国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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追手を客にする

追手を止める方法が、剣でも逃げ足でもなく入場料だったのは、自由市らしいと思う。

 

もっとも、その時の俺は笑っていなかった。

 

心薬庫を出た途端、市場中の帆が黄色へ変わった。火事なら赤、浸水なら白、値上がりなら青。黄色は武装船の接舷だと、ネネが教える。

 

高い見張り棚から、黄窓係の声が帆筒で降ってきた。

 

武装客一隻。所属と入路を申告せよ。積荷評価の二割を退路保証へ預け、武器は一本ごとに封印。市内で他国の令状は執行できない。拘束を求めるなら、セラトの市場監督へ人名、理由、期限、引き渡し後の生存保証を提出せよ。

 

ずいぶん細かい。だが、セラトの背中へ立った時点で、王国の命令はそのまま命令ではなくなるらしい。ジオたちは俺を捕まえに来た。それでも入口では、まず金を預け、槍を包み、お願いの書式へ直さなければならない。

 

助かった、と安心するには早い。市場監督が引き渡しを商品として認めれば、俺は正式な荷物になる。剣を抜かれないことと、売られないことは別勘定だ。

 

「どこの船」

「ヴァルド。角が二本の黒い旗」

 

見なくても分かった。

 

ジオは次に会えば逮捕すると言い、自分が追跡任務を受けた。二日かけてセラトへ来た俺たちを、警備艇なら一日半で追える。約束どおりの追手に裏切られた感じがしたのは、こっちの勘定が勝手なだけだ。

 

それでも、腹は立つ。

 

「修理函へ行く」

「捕まりに?」

ネネが聞く。

「俺たちの艇と台帳がある。滞在札も今日で切れる。逃げてる間に全部担保として売られたら、追手より市場へ負ける」

 

「ミラは」

 

地図板の共同律はまだ来ない。合流は最終呼吸鐘の半刻前。あと少しある。

 

「決めた時刻まで待つ。危険なら三回くる」

 

心配を追う理由へ変えない。言葉にすると、足が修理函へ向いた。

 

 

呼吸孔後ろの修理函では、若い索工が俺たちの艇から荷室蓋を外していた。

 

右支え肋はまだ仮帆柱へ重ねたまま。右船腹の粉墨線は指一本から増えていないが、鯨髭混合板が縦へ撓むたび、蓋の継ぎだけが横へ抵抗している。

 

「次の尾返しで割れる」

索工が言う。

「昨日聞いた」

「聞いた客と、直す契約をした客は別だ」

 

市場の理屈は三度目でも隙間がない。

 

「右肋を柱から戻す。帆柱は」

「鯨髭板を細く三枚重ね、縦の撓みへ合わせる。左船腹は荷室蓋を細帯三本に割って、横を止めず面で支える」

「作業はできるか」

「右は掴めない。左も明日まで槌禁止。粉墨、順番、止める幅は出せる」

 

知らないことも、できないことも先に言う。

 

索工は修理板へ四本の線を引いた。

 

艇一隻の再修理、同じヴァルド型二隻へ仮継ぎ失敗例を説明、尾返し三回の荷重記録。俺は目と口だけ。実作業はセラト側。対価は四日間の接舷、二人分の寝床棚と朝夕の苔餅、艇の封印庫継続。現金賃金なし。

 

「尾返し三回より先に直ったら」

「寝床は四日残す。説明が使えず、同じ割れが出たら修理代は取らない。ただし、お前が知らない動きは知らないと言え。知ったふりで板を切らせた時だけ、材料分を借りにする」

 

言い方は厳しいが、俺には都合がいい。ラグナの外板とセラトの鯨髭板は、似ているところからして危ない。強度を当てずっぽうで埋めるより、分からない欄を残した方が船は沈まない。

 

「食事は三人」

ネネが横から言う。

「お前は艇の乗員か」

「息読み」

「作業札は今日までだ」

 

俺が勝手に四日へ伸ばせば、短い契約を選んだ意味がなくなる。

 

「ネネの分は今日だけ。明日は本人と再契約する。契約の二人分へ、今日だけ三人目を一枚でつけられるか」

 

全財産を作業台へ置く。

 

