国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
王女、という呼び方は、道具の名前に似ていた。
その一語をミラへ当てた途端、周りの人間が使い道を考え始めたからだ。
膝をついた老人の後ろで、共同閲覧の鐘に呼ばれたオルナの住民が足を止めている。根議会の青い肩布、産室係の白い腕章、菌床帰りの泥籠。人の輪は狭い回廊へ二重、三重と増え、帝国幕の入口まで塞ぎかけていた。
俺はまず、保管庫の扉を見た。幼獣神経索の移送記録は中にある。原板は置いたまま、写しは途中。王女が出たからといって、記録が勝手に完成するわけじゃない。
「立ってください」
ミラが言った。
老人は額を床根へ近づけたまま動かない。白髪の間へ泥がついている。さっきまで見物していた人じゃない。産室の共同印を持つ手は、樹乳で爪の際まで黒かった。
「その結びを、誰に教わられました」
「先にあなたの名前を」
「シガ・ルウ。旧リュータ交換路のオルナ側記録吏です」
ようやく顔が上がる。濁った左目はミラではなく、赤い操路紐へ向いていた。
「九結びの第三だけを逆へ返す。王家が産室路を開く時の印です。その骨輪も、霧鯨の尾を鳥に見立てたリュータの印。ですが、顔だけなら私は跪きません」
シガは腰袋から、掌ほどの薄い骨板を出した。角が丸く削れ、表には古い道筋が何度も上書きされている。端の穴へ紐を通し、三つ目を反対から戻すと、ミラの手首と同じ形になった。
「交換路を閉じる前、王都から届いた操路証の写しです。結び順、骨輪の刃跡、板を持つ指の置き方まで一致する。ミラ・リュータ王女殿下。お戻りを十五年、お待ちしておりました」
「待たせる約束をした覚えはありません」
ミラの声は平らだった。
ただ、左手が骨輪を隠さなかった。否定もしない。
俺は驚かなかった。いや、驚いた部分はある。目の前で老人が床へ額をつける光景は、追手の札や市場の噂よりずっと重い。けれど王家の可能性なら、王都の追手から九結びを隠した時から頭の端に置いていた。滅びた国の道を全部背負い、古い命令路を知り、商人が王女の名を出した時だけ黙る。いまさら「まさか」と言うほど、俺の目は節穴じゃない。
腹が立ったのは、別の場所だった。
ミラはこの名で開く扉があると知っていた。
それでも俺たちには、鍵を持っていない顔で立たせていた。
「通路を空けなさい!」
根議会の青布をつけた三人が、人垣を割ってきた。先頭の女は共同印を二つ下げている。走ってきたらしく息が荒いのに、シガが跪く姿を見た途端、顎だけはきれいに上がった。
「テア産師。帝国保管庫は閉じたままですね」
「原板も長眠液も動かしていません。両方の鍵がここにあります」
テアが灰色の手袋を外し、帝国鍵を見せる。ハナも自分の首からオルナ印を外さず、胸元へ押さえた。
議長らしい女は一度うなずき、次にミラへ深く頭を下げた。シガほど低くはない。礼にも角度ごとの値段があるらしい。
「オルナ根議会を預かる者として、リュータ王家の帰還を歓迎いたします。まず安全な幕へ。帝国との話は、我々が盾になります」
「何と引き換えに?」
「引き換えなど」
「では、幕へ入れた後も自由に出られますか。私の名を、長眠液の交渉とリュータ復国の宣言へ使いませんか」
議長の口が止まった。
答えは出た。ミラは相手が言い終わる前に不正解札を出すのが早い。
別の議員が一歩出る。
「オルナの卵が帝国に持ち出されていたのです。あなたは同じ被害を受けた国の正統な代表だ。二国で共同声明を出せば、帝国も記録を握り潰せない」
「いま必要なのは卵が通れる迂回路と、長眠液を切らさない支払いです。国名を二つ並べても管は太くなりません」
