国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
七年閉じていた扉が開いた時、最初に出てきたのは怪物でも罠でもなかった。
薬の匂いだ。
酸っぱい樹脂、焼いた骨灰、濾過水。それから、雨に濡れた鉄みたいな匂いが細く混じる。旧坑で心律片を瓶へ入れた時と同じ冷たさが、俺の奥歯へ触れた。
「入る?」
ネネが扉の隙間を覗く。
「先に出る風を見る」
ミラが透明板を下、中央、上へ置いた。白粒は下だけこちらへ流れ、上では内側へ吸われる。床近くから冷気が出て、天井側へ空気を戻す循環だ。毒が溜まっている動きではないが、安全の証明にもならない。
ネネが細い吊旗を隙間へ垂らす。
「息はある。奥から一回、横から二回」
「人の?」
「箱。大きい箱が息してる」
扉の内側へ人影はなく、白い廊下が曲がっている。壁には灯り、床の両端には排水溝。取っ手のない扉は、開いたまま一息ごとに少し戻ろうとした。
「閉じた時の開け方は分からない。索を残す」
来た保守索を支柱へ二重に巻き、端を扉の外へ垂らす。中で切られても外側に一本残る長さだ。ミラは地図板へ入口、下の吊籠、風税橋の三退路を書いた。
俺が先に入ろうとすると、ネネが黄色い靴を差し出す。
「息読みが先」
「危ない場所へ子供を」
「契約に年の順って書いた?」
書いていない。
「三歩まで。俺の見える場所で」
「それは書いてある?」
「いま相談した」
ネネは一瞬だけ口の端を上げ、床すれすれへ吊旗を持って進んだ。三歩目で止まり、旗を上、中、下へ動かす。
「吸える。薬が強い。奥に人がいる」
三人で入る。
廊下の壁には、白い箱が何十段も埋め込まれていた。箱ごとに透明窓があり、中で銀色の液がゆっくり回る。液の中心には細い骨片、薄い膜、白い髄らしいもの。どれも小さな袋へ分けられ、濃度と用途の札がついている。
骨接ぎ用、止血用、肺膜用、熱病用、乳児用。
何にでも使えるから心薬、と大きな札に書かれていた。
俺は首の小瓶を上着の内側へ入れた。白箱の前を通るたび、心律片の霜が箱側へ寄る。
「これ、同じだよ」
ネネが窓へ鼻を近づける。
「匂いが?」
「風の跳ね方。小瓶のそばと同じ」
壁の奥から高い律が二つ、低い律が一つ。完全には同じでない。薄められ、いくつもの水音へ割られていても、呼び合う間だけが残っている。
人の足音が来た。
白衣が二人、担架を挟んで廊下の角を曲がる。こちらを見て驚いたが、止まらない。担架には市場の荷揚げ人が横たわり、左脚が膝下から不自然に曲がっていた。皮膚は白く、足先は青い。
「処置台を空けろ!」
俺たちは壁へ寄る。
担架が奥の広間へ運ばれた。そこは倉庫ではなく診療所だった。吊り寝台が十二、薬棚が四列、待っている患者が二十人ほど。入口は反対側にもあり、市場の青い帆へつながっている。
俺たちが開けたのは、閉鎖された裏口らしい。
荷揚げ人の脚へ医師が振動板を当てる。
「脛二本、血管圧迫。戻すだけでは足先が死ぬ」
白衣の一人が心薬の箱を開く。銀色の液を濾過水でさらに十倍へ薄め、折れた場所の上下へ細い針で入れた。
骨が音を立てて元へ戻るような奇跡は起きない。
医師と助手が位置を合わせ、副木で固定し、圧迫している腫れを切り開く。心薬を入れたのは血が戻る道の周りだけだ。
「原液を骨へ入れるな。先に位置、次に血、最後に薬だ」
医師が若い助手へ何度も順番を言う。