索工は骨貨一枚を弾き、二人分の夕食へネネの一食を追加、寝床は含まないと刻んだ。

 

「寝床ならある」

ネネが言う。

「自分の露店」

 

露店に寝床があるのか、寝床を露店と呼んでいるのか。聞けば案内料を取られそうなので、あとへ回す。

 

契約板へ左手で署名する。ミラの署名欄は帰還後の確認まで仮。彼女の分まで処分権を渡さず、俺の技術説明と艇の修理だけを先に始める形にした。

 

これで最終鐘が鳴っても、艇と封印庫は四日持つ。俺とミラの滞在札も修理作業へ連結される。ネネは今日の鐘までなので、明日を今日の俺が決めない。

 

黄色い帆が三度鳴った。

 

武装船、接舷完了。

 

「露店へ」

ネネが俺の上着を引く。

 

「逃げる道、知りたい?」

「値段は」

「今日は雇われてるから、ただ」

 

少しだけ得をした。

 

 

ネネの露店は、第三呼吸孔へ移る途中の吊籠にあった。

 

売っているのは、片方だけの靴、切れた帆紐、乾いた果実の種、誰かが落とした契約札の留め金。商品というより、拾得区へ渡せば逆に持ち主を問われる物が並んでいる。

 

奥の帆布をめくると、人一人が横になれる棚と、風向きごとの抜け穴が四つ。ネネは黄色い靴を脱がず棚へ上がり、床板を一枚外した。

 

「そこ」

「俺が入る大きさか」

「腕を折る前なら無理だったかも」

 

怪我が初めて役に立った。

 

籠副木を胸へ寄せ、床下の細い荷棚へ身体を滑らせる。右手は使わず、左腰の打撲が縁へ当たらない角度をネネに指示する。ミラがいれば「隠れる前に負傷を増やすな」と言うところだ。

 

帆布が戻り、外の市場が細い隙間だけになる。

 

ヴァルドの警備兵が四人通った。

 

青い制服、短槍、救助索、王国印の書筒。槍の穂先には黄色い封布が巻かれている。セラトへ武器を持ち込む客は、抜けば保証金と退路を失う契約らしい。

 

最後にジオが来る。

 

左眉の傷、磨いた靴、外していない警備章。二日間の航路を急いだのか、外套の裾に白い霧粉が厚くついている。

 

その隣には、黄色い胸当てをした市場の書役がいた。ジオが足を止めるたび、書役も止まり、槍の封布と警備兵の人数を板へ刻む。追われる側からすれば頼もしい監視だが、味方ではない。俺の引き渡しで市場が儲かるなら、同じ手で値札をつけるだろう。

 

「ヴァルドの逮捕令は受理した。ただし、ここでは依頼書だ」

書役が周囲へ聞かせる声で言う。

「市場拘束を求めるなら理由を公開し、生存保証へ署名を。逃走防止の損害で呼吸路を塞いだ場合、退路保証は全額没収。市場側の死者が出れば、船と積荷を追加担保にする」

 

「承知している」

「承知は記録にならない」

 

ジオは差し出された板へ署名した。俺を追うための一筆が、同時にセラトを壊さないという首輪になる。剣を持つ人数なら向こうが上だが、この場所では書役一人の方が強い。

 

警備兵の一人がネネの露店札を見る。

 

「臨時作業者ネネ。雇用主はレン・カーヴ」

「本人の居所を聞け」

 

ジオの声は公務の高さだった。

 

ネネは果実の種を種類ごとに並べている。

 

「質問一つ、骨貨二枚」

「王立警備への情報提供だ」

「ここ、自由市」

 

兵の顎が動く。ジオは怒鳴らず、腰袋から二枚を出した。

 

ネネの今日の賃金を一息で越えた。

 

「レン・カーヴはどこだ」

「近いよ」

 

嘘ではない。

 

「近いとは」

「二つ目の質問」

 

ジオが三枚目を出しかけ、止めた。

 

吊籠の外にある風税旗を見る。第一孔からの風が弱く、旗の先が途中で落ちていた。次に足元、籠を吊る四本の索、遠くの第二呼吸孔。

 

人を探す時より、現場の見方が先に戻る。

 

