国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
指一本ぶんの隙間は、道にはならなかった。
ミラの泥の乾いた指が残りを降り、逆向きの第三結びを契約板の溝へ押し込む。細い青光が九つの結びを順に走り、最後に帝国の白い封へ入った。
署名が成立した。
白襟の男が板を取り上げる前に、俺は左手を端へ置いた。
「全文をもう一度読め」
「先ほど確認したはずですが」
「署名の前に聞く条件と、署名された後に残る条件が同じか確かめる」
男の眉がわずかに動いたが、板は引かなかった。
芽吹き月三十二日の第一夜鐘まで、産師派遣、長眠液、人用薬、帝国保護航路を止めない。補充は一巡分。期限より前にミラを拘束せず、同行者、オルナ住民、立会人へ拘束条件を広げない。帝国側が供給を欠かした場合、身柄条項は失効する。リュータ操路切断に関する公式記録は、猶予開始と同時に共同閲覧へ出す。
期限が来た後、ミラは自分の足で帝国外周幕へ入り、保護拘束を受ける。
言葉を丁寧にしても、最後だけは同じだった。
「産室の三目的許可は」
「この契約の担保に含めません」
白襟が答える。「許可板はオルナ産師長が保持する。それも明記済みです」
ハナの首には、ミラが預けた許可札がある。王女の名で開けた扉まで、人質へは入れなかったらしい。
「記録を出さなければ」
「供給不履行と同じ扱いです」
シガが帝国側の読みと自分の写しを照らし、ジオが王国立会印を押した。テアの現場章もある。いまここで板を割っても、四枚の写しから同じ契約が戻ってくる。
俺は手を離した。
「これでいいです」
ミラが言った。
よくはない。
だが、代わりの薬も、九つの不足を減らす工程も、帝国の外を通る退路もない俺が板を奪えば、それは助ける手ではなく進路を決める手だ。
王女の名を黙っていたミラに腹を立てながら、俺は同じことをしようとしていた。
「期限までに、動かせる列を作る」
「卵のためにお願いします」
「あんたの列もだ」
ミラは答えなかった。
「あんたは、何を買ったつもりだ」
「一日です」
「自分一人でか」
「帝国が値段として認めるものを出しました。オルナの冬食や、あの子の霧肺薬より早く出せるものです」
自分を使える資源へ数える声だった。
「署名があることと、全部あんたが払うことは同じじゃない」
「それを決める記録も、契約で出させます」
切断命令へ何を書いたのかは、まだ言わない。俺もここで聞き出さなかった。薄い説明を一枚だけ受け取れば、彼女を被害者か人殺しか、楽なほうへ決めたくなる。
いま買われた一日を、買い戻せる形へする。それが先だった。
その沈黙を同意へ数えないことだけ決め、俺は資源表を持ち上げようとした。右の支えが先に動き、肋の痛みまで遅れて来る。
ネネが板の上端を奪った。
「持つ、走る、ひねる、全部だめ。口だけ使うんでしょ」
「目も使っていいと言われた」
「じゃあ道を見て」
雇った子に板を持たせて、雇い主は空いた左手だけ下げる。かなり格好は悪いが、骨医へ追加料金を払うより安い。
帝国幕を出ると、第一夜鐘の前触れが森の奥で鳴っていた。
猶予は始まった。
*
旧樹洞は、樹洞ではなかった。
オルナがまだ小さく、いまの採液主管も中央七根村もなかった頃、背の低い根が作った戻し水槽だという。根が育って天井を押し上げ、入口を半分塞いだため、外から見れば穴の空いた古木にしか見えない。
中には四本の浅い溝が残り、奥の裂け目から深霧が細く吸い込まれていた。床の片側は冷たく、反対側は発酵根の熱で温かい。熱籠職人が言った据置場所としては悪くない。
問題は、大人が一人ずつしか入れないことだった。
「下の抜け道なら、もっと広いよ」
