国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
盗人を追う時は、相手の足より先に自分の残金を数えたほうがいい。
四枚。
あの赤毛が持っている賃金袋の中身だ。命を賭ける額ではないが、今日の食事と、明日もセラトへ置いてもらうための全財産ではある。
もう片方の手にある小瓶は、値段をつけられない。帝国印の静釘から剥がれ、いくつもの小さな律が呼び合う証拠だ。一枚の袋を諦めて警備へ任せる道は、最初から消えた。
赤毛が吊籠区へ下りる細索を走る。
俺も踏み出し、最初の板で左腰が痛み、二枚目で足元が横へ流れた。骨医に船酔いで平衡が崩れていると言われた直後だ。診断が早く役に立つのは、あまり嬉しくない。
「走らないで。胸鰭が返ります」
ミラが地図板を開く。水紋、帆の上端、白粒。三つのうち二つが揃うまで足場を変えない。
ついさっき教わったばかりの手順を、盗人の背中を見ながら使うことになった。
水紋が側腹から尾へ曲がる。吊籠の上で赤い小旗が伏せる。白粒はまだ上がらない。
待つ。
赤毛は振り返り、舌を出した。挑発へ払う骨貨はない。
あいつは速いだけではなかった。分岐へ来るたび、濡れた帆布ではなく乾いた布の下を選ぶ。風を含んで重くなった函は返しが遅れ、乾いた函だけ先に持ち上がる。黄色い靴が踏んだ時には板が上がり始め、灰色の靴が離れる時には次の索が近づいていた。
足場を覚えているのではなく、毎回その場で風を読んでいる。
白粒が横へ流れた。
「今です」
通路が沈む方向へ先に左足を出し、腰を落とす。走らず、傾斜の戻りだけで前へ滑る。赤毛との間が五歩縮まった。
右手で吊索を掴みかける。籠副木に覆われた指を開いたまま、腰環の短索を左手で掛けた。把持は禁止。左手も二日槌禁止だが、索を持つなとは言われていない。医者の言葉の隙間で怪我を増やす患者みたいなので、体重は腰へ逃がす。
赤毛は細索から一つ下の吊籠へ飛び降りた。
籠は住居ではない。底が破れ、古い帆布と空の魚箱が積まれている。市場から外された廃函を、さらに外側へ吊った区画だ。歩くたび住所が変わる町にも、動かしてもらえない場所はあるらしい。
「下へ行けば戻れなくなります」
ミラが透明板を傾ける。
「次の胸鰭返しで、あの索列は腹側へ回ります」
「先回りは」
「第三呼吸孔の風税橋。二つ下です」
赤毛の後ろを追えば、あいつが得意な足場へ入る。なら、行き先を先に取る。
すぐ横の昇降籠には青い札がついていた。運賃一人一枚。
「二人で二枚です」
「払えば残り二枚だ」
「払う袋はあの子が持っています」
市場の理屈は今日も隙間がない。
昇降籠を諦め、荷籠の外側を回る保守梯子へ入る。右腕は胸へ固定し、左手と両足で一段ずつ。ミラが下から胸鰭の返しを数える。
「あと七息」
「二の途中で来るか」
「セラトに二の途中はありません。五つ目の白粒が横へ行った時です」
国が変われば、数え方まで変わる。
五つ目が動く。
梯子ごと身体が右へ運ばれ、俺たちは風税橋の床へ降りた。直後、赤毛の乗った索列が腹の下から回り込み、目の前へ上がってくる。
先頭の吊籠へ左足を置く。
「止まれ。瓶を返せ」
赤毛は急に向きを変えた。逃げるのかと思ったが、黄色い靴が止まったのは、俺たちの後ろに現れた青服を見た時だった。
セラトの市場警備は鉤のついた短い棒を持っている。人を叩く道具ではなく、揺れる通路から荷箱を引き寄せるためのものだ。青服の男は、その鉤を赤毛の腰紐へ向けた。
「無札一。拾得区へ回す」
