国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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生まれない足音

森が親を探している。

 

その読みが正しいか確かめるには、産室の幕が邪魔だった。

 

もっとも、邪魔だから切ればいいとは、ついさっきの俺には言う資格がない。成長継ぎを傷と決めつけて塞ぎ、産室へ送る水を半刻止めたばかりだ。

 

白い皮布の向こうから、低い鐘が三度鳴った。

 

青い休眠札の端が持ち上がり、帝国産師団の女が出てくる。袖口まで灰色の樹乳に染まり、両手には薄い膜手袋を二重にしていた。俺たちではなく、伏せられた水椀を先に見る。

 

「いまの返律を、もう一度出せますか」

 

「小瓶の方は、こちらの都合で鳴らせない」

 

俺は首紐へ触れずに答えた。

 

女は小瓶を寄越せとも言わなかった。根の分岐に残るミラの透明板、ネネの帆糸、ハナの水椀を順に数える。

 

「三系統で同時観測。幕外からの接触だけですね」

「四つだ。俺の木板もある」

「あなたのは根の振動と手の震えを分離できていません」

 

痛いところを正確に突く。

 

右腕の細い支えと浅い呼吸まで見た上での除外らしい。感じが悪いが、正しい。俺一人の骨聴きとして記録するより、補助観測に下げた方がいい。

 

「レンの板は時刻合わせに使えます」

ミラが透明板を重ねた。「振幅ではなく、四枚の粒が跳ねた順序との照合です」

 

「なら補助記録へ。私はテア・ヴォル。帝国産師団の現場副長です」

 

テアは自分の青札を裏返した。表には自然休眠、裏には卵膜温度、樹液圧、投薬時刻が細かく刻まれている。

 

数字は毎日埋まっていた。

 

休眠と書いて扉を閉めただけじゃない。その中で測り、薬を入れ、死なせない仕事は続けている。

 

「調査回廊まで開けます。卵房へは入りません。触れない、採らない、弁を動かす時は私とハナの両方が止められる。それでよければ」

 

「最初から開けてれば、外で根へ耳を押しつけずに済んだ」

ハナが言った。

「外から返るものがなかったから開けなかったんです。今日は返った。条件が変わりました」

 

テアは言い訳を足さない。

 

ハナも礼を言わなかった。白刃の鞘を帝国側へ預け、自分の水椀だけを持つ。

 

幕が大人一人ぶん開いた。

 

 

産室の内側は、静かではなかった。

 

最初に耳へ入ったのは採液管の唸りだ。灰色の管が天井の根から床へ何本も下り、樹乳を吸うたび喉を鳴らす。外から聞いた細い膜律は、その唸りの下へ埋まっていた。

 

白い皮布のすぐ先が調査回廊で、その奥は透明な樹脂幕に仕切られている。幕越しに見える卵房は、根が丸く抱えた水の窪みだった。

 

卵そのものは見えない。

 

濁った樹液と何重もの膜、その上を横切る太い根に隠れている。根の途中には黒い輪がはまり、床から伸びた杭へ固定されていた。港や家の下で見た、伸びる根とは違う。脈打つたび、輪の手前だけが太くなり、向こう側は動かない。

 

「固定根か」

 

「定礎根です」

テアが訂正した。「背上都市の荷重を腹側へ逃がします。採液塔、上段菌床、冬蔵、産室外壁を支える根です」

 

「産室を支える根が、産室の上を横切ってる」

ネネが帆糸を一本垂らした。

 

風は床から奥へ吸われ、黒い輪の前で渦を巻く。糸の先が下へ潜ろうとして、固定根へ当たるたび横へ逃げた。

 

ミラが透明板を樹脂幕へ当てる。白い粒は管の吸い上げに合わせて上がり、根の脈で下がる。二つの動きが別の速さで重なっていた。

 

「採液を一巡だけ止められますか」

 

テアはすぐには弁へ触れない。

 

「止める理由を」

「管の唸りを消して、卵膜の返りを分けます。採液圧を抜いた時、同じ場所へ戻るなら根の反響。別々に位置を戻すなら、中に動くものがある」

 

「一巡で膜温が指一節下がります」

「水椀を温める。二巡続けない」

ハナが言った。「私も止める側へ立つ」

 

