国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
幼体の檻区画が、切れた。
白い床はすぐには沈まなかった。十二函ぶんの空気が残っている。代わりに尾から来た流れへ斜めに乗り、風税橋から爪一枚、腕一本、家一軒ぶんと離れていく。
次の尾返しまで、二刻もない。
追おうとした足を、ジオの腕が止めた。
「走るな。右腕で受けられない」
「じゃあ船を出せ」
「もう出す」
止めるための手と、助けるための返事が同時に来る。相変わらず面倒な追手だ。
ジオは警備章を外さず、部下へ二本指を立てた。警備艇の黄封は武器につけたものだ。帆と舵まで封じられてはいない。二人が外索を解き、もう一人が尾側の帰船索を巻胴から引き出す。
俺たちの修繕艇は、まだ右支え肋を戻す作業と尾返し三回の試験が終わっていない。使える船を数え直しても、警備艇しかなかった。
「幼体用の柔らかい吊索はない」
「今は函を吊れればいい。中身へ掛けるな」
「分かっている。カーヴ、お前とミラ・セトは救助作業へ同行する。拘束許可はまだない。作業を離れた時点で、改めて市場拘束を求める」
「こんな時まで長いな」
「短くして消える責任じゃない」
黄色い書役が風税橋の公開板へ細い横線を引いた。切り離された保護採取区までを、同じ事故作業の範囲に足す。赤荷札の原本は書役の証拠紐へ残し、番号と経路だけを追跡用の薄板へ写した。これで俺たちは作業棚を離れるが、仕事からは離れない。
マルクは止めなかった。
「追跡は認める。返却契約は止めない」
「追いついたら開ける」
「開ける支えを作れたなら止めない。だが、尾返しまでに返却が終わらなければ南便の優先権は落ちる」
最後まで守る荷を変えない。腹は立つが、今はそのほうが読みやすい。
若い索工が、古い浮函継ぎの丸窓を写した薄板を投げてよこした。背、尾、左の深霧側。公開板の原本は風税橋に残り、写しだけが警備艇へ来る。
ネネも乗ろうとしたところで、マルクが言う。
「子供を追跡艇へ乗せる契約ではない」
「あたしの二枚はまだ払ってない。切った先の風を数えないで、仕事が終わったことにする気?」
ネネは黄色い靴で艇縁を踏んだ。既に持っている五枚も、店を引くために約束させた索も、別勘定だ。追跡へ使わせれば自分の寝床をまた後回しにすることになる。
「回収索は露店用のまま。事故仕事に切離し先の呼吸観測を追加。賃金は二枚で変えない」
黄色い書役が写し板へ追記する。
「安いけど、途中で切られるよりまし」
ネネは自分で乗った。
ミラが最後だった。赤紐も地図板も本人の手にある。警備艇へ足を置く前に、三本の帰路を目で確かめた。
「戻る索、追う帆、切れた区画。三つとも別に残してください」
「どれを使う」
俺が聞く。
「今から決めさせます」
警備艇が外れた。
*
尾流は、見た目より速かった。
切れた区画は白い深霧の上を滑っている。床板の片側が沈み、十二の白函が三つずつ四列、こちらへ傾いていた。函を留める上段索はまだ持つ。だが次の尾返しが来れば、流れはセラトの腹下へ巻き込み、そのまま深い層へ落とす。
ジオが帆を半分に絞った。
「正面から当てれば函が前へ倒れる。右を抜く」
「右は尾流が強いよ」
ネネが帆先の糸を指す。「三つ数えたら左へ戻る。今は押されるふりして」
ジオは子供だからとも、根拠を言えとも返さなかった。三つ待ち、舵を切る。
水紋が左へ折れた。
警備艇は檻区画の右後ろへついた。若い索工が鉤を投げる。一投目は床縁で滑り、二投目が外索窓へ入った。硬い牽引索は函へ触れず、古い浮函の骨枠だけを取る。
