国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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自由の値札

「十二の函を、今すぐ全部開ける」

 

「開けません」

 

ミラの返事と、ジオが俺の前へ出たのは同時だった。ネネは赤い荷札を背へ隠す。三人とも止め方は違うが、賛成が一人もいない点だけはよく揃っている。

 

「三刻もしないうちに落とされるんだぞ」

「だから今、あなたが開けていい理由にはなりません」

 

ミラの声は丁寧だった。怒っている時の高さだ。

 

「開ければ函の空気が抜ける。左側腹の浮力が落ちる」

ジオは競売場の出口と俺の足をまとめて塞いでいる。「また吊籠区から深霧へ入る。現場安全上、実行するなら止める」

 

「追手に戻った途端、仕事が早いな」

「お前が遅い。頭のほうだけだが」

 

右腕の籠副木を見て言われた。殴る手がないのは、たぶん市場の安全に貢献している。

 

「あたしの店も下にある」

 

ネネが言った。

 

尾側の索に上留めだけ残した露店だ。その下には、札のない寝棚もある。函を開けて側腹を沈めれば、最初に深霧へ入る場所を俺は知っている。

 

知っていて、数えなかった。

 

「でも、落とされる前に出さないと」

「助けないとは言っていません」

 

ミラは返された赤紐を左手首へ巻き直す。三つ目の逆向きの結びが、九つの中へ戻った。

 

「救う順番を一人で決めないでください」

 

腹が立った。

 

幼体を函へ入れ、髄を採り、最後は深霧へ落とす。そんな契約を止めようとしている俺が、なぜ怒られる側になる。

 

答えは足元にあった。

 

俺が今すぐ開けると決めた時、ネネの寝床も、市場の患者も、セラトの呼吸も、ミラたちの仕事も、全部もう支払っていい代価へ入れていた。

 

正しい目的なら、代金を払う人間まで俺が決めていいと思った。

 

「……開ける前に、何が足りない」

 

ミラの発音が元へ戻る。

 

「函を外しても側腹を保つ浮力。幼体を深霧へ落とさない支え。開けた後にどこへ返すかを決める観測です」

 

「三刻で揃える」

「一人で?」

 

「会議を開く」

 

言うと、マルクの銅輪が三本まとめて鳴った。

 

「市場会議は最短でも半日だ」

「立派な議事録はいらない。沈む場所に住んでる奴、薬を使う奴、函を吊った奴を作業棚へ呼べ」

 

「全員を呼ぶ間に尾返しが来る」

「呼ばずに払わせたから、今こうなってる」

 

マルクは競売台の壊れた銀膜を一度見た。共同出品の誤りは取り消した。呼吸事故の承認時刻も残した。それでも、幼体の採取契約は別だと言った。

 

「会議の間も、返却契約の時刻は止めない」

「止めろ」

「止めれば、心薬の南便と帝国の航路保証が止まる」

 

簡単に悪人へできない答えを、こいつはいつも先に出す。

 

ジオが板の時刻欄を指で押さえた。

 

「会議を開くことは逃走ではない。だが、俺の市場拘束依頼は有効だ。作業から離れれば、その時点で拘束を求める」

「こんな時まで書くのか」

「こんな時に消した責任は、あとで誰のものにもならない」

 

ミラの拘束を市場留置から王国拘束へ付け替えなかったのと同じだ。手伝うから追手でなくなるわけでも、追うから目の前の作業を壊していいわけでもない。

 

「分かった。俺とミラは作業棚から離れない。ネネは本人が決める」

「あたしも決める前に値段を聞く」

 

ネネは五枚の入った黄色い靴を踏み鳴らした。市場へ拾われないための札は、もう失効している。それでも作業へ入るなら、子供だからでも俺の連れだからでもなく、自分の条件が要る。

 

「三孔と無札寝棚の確認。賃金は事故保証から二枚。露店の損失査定とは別」

マルクが言う。

「三枚。あと、安い時に店の値段を決めない」

「二枚と、回収索を市場持ちで一本」

「それならいい」

 

仕事が一つ、本人の名へ戻った。

 

「だから両方、板へ書け。何を守るかだけじゃなく、何を払うかも」

 

 

十二の函は、第二呼吸孔の下から上段索へ移されていた。

 

白い箱が三つずつ四列。人一人より大きく、外側には在庫番号と採取量だけが刻まれている。呼吸、傷、捕まえた場所の欄はない。

 