「もちろん実務も進めます。しかし、国を失った民には旗が要る」
「旗は穴を塞ぎません」
「あなた一人の気持ちで、リュータの名を捨ててよい話ではないでしょう」
人垣の奥で、低い同意が広がった。滅びた国の生き残りがいるのか、単に帝国を嫌っているのかは分からない。どちらでも、声だけなら同じ響きになる。
ネネが俺の上着を引いた。
「あの人たち、ミラを助けたいの?」
「使いたいのと助けたいのは、同時にできる」
「悪い人?」
「それもまだ分からん。冬蔵を帝国に握られてる人間が、握り返せる札を拾ったところだ」
俺だって同じだ。
王女の名で産室へ入れるなら、使えと言いかけた。森の腹で押し戻されている卵を見た後だ。ミラ一人が嫌がることと、何頭いるかも分からない命を秤へ載せれば、どちらへ傾くかなんて考えるまでもない。
その考え方が、目の前の議員とよく似ている。
違いを作るなら、使った後に返せるかだ。
「産室へ入る許可は、議会だけで出せるのか」
俺が聞くと、議長は初めてこちらを見た。泥のついた下層工、しかも右腕に添え木を巻いたよそ者だ。歓迎する要素は一つもない。
「産室奥は母根共有域です。採液契約中はオルナ印と帝国鍵、さらに母獣と同じ繁殖群の国から照合人を一名置く。三者が揃わなければ外壁までです」
「照合人は資格か、身分か」
「古い契約では、同腹国の操路印を預かる者。現在その条件を満たすのは――」
視線がミラへ戻る。
扉が開かなかった理由が、ようやく一つ減った。
テアが眉を寄せる。
「帝国側の記録では、リュータとオルナが同腹だという項目は失効しています」
「失効させたのは帝国の書式でしょう」
シガが立ち上がった。膝についた泥を払わず、古い骨板の裏蓋を滑らせる。中から薄葉紙が三枚出た。
一枚目は産まれ年。二枚目は育った霧流。三枚目には二頭の響骨が、幼い枝分かれの順で描かれていた。
頭から二本。胸で四つ。腹を回って核へ戻る。
旧修繕坑へ向かう前に重ねた地図と同じだった。
「ラグナじゃないか」
口から出た名前に、シガがうなずく。
「黒甲獣ラグナ、霧鯨リュータ。殻も泳ぎ方も違いますが、同じ産み水で孵り、最初の百年を同じ群れで育った同腹です。リュータが沈んだ後、この交換簿は封じられた。オルナの生まれない卵と結びつけられるのを、誰かが嫌ったのでしょう」
ラグナとリュータ。
二枚の地図が似ていた理由を、俺は鎮動杭を使い回す都合だけで考えていた。道具を打ちやすい同じ骨。だが順が逆だ。同じ育ち方をした骨だから、同じ道具が入った。
リュータで通った釘なら、ラグナでも通る。リュータで国獣を黙らせた工程なら、ラグナへ移せる。父の印が二頭の記録に残った理由まで、嫌な形で一本につながる。
ラグナの荷を降ろせという痛みと、ここで生まれられない足音が、別々の故障ではなくなる。
「写していいか」
「共同記録へ入れるなら」
「原紙は持っていかない。ネネ、紙の端を押さえろ。右手は使うなよ」
「それ、レンが言う?」
言われると思った。
左手で作業板を開きながら、ミラを見る。彼女は議長でもシガでもなく、産室幕の縁を見ていた。昨日から泥の乾く暇がない靴。外壁の根へ入った時についた灰緑の泥が、踵でひび割れている。地図板の角は削れ、透明板には採液管の三経路が新しく刻まれていた。
王女だという名が嘘なら、あの泥は消えるか。
消えない。
なら、逆も同じだ。泥が本物だからといって、隠した名まで正しくなるわけじゃない。
混ぜるな。
ひびと荷重を一つの音で決めるなと、親方に何度も叩き込まれた。
「ミラ」
呼ぶと、琥珀色の目が俺へ向いた。