部下二人が巻く。ジオが舵を支える。俺が手を出す場所はない。
正しく言えば、出してはいけない。
籠副木の右手で索は握れず、左手も槌を止められている。腰環を艇柱へ結び、俺は口だけで床の傾きを読む。二日前なら役に立たないと思った配置だ。今は、勝手に一本足すほうが邪魔になる。
艇が区画へ横づけした。
ジオの部下が渡り板を置き、ミラ、ネネ、若い索工が先に移る。俺は腰環短索を渡り板の横綱へ移してから、一歩ずつ渡った。最後にジオが来る。警備艇は帰船索でセラトへ、牽引索で檻区画へつながった。
切れていても、完全には離れていない。
床下を覗くと、古い丸窓が三つあった。
背側の窓には白い擦れ。尾側には長い索焼け。左の深霧側だけ、輪の内側へ細かな歯が刻まれている。風税橋で見つけた三経路と同じだが、こっちは床を動かす留めではなく、外へ道を渡す窓らしい。
ミラが写し板へ透明測定板を重ねた。
「焼けた原板の三本と合います」
「原板は封印庫だぞ」
ジオが言う。
「見た角度と、こちらの公開記録を使っています。原板を持ち出したとは書かないでください」
「書かない。照合元は分ける」
ネネは十二函の間を回った。
「一番、高いの一つ。二番、長いの一つ。三番、今二つ。止まってる函はない」
函と息が一対一かは、まだ分からない。少なくとも二函停止の中止線には触れていない。
問題は進路だ。
尾へ進めば、警備艇で引ける。人間の船には一番安全だが、尾返しまでに全函を開ける柔らかい支えがない。
背へ戻せば、市場の未使用浮力嚢一組とつなげられる。ただし風税橋でまだ移せていない荷が一組ぶんあり、第二呼吸孔をまた沈める可能性がある。
左の深霧側へ出れば、流れは浅い。檻区画の下へセラトの左胸鰭を入れられるなら、函の空気を抜いても床を支えられる。問題は、セラト自身が進路を変えなければ届かないことだ。
そして左は、帝国の保証航路の外だった。
帰船索につないだ骨伝板から、マルクの声が返る。
『左へ一体長ずれれば、南便の航路印が切れる。市場の契約札は現在航路の振動を住所にしている。再保証まで売買、治療、居住、拘束、すべて照合不能になる』
幼体を助ける代価に、市場全部の契約を俺が選ぶわけにはいかない。
だから左を消す、でもない。
消せば、セラトが選べる道を人間の契約で一本減らす。
「三つとも出す」
俺は言った。「危険も一緒に載せる。どれが正しいかは、こっちで一本にするな」
『私は左へ署名しない』
マルクが答える。
「頼んでない。あんたは契約が切れる時刻を読め」
『承知した』
賛成ではない。だが観測からも降りなかった。
三つの丸窓へ、別々の索を通す。
背側は帰船索へ。尾側は警備艇の牽引索へ。左側は若い索工が持ってきた試験帆を開き、深霧側の風を受ける。一本へ束ねれば、競売場の声写し器と同じになる。三つを入れて、都合のいい一つへ潰す機械だ。
最初、俺は三本の端を中央の張力板へ集めかけた。
ミラが赤紐の三つ目を指で止める。
「そこへ集めたら命令になります」
「測れないだろ」
「同時に一枚で測ることを諦めてください」
ネネに背側の吊旗、ジオに尾側の傾斜板、若い索工に左帆の歯止めを渡す。俺は中央で答えを聞くのでなく、三人の数字を同じ時刻線へ書く。
また仕事を一つ手放す。手間は増えた。筋はいい。
ミラが三本の赤紐を、それぞれの丸窓の上へ置いた。荷重を掛ける道具ではない。どの道を今から示すか、全員へ見せる印だ。
低い音を一つ。
背へ戻る道。第二孔の下限、移していない市場荷一組、未使用浮力嚢三袋。
半音上げた音。
尾へ追う道。警備艇一隻、硬い索だけ、尾返しまで一刻半を切った。
