国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
「帰れなくなるって、どこへだ」
俺が聞くと、ミラは北を指した。
正確には、板と外殻の隙間から見える白い霧の向こうを。そっちにあるのは背上都市の排水滝と、雲みたいに盛り上がった深霧だけだ。少なくとも、俺の目には。
「世界背骨です」
「世界の背中に、さらに骨があるのか」
「深霧の下を走る岩列です。九十日後、北側の霧流が一巡だけ開きます」
話の大きさと、いま立っている足場の狭さが釣り合っていない。世界の話をするなら、せめて椅子を用意してほしい。安全索にぶら下がったまま聞くと、どんな真実も詐欺に聞こえる。
俺は呼び笛へ指をかけた。
「三分のうち、もう二分は使ったぞ」
「では、一分で確かめましょう。ここに八年前の保守筒が残っています」
「なんで知ってる」
「八年前の配置図にあるからです」
「その配置図をどこで」
ミラは黙った。自問を増やすより、答えない場所を覚えておく。地図の出所。十五年前の歩み。消される前の道。怪しい札なら三枚揃った。
ただし、現物を確かめられるという話だけは別だ。
「一分で見つからなかったら、笛を吹く」
「分かりました」
「見つかっても、あんたが正しいとは限らない」
「それも分かっています」
言い返さない相手は扱いにくい。こっちの疑いを全部受け止める奴は、誠実か、受け止めたふりがうまいかのどちらかだ。今のところ、ミラは両方に見えた。
旧第六足場の奥には、外殻に沿って半月形の保守室が張りついている。扉は錆び、鍵穴には骨樹脂が詰められていた。廃止した部屋を閉めるやり方としては念が入っている。
ミラが細い金属棒を差し出した。
「削れますか」
「さっき俺が踏んだ棒で?」
「折れていません」
「大事にしろよ」
「踏んだ人に言われたくありません」
初めて、平らな声の底に棘が出た。怒る場所が道具なら、少し信用できる。
棒の先を樹脂へ差し込み、槌の尻で押す。表面は古いが、中は妙に柔らかい。八年前から固まり切らない配合だ。封を解けば跡が残る。閉じ込めるためというより、開けた人間を見つけるための樹脂だろう。
「あとで塗り直せます」
「同じ色は?」
「四種類あります」
「用意がいいな」
「何度か失敗したので」
それを先に言え。
ラグナが右後ろ脚を持ち上げた。足場が外へ傾く前に、俺は扉の支柱へ左足をかける。
ミラが俺の腰環を掴んだ。
「三つ数えてから来ます」
「何が」
「戻りです。一、二――」
三を待つ前に、足場が逆へ跳ねた。
予想していたより指二本ぶん深い。俺の肩が扉へ当たり、錆が落ちる。ミラは腰を低くして、揺れが収まる場所へ先に足を置いていた。地図師だと言った女が、現場六年の俺より正確にラグナの歩みを読んでいる。
面白くない。
面白くないが、事実は事実だ。
「次は先に言え」
「言いました」
「三まで数えてからだと思うだろ」
「次は『二の途中』と言います」
樹脂の芯が抜けた。鍵そのものは壊れている。探り針を曲げて掛け金を持ち上げると、扉が腹を壊した獣みたいな音を出して開いた。
中は人一人が横になれる程度の幅しかない。壁には工具掛け、古い水受け、保守筒の棚。後ろ二つは空だったが、一番下の列に灰色の筒が七本残っていた。
ミラが息を止めた。
ほんの一拍だ。けれど、さっきまで何を見ても一定だった呼吸が変わった。
「あったな」
「はい」
「初めて見る顔だ」
「八年前の配置図が正しいと確認した顔です」
「嬉しそうには見えない」
ミラは答えず、筒の埃へ指を滑らせた。そこだけ細く白い線ができる。震えてはいない。
俺は入口側に立ったまま、いちばん手前の筒を抜いた。勝手に入った知らない女へ王立修繕局の記録を渡すほど、まだ頭は深霧に漬かっていない。
