国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
人を助けに走る前に、鯨の三度目の息を待たなければならなかった。
作業板ではミラの危険律が三つ、赤い傷みたいに並んでいる。競売場の留置通知もある。すぐ行く理由なら足りすぎていた。
それでも俺が抜ければ、第二呼吸孔の停止条件を聞いた人間がいなくなる。痛点から外した黒帯は三本とも仮吊りで、空函の浮力も尾返し一度ぶんしか測っていない。助ける場所を増やして、今いる場所を落としたら手間では済まない。
「次の水紋」
ネネが吊旗を上げる。
右側の浅い吸気が始まり、遅れて左の息膜が腹へ引かれた。爪半分。一枚。第二孔から外気が入る。
透明測定板の白粒は中央へ戻り、爪一枚手前で止まった。
「前と同じ。四分の一」
腹内から上がってきた警備兵が板を差し出す。白粒の漏れ、ひびなし。貸した時と同じだ。受け取るのは左手だけにし、右の籠副木へ当てない。
「黒帯三本、息膜から離脱。保護函は上段の独立索へ移行。空函三、背市場の荷上げも固定済み」
「函の数は」
「重なって見えません。札も外向きじゃない」
分からない欄は、まだ空白でいい。
黄色い書役が傾斜板、三孔記録、吊籠の高さを順に照合した。第一孔と第三孔は弱いままでも、二度目から悪化なし。第二孔は三呼吸連続で四分の一。深霧は床下に下がり、浮力嚢の追加も使っていない。
「左側腹、緊急沈下解除。呼吸警戒は継続」
安全宣言の鐘が二度鳴る。
直ったという鐘ではない。今すぐ人が落ちる状態を外れ、常設の修繕班へ渡せるという鐘だ。
若い索工へ、黒帯を戻さない、保護函と息膜を同じ支点へ取らない、三孔のどれかが前回の四分の三を下回れば市場荷を先に上げる、と停止条件を読み上げる。索工も同じ言葉を返し、作業板へ自分の印を入れた。マルクは心薬庫の冷却路と患者移送、書役は保護函の荷重記録を受け持つ。
これで、俺がいなくても次の息を見られる。
ネネの白い証人紐は安全宣言で効力を失った。黄色い書役は切らず、事故記録へ封じてから本人へ返す。
「ただの紐になった」
「売るなよ」
「事故の証拠なら高くなるまで持つ」
五枚を持っている奴は強い。
ジオが安全契約の板を裏返した。
「逮捕、押収、位置通報の停止は終了だ」
「律儀にどうも」
「ただし、ミラ・セトの危険律と留置は安全宣言前に発生している。本人への条件説明前拘束禁止に抵触する疑いがある。先に市場争議として確認する」
「俺はそのあと捕まる?」
「追うと言った」
変わらない。安心するところではないのに、少しだけ足場が固くなった。
俺たちは競売場へ向かった。
一時契約が終わった今、市場書役へ出せばジオはすぐ俺の拘束依頼を再開できる。逃げるなら今だと頭の一部が計算したが、ミラを留めた争議の立会人まで消える。逃げ道は使えることと、使うことが同じではない。
「俺を競売場まで連行中、と書けば?」
「嘘になる。市場内の同行は認めたが、まだ拘束許可がない」
「追手のくせに不便だな」
「令状がどこでも同じ強さなら、セラトは自由市を名乗れない」
ジオは自分の都合が悪い時も規則の幅を変えない。そういう相手だから、背後へ置ける。
側腹の通路は呼吸事故の片づけで詰まっていた。切り離した店を尾側から引く索、心薬箱を戻す函、寝床を失った者へ白札を配る書役。ネネは自分の露店を回収しに行かなかった。
「先にミラ?」
「あたしの店は、上の留めが残ってる。ミラの留めは、どこにつながってるか分からない」
安全なほうを自分で後へ回した。俺が褒める札でも、止める札でもない。
*
禁制競売は、背市場の下に浮函を七つつないで作られていた。