賃金袋を持った時より、赤毛の顔から笑いが消えた。右足の黄色い靴を半歩引き、瓶だけを背へ隠す。
「その子は俺たちの案内だ」
口が先に動いた。
青服が俺の一日札を見る。
「契約律がない。案内なら作業札を見せろ」
「作る前に逃げた」
「なら契約外児だ。盗品もある。拾得した商会が損害を引き受ける」
言葉だけなら親切に聞こえる。
「本人はどうなる」
「寝床、食事、損害、登録費を働いて返す。完済後は契約を選べる」
「何年で」
「雇う商会が決める」
返せる額も期限も、借りる本人が決められない。商会の台帳では保護費になり、売買札では労働契約になる。それでも青服は最初に「拾得」と言った。
人間を荷物の欄へ入れれば、所有しても売ったことにならない。王国の命令書で痛みを雑音へ入れたのと、使う箱が似ている。
「拾得物ってことか」
「札がない以上は」
赤毛は俺を見ていない。鉤の長さ、後ろの索、次に上がる吊籠を順に見ている。助けを待つ子供の顔ではなく、逃げ道を三つ探す職人の目だった。
「外国船員の臨時作業札は、一日札に連結できるな」
受付で修理函の索工が言っていた。目と口が使えるなら作業契約に入れる。セラトの港は、荷が着くたび現地の手を雇う。一日だけの荷役へ、全員の国籍と姓を用意していたら船が先に出る。
青服の鉤が止まる。
「雇うのか。盗人を」
「盗みと仕事は別に記録する」
赤毛が、そこで初めて俺を見た。
「勝手に雇わないでよ」
「瓶と袋を返せ。そこから条件を決める」
「返したら、警備に渡すでしょ」
「渡さないとはまだ言ってない。盗んだ理由と、次にやる仕事を聞いて決める」
助けるから言うことを聞け、にはしない。俺が正しい側へ立つために契約を使えば、廃材庫でミラの進路を決めようとした時と変わらない。
赤毛は瓶を見た。透明な壁に白い霜が薄くつき、黒い欠片が高い律を二つ返している。ここまで走っても、封は割れていない。
「先に、そっちの腕を下ろして」
右腕は上げていない。
視線を追うと、左手で調律槌の柄を握っていた。腰袋から抜いてもいないのに、逃げ道を塞ぐ時の癖で手が置かれている。
骨医から二日禁止されたのは振ることで、触るだけなら違反ではない。
そうやって条件の縁を削るのをやめる。
左手を槌から離した。
赤毛は賃金袋を足元へ置き、その上へ小瓶を立てた。蹴ればこちらへ滑る距離だが、まだ手は離していない。
「お金は欲しかった。瓶は、あんたたちの後ろを歩いてたら霜が下へ寄ったから」
「どこで」
「古い地図屋の前。心薬庫って札の下」
「それで盗んだ?」
「借りて確かめようとした」
「持ち主へ言わず、返す時刻も決めず、持って逃げた。それを盗みと言う」
赤毛の唇が尖る。
「じゃあ盗んだ。袋も。案内一枚と、迷子二枚はもらっていいと思った」
「迷子案内は頼んでない」
「実際、迷った」
「請求と抜き取りは別だ」
怒るところを曖昧にすれば、雇ったあとも同じことをする。可哀想だから許すのは、次に盗まれる相手へ料金を回すだけだ。
ただ、古書函まで案内する仕事は終えている。着いてから払うと言ったのは俺だ。
「古書函までの一枚は払う。残り三枚と瓶を返せ」
「新しい仕事は」
「呼吸孔の風税板を三か所見せろ。今日の風量、普段との差、店がどこへ逃げてるかを説明。賃金二枚」
「安い」
「俺の残金を知ってるだろ」
「知ってる」
腹立たしい交渉材料を持っている。
「盗品は賃金に入れない。いま全部返す。同じことをもう一度したら契約終了、警備へ記録を渡す。俺たちは仕事以外を命じない。危険が増えたら、あんたは止められる」
