国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
森が歩く音は、足音じゃなかった。
芽吹き月三十日の昼、東の深霧から現れた樹冠国オルナは、山ひとつぶんの森に見えた。次の瞬間、その森の端が持ち上がり、苔むした短い脚が何十本も白い霧を踏んだ。
それより近くでは、家の下を通る根が、床板を音もなく押し上げていた。
「桟橋、右へ三歩!」
緑帆の苔船から声が飛ぶ。
さっきまで船首の正面にあった桟橋は、太い根ごと右へ動いていた。先に渡した係留索が斜めに張り、修繕艇の継いだ帆柱を引く。
「張りを抜く。右支え肋は見るだけでいい、触るな」
若い船員へ言い、俺は左手で巻胴の歯止めを一段外した。右手は細い支えの中にあり、舵輪へ触れる程度の軽い把持しか許されていない。左胸も深く吸うと止まる。走る、抱える、身体をひねる、重い物を持つ。禁止札だけなら一人前の作業班が作れそうだった。
ネネが船首へ張った三本の帆糸を見上げる。
「根が上がる。親方、腰索」
「親方じゃない」
「じゃあ、右で桟橋を掴んで骨医に怒られる人」
「長い。レンでいい」
腰索はもう左の環へ通してある。ネネは確認すると、黄色い靴で先に渡り板へ乗った。根が上がる前に一歩、沈む時に二歩。セラトの揺れとは違うのに、風と苔の向きから足場の次を読んでいる。
一巡六枚の息読みは、前払いぶんからきっちり働く。
ミラは渡り板の向こうで、透明板を桟橋の根へ当てていた。白い粒が一度跳ねるたび、折畳み板へ相対位置を書き足す。
「右へ三歩ではなく、根が船一隻ぶん伸びています」
「昼飯のたびに港を描き直すのか」
「朝食の後にも直すそうです」
住所が泳ぐ市場の次は、道が育つ森らしい。
ジオの警備艇は、索一本ぶん後ろで別の根へ止められていた。武器の黄封と白紐を係が数え、入域の板を一項目ずつ読んでいる。追手だからと苔船団へ混ざれるわけではなく、追跡任務を持つ客として別勘定だ。
俺たちの艇はオルナ外縁の吊り根へ預けた。二重庫の台帳十六枚と三室箱は降ろさない。封と漏れだけをミラと船番が確認し、鍵の片方をミラ、照合律を俺の作業板へ残す。
持って森へ入るのは、地図板、赤紐、ネネの帆糸、俺の調律槌。それと首紐の小瓶だけだ。
小瓶の中の黒い薄片は、出航時と同じだった。白い霜は消え、高い二つと低い一つも今は鳴らない。
*
オルナの港から産室まで、道は三度作り直された。
最初の板道は、根が盛り上がって中央から外れた。二本目は、日当たりを求めて傾いた若木に押される。三本目は壊れていないのに、住民が自分から留めを外した。
「なぜ外す」
「夕方には、この根が上へ行くからだよ」
板を抱えた男は、それで説明が済んだ顔をした。根の先にある家では、床下の滑り台へ油を塗り、壁から伸びた索を隣の木へ掛け替えている。家を守るため根を止めるのでなく、根が動いても家が落ちないよう、毎日置き場所を変えるらしい。
吊街なら、一晩で床が指一本動けば警鐘だ。
ここでは、動かなければ水が来ない。
森の下から細かな連打が続いていた。一つの大きな歩調ではない。左前の短脚が沈む間にも、腹側の根が水を吸い、背の若木が日の方向へ曲がる。どこからが一歩か区切れず、何十もの小さな作業が次の小さな作業へ重なっている。
セラトで、泳ぎを三つの異常へ分けた失敗を思い出す。
今度は先に聞いた。
「正常なら、道は一日どれくらい動く」
案内の女が振り返る。
「場所による。産室前は朝から夕まで家一軒。外縁は半分。雨なら逆へ戻る」
「戻る?」