「心薬は折れた骨の正解を知らない。曲がったまま育てれば、曲がった骨を早く作るだけだ。熱病も同じ。原因を取らずに回復律だけ足せば、身体が先に焼ける」
万能という看板ほど万能ではない。人間が治す道を作ったあと、その道を身体へ早く通す薬らしい。使い方を間違えれば、故障まで早く固める。
六息。
青かった足先へ、薄い赤みが戻った。
荷揚げ人が息を吐き、寝台の索を握る。痛みは消えていない。それでも医師が爪を押すと、色が三息で戻る。
「切らずに残せる」
本人より先に、付き添いの女が床へ座った。泣いたとは断定しない。両手で顔を覆い、肩が何度も上下した。
会計係がすぐ契約板を持ってくる。緊急処置の一回分は市場救命枠、二回目から本人負担。骨貨百二十枚を一度に払えなければ、回復後の荷役賃金から一割ずつ引く。ただし元金以上の利息は禁止、足が戻らなければ返済停止と刻まれていた。
付き添いの女は板を全部読み、寝台の男へ見せる。男は震える右手で自分の印を押した。治療を受ける側の署名があり、断った時の別処置も小さく書いてある。
拾得区の契約より、ずっと筋が通っている。同じ市場の中で、選べる人間には細い条件まで並べ、札のない者や言葉を返せない国獣には契約者を代わりに立てる。自由が全員へ同じ幅で売られているわけではない。
心薬がなければ、あの脚は切られていた。
白箱の中身を見た瞬間、国獣を削って売るなという言葉が口まで来ていた。いま言えば、足を残した患者へ、お前は間違った薬で助かったと請求することになる。
薬の効き目と、採り方は別だ。
便利だった事実を消しても、採取された側の痛みは減らない。両方を同じ記録へ残す必要がある。
「裏口の客は珍しいな」
診療台の向こうから男が来た。
年は四十前後。青緑の上着へ白衣を重ね、左右の指に値札用の細い銅輪を何本もつけている。足元は医師の柔靴ではなく、市場監督の硬い靴だ。
「マルク・ベイ。心薬庫と南市場の監督をしている」
名乗りながら、最初に見るのは俺の右腕でもネネの札でもなく、首元だ。小瓶の冷気を見つけている。
「閉鎖扉を壊したか」
「向こうから開いた」
「扉は勝手に契約しない」
「心律片へ返事をした。三つの窪みが順に沈んだ」
マルクの銅輪が一つ鳴る。
「その試料を見せてもらおう」
「所有者は」
「持っている君だろう」
「薄片のほうだ」
男は少しだけ笑った。
「国獣由来物は、採取時の契約主体が所有者になる。ここでは市場、国、商会、保護団体のどれかだ」
「国獣本人は」
「署名できない」
話が早い。
署名できないから、人間の契約書で同意まで済ませる。無札児を拾得物へ入れる制度と、箱の形がまた同じだった。
「心薬を売った金は診療所にも入る」
マルクが、さっきの寝台を銅輪で示す。
「競売用の高濃度薬、貴族の回復浴、航路保険。高く売れる場所へ高く売り、その口銭で救命枠と冬の霧肺薬を出す。ここを閉めれば、採取船だけでなく患者も止まる」
脅しではない。診療所の壁には救命枠の残数が公開され、今日だけで十三本減っていた。薬棚を壊して正義を名乗れば、次の担架から先に代価を払う。
「見せない。中身の説明と、扉が開いた理由を先に出せ」
「その腕なら、交換したほうが得だ」
マルクが籠副木に刻まれた骨医の診療律を銅輪で軽く弾く。骨へ響かない力だが、ミラの目がその手へ動いた。
「非転位二本、一片拡大。心薬を局所へ使えば、十二日を四日まで縮められる。初回は試料の鑑定料から引こう」
欲しくない、と即答できなかった。
四日なら古式図の競売に間に合う。修繕艇の槌も持てるかもしれない。十二日間、誰かへ手を借りる負い目も減る。
