国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
鯨が息を忘れると、その上の人間から先に息が足りなくなる。
白い深霧は床板の隙間を抜け、三息で足首まで来た。冷たい。見た目は薄い湯気でも、中へ沈めば肺の水分を奪い、立ったまま眠るように倒れる。
「白い紐へ上がれ! 荷物は持つな!」
ジオの声で警備兵が動く。一人は露店裏にいた子供二人へ濾過面をつけ、二人目は上段索を吊籠の支柱へ回す。三人目と四人目は、下がった露店列を左右から引いた。
上段へ続く白紐の途中で、荷商が木箱を三つ抱えたまま詰まっていた。後ろには足を痛めた老人と、片腕で乳児を抱く女がいる。
「箱を下ろせ」
警備兵が言う。
「中身は心薬だ。沈めば百人が」
「箱を吊る索と、人を上げる索を分ける。捨てるとは言ってない」
ジオが荷札を一枚剥がし、脇の空き輪へ結んだ。警備兵二人は箱を尾側の浮函へ回し、白紐から人だけを先に通す。人命優先と叫んで商品を深霧へ落とせば、助かった患者へ損失を回す。荷を守って人を塞げば、目の前で落とす。順番と道を分ければ、両方を今すぐ捨てずに済む。
黄色い書役は通過人数を数えたが、名前も契約札も聞かなかった。名簿を作るのは上がってから、いまは身体を一つずつ数える。吊街でマウラが扉から四十一人を足した時と同じだ。
ネネは自分の露店へ戻る。
「何を取りに行く」
「板とお金」
「他は」
「持ったら遅い」
三孔記録と黄色い靴の五枚だけを上着へ入れ、棚の留め索を自分で切る。片方の靴、乾いた種、誰かの契約札の留め金は帆布ごと尾側へ流れた。助けるつもりで俺が選ぶ前に、ネネは残す物と捨てる物を決めていた。
露店へ住んでいたのだから、あれは商品だけではない。寝床でもある。戻せると言うのは簡単だが、俺の賃金袋は空だし、修理する床もいま沈んでいる。
ネネの露店は尾側の索へぶつかり、帆布を膨らませて止まった。完全には沈んでいない。取りに戻れるかもしれず、次の揺れで深霧へ落ちるかもしれない。
「切った場所、覚えたか」
俺が聞く。
「右下二本。上は残した。息が戻れば尾から引ける」
捨てたのではなく、逃がして後で回収できる余地を残している。十三歳の露店主へ寝床の修理手順を教えるつもりでいた俺より、本人のほうが先まで見ていた。
「記録した」
黄色い胸当ての書役が言う。
「露店一函、商品は本人申告待ち。緊急切離しによる損失」
「値段はあと」
ネネが返す。
「今つけたら安くされる」
深霧の中でも商売を忘れない。少し安心した、とは言わない。黄色い靴が上段の板へ着くまで見る。
吊籠区全体がもう一度下がった。
今度は一段ではない。左側腹の帯が深霧へ引かれ、上段にいた俺たちまで膝をつく。右手を出さず、腰環の短索を左で柱へ掛ける。籠副木の中で指が開いたまま止まったが、血色は落ちていない。
遠くで青い帆が一枚上がった。
右側見張りからの合図だ。遅れて、弱い風がセラトの背を越えた。
「右側だけ吸った」
ネネが鼻先を上げる。
「浅い。左には来てない」
セラト全体が息を止めたわけではない。右側の呼吸孔だけで、身体を霧上へ残そうとしている。左の三孔は開いた形のまま風を出さず、側腹の市場と吊籠だけが沈んでいた。
市場の浮函番が、尾側から空の浮力嚢を十二送ってくる。普段は魚箱を浮かせる革袋で、人が乗る床を支える規格ではない。それでも三つを一組にし、吊籠の主索ではなく側腹の倉庫帯へ回せば、落下を止める間だけは作れる。
「左前へ二組、中央へ一組。残りは膨らませるな」
俺は言う。
「全部つけた方が上がるだろ」
浮函番が返す。