「乾いた根が水を追うからね」
地図に固定した正面も、上も、昨日も、全部使いにくい国だ。
それでも町はある。樹乳の配給棚、菌床パンを焼く低い炉、根菜を干す網。子供は傾く幹へ足輪を掛けて登り、老人は次に上がる根を椅子代わりに待っている。屋根の高さが揃っていないのは貧しさだけでなく、根ごとの日当たりを残すためだった。
案内の女が、前方の白い屋根を指した。
「あれが産湯小屋。その奥が産室。帝国の産師団は、今朝も休眠だと言って入口を開けない」
産湯小屋の床が、その時、傾いた。
建物の下から、大人二人で抱えるほどの根がせり上がり、左の滑り台だけが動かない。屋根から下げた清水桶が右へ走る。小屋の前で布を洗っていた二人が索を引いたが、床の角はさらに上がった。
「湯槽を止めろ!」
中には火を落としたばかりの石槽がある。熱い樹乳湯が半分残り、傾いた縁から洗い布の棚へ流れ始めていた。
俺は走らない。小屋までの根を三歩で渡り、四歩目は腰索を案内の女へ預けた。
「右の桶を外へ。石槽は持つな、床ごと受ける。根の左、滑り台の留めを見せてくれ」
住民が床板を一枚剥がす。
滑り台と呼ばれた部材は、根をまたぐ木の鞍だった。右側は根の丸みに沿って滑っている。左だけ、白い樹乳が固まり、鞍と根をくっつけていた。根の表面には縦の裂け目があり、押し上がるたび開いている。
吊街なら、裂け目を塞いで鞍を固定する。
「薄帯を二本。根の左右へ回す。締めるのは四分の一、力は床側へ逃がせ」
案内の女が一瞬、俺を見た。
「根を止めるのかい」
「石槽が滑るまでの仮継ぎだ。止まったら鞍を切る」
長くは使わない。
そう言えば安全に聞こえる。旧坑で静釘の外周へ指一本だけ触れた時にも、同じ考え方をした。
住民二人が薄い鯨髭帯を根へ回す。俺は右手を出さず、左で目盛りを示した。締め輪を一段。根の裂け目へ、携帯していた骨樹脂を細く流す。槌は使わない。へらを持った案内の女へ厚みを言い、俺は粉墨線だけを見る。
根の持ち上がりが止まった。
床が水平へ戻り、樹乳湯も石槽の中へ収まる。洗い布の棚は濡れたが、火傷した者はいない。
「持った」
案内の女が息を吐いた。
俺も粉墨線を見る。帯、床、隣の根。どこも動いていない。
動いていない。
ネネが屋根を見上げた。
「風が止まった」
「根を止めたからだろ」
「ここの風じゃない。葉っぱの中」
産湯小屋の上に広がる枝だけ、葉の裏が白くなっていた。水が上がらない時の色だ。ミラが透明板を根の先へ移す。白い粒は帯の手前で跳ね、向こうへ流れない。
「レン。根の律も止まっています」
裂け目へ近づく。樹脂の縁から、透明な汁が一滴ずつ押し戻されていた。吊街の外殻なら漏れだ。だが汁は冷たくなく、青い匂いがする。
「誰が成長継ぎへ骨樹脂を入れた」
低い女の声が背後から来た。
振り返る前に、曲がった白刃が薄帯の下へ入る。
「待て。床の荷が」
「上の索へ二人分、右の鞍へ一人分。小屋は持つ」
女は住民へ指を二本、一本と出した。石槽の留めを上索へ移し、洗い布の棚を右へ滑らせる。荷が抜けた順に白刃を動かし、骨樹脂を根の表面から薄く剥がした。
固定帯が緩む。
根が一度、大きく脈打った。
産湯小屋はまた爪一枚ぶん傾いたが、葉の白さが端から緑へ戻る。透明板の粒も、止まっていた線を越えた。
女は泥のついた膝を床へ置き、剥がした裂け目を爪でなぞる。
「乾いた縁があるか」
「ない」
「黒い粉は」
「出てない」
「なら、これは傷じゃない。今朝できた成長の口だ」
俺は根の表面を見る。
