ぬ、と思った。
違う。
俺が一番恐れている結果へ、見えたものを勝手につないだ。ラグナから来た核は、死ではない。
間に合わない。
戻れない。
直すな。
帰る。
「手を離して!」
左腕を引かれた。
腹外殻の開閉が一度大きくなり、俺の掌が継ぎ目へ滑っていた。ミラが腰索を艇の中央柱へ巻き、俺ごと引き戻す。
甲から離れても、八十八の最後だけが奥歯へ残った。
右前腕の固定具が熱く、左手にも細かな震えがある。触れていたのは十息に満たないのに、息が切れ、視界の端が暗い。最深接触なんて立派な呼び方をしても、実態は国の荷重へ人間の骨を差し込み、壊れる前に抜いただけだ。
「何を受け取りました」
答えたくなかった。
痛い、釘を抜けなら仕事になる。六本を安全に外し、傷を塞ぎ、元の歩調へ戻す。吊街の寝台へ帰り、青い茶碗で煮込みを食える。
直すな、荷を降ろせでは、戻す先が消える。
町を降ろすことは、人を深霧へ捨てることではない。王城六区画には可搬継ぎがあり、吊街の住民は一度、家を離れても濾過廊へ全員移せた。古い背籠が本当に残るなら、城も畑も工房も別の足場へ運べるかもしれない。
それでも、同じ窓から濾過水が落ち、向かいの双子が靴を持ってきて、寝台の棚に青い茶碗がある形には戻らない。道具を一つずつ持ち出せても、町全体を元の継ぎ目へ置き直すことはできない。
ラグナが拒んでいるのは傷を塞ぐ作業ではなく、その身体へ国を固定したまま元の歩調へ戻す修理だ。俺が守ろうとした国の形を、背負っている側はもう続けられないと返している。
「右後ろ脚の道が北へつながった。残りは六本に削られてる」
「それから」
「数が八十八。北の流れが閉じるまで」
ミラは地図板を開いた。透明測定板を腹外殻へ置き、小瓶を中央、その周りへ白い粒を均す。
粒は三打で跳ねたあと、北側だけ細く流れた。地図に刻まれた世界背骨の入口へ線を重ねると、開始日に九十へ置いた印から今日の位置は二目盛り進んでいる。
同じ板の中央では、もっと深い大きな律が六息ごとに続いていた。間隔も高さも急には変わっていない。八十八の減衰はその律へ重ならず、濾過水が一日で温まり、冷える長い周期へ乗って北側だけを通る。
心臓が残り八十八回という数ではない。少なくとも、死ぬまでの日数だと決める観測はなかった。確かなのは、北へ道を変えられる幅が一日ごとに減っていることだけだ。
「日数と一致します」
「二日たったから八十八。それだけは」
「ほかは?」
俺は言えないまま、ラグナの通常歩調、王城の強制律、北へ残った低音を作業板へ描いた。最後に、翻訳した四つを書く。
釘を抜け。
荷を降ろせ。
直すな。
帰る。
ミラは四つを読んでも、ラグナの意思だと確定しなかった。
「確かめます」
赤い操路紐を三本にほどく。一つを救助索へ結び、王都と南東の現進路。二つ目を裂けた帆柱へ結び、町を載せたまま元の歩調へ戻す道。三つ目を腹外殻の北側継ぎ目へ置き、世界背骨。
声を使えば王城に拾われる。ミラは紐を高さだけ変えて順に弾いた。
南東。
返りは、王城釘から来た細い一音だけ。
町を載せたまま戻す道。
腹中央と背骨根の薄板が鳴り、濾過水が一度詰まった。
北。
ラグナの右後ろ脚が接地した。
遠すぎて脚そのものは見えない。だが腹外殻が長く沈み、透明板の白い粒が北へ流れる。救助索もその方向へ爪一枚ぶん張った。
三つ目にだけ、ラグナ自身の歩調が重なった。
「直したくないんじゃない」
言葉が先に出た。
ミラは待つ。
「痛くて、判断が乱れてるだけだ。六本を抜けば、また違う道を」
「その可能性はあります」
否定されないほうが、逃げ道を塞がれた。
「でも、いま確認できた選択を、未来の別の選択で消しますか」
消せない。
ラグナは八年、北へ返し続けた。俺が聞く前から、ミラが来る前からだ。第一基を抜いた一本の脚も、北を選んだ。
六本を抜けば変わるかもしれず、変わらないかもしれない。だから、元へ戻すと決めてから抜くのは筋が悪い。
俺は作業板の「直すな」へ線を引きそうになった。
消さず、その横へ書く。
意味は未確定。元の都市荷重へ戻す道は拒否。
文字がひどく曲がったのは、左手のせいだけではない。
救助索が止まる。
