国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
泳いでいる町へ行く時は、住所より先に速度を聞くべきだった。
自由市セラト、南市場、背びれ第三列と、ミラの地図板には書いてある。ところが二日かけて南交易索を渡った先に、背びれ第三列はなかった。
二日間、修繕艇の仮継ぎは一刻ごとに悪くなった。右船腹の粉墨線は最初の爪一枚から指半分へ開き、継いだ帆柱は風向きが変わるたび根元で鳴る。ミラが帆と相対位置を見て、俺が音と粉墨を記録し、六刻ごとに索を締め直した。
右手は籠副木の中で痺れたまま。左腰は座れば痛み、立てば船酔いの前から揺れる。水袋二つと保存パン二つを半分ずつにしても、二日目の朝には最後だった。戻る索は切られ、進む先だけが動いている。
だから住所がないと言われても、別の町へ行く選択はなかった。
「昨日、側腹へ移りました」
すれ違った索帆商が、深霧の南を指す。
「側腹のどこだ」
「今日なら左の第二呼吸孔。次の息で後ろへ流れる」
住所まで泳いでいる。
国獣の背に住んで十九年、町が歩くことには慣れていた。俺の家が一晩で別の場所へ行ったことはない。セラトでは、店主が浮函ごと索を外し、客と風の多い場所へ毎日移るらしい。
「追いつくには」
「青帆列へ乗れ。いまなら鰭の返しが来る」
商人の指した先に、青白い山が浮かんでいた。
最初は深霧の盛り上がりに見えた。長さ八キロの白い胴が霧上を滑り、側面の巨大な孔から空気と水を噴く。背には帆塔と市場の屋根が何百も重なり、両脇から倉庫函、腹からは吊籠区が葡萄みたいに下がっている。
霧鯨セラトには、脚がない。
分かっていた。地図にも鰭が二枚、腹毛が長く描かれている。それでも国獣は地面を踏むものだと、身体のほうが勝手に次の接地を待っていた。
三打は来ない。
代わりに、長い律が修繕艇の船腹を右から左へ抜けた。少し遅れて二本目が下から持ち上げ、三本目は帆柱を前へ引く。
右、下、前と三方向の荷重なら読める。
「左帆を閉じろ」
ミラが留めへ手をかける。
「閉じれば接近できません」
「次に右から返りが来る。帆柱が持たない」
「あれは接地ではなく、胸鰭の」
説明を待たず、左帆を半分まで落とさせた。
右から来るはずの律は船底から来て、艇が上へ跳ねた。継いだ帆柱は無事だったが、代わりに支え肋を抜いた右船腹が深霧の表面へ叩かれ、粉墨線が端から指一本ぶん開いた。
次の波で船首が左へ振れる。帆を閉じたぶん前へ抜けず、修繕艇はセラトの横を向いたまま引きずられた。
胃の中の保存パンも横を向く。
「帆を戻して」
「柱が」
「次は上から押されます。半分ではなく三分の二」
ミラの地図板では、セラトの胴、こちらの艇、深霧の流れが三枚の透明板へ別々に描かれていた。国獣だけが動く地図ではなく、全部が動く前提で互いの位置だけを重ねる地図だ。
白い粒が上へ流れる。
ミラが左帆を三分の二まで戻すと、上から風が落ちた。艇は押されながら前へ滑り、ようやくセラトの尾側へ向く。
俺が読んだ右、下、前は、三つの異常ではない。胸鰭が霧を押し、腹毛が浮力を受け、尾が流れを送る一回の泳ぎだった。
ラグナの脚なら、一つずつ床へ戻る。セラトは全身を止めず、前の律が残っている間に次を重ねるため、どこからが次の動きか区切れない。
分からない。
認める前に、胃のほうが認めた。
船縁から深霧へ吐く。防霧面を上げる時間は短くしたが、白い粉が鼻へ入り、咳と吐き気が一緒に来た。国を傾けても吐かなかったのに、泳ぐ市場には接舷前から負けた。