それでも中から来る息は違った。

 

高く一つ。短く二つ。途中で切れ、隣から同じ高さを返されるもの。

 

腹内でネネが分けた三つの特徴が、別々の函から届く。十二函と十二頭が一対一だという証明にはならない。二頭が同じ函へいるかもしれず、空函が混じるかもしれない。

 

「一つずつ札と息を合わせる」

俺が言うと、ネネが三列目の下へ入った。

 

「一番から息が三つ。二番は一つ、長い。三番は今ない」

「死んでる?」

近くの索工が聞く。

「休んでるか、隣の板へ伝わってるかも。ないって書いて。死んだって書かないで」

 

黄色い書役が板へ空白の丸を刻む。

 

函の下には張力板が一枚ずつ入った。開けずに、空気と中身がどれだけ側腹を支えているか測る。上段索工が一本を爪半分緩めると、第二孔側の傾斜板が動いた。

 

十二函を合わせて、緊急浮力嚢四組分。

 

字にすると軽い。実際には、その四組がなくなれば深霧は床上へ戻る。

 

「使ってない嚢は一組だけ」

若い索工が言う。

「三袋。残り九袋は前と中央を支えてる。そっちを外せば同じだ」

 

足りないのは三組。

 

空気だけなら、背市場から袋を買ってくればいい。だが膨らませる風と、留める索と、膨らむまで待つ時間が要る。市場事故の後で、余っている浮力嚢は値段が三倍になっていた。

 

俺の骨貨はゼロだ。

 

「売り手保証は呼吸事故へ使える」

ジオが書役へ言う。

「競売の声写し器分だけでは?」

「呼吸事故の承認時刻と競売保管函増設は同日だ。別の損害なら、別だと記録して判定させろ」

 

追手が俺たちのために金を取る、という形ではない。市場自身の契約から、事故の費用を逃がさない仕事だ。

 

ミラは折畳み板へ側腹の断面を描く。十二函、使用中の浮力嚢三組、空の一組、背市場へ上げた荷、尾側へ逃がしたネネの露店。

 

「浮力を足すだけでは、開けた幼体を運べません」

「返す場所が要る」

「深霧へ入れることと、函ごと落とすことは違います。親群がどこか、幼体が泳げる状態かも分からない」

 

「次の尾返しで、セラトが通る場所は?」

 

ミラが透明板を重ねる前に、ネネが首を振った。

 

「今の帝国路なら深いとこ。朝は親みたいな息、なかった」

「別の道なら」

「風を見ないと分かんない」

 

道も足りない。

 

すぐ開ければ助かる、ではなかった。函を開ける瞬間だけを救出と呼べば、次の深霧でまた見失う。

 

使える船も数えた。

 

俺たちの修繕艇は右支え肋を戻す途中で、尾返し三回の試験が終わっていない。ジオの警備艇は動けるが、槍を封じた武装客の船で、幼体を運ぶ柔らかい吊索がない。市場の返却艇は赤荷札どおり空欄。船がないのではなく、いま函を開けた十二頭を落とさず載せる船がない。

 

首の小瓶が、白函へ近づくたび冷たくなる。

 

旧坑から持ち出した一片と、ここにいる幼体の関係はまだ分からない。呼ばれていると決めれば、俺の願望を証拠へ混ぜる。だから冷気の時刻と、どの函の前で霜が寄ったかだけを板へ残した。

 

ミラはそこへ三本の空線を引く。

 

「親群へ向かう道、セラトが選ぶ道、人間の船が安全に追える道。三つが重なる場所を探します」

「重ならなかったら」

「開ける数と場所を、もう一度相談します」

 

全部という言葉を、ミラは消さなかった。ただし、今すぐという俺の順番だけを外した。

 

マルクがネネから受け取った赤荷札と、別の契約板を作業台へ置いた。赤荷札の証拠番号は黄色い書役が新しい板へ写し、原札を自分の紐へ留める。

 

帝国心薬院との南便契約。生存穿刺の上限、休止一巡、最終採取、深霧返却。返却後の生存記録は不要。期限を越せば、心薬原液の優先便、冬の霧肺薬、航路損失保証が一季停止する。

 

「この函を使って何人助かる」

俺が聞く。

「今回の採取分だけなら、希釈後で二千七百人前後。救命枠だけではない」

「函を落とせば十二頭が死ぬとは書かないのか」

「死ぬかは分からない」

「生きるか確かめない契約だろ」

 