ネネの後ろから、五人の子供が出てきた。背丈も服もばらばらで、共通しているのは中央村の色札を下げていないことだけだ。
「誰だ」
「根裏の子。ここの風道を知ってる」
「誰が呼んだ」
「私」
ネネは悪びれず答えた。
中央の名簿に家が載っていない子は、配水仕事の交代表にも入れない。その代わり、根が家の床を突き上げた後にできる細道を通り、落ちた道具や霧苔を拾って売る。旧樹洞の底にも、冬を越した霧苔が残っていると知っていた。
「霧苔一籠と風道の印つけ。仕事板から一人半枚。危ない場所は別の印にするって言った」
ネネが説明する。
セラトで俺と結んだ条件を、そのまま使ったつもりらしい。
「危険を誰が説明した」
「古い槽で、熱い根があるって」
「どこまで熱い。どの弁が戻る。根が動いた時、逃げる方向は」
ネネの口が止まる。
知らない危険へ別の印はつけられない。
俺が止める前に、五人のうち一番小さい子が入口脇の穴へ身体を滑らせた。腰に帆糸は結んである。ネネも端を握っていた。だから二人とも、止めるより先に備えた気になった。
穴の中から、乾いた苔の束が一つ投げ出される。
次に、床根が脈打った。
旧槽の底で木栓が外れ、白い湯気が横へ噴いた。使われていないと思った溝へ、主管から漏れた戻し水が走る。子供の帆糸が沈む根へ挟まり、ぴんと張った。
ネネが引く。
糸は動かない。
「引くな、腰が締まる! 手を離すな、その場で止めろ!」
俺は入口へ入らない。入れば右腕を使うし、身体をひねる。何より、穴の中の流れが見えなくなる。
湯気は入口へ来ず、左奥へ吸われていた。なら出口はそちらだ。
「水番、外の二番弁を一段戻せ。主管は触るな。職人は温側の根皮紐を切れ。ネネ、糸を引かず、床まで下げろ!」
弁が戻る。湯気が細くなる。
根皮紐を切ると、古い床板が指三本ぶん浮いた。穴の中で帆糸が緩み、小さな手が苔の間から出る。大人の水番が腹這いになり、肩を掴んで引き出した。
濡れた袖から湯気が上がっている。皮膚は赤くない。呼吸もある。腰紐の跡だけが服へ深く残っていた。
事故ではない、とは書けない。
あと一呼吸、弁が遅ければ熱傷。ネネが力任せに引けば、腰か根皮紐が先に切れていた。
「子供は全員、作業から外れろ」
強い声が出た。
引き出された子が咳をしながら顔を上げる。
「じゃあ、苔を見つけた分もなし?」
「金の話じゃない」
「こっちは金の話だよ。外されたら、また名簿の人だけ仕事になる」
五人は帰ろうとしなかった。怖くないからではない。一人は震えた手を脇へ隠し、別の一人は出口までの歩数を小声で数えている。怖くても、ここで外れれば半枚と夕食が消えると思っている。
俺の命令は事故を止める。
同時に、危険を引き受けた子だけを無給で消す。
「待て。言い直す」
資源表の裏へ新しい欄を作った。
旧槽の内側、熱い溝、根の下、弁より先は大人の危険作業。別契約と中止役を置く。子供は入らない。
外でできる仕事は残す。霧苔の湿りを比べる。風穴へ白布を垂らして向きを読む。四本の溝の泡を数え、変化が出たら鐘を一度鳴らす。必ず二人一組。弁へ触れない。落とした物を取りに戻らない。
「止めたい時は、理由を言わなくていい。帰っても、そこまでの半枚と食事は減らさない。今日の分は全員払う。穴へ入った分もだ」
「誰が払うの」
「オルナの修繕仕事板から」
自分の財布を出せれば少しは格好がついた。俺は骨貨を一枚も持っていない。ハナへ確認すると、彼女は根議会の修繕印を板へ押した。
「事故寸前の分まで子供へ借りにする気はないよ」
ネネが帆糸を握ったまま言った。
「私が誘った。止めていいって言った。でも、どこから危ないか、私も知らないまま入れた」
「次は」
「知らない場所は、先に知ってる大人を入れる」