外から音を拾われないよう、壁の間へ濡れた鯨髭を詰めてある。床も二重で、客の足音は隣へ伝わらない。国獣の律を売る場所が国獣から音を隠している。用途としては正しい。筋は悪い。
入口には骨貨三百枚の異議保証金と書いてあった。
俺の所持金はゼロ。立派な争議も、入口だけなら一番安い俺より三百倍高い。
「払えない客は帰れ」
赤い上着の競売係が窓を閉めようとする。
ジオが安全契約板を差し込んだ。
「保証金を求める前に、この留置が市場側の契約違反か判定しろ。違反なら異議を出す側でなく、留めた側の退路保証から取る条項だ」
「安全作業は終わった」
「違反時刻は終わる前だ。時刻は市場書役の板にある」
記録は遅い。だが、終わったあとで時刻を戻せる。
係が別の板を出した。共同出品者の本人確認は、署名、声紋、所持品印のどれか一つでよい。ミラの欄には署名がなく、赤い紐三本と九つの結びを押した印だけがある。
「所持品は本人じゃない」
俺は言う。
「市場札では、継続使用している固有具も本人確認になる」
「なら実物と合わせろ。印だけで通すな」
係は渋った。ネネが横から、板の一番下を指す。
「品物の特徴に違いが出たら、売る側が見せるって書いてあるよ」
「読めるのか」
「高い物の札は、盗む前に読む」
役に立つ経歴だが、褒めると違う方向へ育ちそうなので黙っておく。
競売係は内側へ伝令を走らせた。しばらくして、赤封の板が戻る。
入場は争議者一名、契約立会人一名、事故証人一名。俺、ジオ、ネネでちょうど埋まった。ミラを追った三人ではない。ネネは追っていないが、呼吸事故と競売荷の関係を見た証人として入る。
「武器は」
係がジオへ手を出す。
「接舷時に封印済みだ」
「そっちの槌は」
「骨医に止められてる」
安全な理由としては情けない。
競売室には、二十人ほどの客が半円に座っていた。顔へ薄布をかけた商人、帝国式の白手袋、国名を削った商会札。中央の三角台に、古い地図板が一枚ある。
リュータの白い鰭と三本の進路。旧坑へ入る前にミラが見せた図より古く、端の半分が黒く焼けていた。
その横に、ミラが立っている。
手枷はない。足元の黄色い輪から出れば、共同出品者の保証放棄として市場警備が止める。物理拘束ではなく、契約で床を檻にしていた。
折畳み地図板と赤い操路紐は、別の透明函に入っている。紐の三つ目だけ、結びが逆だ。通知へ押された印では、九つ全部が同じ向きだった。
「違う」
俺が言うと、ミラもこちらを見た。怪我はない。両手が見え、呼吸は一定。そこまで数えてから、ようやく目が合った。
マルクが競売台の後ろにいた。白衣は脱いで青緑の上着だけ、銅輪は全て指へ戻っている。
「売られているのは人ではない」
俺が聞く前に言った。
出品物は三つ。
古式三路操図の原板。
王家操路声による解説実演一回。
その声を記録し、複製して使う権利。
ミラ本人の所有権も、その後の労働契約も含まない。実演後は留置を解く。マルクはそう説明した。
競売の見積額は、骨貨二万枚からだった。王家操路声を船へ載せられれば、国獣が急に進路を変えた時の航路損失を減らせる。買い手が帝国でも商会でも、沈む船が減る可能性はある。口銭の一部は、さっき使った浮力嚢と心薬救命枠へ入るらしい。
役に立つ値段だった。
だから、本人へ聞かずに売ってよい理由にはならない。
人間を売っていないなら、ましなのか。
声だけなら切り離して持っていっていいのか。
問いを重ねる前に、売り台の器具を見る。
銀の薄膜を張った声写し器から、三本の細管が透明函の赤紐へ伸びている。反対側の出口は一本。三経路を入れ、王家の声で一つへ束ね、その一音を記録する設計らしい。
古式操路は逆だ。
一つの命令へ束ねるのではなく、三つの道を残して国獣の返りを待つ。返事のない声だけを持ち帰れば、道具ではなく半分に折った工程だ。
