国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
自由市から住所が消えた時、最初に止まったのは商売じゃなかった。
骨医の手だ。
セラトが左へ曲がってから、最初の呼吸が終わる。胸鰭と腹毛の間に作った浅みへ、外の空気が長く入った。
その風が抜けた瞬間、幼体の診察板から赤い線が消えた。
骨医は途中まで持ち上げていた薬瓶を下ろす。
「続けろ。最後の一頭は、まだ息が浅い」
「診察は続ける。薬庫の封は開けられない」
「緊急だろ」
「緊急枠も契約です。患者、薬、使った人間、払う場所。その四つを同じ住所へ結んでいた」
白衣の女は幼体から手を離さなかった。ただ、銀色の心薬が入った箱には触れない。
箱の封が物理的に固くなったわけじゃない。割ろうと思えば、俺の左手でも割れる。だが中身の所有者も、失敗した時の補償先も、次に必要な患者へ残す本数も、一緒に消えた。
自由になったんじゃない。
誰が責任を持つか分からなくなった。
切離し区画の白い床には、開いた函が十二並んでいる。中にいた幼体はセラトの濡れた腹毛へ移り、互いの短い呼吸へ高低を返していた。最後の一頭だけは、ジオ隊の予備帆で作った濡れ布の上だ。胸が上がる間隔が、ほかより二息長い。
親群は、まだ一頭も特定できていない。穿刺痕の深さと、自力で泳げるようになるかは、診察板でも空欄だ。
空欄を薬で塗り潰して安心するわけにはいかない。それでも必要になった時、箱を開ける人間は要る。
「使った量と理由を板へ残せばいい」
「その板を誰が保証しますか」
言葉が詰まった。
風税橋から追いついた黄色い小艇が、区画の縁へつく。マルクと黄色い書役、それに心薬箱を抱えた白衣が二人。薬は来た。使える住所だけが来ていない。
マルクは最初に十二頭を見て、次にセラトの左胸鰭、その後で薄くなった契約板を見た。
「売買、治療、居住、作業、船の停泊。全件、効力停止だ」
「一時停止じゃないのか」
「同じ航路へ戻れば旧印は再照合できる。戻らないなら、新しい航路印と保証者が要る」
「セラトは左を選んだ」
「見ていた」
マルクは否定しない。
俺たちの修理札も、途中の字から白くなっていた。艇は右支え肋を戻せず、尾返し三回の試験も終わっていない。セラトの修理函には、台帳十六枚と三室箱が封じたまま残る。競売封印庫には古式図の原板もある。物が消えたわけではない。取り出す権利と、開けて壊した時に責任を取る相手が消えた。
ネネの事故仕事も同じだ。幼体を救った二枚は未払いのまま、露店を引き戻す約束だけが索一本で残っている。あいつが靴へ隠した五枚は、今日の苔餅なら買えても、昨日の仕事を証明してはくれない。
「だから人間側の住所を作り直す。だが、その間にも食べ物は減り、薬は傷む。市場の水槽は動かせても、契約なしで他国の商船から一袋も買えない」
「市場の倉庫にある分は」
「持ち主がいる。契約が止まった今、監督権で開ければ徴発だ。あとで返すと私が言っても、その私の権限が止まっている」
役職まで住所へつながっていたらしい。
便利な仕組みだ。正常な時には、店も客も同じ板で守れる。壊れた時には、責任者まで一緒に消える。
腹毛の上で幼体が一度、途中で息を切った。
隣の一頭が同じ高さを二つ返す。白衣の骨医が濡れ布を替え、胸の動きを数え直した。
俺は深く吸いかけ、左第七肋骨に止められた。痛みの手前まで、短すぎない息。骨医に言われた順で吐く。
右腕は籠副木の中。左手はまだ槌を振れない。幼体を抱えることも、艇へ走ることも、身体をひねって索を取ることも禁止だ。