筒の封印は、古い局印だった。日付は八年前。
中の薄板を広げる。右後脚接地幅、外殻温度、上背荷重、返律。継骨工なら嫌でも覚える欄が並び、字は複数の職人のものだった。
「設置前を探せ」
「何の設置だ」
「鎮動杭です」
「記録にその名前があると?」
「あるはずです」
あるはず。
ミラは未来を断言しない代わりに、過去の記録だけ妙に言い切る。怪しい札が四枚になった。
三枚目の薄板に、鎮動工事という欄があった。
目的は上背都市の揺れを減らし、祭礼・増築時の安定を確保すること。実施主体は王立修繕局と帝国心薬院の共同班。肝心の器具名は「鎮動杭・第一型」と書かれている。
「あったぞ」
「日付は」
「霧暦四百四年、白降り月五日」
ミラは自分の地図板を開き、端に日付を記した。驚かない。こいつは見つかることを知っていた。
設置前七日分の返律は、乱れているように見えた。右後脚が着くたび、主波のあとに細い揺れが五本から九本。温度が上がれば増え、荷重が抜ければ減る。傷んだ響骨なら普通に出る波だ。
設置後は、それが一本に揃っていた。
「効いてるじゃないか」
「都市の揺れには」
「他に何がある」
「ラグナ側の記録を見てください」
「これがラグナの記録だ」
「いいえ。これは都市に戻った揺れの記録です」
言われて、薄板の見出しを見直す。返律、とだけある。普段ならそれで困らない。俺たちが必要なのは、甲や響骨から道具へ戻る音だ。届かなかった音は、記録しようがない。
痛みだけを吸う杭。
ミラがさっき使った言葉を、まだ信用したわけじゃない。だが、記録のほうが勝手にその形へ寄ってきた。
「設置前は周りの荷重が分かる。ここが強くなれば、その隣が弱くなる。設置後は全部同じだ」
「壊れなくなったのではありません」
「壊れそうだという返りだけ消えた」
それが本当なら、修繕には最悪の道具だ。
熱があっても患者の口を塞げば静かになる。治療した顔で寝かせておける。寝台が燃えるまでは。
俺は次の薄板をめくった。接地幅はほぼ同じ。右後脚へ乗る重さも減っていない。それどころか、祭礼の年ごとに上背荷重は増えている。
揺れが消えたから、安全だと思った。
安全だと思ったから、さらに載せた。
残った筒を年ごとに並べると、別の線も見えた。鎮動杭を入れた最初の年、ラグナの進路は北へ指三本ぶん曲がるはずだったのに、実際の接地印は南へ半本残っている。翌年は一本、その次は一本半。小さすぎて単年の点検では誤差に入るが、八年重ねれば誤差のほうが道になっていた。
「あんたの二百七十歩、どこから数えた」
「右前脚の爪先です。後脚は都市荷重で振れますから」
「この記録は後脚しかない」
「前脚の濾過塔に、廃液量の帳簿があります。歩幅の代わりになります」
人間が国獣の爪先を八年ぶん追うには、役所の許可か、よほど長い執念が要る。ミラの上着には役所の刺繍がない。靴底は左右で減り方が違い、地図板の角は何度も削って継いであった。金を払って集めた数字ではなく、自分の足で別々の塔を回った数字だ。
試しに、筒に残る直近の接地時刻を一つ隠した。
「次の右後脚が着くまで何息」
ミラは透明板を傾け、白い粒が止まる前に「四十七」と答えた。実際は四十八。次は三十五に対して三十五、その次は五十二に対して五十。六回やらせると、外れは最大二息だった。
「もういいですか」
「最後の一回」
「疑うことを楽しんでいませんか」
「疑わず落ちるより安い」
七回目、ミラは数える途中で答えを一つ増やした。ラグナが霧の濃い場所へ鼻先を入れ、呼吸が深くなったからだという。接地は訂正した時刻どおりに来た。
俺が六年かけて覚えた歩調を、この女は地図の上で分解している。気に入る必要はない。使える測定は使う。それが現場の礼儀だ。