「いくらで買えばミラを――」
言いかけて止めた。
買うのは声の権利で、ミラではない。それでも俺は、金を払ってここから取り返す物として考えた。
戻るかどうかを決めるのは、黄色い輪の中にいる本人だ。
「ミラ。出る道を三つ言う」
客席がざわつく。マルクは止めなかった。
「一つ。本人確認の違いと事前拘束で競売を止め、正面から出る。二つ。ネネが見つけた保守索を使い、争議は俺とジオへ残す。三つ。実演台まで行って、あんたが出品説明の間違いを証明する。どれも危険はある。競売を続ける道も、あんたが選ぶなら消さない」
ミラは俺でなく、三角台の声写し器を見た。
「三つ目です」
「理由は」
「あれを残せば、別の操路士で繰り返します」
守られて逃げるより戦う人だから、とは決めない。壊したい対象と次の被害を本人が言った。それで十分だ。
「条件は」
「私の紐と地図板を返すこと。実演は一回。国獣の返律がない場所では、記録が成立しないと先に明記すること」
「ここへ入った時、何を説明された」
ジオが聞く。
「原板の照合です。赤紐は危険具の検査として預けました。共同出品、声の実演、記録権は、異議札を出した後に聞きました」
「九結びの印は」
「私の紐から取っていません。検査函へ入れた時には、三つ目は逆向きのままでした」
現在の道具ではなく、昔の王家印を本人確認へ使った。その昔の印を持っている人間が、原板の出品者側にいる。
原板の出所まで今ここで追えば、ミラの留置争議が薄まる。順番を分け、作業板へ新しい問いだけ書いた。
マルクは銅輪を鳴らした。
「後半は商品価値を失わせる条件だ」
「最初からない価値です」
ミラの発音が、急にきれいになった。
怒っているように聞こえる。根拠は、九つの結びを数えるはずの左手が何も持たず、指だけ同じ順で閉じたことだ。
*
争議の読み上げは、競売を始めるより長かった。
第一。共同出品者印は、現在の赤紐と違う。通知の九結びは全て同方向、実物の三つ目だけ逆。古い王家印を本人の所持品印として流用した可能性があり、本人確認にならない。
第二。ミラは原板確認の客として入場し、声の実演、記録権の出品、共同責任を説明されていない。異議を出した後に保証金を求め、払えないことを理由に留置した。
市場側の言い分では、原板の来歴を認められる唯一の人間が現れたため、価値を増やした共同出品者にした。逃げられれば落札後の保証が消えるので、保証金を置くまで場内へ残した。悪意がなくても、客を売り手へ書き換え、本人にその代金を払わせた順番は変わらない。
第三。留置時刻は、ジオと俺の安全契約が続いていた時間だ。ミラへ条件を説明する前に拘束しないという条項へ、市場書役も立ち会っている。
最後に、商品説明。
赤札には『王家命令声、一度の記録で国獣へ再現可能』とあった。
「命令じゃない」
俺は声写し器の一本出口を指す。
「三つ出して、返りを待つ。こいつは三つを一本に潰す。返事を記録する入口もない」
白手袋の客が笑った。
「下層工の推測だ。王家の声があれば獣は従う」
「なら、あんたがこの床を歩かせてみろ」
客は黙った。床はセラトから音を隠す二重床だ。操路の相手がいない。
マルクは、原板の出品は止めない、声の権利と共同出品者だけを争議対象にすると決めた。全部を一つの悪い契約へまとめず、切り分けるところは商人らしい。
ミラの赤紐と折畳み板が透明函から出される。
客席の一人が立った。
「その結びは、リュータ直系しか使えない」
別の一人が薄布を上げる。
「沈国の王女は死んだはずだ」
部屋の視線が一斉にミラへ集まった。
ミラは王女ではないと否定しなかった。名乗りもしない。赤紐の三つ目を逆向きのまま確かめ、地図板を開く。
一部の商人には、もう十分だった。
マルクが実演一回の開始を告げる。