マルクは否定しなかった。

 

「心薬を止めれば患者へ払わせる。今のまま続ければ幼体へ払わせる。その二つしかないとは言わない。でも、三刻で別の採取法と冬の薬を作れるとも言えない」

 

処置台から運ばれてきた荷揚げ人が、白衣に肩を借りて立っていた。曲がっていた左脚は副木の中にあり、足先へ血が戻っている。心薬がなければ切られていた人だ。

 

「俺の脚を戻すために採ったのか」

本人が白函を見て聞く。

「今回の十二からかは、台帳では分からない」

マルクが答えた。

「分からないなら、助かった側の署名も取れ。次に同じ薬を使うか、採り方を変えるまで待てるか」

 

男は、薬を捨てろとも採り続けろとも言わなかった。自分の脚を見て、それから作業板の休止一巡へ指を置く。

 

「少なくとも、俺の脚を理由に今夜落としたとは書くな」

 

救われた患者を盾にする道が一つ減った。

 

「誰も言ってない。今日は十二函を落とさず、市場も沈めない仕事をする」

「その後も薬を使うのか」

 

問いの向きが戻ってきた。

 

俺の籠副木には千倍希釈の心薬膜が残っている。洗えば採取がなかったことになるわけではなく、使い続ければ今の契約へ賛成したことにもならない。

 

「使った分は記録する。次に採るなら、個体を見分けて、休止と返却を確かめる。自然に剥がれた分で足りない量も出す。患者へは、薬なしの処置と不足数を隠さない」

「価格は上がる」

「価格まで無料で直せるとは言ってない」

 

「それで死人が出れば?」

「今まで函へ移して見えなくした死人も、一緒に数える」

 

きれいな答えではない。明日からの薬を全部用意する数字でもない。

 

ただ、函の浮力を借り、髄を採り、用が済んだら落とす。壊れた場所を市場から見えない深霧へ移しただけだ。

 

「それは修理じゃない」

 

初めて、その言葉が口から出た。

 

マルクは怒らず、指の銅輪を一本外して板へ置く。

 

「ああ。商売だ。だから代わりを出すなら、値段と期限まで出せ」

 

話は閉じなかった。

 

 

公開作業は、第二呼吸孔前の広い風税橋で始まった。

 

商人を全員呼ぶ時間はない。代わりに、作業で荷が動く区画へ黄色い板を回し、異議、動けない人、捨てられない荷だけを書かせた。文字のない寝棚はネネが回り、扉と呼吸の数を足す。心薬患者は診療所の白衣が、浮函は索工が、武装船はジオが受け持った。

 

板は同じ権利を持って戻ってこない。

 

骨貨百枚の香料函には商会印が三つ、無札の寝棚には炭の指跡一つ。それでも黄色い書役は値段順へ積まず、荷重へ影響する時刻順に並べた。競売場で人を共同出品者へ変えた市場と、同じ市場の手だった。

 

最下段の寝棚から、五人いるという指跡が来た。公式の吊籠名簿には空区画とある。俺が最初の命令どおり全部開けていれば、人数欄にいない五人をまた数えず沈めていた。

 

作業板の端へ、五つの丸を足す。

 

俺は中央の板へ、三つだけ書いた。

 

一つ。十二函を落とさない。

 

二つ。開放前に浮力四組分を置き換える。

 

三つ。開放後の深霧進路を、セラトの返り込みで選ぶ。

 

「順番は?」

ミラが聞く。

 

俺が答える前に止まった。

 

また決めるところだった。

 

「出せる仕事を先に聞く」

 

ネネは無札の寝棚と三孔の風。ジオは警備艇を幼体の受け船にし、人の避難を部下へ渡す。ただし追跡任務は消さない。ミラは三進路とセラトの返律。若い索工は浮力嚢一組と、古い浮函の継ぎ目。

 

マルクは市場荷を動かす権限と、事故保証の仮払いを出した。

 

「ただし、帝国契約は止めない」

「まだ言うか」

「市場監督として言う。ここで一季の薬便を失う署名は、私一人ではできない」

 

筋の悪い相手ではなく、守る荷が違う。

 

風税橋の床板を三枚外すと、その下に白い継ぎ目が出た。

 