テアは壁の記録板へ、開始時刻と中止条件を書いた。弁を回すのは帝国産師、温度を見るのはミラ、風を見るのはネネ、根圧を見るのはハナ。俺は全員の合図が揃わなければ再開板を叩かない。

 

命じない役なら、壊れた身体でもできる。

 

大弁が四分の一だけ戻された。

 

管の唸りが低くなり、やがて消える。

 

残ったのは、オルナの歩く細かな連打だ。その間に、水がゆっくり下へ戻る音がする。

 

樹脂幕の向こうで、濁りが動いた。

 

丸い影が一つ、固定根の下から少し浮く。離れた場所でも、膜が押し返す。さらに奥では、見えない何かが水を受け、別の速さで傾いた。

 

ネネの帆糸が三方向へ開いた。

 

「同じところから返ってない」

 

ミラの透明板にも、輪がいくつも生まれる。近いものと遠いものが重なり、数にはできない。それでも一枚の反響ではなかった。

 

ネネは開いた三本の糸を、指一本ぶんずつ前へ送った。

 

一番近い膜が膨らむ。糸の一本が奥へ引かれ、止まり、元の場所へ戻された。少し離れた膜も同じだ。ただし、引かれる時刻も戻る速さも違う。

 

「呼ぶだけじゃない。進もうとしてる」

 

「どちらへ」

 

「こっち。産室の出口」

 

ネネは透明な樹脂幕の下、根に挟まれた細い溝を示した。水が産室の外へ抜ける道だ。膜は膨らむたび、その溝へ向きを変えている。けれど、固定根の張り出しへ当たると、押し戻された水と一緒に元へ戻る。

 

一度目の動きはある。

 

次の場所へ進む動きがない。

 

外で拾えた心臓らしい返りは一つでも、ここで動いた膜は一つではなかった。心臓の強さだけを生死へ置き換えれば、弱い動きは全部なかったことになる。

 

ハナは温水を足した水椀へ指を入れたまま、樹脂幕を見ている。

 

「死卵なら、圧を抜いた後に自分の丸みへ戻らない。膜が潰れたまま水だけ通す」

「全部、戻ったのか」

「ここから拾える範囲はね。速さは違う。弱いものもいる。でも死んだ殻の流れじゃない」

 

テアが中止線へ指を置く。

 

膜温が、ちょうど指一節下がった。

 

俺は再開の板を叩いた。大弁が開き、灰色の管がまた喉を鳴らす。樹液が上へ吸われると、浮いた丸い影は固定根の下へ押し戻された。

 

今度は見間違えなかった。

 

卵が動けないんじゃない。

 

動いた先を、根と管が塞いでいる。

 

俺は樹脂幕に沿って左へ進んだ。走らず、身体をひねらず、腰ごと向きを変える。右手は出さない。使える左手で粉墨を持ち、黒い固定輪と採液管が重なる位置へ線を引く。

 

固定輪の裏で、根は昔の太さのまま止まっていた。その外側には新しい年輪が重なり、内側へ盛り上がっている。一本だけではない。向かい側の根も、その奥の根も、産道だった窪みへ少しずつ張り出していた。

 

都市を支えるたび、産道が狭くなる。

 

採液管は張り出した根の内側へ沿い、さらに通り道を削っていた。

 

「いつから固定した」

「最初の定礎は四十六年前」

テアが答える。「採液管の増設は二十八年前から。産室側の輪は十五年前に更新されています」

 

「輪を外せば根は動くか」

「急に荷が返って裂けます」

 

なら、管からだ。

 

採液主管は固定輪の手前で一本にまとまり、乾いた木枠を通っている。ここなら根を切らずに済む。枝管を止め、主管を外へ逃がせば、少なくとも卵が進む幅を指三本は戻せる。

 

俺は粉墨で切断線を引いた。

 

「白刃を貸してくれ。先に上の弁を閉じる。圧を二本へ逃がして、主管をここで――」

 

「切った後は?」

 

ハナが聞いた。

 

「仮管を外へ回す。材料は港の艇に」

「今夜の上段菌床へ送る水は」

 

粉墨の先が止まった。

 

テアが壁の板を一枚外す。裏には産室の図でなく、背上都市の配水図があった。

 