「大丈夫ですか」
「今のは、二日前のパンが悪い」
「私は同じものを食べました」
「じゃあ水だ」
「同じ袋から飲みました」
ミラは逃がし道を塞ぐのがうまい。
「セラトの律を知らない」
口にすると、右前腕の固定具より重かったものが少し下がった。
「教えてくれ。次の鰭、尾、呼吸の順」
ミラは笑わない。透明板を一枚抜き、艇の床へ固定した。
「順番は固定されません。胸鰭の返しは霧の密度で変わります。先に側面の水紋、次に帆の上端、最後に白粒を見てください。三つのうち二つが揃うまで帆角度を変えない」
「音は」
「結果の確認に使えます。でも、予測は遅れます」
俺の耳が役に立たないとは言わず、先に使う場所が違うと言う。
腹立たしいほど筋がいい。
次の水紋が尾へ曲がるが、帆上端は動かない。待つ。白粒が後ろへ流れ、二つが揃ってから帆を爪二枚ぶん開いた。
艇が青帆列へ入る。
今度は船腹の粉墨線が動かなかった。
*
セラトの接舷場には、入口が七つあった。
人用、荷用、薬用、食用、契約済み船、未契約船、何も申告したくない船。
最後が一番高い。
俺たちは未契約船の黄色い浮桟橋へ入った。桟橋自体が胸鰭の上へ索で吊られ、泳ぎに合わせて上下する。足を置いた瞬間、左腰の打撲が一歩遅れて痛んだ。
受付台には屋根がなく、代わりに色の違う帆が五枚立ち、風向きごとに窓口が移る。いま開いている青窓へ通行板を出した。
受付の男は板を弾き、刻まれた律を聞く。
「ヴァルド外壁修繕。期限、一昨日の日暮れ」
「途中で艇が壊れた」
「壊れた船の期限は延びない。沈むだけだ」
「直してきた」
「なら壊れてない」
市場の理屈は、骨樹脂より隙間がない。
「接舷は何日」
ミラが聞く。
「一日、三日、一巡。三日なら寝床札がつく」
「住所は」
「どの住所だ」
「古式地図を扱う背びれ第三列」
「今朝、左側腹へ移った。次の呼吸で腹倉庫の上。夕方には尾市だ」
聞くたび住所が増える。
三日札を買えば医者代がなくなり、一日では古式図の出品者を探す前に追い出される。残った賃金袋を左手で開けた。
骨貨は十九枚。
夜番骨医へ二十六枚払ったあと、寝台の板裏に残していた分だ。王都へ追う前に持ち出した腰袋の底へ入っていた。全財産というほど立派ではないが、次の賃金を受け取る職場はもうない。
「一日札を二人。艇の修理場所と骨医をつけてくれ」
「一日で直せなければ」
「船腹を担保に置く」
「柱も継ぎ物だ」
「直した後の船腹だ」
受付の男は、ようやく俺を見た。右腕の固定、粉墨のついた左袖、艇の仮継ぎを順に見る。
「骨医は隣の赤帆。修理函は呼吸孔の後ろ。働いた分だけ延長できる契約がある」
骨貨六枚で二人分の一日札が出た。板には住所でなく、いまいる浮桟橋の振動が刻まれ、別の区画へ移れば刻み直す仕組みだ。
町が動くから、住所は場所ではなく、その日どの律へつながっているかになる。
受付の横で、赤毛の子供が声を上げた。
「骨医なら赤帆の三つ先! 次の息で二つ手前へ来るよ!」
年は十二か十三で、短い赤毛と鼻のそばのそばかすが目立つ。右足だけ黄色い靴で、左は灰色の紐靴。首に下げるはずの契約札がない。
「案内、骨貨一枚。船の見張りも一枚」
「受付が教えた」
「あのおじさん、店が動く速さは教えてない」
「見張りは」
「あたしが盗ませない」
一番盗みそうな奴が言った。
「いらない」
「じゃあ、迷子になったら二枚ね」
子供は赤帆の間へ消え、黄色い靴は上下する桟橋の板を一度も踏み外さなかった。
艇を呼吸孔後ろの修理函へ預ける。