最後は、最初より低い。
左の深霧側。セラトが自分で曲がれば胸鰭を支えにできる。代わりに帝国航路を外れ、市場の全契約が住所を失う。
ミラは歌い終えて、黙った。
俺なら、早く答えろと言いたくなる長さだった。
待つ。
尾側の索だけが張った。警備艇に引かれているからだ。返事ではない。
背側の索に細かな揺れが来る。市場の荷動きだ。これも違う。
左帆が一度たわんだ。風向きは変わっていないとネネが言う。ジオの傾斜板では、セラトの尾が予定より指一本、左へ出ている。
一つでは足りない。
俺は床へ膝をつけ、左の靴を脱いで腰環へ挟んだ。右手を使わず、裸の足裏だけを古い骨枠へ当てる。外殻ではない。浮函、牽引索、帰船索、その先のセラトまで、つながった物を通して来る律だけを拾う。
低い波が三本を順に回った。
背。
尾。
左。
全部をなぞってから、左だけが戻る。
選ばれた。
そう言う前に、セラトが身体を曲げた。
*
警備艇の帰船索が一気に巻胴から走った。
腰環が柱へ引かれ、俺の足裏から入った低い波が膝、骨盤、背骨を上がる。三本の道を一度に確かめた返りだった。道具越しなら薄まると思ったのが甘い。艇と区画の間へ立った俺の身体まで、つながった部材に入っている。
左胸を安全帯が締めた。
乾いた音が一本、身体の中で鳴る。
息が止まった。
「レン!」
ミラの声が近い。返事をしようとして、左胸の一点へ熱い針が入った。深く吸えない。
「道は」
「左です。もう記録しました。あなたは動かないで」
命令形だった。
こういう時まで三つ出されたら、たぶん俺は一つ選ぶ前に倒れる。腰環をジオが柱から外し、床へ寝かせる。続きを見ようと頭を上げると、ネネの黄色い靴が額の前へ来た。
「息ひとつ、長く吐いて」
「吸うほうは」
「長くしない。刺さるなら途中でやめる」
言われたとおりにすると、吐く終わりで左胸の下、肋の一本が鳴った。ずれてはいない。たぶん、ひびだ。
自分で診断して動こうとしたら、ジオが肩を押さえた。
「骨医が来るまで、お前の診断は作業許可にならない」
「厳しい追手だ」
「同じ冗談を言えるなら意識はある。黙っていろ」
床が左へ傾く。
今度の傾きは、檻区画が沈む動きではなかった。深霧の向こうから青白い壁が盛り上がる。セラトの左胸鰭だ。巨大な鰭が尾流を横から受け、白函の区画より先に浅い層へ入る。
人間の船が迎えに行ったのではない。
セラトが、迎えに来た。
尾返しが始まった。
白い流れが腹下へ巻く。さっきまでの進路なら、檻区画はその中央へ落ちていた。セラトは左へ身体をずらし、胸鰭の付け根と腹毛の間へ流れの浅い窪みを作る。
檻区画が、そこへ乗った。
若い索工が叫ぶ。
「下が支えた! 函の空気を抜いても床は落ちない!」
「一つずつだ」
俺は寝たまま言う。「呼吸のある函から蓋を開ける。底板は外すな。中身が自分で腹毛へ移るまで、箱ごと受け皿にする」
ジオが俺を見下ろす。
「工程は聞いた。あとは黙れ」
口まで取り上げられた。
けれど、作業は進んだ。
一番函の留めを索工が外す。蓋の隙間から白い息が上がり、濡れた頭が一つ出た。鯨というには鰭が短く、魚というには呼吸孔が大きい。人の腕二本ぶんほどの身体に、穿刺痕を覆う灰色の膜が三つ貼られている。
ネネが息を数え、ミラが赤紐で腹毛の窪みまで三本の短い進路を示す。幼体は一番近い道へすぐ進まず、函縁へ顎を置いたまま二度呼吸した。
三度目で、自分から左へ滑った。
セラトの腹毛が波を弱める。
二番、三番と開ける。函ごとに一頭。短く二つ吸うもの、高く一つ鳴くもの、途中で息を切って隣の返りを待つもの。十二番まで開けて、在庫番号ではなく十二の身体がいると初めて確かめた。