使えるのは、口と目くらいだった。
ジオが警備艇の伝令筒を見た。
旧航路の青い刻みは消えている。その下で、細い白線が一度だけ走った。
「王国から返書だ」
「今の住所へ届いたのか」
「旧印が消える前に中継へ入ったものだ。これが最後になる」
ジオの部下が筒から薄板を三枚抜く。最初の一枚へ王国印、二枚目へ南交易索の出荷照会、最後は二重封だった。
「先に、補給提案を読む」
ジオは俺とミラへ板を向けた。
『レン・カーヴ及びミラ・セトの身柄を王立操路警備隊へ収容し、帰国便へ移送すること』
対価は、セラトへ一巡分の乾燥食、濾過嚢、通常心薬、骨傷用副木材。王国船が航路保証もつける。今日止まった物が、まとめて動く量だった。
「俺たちが捕まれば、薬が来るのか」
「王国側の条件では」
「ジオはどうする」
「提案する」
短い返事だ。
腹が立つより先に、警備艇の船腹が目に入った。
予備帆は一枚減っている。四人分の水袋は半分。濾過嚢の交換札も旧住所と一緒に白くなり、若い隊士の一人は濡れた面を裏返して使っていた。
こいつらも帰れない。
王国の警備艇だから市場の飯を勝手に食えるわけではない。航路を外れた原因を作った救助へ加わり、帰りの帆を幼体へ切り、追跡用に積んだ日数を越えようとしている。
俺なら、命令を破れないから身柄を出せと言うのだと決めていた。
違う。
ジオは、自分の後ろに四人分の寝床と賃金と帰路を載せたまま、条件を俺たちへ見せている。
「部下には説明したのか」
「今する。身柄収容を実行すれば、補給と帰還を確保できる。拒めば、帰路と手当の保証はない。俺が決める前に意見を記録する」
「隊長が決めるんじゃないんですか」
一番若い隊士が聞いた。反抗ではない。自分の札が消えた板を両手で持っている。
「命令の責任は俺が持つ。危険を知らずに賛成した形へはしない」
ジオは、王国印の板を裏返した。
「二重封を開ける」
外側の封は補給量、内側は受入設備の一覧だった。
黒鉄杭、六基。
長さは俺の胸から腰。四枚羽根の頭。吸収層へ使う骨灰樹脂。設置予定は、左三呼吸孔、胸鰭の付け根、尾節、背市場の進路梁。
呼び名だけが『呼吸安定杭』になっている。
「静釘だ」
俺が言う前に、ミラが設備図の管を指した。
「六本とも、拒否律を王国船へ流す管があります」
ジオは一枚目と二重封を並べた。
「身柄を渡すだけでは補給されない。セラトが杭を受け入れ、帝国保証航路へ戻ることが条件か」
黄色い書役が設備欄を写す。マルクは何も言わない。指の銅輪が一本だけ鳴った。
「王国へ確認は」
「次の住所がない。返書は来ない」
ジオは四人を見る。
「俺は拒否する」
若い隊士の濾過面から水が一滴落ちた。
「補給もですか」
「静釘を呼吸孔へ打たせる条件ごとだ。お前たちの帰路を失う判断は、俺の命令記録へ入れる。四人は救助作業中、情報を知らず俺の指示へ従った。拒否責任へ名前を足さない」
「それでは隊長だけが」
「だから俺が隊長だ」
格好のいい台詞として聞くには、四人の水袋が軽すぎた。
命令を破れば自由になるわけじゃない。自分の罰だけで済まない人間の前で、それでも破る線を選ぶ。
ジオは拒否の理由へ、セラト本人の左進路、十二頭の救助、呼吸孔へ打つ杭の構造を一項目ずつ書いた。感情ではなく、次に読む人間が同じ条件を確かめられる形だ。
その手が、二枚目の出荷照会で止まる。
「バシュの荷だ」
南交易索の出荷簿は、心薬庫の受入台帳より項目が多かった。
差出人、バシュ・ドーン。
運賃は差出人払い。売買価格、空欄。代金受取先、なし。