「八年で、どれだけ進路がずれた」
「今日まで二百七十歩です」
「距離で言え」
「世界背骨の入口から、三日と半日ぶん南東へ」
「三日半なら、九十日あれば戻せる」
口にした瞬間、胸の奥にあった冷たいものが少し下がった。
期限があって、ずれがあって、原因が釘なら、やることは並べられる。釘を調べる。周りを支える。抜く。進路を戻す。
仕事になった。
ミラの琥珀色の目が俺を見た。何か言いかけ、やめる。指は赤い紐のいちばん下の結び目へ触れていた。
「何だ」
「三日半は、距離だけなら」
「他に何がいる」
「ラグナが戻ると決めること」
「国獣に進路を聞く方法があるなら、操路官は失業してる」
「だから、分かりません」
「またそれか」
「分からないものを、作業数に入れないでください」
俺は薄板を巻き戻した。
正しい。腹が立つくらい正しい。直せると決めた途端、俺は一番大きな不明を見ない箱へ入れた。
それでも、箱を開けて震えているよりは、手を動かすほうがましだ。
「杭を見に行く」
「位置はこの下、響骨二層目の内側です。ここからは見えません」
「保守窓がある」
「配置図には」
「図にない。職人が仕事をさぼるために作った抜け道だ」
ミラが一度まばたきした。感心されたのか呆れられたのかは知らない。どちらでも、先人の怠け心は今日の俺たちを助ける。
保守室の水受けを外すと、裏に細い縦穴がある。正規の点検口から回れば梯子を三つ下りるが、ここなら一層下へ直接出られる。太い俺には肩幅が足りない。息を吐き切り、腰袋を先に落として体を滑らせた。
「私は」
「そこで記録を見張れ」
「歩調を伝えます」
「それも頼む」
頼むと言うのに、少し引っかかった。
胡散臭い侵入者が、いつの間にか背中を預ける相手になっている。違う。足場の揺れを俺より正確に数える道具として使うだけだ。人間を道具扱いするなとバシュなら槌の柄で頭を叩くだろうが、本人は異常なしと書かせて帰ったので、今日は黙っていてもらう。
縦穴の底は暗かった。燐苔灯を腰袋から出し、爪で膜を破る。青白い光が外殻の裏を舐め、響骨を包む灰色の筋を浮かべた。
三歩先に、それはあった。
釘という呼び名から、黒い鉄杭を想像していた。
実物は光を返さない黒だった。俺の胴ほどある円柱が斜めに打ち込まれ、頭は四枚の薄い羽根に分かれている。羽根の間へ骨灰色の樹脂が溜まり、細い管が北側の壁へ潜っていた。表面には帝国式の目盛りと、王立修繕局の古い封。
国を内側から刺すには、妙にきれいな道具だった。
「見えた」
上へ声を投げる。
「色は?」
「黒。頭が四つに割れてる。北へ管が一本」
「地図と一致します」
「喜べよ」
「一致してほしくない時もあります」
俺は釘の周囲へ手を伸ばしかけ、止めた。
触る前に周辺荷重を見る。朝、バシュに止められた手順だ。同じ間違いを一日に二度やるほど、俺は仕事熱心じゃない。
予備の継鉄を二枚出し、釘を挟む響骨の上下へ仮置きする。骨樹脂はまだ塗らない。まず調律槌で上、左、下、右の順に打つ。
上は高い。左は鈍い。下は高い。右は――返りがない。
「次の接地まで」
「四十息。三十九」
ミラの数が縦穴を下りてくる。
俺は継鉄の角度を変えた。右から逃げない荷重を、上下へ二割ずつ渡す。樹脂を薄く塗り、締め具を一段だけ回す。仮継ぎは壊れた場所を治すものじゃない。どこへ重さが逃げているか、わざと道を作って確かめるためにも使う。
「二十。十九」
「途中で急に来るんだろ」
「今回は、十七の途中です」
「改善したな」
十七の、とミラが言ったところで接地が来た。
知っていても腹の底が浮く。響骨が沈み、仮継ぎの上下へ重さが割れた。継鉄は持つ。右側の骨だけが遅れて軋み、黒い釘の四枚羽根がかすかに閉じた。
音が消える。