裂け目の両縁は同じ厚みではなかった。片方だけ薄く、内側から新しい緑の膜が押している。古い亀裂なら、外から入った粉と乾燥が端へ残る。これは割れたのでなく、新しい根を外へ出すため開いていた。
見た形だけで、知っている故障へ入れた。
「止めたのは半刻もない」
「子根なら半刻で向きを変える」
女は剥がした樹脂を俺の左掌へ置いた。「短いから安い失敗にはならない。上の葉が枯れたら、産室へ送る水が一本減る」
怒鳴らない。神木へ何をしたとも言わない。水の行き先と、減る本数を出した。
「俺がやった」
「見れば分かる。外の国の継ぎ方だ」
女は立ち上がり、俺の右前腕の細い支えと、浅い呼吸を順に見た。
「オルナが呼んだ修繕工は、壊れた人間を送ってくるのか」
「口と目は使える」
「なら、しばらくそれだけ使え。私はハナ・オル。産師長だ」
産師長という役目から、白い布と静かな手を勝手に想像していた。
実物は膝まで泥に入り、根を切る白刃で俺の修繕を剥がしている。
想像より信用できる。
「正しい直し方を教えてくれ」
ハナは鞍の左を示した。
「直すのは根じゃない。固まった滑り台だ」
白い樹乳を温水で緩め、木の鞍を一度外す。持ち上げるのは住民三人へ頼み、俺は荷が上索へ移った数字だけを読む。鞍の内側を根と同じ丸みに削るのでなく、指二本ぶん余分に空けた。両端には硬い留めでなく、濡れると伸びる根皮紐を使う。
「隙間が大きすぎないか」
「今夜には、ちょうどになる」
「明日の朝は」
「また削る。明後日は家を隣へ移す」
ハナの答えに迷いがない。
「毎日直すのか」
「毎日、同じ形へ戻さない」
住民が鞍を戻す。根が次に脈打つと、床は爪一枚上がり、鞍は反対へ同じだけ滑った。石槽は水平のまま。帯で止めた時より、建物全体の動きは増えている。
それでも、今度は葉へ水が通った。
俺は粉墨線を消さず、その横へ新しい線を引いた。止まらないことを失敗へ数えないための印だ。
ハナはそこで産室へ急がなかった。
「目が使えるなら、もう一つ」
産湯小屋の裏へ回り、太い根の脇にある灰色の筋を白刃で示す。さっきの成長継ぎより細い。けれど、縁は乾き、擦ると黒い粉が落ちた。根が脈打っても幅は変わらない。
「これは」
「古い傷だ」
「さっきとの違いは」
「乾いてる。粉が外から入ってる。新しい膜がない。それに、開いたり閉じたりしてない」
答える間に、俺は最初の裂け目へ目を戻した。透明な汁の粒が、脈に合わせて端から端へ進んでいる。傷と成長継ぎは形が似ていても、周りへしている仕事が違う。
ハナは灰色の筋へ樹蝋を薄く塗った。全部を埋めず、雨の入る上側だけを塞ぐ。
「傷でも固めないのか」
「この根も太る。直すなら、明日の場所を残す」
ずいぶん面倒な答えだった。だが、毎朝ぜんぶ剥がすよりは安い。
俺は鞍の隙間を三脈ぶん測った。指二本、指一本半、また二本。一定ではない。代わりに、床へ逃げる幅と葉へ戻る水は毎回同じ範囲へ収まる。
正常値を一本の線で書こうとして、やめた。作業板には、最小と最大を二本で刻む。
ラグナの甲、吊街の梁、セラトの船腹。俺の修繕は、壊れない形を先に置き、そこから動いた分を故障と読んできた。
オルナでは、その基準から先に壊れる。
「産室の外を見せてくれ」
ハナへ言う。「次は、正常な動きを先に聞く」
「やっと調査の入口だね」
*
産室は、森の中央ではなかった。
オルナが水を追うたび場所が変わるため、幹と根が作る最も深い窪みを、その日だけ産室と呼ぶ。白い皮布の帝国幕が入口を覆い、睡眠を示す青札が三枚下がっていた。
幕の向こうへは入れない。
「帝国の産師は、卵が季節を待ってると言う」
