国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
十三番にされた札を、ネネはしばらく裏返していた。
裏には何もない。表へ返せば、帝国保護移管・十三番。息読みも、事故仕事も、ネネという名も消えている。
「十三人いるってことか」
「違うよ。あたしが十三番ってだけ。前の十二番が十二人いるとも限らないし、十四番がいないとも限らない」
番号は人数じゃない。
分かった気になっていた自分の頭を、まずそこで止められた。
帝国の白い板は、名前のない子供を見つけた順に番号へ入れた。市場の古い札と照合していない。同じ人間へ二つ振られた番号、もう別の国へ移った者、隠れて受け取らない者が混じる。移管される人数さえ、登録した側は数えられていなかった。
「総会の前に本人へ聞く」
「何を?」
「残るか、帝国へ行くか。ほかに道があるなら、それもだ」
「じゃ、レンは何を選ばせたいの」
返事が遅れた。
セラトへ残す。
共同札を作り、露店を戻し、息読みの仕事を市場へ認めさせる。俺たちの旅へ連れていくより、その方が安全だ。右腕を折り、肋骨まで割った修繕工と、国から追われる地図描きと一緒にいるよりは、だいたい何でも安全に見える。
だが、それを先に口へ出せば、道を三つ描く前に一つへ束ねる。
「まだ決めてない。お前の答えも聞いてない」
「よろしい」
ネネは番号札を黄色い靴へ入れなかった。警備艇の事故板へ白紐で結び、誰からも見えるようにした。
その夜、俺たちは移管札を受けた者を捜した。
契約の止まった市場では、寝棚も店も代表資格にならない。代わりに使ったのは、事故の作業板だ。
呼吸孔から人を運んだ者。沈む吊籠へ浮力嚢を回した者。冷却管を見張った者。名簿外の寝棚五人を数えた者。荷札の番号を写した者。仕事の記録には、国籍の欄がなくても、見た人間と時刻が残っている。
ジオの隊士二人が外側から照合した。市場側だけで名前を足したと言わせないためだ。追手を証人に使うのは面倒だが、役には立つ。
見つかった者の答えは揃わなかった。
帝国保護区へ行きたい、と言う子もいた。温かい寝床と三食が本当にあるなら、自分で見て決めたいらしい。市場へ残ると言う者は、移管先から戻れるのかを先に聞いた。今夜は決めない、と番号札を受け取らない者もいた。
ネネは誰にも残れと言わなかった。
「行くなら、帰りの船代と、嫌になった時に出られる札まで書かせな」
代わりに条件を増やした。
本人へ聞けば同じ答えが並ぶ、という俺の雑な予想より、よほど筋がいい。
夜半を過ぎると、帝国の白い補給艇が一隻ついた。乾燥食、冷却苔、濾過嚢、それに細い黒鉄杭を一本載せている。
呼吸安定設備の試験具だという。
長さは大人の腕ほどしかない。だが、四枚羽根と骨灰樹脂の層、その奥から補給艇へ戻る細管は、王国の図と同じだった。第二呼吸孔へ一呼吸だけ挿し、セラトの拒否律を測る。測った後に抜く、と添え書きがある。
抜いた後、吸った律をどこへ使うかは空欄だった。
マルクは杭を艇から降ろさなかった。昨夜の署名は設備の協議までで、試験の同意ではない。心薬庫へ冷却苔だけを運び、使った量を帝国への未払として公開板へ刻ませた。
最後の幼体は、薬を使わず夜を越した。胸の間隔はまだ一息半遅い。自分で腹毛へ移れない状態も変わらない。良くなったとは言えないが、悪くなってもいない。
その空欄を抱えたまま、朝の総会になった。
*
市場総会は、偉い順に座る会議ではなかった。
なにしろ偉いと証明する札が白い。