「右だけ吸った時に左を上げすぎれば、背市場が反対へ滑る。いま欲しいのは元の高さじゃなく、これ以上沈まない時間だ」
三組が張ると、深霧の上昇は脛で止まった。直ったわけではない。床が数十息だけ待ってくれる。その数十息を修理へ使えなければ、次は袋ごと沈む。
ジオが警備艇の書筒を開く。
「右胸鰭は予定角の半分。左は返しの途中で止まった。外から見える付着物はなし」
「孔の中を見る」
「入れるのか」
「俺は入らない。腕も使えない。開く作業と、見る人間を分ける」
一人で行くと言わないだけで、口の中が少し苦い。慣れるには、まだ回数が足りない。
*
第二呼吸孔の縁には、市場の緊急作業棚が畳まれていた。
青白い皮膚へ直接杭を打たず、既存の鯨髭輪へ板を渡す構造だ。索工三人が棚を開き、ジオの警備兵が上段索を張る。俺は修理函の若い索工へ、孔の内側を支える細帯を三本用意させた。
硬い継鉄は使わない。セラトが急に吸えば、開いた孔の縁を人間の支柱で裂く。鯨髭混合板を縦へ撓ませ、内側から押された時だけ一緒に倒れる幅へする。
「正常なら、どこが先に動く」
俺が聞く。
「外縁が爪二枚狭まり、奥の息膜が腹へ引く。そのあと全部開く」
索工が答える。
「いまは」
「外縁が開いたまま。息膜が引いてない」
孔を塞ぐ荷や腫れなら、外縁の形もどこかへ偏る。目で見える範囲にはない。
昨日の風税板も作業棚へ運ばせた。第一孔と第二孔では、吐く風の終わりに一度だけ旗が内側へ戻り、それから外縁が狭まる線が残っている。今日は吐くところまでは同じで、最後の戻りだけがない。入口から出口まで塞がった管ではなく、次の吸気へ切り替える工程が途中で消えている。
それでも、筋肉の故障か、痛みか、外からの命令かは分からない。動かない理由を一つに決めるには、まだ観測が足りない。
マルクが心薬庫の白衣を二人連れて来た。硬い靴にも深霧の白粉がつき、指の銅輪は一本だけ外してある。
「薬庫の患者を背市場へ移した。冷却路は指示どおり開いたままだ」
「保護採取区への入口を開けろ」
「呼吸孔の修繕に必要な理由を」
「床下の小さい息だけが、セラトの吸気停止後も速くなった。冷却管の下でつながってる」
「推測だ」
「だから先に孔を見る」
マルクは反対しなかった。反対する理由を、記録へ書ける形で求めている。商人らしいが、作業には使える。
索工が三本の細帯を第二孔へ入れる。一つは上縁、一つは下縁、最後は息膜の手前。どれも四分の一目盛りより先へ出さない。ネネは吊旗、ジオは傾斜板、俺は棚を通る低い返りを受け持つ。
「押す」
上と下を同時に爪一枚ぶん開く。
風は来ない。
息膜の前へ白い薬煙を一筋だけ流す。毒を見る煙ではなく、心薬庫の冷却路でも使う濾過苔の蒸気だ。詰まりがあれば途中で溜まり、道があれば腹側の排気窓へ抜ける。
白煙は奥へ入り、別の細窓からそのまま出た。
「道は通ってる」
索工が言う。
「押し込めば空気も入る」
「押し込むな」
人間の送風嚢で膨らませれば、一息だけは作れる。その一息で内側の傷を広げても、外からは成功に見える。
次の右側吸気を待つ。
水紋が尾へ曲がり、背市場の帆上端が立つ。右側から浅い風が渡った。同じ時刻、左の息膜も腹へ動きかけた。
爪半分。
そこで止まり、逆へ戻る。
詰まって動けないのではない。一度は動き、自分で引く力を消している。
俺の奥歯へ、低い律が来た。
吸う。
その直前、床下から短い息がいくつも重なる。途中で切れた一つへ別の一つが返り、冷却管の留めが内側へ引かれた。
セラトの息膜が閉じる。
痛いから止めた。
そう訳すのは簡単だ。簡単な答えほど、俺の耳だけで作ると危ない。
「ネネ。風は」
「奥へ入る道はある。吐いた時の薬臭い風もさっき出た。詰まってるなら、出る方も弱くなる」