上から短い連打が来た。警備接近に続いて十二打、切断まで百二十息だ。
ジオは俺たちを王都へ戻すのでなく、艇を保守棚まで運び、逃げる時間を数えている。
艇を出すには帆柱が要る。
折れた柱は根元から指六本ぶん裂け、予備柱はない。左帆は生きていても、張る場所がなければ布だ。
船底の点検蓋を外すと、内側に予備の支え肋が二本ある。一本を抜けば船腹が弱くなる。二本とも残せば、百二十息後に王立警備がきれいな船腹ごと回収する。
「右の支え肋を外す。割れた左板は荷室の蓋で継ぐ」
「艇の強度は」
「深霧へ出たら右へ荷を置かない。次の索まで一度だけ持たせる」
ミラが留め具へ工具を当てる。
「左へ四分の一」
「これですか」
「戻して、隣。そっちは船腹が開く」
自分で手を出すほうが遅い。右は使えず、左も共振で震えているため、俺は粉墨線と船腹だけを見て、ミラが留めを外す。
支え肋を帆柱へ重ね、折れた部分の上下へ二本ずつ索を巻く。結びはミラの赤紐ではなく、切れた索帆の端を裂いて使った。赤紐は道を示す道具で、折れた柱の代用品じゃない。
残り六十息で帆柱を立てる。救助索の張りを一時支えにし、左帆を半分だけ開く。強く張れば継いだ根元が抜けるため、風を逃がす切れ目を三つ残した。
三十息。
保守棚が見えた。白い濾過嚢の間にある狭い甲板で、巻揚げ機の横にジオが一人立っている。警備兵の青い灯が、その奥の通路を下りてくる。
艇を棚へ寄せると、ジオは俺たちを引き上げず救助索の鉤を船尾環から外した。代わりに水袋、保存パン、濾過面を二つずつ投げ入れ、最後に細い通行板を載せる。
「南交易索まで、外壁修繕の避難継続。許可は夜明けから一日」
「一日を過ぎたら」
「不法出港だ」
「今と何が違う」
「記録が違う」
その間も、ジオは警備章を外していない。
「バシュは」
「操路塔で拘束された。生きてる。隠し記録を持ってると自分から言った」
保証はないと言った親方は、逃げる道より証言する場所を選んだ。俺がそれを正しいとも、許したとも決める段階ではない。
「吊街は濾過廊。マウラたちも全員いる。第一基跡は局へ封鎖させたが、中空栓を抜くなと俺の命令記録へ入れた」
「助かる」
ジオの眉の傷が、わずかに動く。
「次は逮捕する」
「聞いた」
「俺が追跡任務を受ける」
それは警告であり、他の追手へ渡さない選択にも聞こえた。後半は俺の推測なので、礼には入れない。
「記録を消すな」
礼の代わりに言う。
「お前もだ」
王立警備が保守棚へ出ると、ジオが巻揚げ機の切断輪を回した。
俺たちを捕まえる索ではない。艇をまだラグナへつないでいた、最後の補助索が外れる。
左帆が深霧上の風を受け、継いだ柱が鳴る。右船腹の粉墨線も開くが、それでも一度きりなら持つ。
ラグナの腹外殻が下へ遠ざかる。
俺の寝台も、青い茶碗も、濾過廊へ避難した町も、その上にある。戻りたいと思った。役に立つ仕事がなくても戻りたいと認めるには、まだ腹の奥が狭かった。
だが、戻すことをラグナへ押しつけるのは違う。
「ミラ」
「はい」
「俺は六本を安全に抜く方法と、ラグナが北へ行く道を探す」
言い切ったあと、続ける。
「あんたは、どこへ行く」
ミラは地図板を開いた。南交易索の先、霧海を回る一本の線へ指を置く。
「自由市セラト。古式操路図が市場に出ます。リュータで失われた部分があるかもしれません」
「俺も行っていいか」
同行させる、ではない。目的が同じでも、道を決めるのは別だ。
ミラの指が、赤い紐の三つ目の結びを直した。
「右腕を骨医に見せること。作業条件を破ったら、私が工程から外すこと。行き先を変える時は相談すること」
「条件が多い」
「断れます」
断る理由を探し、見つからなかった。
「分かった。一緒にセラトへ」
作業契約としては、それで十分だ。
修繕艇が南交易索へ向きを変える。
後ろで、ラグナの六脚が見えた。
右後ろ脚だけが、王国の進路より北へ半歩置かれる。
続くはずの身体が、王城角冠部から伸びた一音に引かれた。腹中央、背骨根、首、左肩甲、旧坑。残る六本の律が張り、北へ置いた脚を南東へ擦らせる。
黒い外殻に、長い傷が増えた。
ラグナは帰る方向へ踏み出した。
国が、その脚を引き戻した。