ミラが横から加える。
「観測結果を隠して作業を続けさせた場合、雇用側の違反です。賃金は全額支払います。契約を他商会へ譲渡しません」
赤毛はミラを見る。
「王城の人みたいな言い方」
「よく言われます」
平らな返事だった。赤い紐の結び目へは触れていない。
「保護契約なら、いらないよ」
赤毛が言う。
「拾った商会と、言葉が違うだけだから」
「出してるのは作業契約だ。あんたが観測した数字は、俺の耳の補足じゃなく、あんたの名前で記録する。間違っていたら訂正し、合っていたら俺たちが従う」
「あたしが止めろって言ったら?」
「根拠を聞いて止まる。聞く前に危険が来るなら、先に止まる」
赤毛は三つの吊旗を見た。次の揺れを確かめただけかもしれないが、さっきまで逃げ道へ向いていた爪先が、こちらへ半分戻った。
「名前は」
俺が聞く。
赤毛の指が、瓶の蓋から離れた。
「ネネ」
「姓は」
「それを仕事で使うの?」
使わない。
「ネネでいい」
賃金袋と小瓶が床を滑ってくる。左手で瓶を先に拾い、封とひびを確認する。白い霜はあるが漏れなし。袋には骨貨四枚が揃っていた。
青服は面倒そうに息を吐き、腰の小板を出した。
「一日札を」
俺の通行板の裏へ、三角の臨時雇用律が刻まれる。雇用主の欄へレン・カーヴと左手で書いた。王国の追手が読める足跡を、自分から一つ残す。
作業者名の欄で、ネネは炭筆を受け取った。「ネ」と「ネ」の角が妙に鋭い。所属国と姓は空欄。業務は息読み・市場案内、期限は今日の最終呼吸鐘。負傷時の治療費と第三者への損害は雇用側、契約外の命令は拒否でき、契約譲渡なし。
「年齢」
青服が聞く。
「十三」
「保証する成人は」
「いない」
筆が一度止まり、空欄へ斜線が引かれた。父母なしとも死亡とも書かない。分からない場所へ勝手な答えを入れない点だけは、セラトの札にも筋があった。
「雇用札は日暮れまでだ。明日になれば無札へ戻る」
ネネは俺ではなく、刻まれた期限を見る。
「じゃあ、明日は?」
「今日の仕事を見て、明日また決める。長い契約へ勝手につなげない」
「面倒」
「自由っていうのは、毎回決める手間も込みらしい」
セラトへ来て半日も経っていない俺が言うと、青服に鼻で笑われた。
盗難の欄には赤い一本線が入った。返却済み。再発時は契約終了。
きれいな始まりにはならない。
事実を削らず始めるほうが、あとで持つ。
既に終えた案内料一枚をネネへ渡す。新しい二枚は仕事後。俺の手元には三枚、小瓶はミラの内袋へ戻さず、首紐の小さな環へ二重に留めた。
「契約したなら、拾得区は使わない」
青服は鉤を戻す。
「ただし一日札が切れた時、こいつの札も切れる。借金を作れば次は拾得だ」
「作らない」
ネネが答えた。
「借金も、長い契約も」
青服が去るまで、黄色い靴は動かなかった。
*
風税板は、呼吸孔の縁ではなく三つ離れた吊籠の底にあった。
強い風の場所へ板を置けば、店が勝手に税を減らす。だから一番ごまかしにくい離れた索へ振動を通し、一日の最大風量を刻むらしい。
ネネは昨日の白線へ爪を置いた。
「第一孔は昨日が十。今日は七つと半分。第二孔は十から五。第三孔は九から七」
「全部が同じ割合じゃない」
「だから病気じゃなくて、荷物で塞いでるかもしれない」
推測と観測を分けている。
板の目盛りは骨貨みたいに数字を刻んであるわけではない。細い鯨髭が十本、風を受けた高さで白粉へ跡を残すだけだ。ネネは最も高い一本を数えず、三呼吸続けて同じ場所へ届いた髭だけを昨日の線と比べた。