「あんたが王女かどうかは、もう聞かない。骨輪と記録で足りる。聞きたいのは三つだ」
「はい」
「その名を使えば、産室へ入れると知ってたか」
「オルナに交換簿が残っていれば、と考えていました」
「俺たちに言わなかったのは」
「名乗った時点で、いまのようになるからです」
人垣、議会、帝国鍵。見本が揃いすぎていて反論しづらい。
それでも腹が立つのは止まらない。
「三つ目。リュータを沈めた王女ってのも、あんたか」
回廊から音が引いた。
誰も息を止めてはいない。それでも大勢が同じ答えを待つと、森の葉擦れまで遠くなる。
ミラは赤い紐へ触れなかった。逃げる時に押す結び目を、今日は一つも押さない。
「公式記録の責任者は、私です」
「言い方を変えるな」
「リュータ最後の操路切断命令には、ミラ・リュータの署名があります」
シガが目を伏せた。議長たちは知らなかった顔ではない。知った上で旗にしようとしていたらしい。旗は裏の汚れを見せずに済むから便利だ。
「何を切った」
「ここで半分だけ話せば、私は被害者か人殺しか、都合のいいほうへ使われます」
「答えない理由を聞いてるんじゃない」
声が強くなった。左の肋が息と一緒に痛む。走っても持ち上げてもいないのに、怒るだけで傷へ響くのは不公平だ。
ミラは一度だけ目を閉じた。
「全部話します。切った場所も、残した場所も、間に合わなかった人も。ですが今は、卵の出口を先に開けたい」
正しい順番だ。
だから余計に腹が立つ。
俺は彼女の言葉を全部、嘘の箱へ投げ込みたかった。王女が偽名を使った。国を沈めた署名がある。箱へ蓋をしてしまえば、信じた自分の目まで点検せずに済む。
けれど、ミラは第一基で俺の読みを疑った。セラトの上では命令せず、三本の進路を作った。市場では自分を売る契約からネネの名を外し、さっきは冬蔵を枯らす前に弁を戻した。
名は隠した。
やった仕事まで、なかったことにはできない。
「分けて記録する」
俺は作業板へ三本の線を引いた。
一、王女の身分を隠した。
二、操路切断命令へ署名した。
三、ここまでの測定と判断は別に照合する。
「話を聞いた後で、二本目に何を書くか決める。それまでは空ける」
「怒っていないんですか」
「怒ってる。空欄を埋めるのに一番向かないくらいにはな」
ミラの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。安心させるつもりはない。これで許したと取られても困る。
俺は議長へ向き直る。
「許可を出してくれ。王女を旗にする話は、その後だ」
「我々が決めることです。よそ者の工員が」
「よそ者だから言ってる。オルナが自分の卵を交渉札の下に置くなら、俺は弁へ触らない。どっちを先にする」
脅しではない。政治の続きで管を切れば、冬蔵か卵を壊す。俺の腕では、その責任を持てない。
ハナがオルナ印を握ったまま、議長の前へ出た。
「先に産室です。私は十五年、卵を減らして残りを守ったつもりでした。もう、誰かの都合で数を決める側には戻りません」
テアも帝国鍵を持ち上げる。
「産師団現場規程では、生存反応の確認が外交判断より先です。私は開錠を求めます」
帝国の人間が帝国との交渉を後へ回した。議長の顔に、苦いものを飲んだ皺が増える。
やがて共同印が一つ、机代わりの水槽蓋へ置かれた。
「同腹国照合人の署名を。立ち入りは産室、保管庫、供給路に限ります。政治声明の扱いは保留です」
狭い許可だ。
いまはそれでいい。
ミラは署名板を受け取らなかった。赤い紐を解き、第三の結びだけを逆へ返す。それを骨板の溝へ押し当て、ようやく口を開いた。