風税橋へ並んだのは、倉庫の鍵を持つ者、心薬庫の骨医、吊籠を失った住民、索工、商人、無札児、王国の警備兵、それに見物人だった。発言板へ名を書けない者は、事故記録と二人の照合印を出す。昨日まで市場を支えていた仕事が、今日の席になった。
マルクは中央へ立ったが、最初に話さなかった。
俺へ先を譲った。
自由は大切だとか、子供を売るなとか、そういう言葉なら誰かがもっと上手に言える。俺が持っているのは板だった。
「第一呼吸孔の避難、無札の荷運び三人。第二孔の風量記録、ネネ。吊籠北列の留め切り、二人。名簿外寝棚の誘導、五人。昨日、この仕事がなければ、沈んだ区画と治療待ちは増えてた」
一枚ずつ、事故板を掛ける。
「賃金を払った仕事も、払ってない仕事もある。使った時だけ市場の人間にして、引渡しを決める時だけ番号へ戻すのは、記録の扱いが合ってない」
「子供の働きと、代表資格は別だ」
背市場の穀物商が言った。
ネネがすぐ手を上げる。
「別なら、子供の仕事で助かった倉庫も別にして。麦袋、返す?」
穀物商は黙り、後ろの倉庫番が咳をした。
笑いが少し起きた。ネネは笑わない。
「あたしが欲しいのは、大人と同じ値段の椅子じゃない。あたしのことを決める時に、あたしの口を使う席」
橋が静かになった。
俺が長い話を足す必要はなかった。
次は食料だ。
倉庫三軒が、三日分の乾燥食を出す。徴発ではなく、次の市場税から返す共同債にする。空いた競売棚と帆倉を今夜から寝床へ変え、持ち主には使った面積と日数を残す。心薬庫の冷却は、帝国苔で今夜まで持たせ、東の苔船団から次を買う。
問題は、その東の船がまだ索を結んでいないことだった。
セラトの左前方、霧の上へ緑の帆が七枚見える。オルナ交易の苔船団だ。古い帝国住所へ戻るなら取引しない。セラトが今の進路を選び、市場が現在地の損失を共同で保証するなら、一巡分の食料と冷却苔を出す。その代わり、背市場の修理労働、次季の浮桟橋七枠、今回の荷代を公開債で受け取る。
好意ではない。値段と逃げ道のある取引だ。
マルクが三つの進路を読み上げた。
右へ戻る。帝国の食料と薬はすぐ使える。呼吸安定杭の試験を受け、無登録児は本人ごとの確認後に移管を選べるよう再交渉する。
今の場所で止まる。杭も移管も受けない。備蓄は二日、苔船団との距離は縮まらない。
左を続ける。帝国保証は切れ、東の船団と新しい住所を作る。航路事故と価格上昇は市場が負う。
ミラが赤紐を三本、風税橋の外索へ別々に結んだ。
誰も命令声を出さない。
セラトの返事を待つ。
最初の一呼吸では、何も変わらなかった。第二孔はまだ平常の四分の一ほど。白い補給艇の試験杭は甲板に寝たまま、細管だけが右の航路浮標へ伸びている。
二呼吸目、ネネの吊旗が左へ寝た。
ジオの傾斜板は、右胸鰭が上がり、左が深く入ったと示す。ミラの透明板では、止まる線と右へ戻る線を一度ずつ浅くなぞった後、左の線だけに長い波が重なった。
セラトは左へ泳ぎ続けた。
白い補給艇へつながる細管が張り、先端の蝋継ぎから外れる。黒鉄杭は甲板から一度も降りない。右の航路浮標が霧へ遠ざかり、代わりに緑の七帆が少しずつ大きくなった。
「選択を記録」
ジオが時刻を読み、黄色い書役が三つの観測を同じ板へ刻む。
帝国の板を破ったから食料が出るわけではない。セラトが選んだ現在の進路へ、人間側の保証をつなぎ直す。
共同航路板には、倉庫三軒、骨医二人、索工組、苔船団、吊籠住民、無札の発言者が署名した。三日ごとに在庫と進路を再確認し、足りなければ帝国案を含めて総会を開き直す。今回使った帝国冷却苔は未払債にし、未使用の荷と試験杭は補給艇へ返す。
全員一致ではなかった。
帝国線の方が安全だと主張する商人もいた。保護区へ行くと本人が選んだ子供の移管まで止めるな、という声も残った。