採液主管から三つに分かれた線が、上段菌床、根菜棚、冬蔵へ伸びている。産室へ戻る線は一番細い。俺が切断線を引いた場所は、その全部の手前だった。

 

「採ってるだけじゃないのか」

「昼は採液。夕方から夜は、濾した水と樹乳を上へ返します」

テアが線をなぞる。「オルナの根は歩くたび水場から離れます。固定した都市へ毎日同じ量を送るには、この主管が要る」

 

「仮管を外へ回せば」

「今夜には間に合わない」

ハナが答えた。「上の菌床が乾けば、冬備蓄が三日ぶん減る。根菜棚も明朝の移設に耐えない。産室の湯と卵膜へ返してる水も、同じ管だよ」

 

原因は見つけた。

 

切る場所も見つけた。

 

だから切れば直ると、また一息で考えた。

 

産湯小屋で止めた根より、今度の管はずっと太い。つながっている暮らしも多い。卵を押さえている物と、卵を今日まで生かした物が同じだった。

 

俺は切断線の横へ、停止と書いた。

 

消すと、また誰かが同じ場所を見つけて切る。線は残し、今は切らない理由を足す。

 

「板へそう書いてあるから信じた、では駄目だよ」

ハナが配水図を顎で示した。「あんた、私の話だけで刃を止めるのかい」

 

ありがたい産師長だ。止まった直後に、止まり方まで疑ってくる。

 

テアへ試験できる枝を聞く。主管全部ではなく、上段菌床へ送る戻し水だけを親指幅まで絞り、五呼吸で戻す。産室への細管と長眠液は触らない。上では配水番が流量輪を見ているため、変化は鐘索で返せるという。

 

開始板へ四人で印を置いた。

 

枝弁を一段戻す。

 

三呼吸目で、天井の索が一度鳴った。上段の受水量、下限へ接触。四呼吸目には別の索が二度鳴る。冬蔵へ回す樹乳圧まで、爪一枚落ちた合図だ。

 

五呼吸を待たず、弁を戻した。

 

すぐに上から一度、長く鐘が返る。平常域への復帰。

 

管の脇にある細い覗き口では、濾された水が上へ走り、その反対に採ったばかりの樹乳が下の冷却槽へ落ちていた。一本の管でも、時間と弁で役が変わる。採る管だから悪い、返す管だから必要だと、片方の名前だけでは切れない。

 

俺は作業板へ、上段三呼吸、冬蔵四呼吸で下限と足した。

 

「外回りの長さと必要流量を測る。菌床、冬蔵、産室の最低量を別に出してからだ」

「卵が待てる日数もね」

ハナが言う。

 

テアは別の細管へ手を置いた。灰色の樹乳に、薄い銀色が混じっている。

 

「待たせているのは、これです。長眠液。膜の乾燥と自壊を遅らせる薬」

 

「自然な休眠なのに、延命薬が要るのか」

 

「休眠中の保全薬として帝国に承認されています」

 

答えが板の文句そのままだった。

 

だが、テアはそこで止めなかった。

 

「私が来た三年前、返りの弱い卵膜が二つ潰れかけました。長眠液を入れてから水を保持している。薬効はあります。自然休眠という診断が正しい証明にはなりません」

 

帝国産師団は嘘だけを売っているわけじゃない。

 

薬は時間を買った。オルナはその代金を払い、時間の理由を休眠という札で受け取った。

 

「いくらだ」

 

テアが代金板を出す。

 

一季で冬蔵二棚ぶん。払えない年は、研究回収品の提供で差し引く。

 

研究回収品。

 

嫌な言葉だった。

 

 

保管庫は調査回廊の突き当たりにあった。

 

テア一人の鍵では開かない。ハナが壁根の古い窪みへ爪印を入れ、帝国鍵とオルナ印が揃って薄い扉が外れる。

 

中には薬瓶と記録板が、年ごとに分けて並んでいた。

 

長眠液の受入。使用量。卵膜温度。延命確認。オルナから帝国へ払った樹乳と乾燥菌床。

 

最初の数年は、それだけだ。

 

十五年前から項目が一つ増える。

 

『孵化不全個体・処置後回収』。

 

ハナの指が、その行で止まった。

 

「これは私が落とした卵だ」

 

言葉を柔らかくしない。

 

「冬を越せない年、生まれる前に止めた。住民の食事と、残す卵の湯を守るために」

 