「ジオ」
「右の吸気開始と同時に、左胸鰭も爪一枚下がった。動き始めてから戻している。外側の傾斜は戻らない」
ネネの風は、道が塞がっていないと言う。
ジオの板は、左側も吸おうとして中断したと言う。
俺の耳は、中断の直前に床下の短息と管の引きを拾った。
三つが揃った。
「セラトは息を忘れたんじゃない。左で吸えば痛む何かがある。だから片側を止めてる」
「国獣が自分で?」
書役が聞く。
「理由までは分からない。いま言えるのは、息膜を動かせない故障ではなく、動かしたあとやめてることだけだ」
意思と反射の違いまで、俺には聞けない。それでも、動かない物を力で開ける修理から、動かしたくない原因を外す作業へ変えられる。
「細帯を戻せ。孔は開いた形のまま支えるだけ。吸わせるな」
マルクの銅輪が一度鳴った。
「保護採取区を開ける。市場安全契約の立会いをつける」
*
入口は心薬庫の床ではなく、第二孔の作業棚の下にあった。
白い帆布へ紛れた蓋を外すと、腹内へ十二段の梯子が下りている。俺は行かない。右手で掴めず、左手も槌を止められている。代わりに警備兵二人へ透明板、吊旗、粉墨を渡し、見えた順に骨伝板で言わせる。
最初の報告は床。
青白い息膜の裏へ、黒い帯が何本も渡されている。
次に、帯から下がる白い函。人一人より大きく、中から短い呼吸が返る。
最後に、黒帯と息膜をつなぐ三角の留め具。左側が吸おうとするたび留めが張り、息膜へ爪を立てるように沈む。
「採取函の浮力索だ」
マルクが言う。
「幼体の函を深霧へ落とさず、セラトの呼吸で上下させる」
「呼吸を重りに使ってるのか」
「逆だ。函の空気で側腹の浮力を補う。市場が増える季節には必要になる」
人間の都合だけではない説明を出してくる。函を全部外せば、左側腹の浮力はさらに落ちる。だが、いまの留め方では吸うたび息膜へ痛みが集まり、セラト自身が呼吸を止める。
「以前はどこで支えた」
俺が聞く。
「側腹の倉庫帯と、腹毛の外輪。呼吸膜へは直接取らなかった」
マルクが答える。
「なぜ変えた」
「三日前、競売保管函を二列増やし、外輪の容量を使った。保護商会は、息膜なら呼吸のたび荷が抜けると計算した」
計算どおり、荷は抜ける。そのたび生きた膜へ留めが食い込むことを、許容欄へ入れなかっただけだ。
「市場を増やした重さを、セラトの痛みで消したことにした」
「承認した時、古傷の位置は報告になかった」
「知らなかったのは最初の一息までだ。朝から半分になっても三日前の帯を外してない」
マルクは言い返さず、書役へ承認時刻と呼吸低下の受領時刻を刻ませた。いま原因を直すことと、あとで誰が知っていたかを消さないことは別の仕事だ。
マルクは他人の名だけへ逃がさない。だから責任が軽くなるわけではない。
下の警備兵が報告する。
「函の数は重なって見えません。息は複数。咳のような切れあり。黒帯の左三本だけ、留めが息膜の古傷へ寄っています」
幼獣の呼び声が、セラトの腹内にある。
心律片の薄い律と似ている。だが、同じ個体とも、心薬を採られた幼体とも、まだ決められない。まず、セラトを沈めずに痛点から荷を外す。
「函は切らない。上段索へ別に吊る。黒帯の左三本を一つずつ緩め、息膜から荷を外す」
俺は言う。
「代わりの浮力は、尾側の空函を三つ下ろす。中身を空にして同じ高さへ。人間の市場荷は背へ上げる」
書役がすぐ市場板へ刻む。
「空函三、背市場への荷上げ、保護函の独立吊り。費用は」
「あとで揉めろ」
ジオが言った。
「いまは安全作業中だ」
公務の声で市場へ借金を作る。支払う相手が俺でないことを祈る。