届け先は心薬庫の売買窓ではなく、公衆鑑定窓。用途欄には、細い字が三行残っていた。
鎮動杭の剥離片。複数の幼体様律を含む疑い。薬用転換及び再販売を禁ず。王立局外で構造を照合し、公開監査板へ載せること。
「告発か」
口にした後で、板をもう一度読む。
売るためではない。
少なくとも、この荷の契約にはそう書いてある。
「心薬庫では出品者になってた」
ネネが言う。
「持ってきた人を売る人にする札だったんだ」
「市場の受入制度では、由来物を持ち込んだ契約主体を出品者へ置く」
マルクが答える。「目的封を開く権限が競売部へなく、鑑定候補の棚へ回した」
「告発を値札に変えたのか」
「結果としては」
バシュが黙った八年は消えない。三本目の工事を再開したことも、両親の死を隠したことも、俺へ説明せず現場を渡したことも別だ。
その後で、局の外へ証拠を送ろうとした事実が一つ増えた。
許す理由にはならない。
次に会った時、売ったと決めつけて殴る理由は減った。今の俺には殴れる腕もないが、それは別勘定だ。
「照会板を三枚写せ」
俺は言った。「一枚は市場の公開板。一枚はジオの命令記録。もう一枚は俺たちの封印庫へ。原板を誰か一人に持たせるな」
ジオと黄色い書役が同時に頷いた。
信用したからではない。
片方が消しても、もう片方が残る。
*
王国補給を拒否しても、腹は膨れない。
次に問題になったのは、ジオたちの武器だった。
警備艇の短槍と切断刃には黄色い封布が巻かれている。封布自体は残ったが、抜けば保証金を失うという契約が消えた。
市場側から見れば、外国兵五人と武器を載せた船が、何の拘束もなく幼体のそばにいる。
ジオ側から見れば、逮捕依頼も停泊保証も消えた市場に、船と武器を預けろと言われている。
どちらが先に相手を捕虜と呼ぶかの違いしかない。
黄色い書役の後ろへ集まった索工が、警備艇を風税橋へ接収しろと言い出した。王国側の若い隊士は槍へ手を出さない。ただ、艇と市場の間へ立った。
「船を取るな」
声を張ると、左胸へ響いた。息を吐いてから続ける。
「武器を自由にしろとも言ってない。事故作業の記録を使う」
「契約は止まっている」
マルクが言う。
「だから契約にしない。いま見た事実を板へ書く」
警備艇は切離し区画を追い、帰船索でセラトとつなぎ、十二函を開ける間の足場になった。武器の封は一度も破っていない。予備帆は一枚減ったが、船体の破損はゼロだ。
その記録まで住所と一緒になくなるわけじゃない。
「ジオ。出せる仕事は」
「武器目録、艇の操船、退路警備、作業時刻の記録。追跡任務は撤回しない」
「分かった。ほかの四人は」
隊士たちは互いを見た。
一人は帆と巻胴。もう一人は濾過面と救助具。若い隊士は傾斜板を読み、最後の一人は市場語が分かるため避難列の呼びかけができる。
俺が勝手に役を割る必要はなかった。
四人は、幼体の見張りが終わるまでは艇に残ると自分の名前で書いた。ただし帰国線が現れた時に続けるかは、その場で決め直す。ジオの拒否に従う、とは誰も書かなかった。俺たちを信用する、とも書かなかった。
それでいい。渡せる観測と仕事が分かれば、同じ船には乗れる。
「艇を共同警備へ使う。武器は黄封の上から一本ずつ白紐を足し、市場の書役と隊士の二人で結ぶ。抜く時は両方の前で理由を板へ書く。操船は王国側、乗せる人と荷の順は公開作業板で決める」
「誰の命令だ」
索工が聞く。
「命令じゃない。嫌なら別案を出してくれ」
代わりは、艇を接収して五人を降ろすか、武器ごと追い出すか。どちらも幼体の見張りと帰路を一つ減らす。