荷重はある。継鉄にも、骨にも、俺の膝にも、はっきり重さが来ている。
なのに釘の先から先だけ、痛みの返りがない。
代わりに、黒い管が震えた。
北へ。
俺は槌の柄を釘の脇へ押し当てた。右奥歯に冷たさが走る。三打。短い休み。その外側を、もっと細い音が管へ吸われていく。
ひび。擦れ。熱。重すぎる。
言葉にすればいくつもある。けれど管を通る時には、全部が平らな一本へ潰されていた。
「ミラ」
「はい」
「こいつは揺れを止めてない」
返事がない。
「重さも、傷も、そのままだ。直してない。痛いって返るところだけ持っていってる」
「……はい」
今の一拍は何だ。
予想が当たった安堵には聞こえない。恐れていた答えを、他人の口から確定された時の間に近い。そう見えただけだ。ミラが何を知っていたかは、まだ別に聞く。
仮継ぎの右端が鳴った。
考えるのをやめ、締め具を半段戻す。ここで支えすぎれば、次の一歩で上側が割れる。確かめるための継ぎが新しい傷を作ったら、笑い話にもならない。
「次の浮脚まで」
「六息」
樹脂が固まる前に継鉄を外す。上の一枚が引っかかった。探り針を差す。二息。
一息。
外れた瞬間、ラグナが脚を上げた。重さが抜け、俺の体が縦穴の壁へ投げ出される。腰環の索が張った。
上でミラが踏ん張る気配がした。索の端を、保守室の支柱へ巻いている。
「怪我は」
「壁に負けた」
「どこを」
「肩。動く」
左肩を回す。痛みはあるが、骨の音はきれいだ。明日には青くなる程度。道具を拾い、継鉄の樹脂を布で拭った。
黒い釘は、何もなかった顔で響骨に刺さっている。
抜けばいい。
そう思ったが、口には出さなかった。仮継ぎ一枚でも周りの音が変わった。胴ほどある杭をいきなり抜けば、八年ぶん見えなくなっていた重さがどこへ落ちるか分からない。
期限は直せる期限だ。ただし、直し方から作る必要がある。
縦穴を戻ると、ミラが索を両手で握っていた。支柱へ正しく二重巻きしてある。職人結びではないが、荷重方向を読んだ結びだ。
俺が上がり切っても、すぐには手を離さなかった。
「もういい」
「肩は」
「回る。あんたが手を離さないと、腰環のほうが先に壊れる」
ミラは索をほどいた。掌が赤い。俺の体重を一人で止めたなら当然だ。
礼を言おうとして、保守室の外から金属音が聞こえた。
昇降鎖だ。
下りてくる。しかも一台じゃない。
ミラが保守筒へ手を伸ばす。
「持ち出します」
「七本全部は無理だ」
「でも」
「必要なところだけ写せ。元に戻さないと、誰が見たか絞られる」
地図板の裏から薄い写し紙が出てきた。準備がよすぎるのも、今は助かる。
俺は筒を日付順へ並べ直し、設置前後の板だけを押さえた。ミラが粉墨を薄く塗り、紙を重ねる。手の赤みは残っていても、線はぶれない。
「事故記録がありません」
「別筒じゃないのか」
「設置日の翌日から、十七日ぶん抜けています」
棚を見る。筒は日付どおりだ。中の板だけが途中で切れ、その次は何事もなかったように十八日後から始まっている。
事故なしなら、空白にする必要もない。
昇降鎖が近づく。
俺は最後の板を巻こうとして、下端の小さな印に気づいた。
作業者は名前を書かない。字が読めない職人もいるし、暗い穴で署名している暇もないから、各自の作業印を打つ。
そこにあるのは、欠けた輪と、その内側を斜めに走る二本線だった。
見間違えるはずがない。
子供の頃、工具箱から勝手に鑿を出すたび、この印の横へ自分の傷を足して怒られた。父の印だ。
「日付を」
声が、自分のものに聞こえなかった。
ミラが板の上を追う。
「霧暦四百四年、白降り月五日。鎮動杭第一基、設置確認」
父と母の共同墓標には、白降り月二日と刻まれている。
吊街崩落で死んだ日だ。俺は葬式の冷たい雨まで覚えていた。
その三日後の台帳に、父がいた。