だから共同札は、残留を命じる札にしなかった。
選んだ名。できる仕事。未払賃金。食事と寝床の共同負担。仕事を断る権利。市場を出る権利。帝国保護区を選ぶなら、帰路費用と再確認日を先に書かせる権利。
保証者は所有者ではない。札は売れず、譲れず、本人の前でしか書き換えられない。
発行対象の総数は、最後まで確定しなかった。隠れたままの者を、数を揃えるために探し出さないと決めたからだ。必要になった者が自分の名で来れば、その都度同じ条件で発行する。
札を作る時も、監督一人の印では足りない。本人が選んだ名、同じ仕事をした者の照合、賃金を払う側か仕事を使った側の承認、黄色い書役の公開記録。その四つが揃って初めて現在の航路律を刻む。本人が署名できなければ、普段使っている結び、靴印、打音でもいい。代わりに大人が名前を決めることだけはできない。
昨夜、帝国へ行きたいと言った細い子は、共同札を一枚受け取ったうえで白い補給艇へ移った。選んだのは市場からの追放ではなく、帝国保護区を一度見る道だ。帰りの船賃、三日後の本人確認、嫌なら市場へ戻れることを帝国側の板へ追加させる。補給艇の書役は渋ったが、マルクが荷の受領印を止めると折れた。
残る自由を守るために、行く自由まで折るわけにはいかない。
マルクが帝国の移管番号を無効欄へ移した。
ネネの札へ、最初の文字が戻る。
ネネ。
息読み。事故仕事、完了。賃金二枚。露店回収索一本。市場共同札。退出自由。
「払え」
ネネがマルクへ手を出した。
「事故費から払う」
骨貨二枚が、その小さな掌へ落ちる。黄色い靴の五枚と合わせて七枚。やっと仕事と金の数が揃った。
市場は無札児を荷物から外した。
残る者も、出ていく者も、今度は自分で荷札を書く。
*
それから十二日、セラトは左へ泳いだ。
共同航路板は三日ごとに書き直された。緑の苔船団が索を結び、食料と冷却材が入る。帝国の白い補給艇は、未使用の荷と黒鉄杭を載せて右の霧へ離れた。
最初の三日で、残っていた市場荷一組分を背市場へ移した。切離し区画は空函を浮力にして本体へつなぎ直し、赤荷札を証拠のまま残す。第二呼吸孔は平常の四分の一から十分の六ほどまで戻ったが、第一・第三と同じにはならない。呼吸警戒の板は外さなかった。
幼体十二頭は、全頭が呼吸を保った。十一頭は腹毛の浅みを自分で動くようになり、最後の一頭も七日目に濡れ布の端まで身体を寄せた。まだ泳げず、穿刺痕も深い。白衣の骨医は回復ではなく「自力移動、布一枚ぶん」と記録した。親群は見つかっていない。
十二頭へ所有札は作らなかった。骨医、息読み、索工が三呼吸ごとに観測を交代し、治療の使用量と中止条件だけを公開板へ置く。親群が見つかるまでセラトに載せるが、セラトの物、市場の物、薬庫の物とは書かない。空欄を所有者で埋める癖は、いったん止めた。
ネネの露店は、尾側索から回収した。帆布は半分裂け、種袋二つは駄目になり、留め金と片靴は残った。損失は値切らず公開債へ入れ、露店そのものは共同札の保管棚へ畳んだ。
ネネは直せる留め金だけを自分で分け、露店を旅荷へ入れなかった。戻るかどうかと、戻った時に店を開けるかは別に決める、と保管札へ書いた。俺なら全部持って出て、帰る道具だと安心したところだ。あいつは残す物まで自分で選んだ。
バシュの照会板も三枚できた。一枚は市場公開板。一枚はジオの命令記録。最後の一枚は、作業権を戻した修理函の封印庫へ入れた。
出港前に、ミラの受取札と俺の封印律を照合し、台帳十六枚と三室箱は修繕艇の二重庫へ移す。板も箱も開けず、封と漏れがないことだけを黄色い書役と確認した。市場へ証拠の写しを残し、次の釘を調べる道具は持っていく。