その考え方で右手を二度出し、八日を十二日へ増やした。
「治療は骨医と相談する。試料は渡さない」
「自由だ。ここでは売らない自由も値段に入っている」
マルクは肩をすくめた。悪人の悔しそうな顔ではない。買えない客を次の棚へ送る商人の顔だ。
「それと、君はもう心薬を使っている」
銅輪が籠副木の編み目を指す。響骨枝の表面に銀色の薄い膜があった。セラトの骨医が説明しなかった部分だ。
「千倍希釈の癒着防止剤だ。七枚の治療費に入っている。嫌なら洗い落とせるが、ひびの周りが固着しやすくなる」
薬を拒めばきれいな側へ立てる、という道まで塞がった。知らずに使った事実は採取へ同意したことにならないが、恩恵を受けていない顔もできない。
「洗わない。使った量と由来を骨医に聞く」
「よい客だ。苦情の前に帳簿を増やしてくれる」
ミラが診療所の壁へ目を向けていた。
競売予定が細い札で並び、その一番上に『古式三路操図・沈国系』がある。出品者との面会窓は奥の昇降函、受付終了まであと一刻。
ちょうど赤い封筒を持った競売係が、その札を外して奥へ歩き始めた。封の紐は三本で、ミラの操路紐と同じ間隔に結ばれている。偶然か、出品者側が結び方を指定したのかは追わなければ分からない。
「行きます」
ミラが言う。
止める理由はある。心薬庫の中身も、呼吸孔の異常も、俺たちの一日札も今日までだ。別行動をすれば、また監査か商会に囲まれるかもしれない。
だから、止める前に聞く。
「目的は出品者の確認。道は」
「正面受付、競売昇降函、旧庫の保守索。三つあります。正面から入り、保守索を退路にします」
「戻る場所と時刻」
「最終呼吸鐘の半刻前、修理函。戻れなければ地図板の共同律を一度、危険なら三度」
「分かった。俺とネネは第二呼吸孔を見る」
ミラはマルクへ面会規則を問い、必要な札だけを写す。助けを頼まれる前に追うのではなく、合流条件を決めて別れる。
昇降函へ入る直前、彼女は俺の首紐を指した。
「試料を売らないでください」
「相談なしには売らない」
「治療と交換も」
「それもだ」
言葉を二度取られた。俺の信用ではなく、破りやすい条件を先に塞いでいる。筋がいい。
*
心薬庫の白箱には、採取国と契約番号がついていた。
セラト由来は、脱落した腹毛と自然剥離膜だけ。響骨髄の棚には一つもない。
代わりに、産地欄へ国名のない札が並ぶ。
霧鯨幼体。角甲幼体。翼獣幼体。種別未確定幼体。
契約主体は、捕獲船、保護商会、漂着物管理区。採取法は生存穿刺。廃棄欄には深霧返却とあるが、返却後の生存記録は空白だった。
一回の採取量は体重に応じて爪一枚から掌一枚、次の採取まで一巡以上。規則だけを見れば、殺さないための上限がある。だが同じ個体をどう見分けるかの欄は番号だけで、呼吸、傷、歩調は記録されていない。別の幼体へ同じ番号札を付けても、帳簿では一頭の休止期間に見える。
「この番号、入れ替わる?」
ネネが聞く。
「捕獲籠が替われば付け直す」
マルクが答える。
「個体名ではなく在庫番号だ」
休ませるための規則に、休ませる相手を見分ける方法がない。守る気があっても、これでは穴から落ちる。
「幼体って、子供?」
ネネが聞く。
「国獣のな」
「親の契約は」
札にはない。
捕獲した人間が保護者になり、その署名で髄を採る。本人が署名できない問題を、捕まえた側を本人の代わりにして片づけている。
マルクは隠そうとしなかった。