若い索工が右船腹の粉墨を見て、「セラト材へヴァルドの継ぎ方をしたな」と言った。責める声ではなく、壊れ方を先に知りたい職人の声だ。
「セラトの船腹材は知らない。南交易索を一度渡るための仮継ぎだ。右支え肋を抜き、荷室蓋へ逃がした。次の呼吸で外す前に、ここの正常な撓みを教えてくれ」
失敗する前ではなく、次の作業の前に知らないと言う。たったそれだけなのに、吐いたことを申告するより口が乾いた。
索工は笑わず、船腹を三点叩いた。
「こいつは鯨髭を混ぜた板だ。縦へ曲がるのが正常で、横へ開けば破断。あんたの蓋継ぎは横を止める代わり、次の尾返しで縦が割れる」
「直し方は」
「右肋を戻して、蓋を細帯三本へ割る。目と口が使えるなら作業契約に入れる」
艇を担保へ置くだけでなく、工程を売って接舷日を延ばす道ができた。まだ契約は結ばず、治療後に戻ると札へ記す。
濡らせない帳板十六枚と三室の隔離箱は、一日札に付く修理函の封印庫へ移した。追加料金はない。受取札はミラの首紐へ通し、俺の作業板には封印律だけ写す。鍵まで自由市場の善意へ預ける気はない。
*
セラトの骨医は、治療棚ごと浮函に載っていた。
患者が診療所へ行くのではなく、赤帆の骨医函が接舷場を回って拾う。船乗り、吊籠の索番、胸鰭倉庫の荷運び。待合の全員が別々の揺れ方をしている。
骨医は俺の固定具を見るなり、ミラへ聞いた。
「誰が追加した」
「私です。二本の細板を元の副木の上から」
「血色確認は」
「六息で回復。昨日から痺れが残っています」
本人より正確な申告が隣から出る。
副木を一枚ずつ外されると、腫れは前より硬く、二本の赤い線が肘側へ伸びていた。薄い振動板を指先から当て、骨医が眉を上げる。
「二本とも位置は揃ってる。一つはひびが爪二枚ぶん広がった。よく折り直さなかったね」
「褒めるところか」
「右手を出す癖のある患者にはね」
ミラが何も言わず俺を見る。観察根拠は十分なので、目をそらした。
骨を戻す処置は不要で、代わりに響骨の細枝を編んだ籠型の副木を肘から掌まで被せる。指は血を通すため開閉してよいが、物を掴むのは禁止だ。
「十二日。十日目に板を当て、線が閉じていなければ延長」
「最初の骨医は八日と言った」
「そのあと広げたんだろ。今日から数え直し」
高い手間だった。
左肩は打撲の色が黄へ変わり始め、左腰は新しい青だが骨傷なし。腹外殻へ触れた左手の震えは、接舷までに消えている。骨医は指先の温度差を測り、共振熱が戻ったら両手を外殻へ近づけるなと書いた。
「片手で槌は」
「怪我してないほうでも二日は振るな。船酔いで平衡も崩れてる」
「あれはパンだ」
「吐いた物を診てないから、好きに呼びな」
治療費は骨貨七枚で、残り六枚。
ミラの額は洗浄と薄い樹脂膜、右膝は擦り傷だけで骨音正常。合わせて二枚を請求され、残り四枚になった。
市場は自由で、金がなくなる自由までよく整っている。
診療函を出ると、さっきの赤毛が向かいの帆柱へ座っていた。
「案内、一枚」
「治療費を見て値下げしたのか」
「最初から一枚」
「迷子は二枚だろ」
「もう迷ってるから、いま頼めば一枚でいい」
腹が立つが、周囲を見る。
背びれ第三列の青札は、俺たちが治療を受けている間に本当に移動していた。赤帆の向こうにあった古書函が、側腹の下を通る索へ流れている。
「古式操路図を扱う店まで」
「地図を買う金、ある?」
「見るだけだ」
「見るのも金だよ」
「道を教えろ。払うのは着いてからだ」
子供は黄色い靴を鳴らし、浮桟橋を走り出した。
*
市場は、背より側腹のほうが広かった。