「一回だけ強い風は?」
「荷函が孔の前を通った戻り。セラトの息じゃない」
「見分ける根拠」
「戻りは魚臭い。息は塩と酸っぱい薬の匂い」
俺の教本には載らない正常値だった。ミラが匂いを言葉だけで写さず、風向きと通過した荷函の時刻も隣へ記す。ネネの観測が、名前つきで一行増えた。
「店が尾市へ逃げるのは」
「第二孔が一番弱いから。風で帆を膨らませる店は第一孔、魚と水は尾。動けない倉庫だけ第二孔に残ってる」
ミラが三枚の透明板へ線を移す。セラト全体の進路は変わっていない。胸鰭の返しも接舷時と同じ。弱いのは泳ぎではなく、側面から出る息だ。
俺は耳を板へ近づけた。
連続する泳ぎ律の下に、細い擦れがある。ラグナの静釘みたいな冷たい一点ではなく、柔らかい管へ何かが貼りつき、開くたび面積を狭める音だ。
聞こえたから詰まりと決めない。俺にはセラトの正常値がない。
「普段から、この擦れる返りはあるか」
ネネへ板の端を弾いて聞かせる。
一度目、ネネは首を傾けた。二度目は板でなく、呼吸孔から吊旗へ抜ける風を見る。
「音は知らない。でも昨日まで、息の終わりに旗が一回戻った。今日は戻らない」
管が最後まで開いていない可能性が一つ増えた。
三か所目の板を写し終え、骨貨二枚を払う。これで俺の全財産は一枚。ネネは三枚を片方だけ黄色い靴の内側へ入れた。
「契約の仕事は終わりだ」
「心薬庫は?」
「仕事へ足すなら、先に条件を決める」
「ただでいい。あたしが確かめたい」
哀れんで連れていけと言う顔には見えない。観察根拠は、受け取った三枚へ一度も触れず、俺の首の小瓶と第二呼吸孔を交互に見ていることだ。
「危険が増えたら止まる。瓶には触らない。道はあんたが出して、開けるかは三人で決める」
「三人?」
「契約が終わっても、いまは三人いる」
ネネは返事の代わりに、黄色い靴で吊籠の縁を蹴った。
古書函の真下には、表から見えない保守索が一本通っていた。心薬庫の保証札は地図の出品名だけではない。同じ三角印が、索を二層下りた古い壁にも刻まれている。
帝国心薬院の印と同じ形だ。
壁の前だけ風がない。第二呼吸孔から続く太い柔管が裏を通っているはずなのに、板の隙間から一息も漏れない。
「七年前から閉まってる」
ネネが言う。
「前は薬を運ぶ白い箱が出てきた。閉まってから、無札の子が寝る場所になった。三日前に青服が全員どかした」
「理由は」
「心薬庫の荷を入れるからって。でも扉は一度も開いてない」
三日前。
古式操路図の出品準備と同じ頃だと決めるには材料が足りない。ミラも日付だけを地図へ書き、線では結ばなかった。
扉には取っ手も鍵穴もない。中央に三つの浅い窪みがあり、右から低、中、高の順に叩いた傷が残る。
「触らず測る」
調律槌を抜こうとして、左手を止めた。
二日間は振るな。
ミラへ視線を向けると、何も言わず透明板を扉へ当てた。ネネはその上の吊旗を外し、細い糸を三つの窪みへ垂らす。
道具を振らなくても、板と風で見られる。
低い窪みの糸だけが、壁の内側へ吸われた。
俺の首元で、小瓶が冷たくなる。
白い霜は下へ寄るのではなく、低い窪みへ細い枝を伸ばしていた。瓶の中から高い律が二つ、低く短い律が一つ返る。
扉の奥で、同じ三つが鳴った。
「下がれ」
三人で保守索の支柱まで下がる。瓶には触れない。逃げ道は来た索と、下の吊籠、右の風税橋。ミラが三つとも指で確認する。
黒い三角印の周りへ白い線が走った。
一つ目の窪みが沈む。
二つ目。
三つ目。
七年閉じていた心薬庫の壁が、呼吸するみたいに内側へ開いた。