「幼体の響髄は薄めても拒絶が少ない。成人の骨折、霧肺、熱病へ使える。毎巡、何千人が助かる」
「採られる側は何頭死ぬ」
「死亡率の札もある。見ればいい」
棚の端に数字はあった。採取中の死亡、返却前の死亡、行方不明。ゼロではない。だが患者数よりずっと小さい。
数字だけ比べれば、心薬を続ける答えになる。
「少ないから、選ばなくていいのか」
「何を」
「採られる側が」
マルクは銅輪を一つ回す。
「国獣へ同意を聞けるなら、市場はその技術を買う」
「聞けないことを、はいに数えるな」
「では薬を止めるか。さっきの脚も、君の腕も、冬に霧肺で死ぬ子供も含めて」
二択の幅が狭い。
「採らないか、今のまま採るかだけじゃない。自然剥離、採取量、休止、返却後の記録、別の素材。少なくとも、空欄を契約済みで埋めるな」
全部救う方法があるとは言えない。
それでも、選択肢を作る前から小さい側を費用へ入れるのは、修繕ではない。いや、その言葉を使うのはまだ早い。大事な三回へ残す。
「呼吸孔を見せて」
ネネがマルクへ言う。
「薬を冷やす風、第二孔から取ってるでしょ」
白箱の裏を走る柔管は、廊下の下へ集まっている。風税板で嗅いだ酸っぱい薬の匂いもここからだ。
マルクは拒まなかった。床の点検蓋を開け、流量板を見せる。
第二呼吸孔の風を八つに分け、その一つを薬庫の冷却嚢へ通している。今朝から弁を絞り、現在は十六分の一。正規の使用量だった。
「半分になった息の原因には足りない」
俺が言う。
「だから市場設備のせいではない」
「それもまだ早い。管が塞がれていないか見る」
右手は使わず、槌も振らない。ネネが細糸を入口と出口へ垂らし、俺は粉墨を管の継ぎへ塗る。ミラの透明板を一枚借りていたので、白粒の戻りも見る。
入口一、出口一。漏れなし。途中の管壁へ柔らかな擦れはあるが、心薬庫へ抜かれる風量は板の十六分の一と合う。
設備は息を使っている。
ただし、セラトから消えた半分をここだけで説明できない。
「採取場所は、こっちじゃない」
ネネが床へ頬を近づける。
「下から、小さい息が返ってる」
俺も奥歯を床へ近づけた。
セラトの長い呼吸の間に、短い吸気がいくつもある。高いもの、低いもの、途中で咳みたいに切れるもの。心律片の呼び合いと間隔が似ているが、床越しでは数も場所も確定できない。
点検蓋の流路図には、冷却管のさらに下へ『保護採取区』があった。
マルクが蓋を閉じる。
「そこから先は別契約だ」
「誰との」
「見る権利を買った者との」
答えになっていないが、入口は分かった。
最終呼吸鐘の一刻前を告げる風が、診療所の吊旗を揺らす。修理函へ戻って艇の作業契約も結ばなければ、俺たちの札は切れる。
その前に、小瓶が開けた理由だけは確認する。
マルクが出した受入台帳へ、心律片の特徴を照合する。黒い薄片、白霜、高二、低一、帝国三角印、角甲獣由来。
一致する欄が一つあった。
品名は『ラグナ右後脚・鎮動杭心律試料』。
鑑定額は、骨貨四千八百枚。
受入日は昨年の白降り月二十日。南交易索の定期便で届き、状態は『鑑定保留・禁制競売候補』。薬への加工欄は空白で、出品目的の欄には黒い封が貼られている。
売るためか、見せるためか、別の理由かは読めない。それでも心薬庫は、送った人間を出品者として値段をつけていた。
俺の全財産なら、四千八百人ぶんだ。値段の大きさより、右端の出品者欄で目が止まった。
三本線の最後だけが短い署名。
バシュ・ドーン。
親方の名前が、ラグナの心臓を薄めて売る台帳にあった。