「待て」
俺は声写し器の薄膜を見る。
「一本へ束ねれば割れる」
「承知しています」
ミラが答えた。
俺へではなく、記録を残そうとする全員へ聞かせる高さだった。
三本の赤紐が床、台、声写し器へ結ばれる。国獣へつながらない三経路だ。どれを出しても返りはない。
ミラは低い音を一つ置いた。
床の紐。
次に半音上げ、台の紐。
最後は最初より低く、声写し器。
銀の薄膜が三方向へ引かれる。
器具は一つへまとめようとした。細管の弁が閉じ、三つの高さが中央へ重なる。
ミラは返事を待った。
何も返らない。
だから同じ三つを、もう一度置いた。
薄膜に白い線が走る。
三度目を歌う前に、中央が裂けた。
乾いた音がして、銀膜が内側へ丸まる。三本の細管から白い粉が吹き、記録板の針が全部別の方向で止まった。
ミラは器具へ触れていない。
一経路しか残せない機械へ、削ってはいけない三経路を入れた。壊したのは本人だが、壊れ方は商品説明の欠陥そのものだった。
「これが古式操路です」
ミラの声から、丁寧さだけが落ちた。
「返事のない命令声は、売れません」
しばらく、客席から値段が上がらなかった。
白手袋の客が壊れた薄膜を見て、実演失敗の損害は誰が払うと聞く。ネネが先に、赤札の『一度で再現可能』を爪で叩いた。
「一度で壊れたなら、説明どおりじゃないのは売ったほう」
競売係が反論しようとしたが、マルクが止めた。
「器具損害は出品保証から出す。実演者へ債務はつけない」
利益を守ろうとしたのと同じ口で、失敗時の負担先も言う。そこを美談にはしない。最初から説明していれば、壊す前に済んだ仕事だ。
黄色い輪の律が消える。
共同出品者の登録は無効。声の実演と記録権は出品停止。本人確認の誤りと事前説明欠落は市場側の保証違反として、異議保証金をミラへ求めない。
原板だけは所有争議を残し、封印庫へ戻された。ミラの折畳み地図板と赤紐は本人へ返る。俺も作業板に挟んでいた透明測定板を抜き、地図板の空いた溝へ戻した。
ジオはミラへ一時安全契約の全文を読み、条件説明前の拘束を禁じた部分へ指を置いた。
「俺の追跡任務と市場への拘束依頼は残る。だが、この競売留置を王国拘束へ付け替えることはしない。異議はあるか」
「ありません。条件を聞きました」
ミラが自分で答える。これでジオは追手へ戻り、ミラは追われる側へ戻った。助かった後に関係まで都合よく直るわけではない。
「怪我は」
俺が聞く。
「ありません。声写し器も、壊れる条件を確認してから選びました」
「三つ目を選ぶと思った」
「では、なぜ三つ出したんですか」
そのとおりなので、籠副木の指を開いて閉じた。血色確認ということにしておく。
マルクは謝らなかった。
「誤った契約は取消す。市場の損失と、呼吸事故の責任記録も残す」
「それで幼体は」
俺が聞く。
「別の契約だ」
また、その言葉だった。
ネネが競売台の下から赤い荷札を拾った。声写し器が割れた時、保管函の書類束から滑ったものだ。
『保護採取区・呼吸調整荷』。
個体数、十二。
競売保管の増設中は独立索で側腹浮力を補い、最終採取後、次の尾返しで深霧返却。返却船、観測員、親群への合図は、すべて空欄だった。
「返すんじゃない」
ネネが札を裏返す。
「函ごと落とすって意味だよ」
腹内で聞いた呼吸に、初めて数がついた。
十二。
高く吸う一頭も、二つ返す一頭も、途中で切れる一頭も、その中にいる。
俺はマルクを見る。
「いつだ」
「次の尾返し。保管容量と呼吸安定のためだ」
あと三刻もない。
右腕は使えない。左手も槌を止められている。市場の浮力は十二の函へ一部預けたまま。いきなり全部外せば、さっき上げた側腹がまた沈む。
条件は分かった。
それでも、口が先に動いた。
「十二の函を、今すぐ全部開ける」