ハナは青札へ触れず、その下の根を見た。「私たちも毎年、全部を通してきたわけじゃない。冬の樹乳と住民の食事を数えて、生まれる数を減らした年はある」
自分を卵の味方へ置いて話さない。
「今年は一頭も生まれてない」
「だから違う。選ぶ前に、返事がなくなった」
ハナは産室を囲む根へ、小さな水椀を一つずつ置いた。俺たちにできるのは外側からの測定だ。
ミラが透明板を根の分岐へ四枚。ネネが幕の隙間と葉先へ帆糸。俺は左掌と根の間へ薄い木板を挟み、深く入らない返りだけを拾う。右手は膝へ置き、槌は腰から抜かない。
最初に聞こえたのは、オルナの短い脚だった。
細かな連打が、根を通って何方向にも走る。その下に、もっと遅い擦れがある。
丸い膜が水を受け、少し膨らみ、戻る。すぐ横でも同じ。さらに奥にもある。数を取ろうとすると、同じ律が別の根から遅れて返り、重なる。
一つではない。
空でもない。
卵らしい膜の律が、産室の奥にいくつもある。
「粒が輪を作っています」
ミラが四枚の板をずらす。「別の位置から同じ輪へ戻るものもある。数はまだ決められません」
「風も何か所かで吸われてる」
ネネが帆糸を指へ巻く。「でも、息みたいに返るのは一つ」
ハナの水椀も、一つだけ縁が二度鳴っていた。
とくん。
長い間。
もう一度。
それ以外は、膜の擦れだけだ。
場所の近い反響を一つの心拍へ数えている可能性もある。ミラは透明板を根の分岐三つぶんずらし、ネネは帆糸の結びを外縁側へ移した。俺も木板を当てる根を替える。
膜の擦れは、道具を動かすたび近いものが強くなった。けれど、二度鳴る返りだけは、どこで拾っても同じ遅れで来た。
とくん。
長い間。
とくん。
近くの根が作った似た音ではない。一か所から来たものを、別の道具で三度拾っている。
死んでいるとは言えない。眠っているとも決められない。確かなのは、卵らしい律が複数あり、心臓に似た返りを三人の道具で拾えるのは一つだけだということだった。
「返らない方を、今ここで死んだとは書かないよ」
ハナが水椀を伏せる。「心臓だけで卵の中身を決めたら、帝国の青札とやってることは同じだ」
「青札の測り方が間違いとは限らない」
ミラが幕の端にある温度板を見る。「熱は一定です。ただ、熱があることと、呼びかけへ返すことを同じ欄へ入れています」
測った数字が嘘でなくても、数字につけた名前で見落とすことはある。
「帝国の板は全部を休眠へ入れた」
俺は青札を見る。「一つだけ返る理由が書いてない」
「書かせるために、あんたたちを呼んだ」
首元が冷たくなった。
小瓶の内側へ白い霜が生まれる。
高い二つ。
低い一つ。
ネネがすぐ帆糸を三方へ張った。産室、森の外縁、オルナの頭側。出航時と同じように、霜は一本へ伸び、返りを待ち、相手を見つけられず戻る。
「子を探してる方」
ネネが小瓶を指した。
その時、産室前の根が同じ高さを返した。
近くの一本だけではない。
産湯小屋の葉が鳴る。港で俺たちの艇を吊る根が鳴る。遠い採液塔の幹が一拍遅れ、背上を覆う森の端から端まで、高い律が二つ、低い律が一つと順に走った。
一つの心臓では出せない広がりだった。
オルナの身体と、背で育った森と、産室を囲う何本もの根が、同じ呼びかけを別々の場所から戻している。
ネネが小瓶から森へ、森から産室へ帆糸を移した。
「違う。返ってきた方は、向きが逆」
「何を探してる」
ネネは、途中で息を切らずに答えた。
「親」
小瓶は子を探す。森は親を探す。
ネネの読みが正しければ、その二つの呼びかけの間で、心臓の返る音は一つしかなかった。