それだけでは足りない。
「知ってると言う大人にも、試験板を書かせろ。俺みたいなのがいる」
産湯小屋で成長継ぎを塞いだ本人が言うと、妙に説得力があった。
五人には名前を書かせた。字を使わない二人は、自分で決めた印を置いた。丸三つ、曲がった葉、短い横線。名簿の代わりではない。この仕事の賃金を、別の誰かが受け取らないための印だ。
子供を外したから安全、入れたから平等。どちらも一行では書けない。
決める手が先に持つべきなのは、人数ではなく境目だった。
*
旧樹洞の調査は、そこから夜半まで続いた。
霧苔は深霧から水と細かな根養分を吸う。直接、卵へ流せる水ではない。苦い胞子と泥が混じる。だが上段菌床へ送る外槽なら使える。
採液主管を卵側へ落としている間、菌床へ霧苔槽の水を送る。菌床が下限を割らなければ、冬蔵へ入る乾燥菌を三日分減らさずに済む。卵一つにつき冬が三日減る勘定から、まず冬の列を外せる。
卵膜へ戻す水は別だ。冷たい側の古槽を洗い、煮た根皮布を三重に張る。霧苔が集めた水は外槽、産室から戻った清水は内側の四本溝。触れさせない。
底の割れた熱籠二基は、運べば壊れる。ここへ据え、荷重を床根へ逃がせば使える。籠一基の周りへ二本ずつ清水管を巻き、四つの独立した温槽にする。一つが濁っても、他の三つへ混ざらない。
「四卵ぶんに、三十六桶?」
ハナが図を見た。
「運ぶ熱籠は開いた水を一卵三十六桶使う。これは九桶ずつを閉じて戻す。減った分は霧苔槽の凝水を煮て足す。ただし一槽でも九桶を割ったら、四つじゃなくその槽を止める」
「温度は」
「発酵根だけだと夜明け前に下限へ落ちる。熱籠二基を交互に使う。職人二人、産師二人。二呼吸ごとの主管作業とは組を分ける」
言うだけなら簡単だ。
水番が四つの溝へ違う形の木片を浮かべた。ひびのある籠を温側へ据え、底ではなく側面だけに水管を触れさせる。霧苔槽から上段菌床へ仮管を延ばし、流量鐘を最低線へ合わせた。
俺は外で、数字だけを読む。
右腕は使わない。槌も振らない。途中で肋が深い息を拒んだ時は、作業板をネネへ渡して壁根へ背を預けた。俺が倒れて工程を増やすのは、どの資源欄にもない。
第一試験。四槽のうち一つで水位が爪一枚下がった。中止。
原因は古い溝の根穴。樹脂で固めず、膨らむ根皮栓へ替える。成長する口を塞がないよう、抜け幅を残す。
第二試験。温側の二槽が上限を越えた。中止。
熱籠を弱めるのでなく、水管を一巻き外す。夜の根温が下がる余地も残した。
第三試験では、子供二人が外の白布を見て鐘を鳴らした。深霧の吸い込みが止まり、霧苔槽の水が細くなっている。
オルナが向きを変えたせいだった。外槽の口を一つに固定せず、風道三か所へ分ける。大人には入れない根の裏を、五人が外から指した。入らずに役に立てる場所は、ちゃんとあった。
夜明け前、四本の溝は初めて同じ範囲へ収まった。
清水九桶ずつ。温度は下限の指二本上。外槽から上段菌床への流量は、採液を落とした状態でも最低線を爪一枚越える。二つの熱籠は床へ荷を預け、割れが伸びていない。
ハナとテアが別々に板を読み、職人と水番がそれぞれ中止印を確認する。誰も「たぶん」で印を押さなかった。
資源表の六列も、そこで一つずつ照合した。
水。漏れを直して戻った百八桶は、元の三卵ぶん。旧槽の内水三十六桶は四槽へ九桶ずつ回り、減水分だけを煮沸した凝水で補う。三巡保って、濁りなし。
熱。運べる籠三基に、据置の四温槽。割れた籠を直った物とは数えず、動かさない条件ごと板へ残す。
道。旧槽の四溝は産室の根道へ別々につながる。新しく家を退ける必要はない。ただし途中で一本でも根幅が下限を割れば、その先だけを止める。