白衣の骨医が先に名前を書いた。十二頭の診察場所を守る警備が必要だと理由を添える。
黄色い書役、索工二人、ネネ、ミラが続く。
ジオは最後まで板を読んでから署名した。
「住所が戻れば、市場拘束依頼も戻る可能性がある」
「その時はまた追え」
「逃げるなとは言わない」
「追手が親切だな」
「逃走路を塞いで事故を起こすなと言っている」
やっぱり面倒な追手だった。
渡り板を警備艇へ掛ける。俺は走らず、身体をひねらず、腰環の短索をミラへ先に通してもらった。右手は使わない。左胸へ刺さらない幅で一歩ずつ進む。
その横を、ジオの部下たちが自分の荷を持って渡った。
捕虜ではない。
味方になったわけでもない。
追手を船へ上げ、同じ退路を別々の理由で見張らせる。
信用がなくても、仕事は渡せる。
警備艇の帆柱へ、黄色い事故板が固定された。契約律はない。名前、時刻、武器、役割、見た人間の印だけがある。
それでも、何もないよりは持つ。
*
夕方までに、幼体の呼吸は十二とも残った。
最後の一頭は自力で腹毛へ身体を移せない。白衣は心薬を使わず、穿刺痕を洗い、濡れ布の温度を保つ。次の二呼吸で悪化すれば、封を割る。その時は使用者、量、理由、残数を公開板へ書き、後から全員で責任を争う。
きれいな契約より、ずいぶん雑だ。
患者を放っておくよりは持つ。
食料の方は、待っても増えなかった。
市場の備蓄は二日。心薬庫の冷却材は一日半。吊籠を失った者の寝床は、今夜だけでも三百を越える。商船は新しい航路保証が出るまで索をつながない。
王国の条件は拒否した。
残った保証者は、帝国だった。
マルクが風税橋から持ってきた白い板を、警備艇の事故板の横へ置く。
『ガルド帝国臨時保護航路』。
市場が帝国管理路へ復帰するまで、食料、薬、冷却材、浮力嚢を出す。新航路印も即時発行する。
条件は三つ。
左旋回の停止。
呼吸安定設備の受入協議。
市場内の無登録児を、帝国保護区への移管対象として仮登録すること。
「杭の受入は協議で、今すぐ設置ではない」
マルクが言う。「移管も次の帝国船まで猶予がある。今夜、食料と薬を動かすには、対象者の登録だけでいい」
「登録したら、本人が断っても引渡し対象だろ」
「そうだ」
隠さない。
「市場総会を開け」
「全契約が止まっている。代表資格を確定するだけで一日かかる」
「じゃあ待て」
「待つ一日は、心薬庫と寝床へ同じ長さではない」
マルクは俺でなく、白衣の診察板を見た。最後の幼体の呼吸線は、まだ浅い。
幼体だけではない。心薬を待つ人間も、今夜の食事を持たない子供もいる。
だから無札児を引き渡していい、とはならない。
ならないまま、腹は減る。
「俺は反対だ」
「記録する」
「本人へ先に聞け」
「聞いている間に帝国の受付が閉じる」
「それでもだ」
マルクは銅輪を二本、白い板へ置いた。
「私は市場監督として仮登録する。明日、総会で破棄できる道は残す。今夜の薬と食料を止めた責任も、子供を移管対象へ入れた責任も、私の名で残す」
「二つ書けば、片方が軽くなると思うな」
「思っていない」
マルクが署名した。
帝国の白い航路律が、止まっていた市場板へ流れ込む。
食料、治療、居住、停泊。消えていた欄へ一つずつ細い線が戻る。その下で、無札児の名簿だけが別の白へ塗り替えられた。
ネネが黄色い靴から、薄い作業札を出す。
息読み、ネネ。事故仕事、未払二枚。露店回収索一本。
さっきまで残っていた三つの刻みが薄くなり、代わりに帝国保護移管・十三番の律が入る。
ネネの名が、札から消えた。