「処置した後は」

「殻と膜を森へ返した。中は帝国が病理を見ると言って引き取った。長眠液の代金から処分費を引くと」

 

テアが一段奥の板を抜いた。

 

表はオルナへ渡す受領記録。裏に、帝国内の輸送先が刻まれている。

 

幼獣神経索、反射保持を確認。

 

帝国新陸計画、アトラス育成槽へ移送。

 

同じ行が、年をまたいで続いていた。

 

数を読もうとして、やめた。処置数と、送られた束の数が一致していない。一つの卵から何束に分けたのか。別の国から混じったのか。ここだけでは分からない。

 

「いま奥にいるのも、休眠が長ければ回収品になる?」

 

ネネは輸送板でなく、長眠液の記録を指した。

 

テアが今年の頁をめくる。卵数の欄は空白だった。重なる膜律を分けられず、数を確定していない。その隣にある処置予定欄も空白。少なくとも、今日の日付で回収を決めた印はない。

 

「決定記録はありません」

「しないって記録は」

 

テアの指が止まった。

 

ない。

 

延命は救う約束ではなく、処置を先へ延ばしただけかもしれない。逆に、この薬がなければ、確かめる前に膜が潰れていた可能性もある。

 

どちらか一つに決めるには、板の空欄が大きすぎた。

 

「アトラスって何」

ネネが聞いた。

 

「帝国が造っている、揺れない新しい土地です」

ミラの声は平らだった。「国獣のいらない土地だと発表されています」

 

国獣のいらない土地へ、幼獣の神経を送る。

 

名前の時点で勘定が合っていない。

 

「現場副長は知ってたのか」

 

「回収欄は知っていました。輸送先の裏面は、いま初めて見ました」

 

テアの顔からは、真偽を測れない。

 

だから板で測る。

 

裏面の閲覧印は帝国鍵だけでは残せない仕組みだった。オルナ印と揃って、いま初めて細い赤線が入っている。少なくとも、テアが今日この扉を開く前に裏を読んだ記録はない。

 

知らなかったから責任がない、とはならない。

 

薬を売り、休眠と書き、回収品を帝国へ渡す仕事の途中にはいた。ハナも、処置した卵の行き先を確かめなかった。

 

二人とも、自分を板から外そうとはしなかった。

 

「写しを三枚」

俺は言った。「オルナ、帝国産師団、俺たちの共同航路。原板はここから動かさない。写す間は扉を閉めるな」

 

「外部へ出す権限はありません」

テアが言う。

 

「じゃあ、権限がある人間を呼べ。待つ間にも全員の前で読めるようにする」

 

ハナはもう入口の鐘索を引いていた。

 

低い鐘が、産室の外へ三度、森の上へ二度響く。産道異常と共同記録を呼ぶ数らしい。

 

人が集まるまで、ミラは赤い操路紐で配水図を組み直した。

 

一本は採液主管。一本は産室へ戻す水。一本は上段菌床と冬蔵。切断線の手前で三つを分け、外回りの仮管へ必要な長さを折畳み板へ移す。

 

命令声は使わない。

 

透明板の上で、赤紐を交差させ、ほどき、別の根へ回す。いつもの手だった。

 

産室前には、採液工、菌床番、産師、家を動かしていた住民が集まった。少し遅れて、根皮の杖をついた老人が一人、二人に支えられて入ってくる。

 

老人は輸送板を見なかった。

 

ミラの手元を見た。

 

九つの結びのうち、逆向きになった三つ目だけを外し、戻し水の紐へ通す。配水と退路を同じ板で分けるため、ミラがいつも使う結び方だ。

 

老人の杖が床へ落ちた。

 

「三つ目だけを逆にする、その九結びをどこで」

 

ミラの指が止まる。

 

「教わりました」

「誰に」

 

答えない。

 

老人は震える手で、赤紐の端にある小さな骨輪を指した。擦れて半分消えた鳥の刻印。俺には古い道具の傷にしか見えない。

 

周りの話し声が細くなる。

 

老人は支えの手を振りほどき、泥の床へ膝をついた。

 

ミラが一歩、止めに出る。

 

間に合わなかった。

 

「お戻りだったのですか」

 

老人は額を赤紐へ向けた。

 

「リュータ王女殿下」

 

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