空函が尾側から来るまで、ネネが三孔の風を読み続ける。第一孔は前回より一目盛り低く、第三は変わらず、第二は吸気なし。右側の浅い息だけでは左の沈下へ追いつかない。
「ミラの律は」
ジオが小声で聞く。
「一回だけ。合流できない。三回なら危険」
「見に行かせるか」
行けと言えば、ジオは一人を出すかもしれない。警備側の捜索は安全作業が終わるまで止まっている。抜け道として使えば契約違反だし、いま一人減らせば下の函を吊る人間が足りない。
「まだだ。三回が来たら行く」
声が硬くなった。マルクへ腹を立てているのか、息膜の留めへか、それとも戻らないミラへか、自分でも混ざりかけている。
混ざったまま命令すると、別の場所へ荷を落とす。
「左一本目、八分の一」
作業へ戻る。
下の警備兵が留めを緩め、上段の索工が保護函の重さを受ける。粉墨線は動かない。二本目で空函を一つ下ろし、側腹の傾きを爪半分戻す。三本目は黒帯が古傷へ食い込んでいたため、先に上の支点を尾側へずらした。
保護函の中から、短い呼吸が順番を変えて返る。一つが高く吸うと、隣が遅れて二つ。さらに奥で途中まで吸って咳のように切れ、別の函が同じ高さを返した。
数えようとしてやめる。函が重なり、同じ個体の吸気が別の板へ伝わっているかもしれない。十二か、八か、もっといるか。分からない数を、見栄えのいい整数へ丸めれば、在庫番号と同じになる。
「特徴を別に書け」
ネネが書役へ言う。
「高いの、二つ返すの、途中で切れるの。数はまだ空欄」
俺の耳から出た分類ではない。ネネが吊旗の跳ねと匂いの間で分けた呼吸だ。書役は言われたとおり、数の欄を埋めず三つの印を残した。
俺は手を出さない。
見えない場所の作業を、報告、板、風で止める。それでも進む。右腕のひびが教えた代金は高かったが、払ったぶんくらいは使う。
三本目が息膜から離れる。
ネネが吊旗を上げた。
右の水紋。背帆。白粒。
二つが揃う。
左の息膜が腹へ引かれた。
爪半分で一度止まる。古い痛みを確かめるような間のあと、さらに一枚。
第二呼吸孔から風が来た。
正常の四分の一にも届かない。それでも吐き出す風ではなく、外の空気を腹へ入れる向きだ。側腹の吊籠が深霧から少し上がり、傾斜板の白粒が中央へ爪一枚戻る。
市場のあちこちで声が上がった。
「まだ終わってない!」
ネネが先に怒鳴る。
「第一と第三も弱い。次の息を見る!」
歓声が作業音へ戻った。
次の呼吸でも、第二孔は四分の一。悪化はせず、深霧は床下まで下がる。完全な修理ではない。セラトが痛点を避けても吸える仮の道を一本作っただけだ。
それで今は持つ。
遅れていた最終呼吸鐘が、ようやく一度鳴った。
ネネの臨時作業札から律が消える。
黄色い書役が拾得鉤を持つ青服へ先回りし、ネネの手首へ細い白紐を結んだ。
「緊急観測の証人札。安全宣言まで。雇用でも所有でもない」
「そのあとは」
ネネが聞く。
「あとの契約は、あとで決めろ」
一日だけの仕事は終わった。それでも、名前のついた三孔記録は板に残る。
その時、俺の作業板が三度鳴った。
一度。
二度。
三度。
ミラの危険合図だ。
「ジオ」
呼ぶより先に、黄色い胸当ての書役が赤封の板を持って走ってきた。
「禁制競売場から、契約争議の通知。ミラ・セトは場内留置。市場拘束ではなく、出品者保証だ」
「本人は何を出した」
板を奪わず、読める位置まで近づく。
共同出品者、ミラ・セト。
出品物、古式三路操図原板一枚。付属する解説実演一回。古式操路声の記録権。
異議保証金が払われるまで、出品者本人を競売場へ留め置く。
署名欄にミラの名はなかった。
代わりに、三本の赤い紐と九つの結び目を押した印がある。
図を追って入ったミラが、地図と一緒に出品者へされていた。