「リュータ王女ミラ・リュータとして、同腹国オルナの産室立ち入りを請求します。目的は生存個体の確認、出生路の復旧、移送記録の照合。この三点だけです」
声が変わった。
大きくはない。命令口調でもない。それなのに言葉の端が揃い、回廊の奥まで同じ形で届く。セラトに道を選ばせた時とは違う。人へ聞かせるために習った声だ。
議長が共同印を押す。ハナのオルナ印、テアの帝国鍵、ミラの逆結び。三つが横へ並び、産室奥の許可札が青く染まった。
扉を開ける道具として、王女の名が働いた。
ミラは許可札を俺へ渡し、赤い紐を元の結びへ戻した。
「王女の称号は、ここまでです」
シガが息を呑む。
「殿下」
「王冠にも、復国の旗にも、帝国へ渡す荷札にもなりません。産室では地図描きのミラ・セトとして働きます。許可の範囲を越えて私の名を使うなら、この請求自体を共同記録へ異議として残します」
「リュータの民は、では誰を頼れば」
「生き残った人を、死んだ国の形へ戻すために使わないでください。私も戻りません」
拒絶はきっぱりしていた。
それでも、床へ押した逆結びの跡は残る。使ってから返したつもりでも、道具には擦り傷がつく。人ならなおさらだ。
シガはもう跪かなかった。代わりに古い交換簿を両手で抱え、ひどく小さく見えた。
帝国鍵が、テアの手の中で鳴った。
金属音ではない。骨へ直接触る、細く揃った三打だ。
テアの顔色が変わる。
「現場章への緊急送律です」
「さっきの鐘で伝わったのか」
「共同閲覧の鐘は帝国幕の記録器にも入ります。王族名が公の場で確認された場合、私は職務上、事故報を止められません」
「送った?」
「身元確認中、生存反応調査を優先と送りました。ですが、向こうが待つとは」
鍵が二度目の三打を鳴らす。
人垣の外で怒鳴り声がした。次いで、ジオが部下二人と回廊へ入ってくる。武器には黄と白の封帯が巻かれたままだ。抜いていない。それでも、議員たちは一斉に道を空けた。
「帝国艇が外周根へ送律杭を打った」
ジオは俺たちの顔を順に見て、ミラで止める。
「身元は」
「記録上、確認されました」
ミラが答える。
「そうか」
驚きはない。ジオも追手だ。知った上で船へ乗っていた側だった。
「先に言っておく。帝国の手配だけで、オルナ域内の逮捕権は生じない。根議会が拒めば、俺たちが引き渡すこともできない」
議長が少し息を戻す。
「ただし、向こうは法だけを持ってきていない」
外壁から低い振動が届いた。
オルナの足音ではない。三打、休止、三打。帝国の公示律だ。テアが鍵を産室幕の骨伝板へ当てると、男の声が森じゅうの根へ広がった。
『ガルド帝国産律院ならびに霧路保安院より、母獣オルナ根議会へ告示する』
葉が揺れ、菌床の籠が止まり、集まった人間の顔が同じ板へ向く。
『リュータ滅亡に関する操路切断責任者、ミラ・リュータの生存を確認した。同人は多数の国民を死に至らしめ、王家管理記録を持ち出し、帝国保護航路を偽名で通行した重要拘束対象である』
間違いだ、と言える材料を俺はまだ持っていない。
署名はある。偽名も通行も本当だ。正しい部品だけで、向こうに都合のいい道具を組んでいる。
『次の第一夜鐘までに、通称ミラ・セト――国殺しの王女を帝国現場隊へ引き渡されたい』
テアの指が鍵へ食い込む。
『応じない場合、オルナ域への産師派遣、長眠液供給、帝国保護航路の保証を停止する。現場在庫は帝国資産として封印する』
ハナが保管庫の前へ立った。
議長はミラを見た。シガも、住民も、帝国産師も見た。
さっきまでは旗だった。
今度は、薬と道を買うための荷札になった。
ミラは俺から許可札を取り、泥のついた靴で産室幕へ向き直った。
逃げる方向へは、爪先一つ動かなかった。