人。熱籠の職人二人、産師二人、外槽の水番二人。子供の観測役は安全を決める人数へ入れない。来なくても工程が止まらない席にしなければ、拒否権が板の飾りになる。
冬食。採液を落としても、霧苔槽から菌床へ最低量が届いた。少なくとも試験と孵化工程の間、余剰九日は減らさない。
薬。ここだけは変わらない。長眠液も霧肺薬も、帝国の一巡分が切れた後は空欄だった。
六列のうち五つが通った。だから四を足す。薬の空欄があるから十二とは書かない。
最後に、産室側の戻し水を四本へ一巡だけ通した。
旧樹洞の根が低く鳴った。
一度。少し間を置いて二度。四本の溝を水が巡ると、離れた産室から十二の膜律が重なって返る。高い二つと低い一つではない。もっと短い、迎える側の律だった。
ハナが白刃を持つ手を止めた。
「昔、子を産道へ送る時に根が歌った。これは、その頭だけだよ」
「続きは」
「主根を切り替えれば返った。いまは固定輪の向こうだ」
歌はもう一度、短いところだけを繰り返した。答えの来るはずの間が空いたまま終わる。
直った音ではない。
だが、消えていたものがどこまで残っているかは分かった。
芽吹き月三十一日の朝鐘で、冬蔵前の資源表を書き換えた。
対象、十二。
現在、安全工程を通せる数、七。
不足、五。
三から七へ増えたのは、救う卵を四つ選んだからではない。戻し水、熱、冬食、人の四列に、独立して止められる工程が四つ増えたからだ。
板を見に来た住民の中には、霧肺薬の青い染みをつけた子を抱く女もいた。薬の列は消していない。補充一巡、期限まで。その先は空欄のままだ。
女は七を見ても笑わなかった。
それでいい。五つ足りない。
俺も安心しなかった。
旧樹洞の裏には、深霧側へ抜ける細い保守道があった。帝国幕の外周杭より下を通り、風道の出口まで続いている。人一人なら通れる。追手の目を避ける道にはなる。
出口は三つあった。二つは育った根に潰され、一つだけ白布が深霧側へなびく。根裏の子たちが外から歩数を取り、水番が大人の肩幅で通れるところまで確かめた。まだ地図は作業板一枚ぶんで、帝国艇の先に何がいるかも分からない。逃げ道ではなく、逃げ道にできる穴だ。
だが、俺がミラをそこへ押し込めば、契約板を奪うのと同じだ。
冬蔵前で、ミラは契約の写しと資源表を並べていた。七の横へ指を置き、不足五へ移す。
「四つ増やしましたね」
「まだ五つ足りない」
「だから、私の契約は必要です」
必要だと認めたら終わる。
不要だと言い張れば、霧肺薬と長眠液の空欄をミラ一人へ払わせる。
「いま破れとは言わない」
ミラの目が細くなる。
「許可を待っているわけではありません」
「分かってる。俺に止める材料がないって意味だ」
俺は七、薬、旧樹洞の位置を一本の線で結んだ。
「一つしか置かれてない板を、自分で選んだ道と呼ばせたくない。薬の代わりと、卵の残り五つと、断った後に出られる道を作る。その後で、俺は止めたいと言う。選ぶのはあんただ」
「間に合わなければ」
「その時は、間に合わなかった事実ごと話す」
うまい約束ではない。
ミラも礼を言わなかった。ただ契約板を懐へ戻さず、資源表の横へ置いた。
そこへテアが来た。
灰色の手袋ではなく、白い記録手袋をしている。両手には帝国封を切ったばかりの薄板が六枚あった。
「契約の記録開示条項により、リュータ操路切断の公式記録が届きました」
シガが冬蔵の壁へ共同閲覧布を張る。ジオは王国側の時刻印を置いた。帝国だけで読んだ数字にしないための立会いが、また三つ揃う。
ミラは薄板を受け取らなかった。
「先に、死亡確認数を読んでください」
テアは一枚目を開いた。声を低くも、優しくもしなかった。産室で卵膜温度を読む時と同じ声だった。
「リュータ操路切断後、公式死亡確認、七百三十一名です」