「朝からか」

ネネへ聞く。

「第二孔は半分。第一は四分の三。第三も少ない」

「記録は」

 

ネネは自分の名が入った三孔の写しを出した。ジオは子供の数字だからと読み飛ばさず、時刻、昨日線、荷函の戻りを分けた印まで見る。

 

後ろの警備兵へ書筒を開かせた。

 

警備艇の接舷記録には、セラトの左側腹が予定より爪三枚低く、水面を押す胸鰭の角度が二度浅かったとある。到着した側から見た別の観測だ。

 

「ハル隊士。市場監督から、捜索は契約範囲内で続けろと」

兵が促す。

 

「捜索を二刻止める」

 

「命令は逮捕です」

「国獣の呼吸停止兆候がある。武装客が避難路で人を追えば、市場契約違反になる」

「対象が逃げます」

「俺が責任記録を書く」

 

警備章を外さず、また順番を変えた。

 

俺の居場所を知っているのかは分からない。ネネの雇用主欄を見れば、近くにいるとは読める。それでも床下へ目を向けず、呼吸記録を先に置いた。

 

「カーヴが聞いているなら出てこい」

 

知っていた。

 

「出なくてもいい。条件を言う。二刻、レン・カーヴとミラ・セトへの捜索を停止。こちらは警備艇の傾斜板と四人の避難誘導を出す。そちらは三呼吸孔の記録、心薬庫の流路、異常を聞いた位置を出せ。証拠品は安全作業中だけ押収しない」

 

ネネが床板を二度蹴る。

 

返事を決めるのは俺だという合図に見えた。観察根拠は、三度目を蹴らず待ったこと。

 

床板を左手で持ち上げる。

 

「二刻後に逮捕を再開する契約か」

「そうだ」

「俺が逃げても?」

「追う」

 

嘘をつかない。

 

顔を見た瞬間、腹が立った。

 

南外壁から逃がし、補給を投げ、次は自分が追うと言った。その全部をやっている。筋が通っている相手へ怒ると、逃がす場所がない。

 

「バシュは」

 

仕事より先に聞いた。

 

ジオの眉の傷が少し動く。

 

「生きてる。国家反逆、王命操路妨害、静釘第一基破壊ほう助。操路塔の隠し記録も自分で提出した」

「裁判は」

「まだだ。王城拘禁区。帝国の移送要求が来てる」

 

親方は心薬庫へ試料を送り、王国へ隠し記録を出した。告発のためにも、売るためにも見える。本人へ聞けない場所へ動かされようとしている。

 

「去年、バシュ名でセラトへ荷が届いてる。ラグナ右後脚の心律試料」

「王国記録にはない」

「知らなかった顔か」

「顔で証拠を決めるな」

 

昔、俺が嘘をつく時に同じことをされた返しだ。

 

「出荷台帳を調べろ」

「逮捕対象からの依頼は受けない」

「なら取引へ入れる」

 

ジオは一拍置いた。

 

「呼吸異常の共同記録を受け取った後、王国側の南交易索出荷簿を照会する。結果は消さず、俺の命令記録へ添付。ただし犯罪証拠なら押収対象だ」

「目的欄が封印されてる。売ったと決めるな」

「お前もだ」

 

そこは同じだった。

 

ネネの露店板を裏返し、契約を書く。

 

期限は二刻ではなく、セラトの次の三呼吸まで。呼吸が停止・著しく減少した場合は安全作業終了まで延長。警備側は逮捕・押収・位置通報を停止し、傾斜板四枚と四人を避難へ。こちらは三孔値、冷却流量一六分の一、床下の複数短息、心薬庫の流路を公開。どちらも記録の出所と時刻を消さない。

 

「著しく、では揉める」

俺はその二文字へ線を引いた。

「風税旗が前回値の四分の三を下回る、傾斜板が爪二枚動く、呼吸間隔が昨日線の一・五倍を越す。このどれか二つ。誰か一人の判断じゃなく、三人分の記録で決める」

 

「一つしか起きなければ」

「次の呼吸まで警戒継続。三つなら鐘を待たず避難」

 

ジオが数字を読み、警備側の逃げ道を探す。俺も同じことをした。相手を信用したからではない。信用しなくていい形にして、ようやく背中を向けられる。

 