新しい市場板は一枚につながって見える。実際は、小さな浮函を七つずつ輪索で結び、上から硬い床を張った構造だった。古い継ぎ目には主留め、仮留め、外側へ索を通す丸窓がある。

 

王城六区画の可搬継ぎと似ていた。

 

「セラトの市場も、降ろせたのか」

「町が毎日動くのに、外せない方がおかしいよ」

 

ネネに言われれば、そのとおりだ。

 

人間は浮函を動かしながら、増築した床だけを国獣へ固定していた。古い継ぎ目を使えば、動かせない倉庫と診療函を小さな区画へ分け、警備艇と商船へ荷を預けられる。三組ぶんを軽くすれば、残った浮力嚢一組で十二函の空気を置き換えられる。

 

ただし、一つの仮留めを緩めるたび、隣へ荷が移る。

 

背市場は爪一枚、尾市は指半分、深霧側は動かさない。どれかを越えれば戻す。第二呼吸孔が前回の四分の三を下回った時も中止。幼体函の息が二函以上で途切れた時は、市場荷より函側の索を先に戻す。

 

停止条件を俺が読み、索工、ネネ、書役が別々の板へ写した。誰か一人が続けろと言っても、三枚のうち一枚が赤なら止まる。

 

ミラが地図板を床の白線へ重ねた。

 

継ぎ目は中央から三方向へ伸びている。

 

背。尾。左の深霧側。

 

焼けた古式原板にあった三本と、角度が同じだった。

 

「道の図です」

「封印庫の原板を見なくても使えるか」

「人間側の三経路だけなら。セラトの返りがなければ、完成しません」

 

声写し器と同じだ。

 

道を三つ描いただけでは、どれを通るか決めたことにならない。

 

「背へ薬庫、尾へ動けない倉庫、左は空ける。セラトが別を返したら止める」

 

言い終えて、周りを見る。

 

「異議は」

 

白衣が、患者を一度に動かせないと言う。だから診療所は二函に分け、処置中の三人を残す。尾の倉庫主は、商品より契約原板を先に運べと要求した。ネネは札のない寝棚四つが尾側に残ると板へ足した。

 

全部を黙らせて急ぐより遅い。

 

それでも、誰が何を払うか見える。

 

作業板の時刻線は、次の尾返しまで二刻を切っていた。

 

最初の仮留めを一段緩める。

 

浮函が床から爪半分離れ、警備艇の索へ重さが移った。ジオの部下が傾斜板を読み、ネネが第二孔の吊旗を見る。

 

「息、同じ。四分の一」

 

二つ目。三つ目。

 

市場荷が背と尾へ流れ、左側腹の白粒が中央へ寄る。三つの仮留めで動いた荷は、浮力嚢二組ぶん。継ぎ目と浮力は同じ数ではない。あと一組ぶん軽くすれば、十二函を一つずつ開けられる。

 

その時、足元の丸窓から赤い索が走った。

 

作業用ではない。緊急切離しの色だ。

 

「誰が引いた」

 

若い索工が床下を覗く。

 

マルクの指から、銅輪がもう一本なくなっていた。

 

「市場監督命令だ」

 

風税橋の反対側で、保護採取区の白い床が割れる。

 

割れたのではない。

 

古い継ぎ目どおりに、外れた。

 

「会議は続ければいい。だが返却時刻を越えれば、心薬便と航路保証は一季止まる。危険荷を市場本体から切り離せば、契約上の返却は実行できる」

 

「中に十二頭いる!」

「だから函の浮力は残した。次の尾返しまでは沈まない」

 

「公開作業へ荷を出しただろ」

「市場荷三組分は出した。幼体をどこへ返すかは、まだ一線も決まっていない」

 

「決まるまで待て」

「待つ代価を、市場全体へ署名させる時間がない」

 

マルクは逃げず、切離し板へ自分の名を刻んでいた。保護商会でも帝国でもない。これで十二函が失われれば市場監督の責任になり、薬便が守られれば功績にもなる。

 

筋を通しているから止めなくていい、とはならない。

 

助けたのではない。

 

追いつく時間を一刻ぶん残し、市場から代価だけを外した。

 

赤い切離し索が三本とも抜ける。

 

十二の短い呼吸を載せた区画が、セラトの側腹から離れた。

 

白い深霧の上でゆっくり傾き、尾から来る流れへ乗る。

 

幼体の檻区画が、切れた。

 

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