最後の一頭だけ、自力で函底から動かなかった。
柔らかい幼体索はない。
ジオは警備艇の予備帆を短剣で切らせた。濡らした帆布を函底の下へ通し、四人で高さを変えず腹毛へ渡す。帰りの帆が一枚減る。助けた値段は、あとで船にも残る。
十二頭とも呼吸はある。安全だとはまだ書けない。親群も、穿刺後の傷も、これからどこへ行くかも確かめていない。
ただ、深霧へ函ごと落とす時刻は過ぎた。
白衣の骨医を乗せた市場の小艇が追いついた。骨医は幼体へ先に診察板を渡し、俺の番はその後だった。順番に異議はない。
安全帯の下から首紐の小瓶を出してもらう。硝子にも封にもひびはなく、白い霜も増えていない。十二頭との関係を勝手に足せる変化はなかった。
左胸へ薄板を当て、三度だけ弱く叩く。
「第七肋骨に線一本。転位なし。深呼吸、走る、抱える、身体をひねる作業は禁止。胸をきつく巻くな。浅い息だけにすると霧肺を招くから、一刻ごとに痛みの手前まで吸え」
「右腕と合わせて、使える部品が減ったな」
「口が残っている」
ジオが言う。
「さっき取り上げただろ」
骨医は笑わず、禁止欄を二枚書いた。一枚は俺、もう一枚はジオへ渡す。逃亡者の作業制限を追手が持つのは変だが、俺だけが持つより破りにくい。
ミラは透明板を膝へ置いていた。
三経路の白い線。全部を一度なぞる大きな波。その後、左だけへ返った一本。
四本を重ねると、中央に空白が残る。焼けた原板では欠けていた箇所だ。
「古い字で、『道』です」
「道の図なら、最初から三本あった」
「三本だけでは、人間が引いた地図です。返りが入って初めて節になります」
初約。
ミラがその名を口にした。王家の命令歌より古く、人と国獣の仕事を分けて残した約束。道の節で人間に割り当てられているのは、行き先を決める声ではなかった。
複数の道を見張ること。
隠さず示すこと。
返りがなければ、待つこと。
選ぶのは、背負う側だ。
「ラグナも」
左胸が痛み、そこで言葉を切った。ミラは急かさない。
腹外殻で、俺たちは南東、都市を保つ道、北の三つを出した。ラグナは北へ脚を置いた。俺はあれを、帰りたいから助けろという依頼にしていた。
違う。
ラグナは、俺へ進路を決めさせたんじゃない。
自分で北を選んだ。
「帰らせてくれ、じゃなかった」
「はい」
「帰る、って答えたのか」
「少なくとも、私たちが確かめた三つには」
断定を一つ狭くした答えだった。だから信用できる。
俺は赤紐を見る。
「ミラの声も、命令じゃないんだな」
「三つを言うところより、その後に黙るところが古式操路です」
競売場の声写し器には、その沈黙を入れる場所がなかった。
板に残った空白は、欠けではない。
返事を奪わないための、空きだった。
骨伝板が激しく鳴った。
マルクではなく、風税橋の黄色い書役だ。声の後ろで、何十枚もの契約板が同時に打ち合う音がする。
『セラト左旋回。帝国保証航路から一体長、離脱』
警備艇の一日札から、現在住所を示す刻みが薄くなる。
『南便、航路保証を停止。市場内の全契約は、次の一呼吸までに新しい航路印を得なければ、住所照合不能として効力停止』
売買だけではない。
診療所の救命枠も、寝棚の居住札も、無札児を拾わせない仕事札も、ジオの市場拘束依頼も。セラトの上で結んだものは、セラトが帝国の道にいることを住所にしていた。
道は命令ではない。
だから、選ばれた後だけ人間の都合で元へ戻すこともできない。
セラトが次の息を吸い始める。
自由市は、あと一呼吸で住所を失う。