証拠品の押収停止には、心薬の小瓶と俺たちの封印庫を明記した。代わりに俺は、それを作業中に開封、譲渡、破棄しない。ジオが付けた条件だ。逃げるため海へ捨てる道を塞がれたが、向こうも都合の悪い物だけ先に持ち去れない。

 

ミラが戻った場合、本人へ条件を説明するまで拘束しない。

 

ネネは雇用札の期限まで観測者として参加し、契約終了を自分で選べる。

 

ジオが署名する。

 

俺は左手で署名した。

 

追手を味方にしたわけではない。

 

逮捕より先にやる仕事を、互いに紙へ固定した。

 

その時、修理函の方向から骨伝板の共同律が一度だけ来た。

 

ミラの合図。

 

合流できない。危険の三度ではない。

 

一回という短い合図には、場所も理由も入らない。競売昇降索で止められたのか、赤封筒の相手を見つけたのか、それとも俺たちの間へ警備兵が立ったのか。問いは増えるが、確認へ走れば合流時刻を決めた意味が消える。

 

ミラは危険なら三回打てる。打てない状況まで考え始めれば、どんな約束も守れない。

 

「決めた時刻まで待つ」

 

自分へ言い聞かせるように作業板へ一線を引く。

 

 

警備兵四人が吊籠区の退路へ散る。

 

一人は傾斜板を第一孔、二人目は第二、三人目は第三、最後は最下段の吊索へ。ネネが風税線を読み、俺は心薬庫の冷却流とセラト本来の呼吸を分ける。ジオは全時刻を同じ板へ記録した。

 

まず動かすのは人だ。次に、落ちれば下の棚を壊す重い物。その次が水と薬。値札の高い荷は最後にした。市場では逆の順番を主張する店主もいたが、黄色い書役が「死者は担保額を越える」と叫ぶと、しぶしぶ索を放した。

 

ネネは吊籠の抜け穴四つへ色の違う帆紐を結ぶ。白は上段、青は尾側、赤は浸水で使えない道、黄は子供でも渡れる幅。俺は各路の揺れを見て、右手を使えない者、荷を背負った者、抱かれて運ばれる者を分けた。自分が右腕を胸へ吊っているせいで、狭い足場の嫌な場所がよく分かる。役に立ち方としては、あまり嬉しくない。

 

「契約札がない寝棚は?」

兵が聞く。

「人がいないか見てから寝具を切り離す。札がないから空だと決めるな」

 

ネネが露店裏の棚を叩き、二人の子供を追い出した。灰色の帆布へ隠れていたので、正面から見れば荷物にしか見えない。兵は名を求めず、白い帆紐へ一人ずつ通した。少なくとも今は、拾得物ではなく避難者として数えられる。

 

心薬庫へは冷却路を閉じるなと伝令を走らせた。流量が少なくても、完全に止めれば薬と患者のどちらが先に悪くなるか分からない。分からないから閉じない。代わりに下層への排水板を開き、逆流した時だけ切り替える人を置く。

 

次の呼吸まで十二息。

 

市場の店は異常に気づき、浮函を尾側へ送り始めている。動かせない倉庫と、契約札のない寝床だけが側腹に残る。警備兵は客の荷を捨てろとは命じず、持ち主名と保管索を記録してから通路を空けた。

 

八息。

 

ネネが吊旗を高く掲げる。

 

「吸う前の戻りがない」

 

セラトは息を吐いたあと、腹毛を緩め、側面の孔を一度狭めてから次を吸う。今日は旗が戻らず、孔の縁が開いた位置で止まっている。

 

五息。

 

俺の奥歯には、長い泳ぎ律がある。胸鰭、腹毛、尾。その下で、床下の小さな呼吸だけが急いでいた。

 

三息。

 

ジオの傾斜板で白粒が下へ寄る。

 

一息。

 

呼吸孔から風は来なかった。

 

待つ。

 

次の一息も、その次も。

 

セラトは息を吸わない。

 

浮力を失った側腹が沈み、ネネの露店を含む吊籠区が一段まとめて下がった。

 

床板の隙間へ、白い深霧が上がってきた。

 

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