修繕艇は右支え肋を戻し、尾返し三回の荷重試験を通した。古式図の原板は所有争議の封を解かず、市場へ残す。
俺の右前腕は十日目の再検査で、広がった方のひびまで閉じ始めた。十二日目に籠副木を外し、細い支えへ替える。軽い把持は許可、槌と人の荷重は禁止。左肩と腰の打撲は押しても痛まない。
肋骨は別だ。
左手の槌禁止は二日で解けた。それでも、走るな、抱えるな、ひねるな。深く吸うとまだ左胸が止める。治りかけが一番勝手をする、と骨医に禁止票をもう一枚書かれた。
出発の日、芽吹き月二十九日。緑の苔船団から新しい報せが来た。
樹冠国オルナで、今季、幼獣が一頭も生まれていない。
帝国の産師団が産室へ入り、自然な休眠として入口を閉じた。
オルナ側は、外から呼吸と根の律を測れる者を求めている。共同航路板は、修繕、操路、息読みの三つをそろえた調査仕事を出した。
俺とミラが受けるところまでは、すぐ決まった。
ネネの名は書かなかった。
「忘れ物」
出港前の修繕艇で、ネネが空欄を指した。
「忘れてない。お前は共同札ができた。露店も仕事もある。ここなら――」
安全だ、と言う直前で止まる。
止まった時点で、何を決めていたかはばれた。
「市場が安全かどうかは、あたしが十二日見た。旅が危ないのも見た」
ネネは三孔板と、風向き別に色を変えた帆糸を艇の床へ置いた。
「その上で、息読みが要る仕事へ行く。あたしが選ぶ。安全を理由に仕事を取るなら、十三番とやってること同じだよ」
「同じじゃない」と言いかけ、やめた。
所有する気はない。移管する気もない。だが本人の口より先に、置き場所を決めた。その部分は同じだ。
「弟子にはしない」
「頼んでない」
「息読み。俺とミラの観測が食い違った時、止める権利を持つ。一巡六枚、食事と寝床は別。危険仕事はその都度、値段と退路を決める。契約は譲れない。途中で降りられる」
「親方が先に倒れた時は?」
「仕事を止める。俺の許可はいらない」
「じゃ、それで」
共同航路の調査費から、半額の三枚が前払いされた。ネネは七枚へ足し、十枚を黄色い靴へしまう。
札の雇用欄には、俺が作業責任者として署名した。保証者は市場共同航路。俺の財布は空のままだ。金がないのを、ただ働きさせる理由にはできない。
ネネは最後に、自分で名を書いた。
弟子ではない。
息読みのネネが、同じ艇へ乗った。
ジオの警備艇も索一本ぶん後ろにつく。共同札は外国の拘束依頼を自動では通さない。ジオは市場内で俺たちを捕まえられず、追跡任務も捨てなかった。
部下四人の水と濾過面は、十二日分の共同警備記録を対価に市場が出した。武器は黄封と白紐を巻いたまま。予備帆は幼体の濡れ布へ回した一枚が減ったままで、船体に新しい傷はない。
「逃げる船を送る追手って、賃金出るの?」
ネネが聞く。
「戻れば請求する」
「戻れたらね」
ジオは答えず、出航時刻だけを板へ刻んだ。
セラトの腹毛から索を外す。
修繕艇は、十二日前より東へ向いた緑帆の後ろへ入った。右支え肋は鳴らない。帆柱の継ぎも三度の尾返しを覚えている。俺は右手で軽く舵輪へ触れ、荷重を掛けずに離した。
ネネが船首へ帆糸を三本張る。
オルナの方角へ向いた糸だけが、細かく二度上がり、一度低く沈んだ。
俺の首で、小瓶の霜が同じ順に曇る。
高い二つ。低い一つ。
旧坑の静釘から剥がれ、ラグナの痛みと幼体の呼び合いが混じった小さな律だ。
ネネは東の糸を外し、北、南、セラトの順に張り直した。どの向きでも、律は一度伸び、返りを待ち、空振りして戻る。呼んでいるだけなら、相手を決めた高さになる。これは、いない場所へ何度も手を伸ばす息だった。
「子供がいる、じゃない」
ネネが小瓶を見た。
「これ、子を探してる」