セラトの青白い皮膚へ穴を開けず、何千もの浮函を幅広い帯で巻き、呼吸孔の前だけ空けている。函と函の隙間から深霧が見え、胸鰭が返るたび通路全体が波打つ。
食べ物の匂いが多い。
霧魚の串焼き、酸っぱい乳、薄焼き苔餅、知らない香辛料。ヴァルドでは祭礼でしか見ない赤い果実が、籠一杯で骨貨三枚だった。残金より安いのに、いまは一つも買えない。
店も客も、次の息で揺れることを知っている。皿には滑り止めの縁、椅子は床へ固定せず天井索から吊り、硬貨は台の穴へ投げ込む。ラグナの町なら壊れた扱いになる傾きが、ここでは商売の形になっていた。
赤毛は人の間を抜けながら、時々立ち止まる。胸鰭が返って通路が右へ落ちた時、ミラの肘を掴み、俺の腰袋を反対の手で押して姿勢を戻した。
「客を落としたら案内代が減るから」
余計な親切にしては、手の位置が正確だった。賃金袋は腰袋の底、心律片はミラの上着内袋。どちらへも一度で届く距離にいた。
看板を見ているのではなく、呼吸孔から出る風へ鼻先を向け、吊旗の裏を見ている。
「何を数えてる」
「息」
「次の揺れか」
「そっちじゃなくて、風の量」
子供は指を三本立て、すぐ二本へ減らした。
「今日は少ない。朝からずっとだよ」
「どのくらい」
「三分の二。だから店が尾市へ行きたがる。呼吸孔の前にいても、客の帆が膨らまないから」
ミラが透明板を出すと、白い粒は呼吸孔が開いてもいつもの高さまで上がらない。
初めて見る俺には正常値がない。
「普段の印はあるか」
子供へ聞く。
「風税の板に昨日の線がある。見るなら、もう一枚」
商売を忘れない。
「あとで頼む。先に古式図」
赤毛は肩をすくめて前へ進んだ。
古書函は、側腹第二孔の後ろへ移ったばかりだった。壁一面に革板、骨板、薄い金属図。店先の出品札に、三本の赤い線を描いた小さな写しがある。
ミラの指が止まる。
「リュータの結びです」
札には『古式三路操図・沈国系・原板一枚』。閲覧は四日後の禁制競売、出品者名は封印。保証機関は心薬庫。
心薬庫。バシュの隠し台帳には、帝国心薬院の三角印がある。名前が似ているだけで同じだとは決めないが、調べる札には十分だった。
「四日か」
「接舷札は今日までです」
「修理函で働いて延ばす」
言ったあと、右手の籠副木を見る。左も二日槌を止められ、働くと言っても口と目しか使えない。
昨日までなら、それを価値が減ったと感じたはずだ。いまは、マウラたちへ渡した工程を思い出せる。船の修理も、俺が手を出さず進めた。
「修理函の人間へ、艇の仮継ぎ手順を売る。作業は向こうに頼む」
「交渉は」
「あんたに頼んでいいか」
ミラは頷き、出品札の条件を書き始めた。
赤毛がいない。
さっきまで俺の左横に黄色い靴があった。市場の揺れ、硬貨、呼び声、帆のはためきから足音を探す。ラグナの吊街なら、人一人の走り方を分けられる。
ここでは全部が泳いでいる。
分からないなら、目で確かめる。
通路の先、吊籠区へ下りる索の上に赤毛がいた。
こちらを向き、片手を振っている。
右手には俺の賃金袋。
左手には、白い霜を吐く小瓶。
ミラが上着の内袋を押さえる。留めは切られず、結びをほどいて瓶だけ抜き、同じ形へ戻してある。
いつ触った。骨医函を出た時か、通路で姿勢を支えた時か、それとも古書札へ目が集まった時か。
問いを増やすより、足元を見る。
次の胸鰭の返しが来る。赤毛のいる索は下へ沈み、こちらの通路は上へ振れるため、いま走れば隙間が開く。
「止まれ!」
赤毛が笑った。
「迷子の案内、二枚ね!」
黄色い靴が索を蹴り、小さな身体が吊籠区の波へ消えた。