国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
七百三十一は、数字として扱いやすかった。
リュータの人口は約十二万。割合にすれば一分にも届かない。そう計算すれば、少ないと言える。
言えるわけがない。
一卵で冬が三日減ると聞いた時と同じだ。大きな数の下へ小さな数を置くと、払える代価に見えてくる。七百三十一人を十二万で割ったところで、欠けた椀が小さくなるわけじゃない。
テアが開いた薄板には、名がなかった。
『リュータ操路切断後、公式死亡確認七百三十一』
その下に、確認済み、行方不明から移行、重複照合済みと、数え方だけが並ぶ。
冬蔵前へ集まっていた住民は、誰も声を上げなかった。霧肺薬を求めた女も、七へ増えた卵札を見ていた水番もいる。ミラの罪を聞くために来た人だけではない。このあと自分の水と食事をどうするか待っている人たちだ。
ミラは薄板へ触れずに言った。
「レン、ネネ、ジオ。先に三人へ話します」
シガの指が、共同閲覧布の端で止まる。
「記録吏として、私も」
「公式記録は公開してください。私の証言も、後で写しを渡します。ですが最初は、十五年間、私が選んで話さなかった相手へ話します」
王女の説明ではなかった。
一緒に船へ乗ってきたミラの順番だった。
ハナは異議を言わず、住民へ資源表の作業を再開させた。テアは六枚の薄板を封布ごとジオへ預け、自分は産室へ戻る。帝国の記録を帝国産師の声だけで読ませないためだ。
話す場所には、冬蔵脇の根待ち室を借りた。オルナの道が動く間、荷と人を一時置く小部屋で、壁から細い根が何本も出ている。朝の脈動のたび、椅子代わりの床根が少しずつ高くなった。
固定した椅子より、いまは都合がいい。
ジオは武器の黄封と白紐を外さず、記録板だけを膝へ置いた。
「確認する。これは王国警備隊の取調べではない。俺にオルナ域での逮捕権はなく、黙秘を破らせる命令も出せない」
「分かっています」
「話した内容は証言記録になる。後の裁判で、あんたに不利な証拠として出る可能性がある」
「それも分かっています」
ジオはそこで板を開かなかった。
「途中で止めるか」
「止めません」
ネネが壁根へ帆糸を掛ける。
「私は聞く仕事で来たんじゃない。嫌になったら出ていい?」
「もちろんです」
「じゃあ聞く」
昨日決めた拒否権を、最初に使わない選択をした。
俺は何も言わなかった。言えば、早く話せか、無理に話すなか、どちらかの命令になりそうだった。
ミラは折畳み地図板を床へ置いた。
開いたのは、俺が旧修繕坑で見た響骨図ではない。十五年前のリュータ背上都市。白い線で上層の王城と居住区、青い線で腹側の避難艇港、その下に小さな二十四の点が刻まれている。
赤い操路紐を三本にほどいた。
一本は上層を吊る都市索。
一本は静釘から心室へ入る拘束索。
一本は下層港と幼獣の泳ぎ場を開く離脱索。
地図の上では別々だった。
中央の黒い輪で、三本は一つに束ねられていた。
「帝国の増設輪です」
ミラは黒輪へ指を置く。「もともとリュータの拘束索と都市索は別でした。還りへ入る時は都市を小区画に分け、下層艇を放し、最後に拘束索を抜く。増設後は、一つを緩めると他の二つへ荷が移る構造になりました」
「なぜ、そんな継ぎ方をした」
俺が聞く。
「都市を分けさせないためです。王家は国土の形を維持したかった。帝国は静釘へ戻る心律を一定に保ちたかった」
「心律を保つ?」
ネネが聞き返した。
ミラは公式薄板の三枚目を開いた。
『鎮動杭返律筒、規定量採取』
国獣を静かにする道具だと、王国では説明されていた。実際には釘へ返る心律を銀筒へ分け、帝国が回収している。ラグナの心律片を市場で見た時、ミラがリュータの図を重ねた理由がこれだった。
「採っていたから、釘を抜かせなかったのか」
「それだけではありません。釘がなければ都市が傾くという説明も事実でした。増設した後では」
最初から都市の支えへ使わなければよかった。
だが、十五年前の時点で正しい昔へ戻る道は塞がっていた。抜けば傾く。残せばリュータの還りと心律を止める。いまオルナで、卵を塞ぐ主管が冬蔵も生かしているのと似ている。
規模も、払った物も、ずっと大きい。
「沈む前、リュータは何をしていた」
俺の問いに、ミラは赤紐を下へ動かした。
「頭を深霧へ向けていました。帝国と王家は操路異常と記録しました。私は、いまなら還りだったと考えます。当時は、その言葉を知りませんでした。ただ、上へ戻せと命令するたび、心室の返りが弱くなることは知っていました」
十二歳だった。
その一言を先に出せば、ここから先を全部、大人に使われた子供の話へ入れられる。
間違いではない。王家と帝国が作った輪だ。ミラが設計したわけじゃない。
それでも、彼女が何を知って手を動かしたかまで消す言葉にしたくなかった。
「十二歳のあんたが、なぜ主切断桿の前にいた」
「上手だったからではありません」
ミラは自分から先に否定した。
リュータの緊急切断溝は、王家の操路印でしか開かなかった。国を一つにつなぐ権限を、最後に国を分ける権限と同じ家が握っていたからだ。成人の操路士は各区画の誘導台へ散り、中央室に残った王家の操路印所持者がミラだった。
「私は六歳から三経路を習っていました。切断桿の使い方も、使ってはいけない理由も。判断を任されたのではなく、鍵としてそこに置かれていました」
「命令した人間は」
ジオが訊く。
「切るな、都市を一つに保てという命令が残っています。誰が、いつ、何を知って出したかは公式板と私の記憶で食い違う。ここでは確定させません」
未来の証拠で埋める欄を、いま恨んでいる相手の名で埋めない。
ミラは自分の証言にも、空欄を残した。
「切る前に、どこまで分かってた」
ミラの指が第三の結びへ移る。
「下層港の離脱扉が開かないこと。幼獣の泳ぎ場へ採取管の戻り圧が入り、呼吸が弱っていたこと。拘束索を切れば、下層艇と幼獣は外へ出られること」
「上は」
「中央輪の反荷重を失います。上層東側の避難橋が落ち、王城側の三居住区が予定より早く傾くと分かっていました」
「人が残ってることも?」
一呼吸ぶん、間が空いた。
「知っていました」
ジオの記録槌が一度、板を打つ。
「人数は」
「確定していませんでした。上層の報告は避難済みと未確認が混ざっていました。少なくとも数百人。千人を越える可能性もあると」
「崩れる時刻は」
「切断後、最短で第一夜鐘一つ。残した誘導索が持てば二つ」
「実際は」
「最初の橋が、半鐘で落ちました」
知っていた。
正確な七百三十一ではない。だが、誰もいないと思って切ったわけでも、崩れると知らなかったわけでもない。
喉まで出かかった言葉が二つあった。
十二歳だったんだろ。
それでも切ったのはあんただ。
片方を言えば、もう片方を黙らせられる。どちらも楽だった。
俺は作業板へ二本の線だけ引いた。
設計した者。
最後に切った者。
同じ欄へ入れない。別の欄にしたからといって、どちらかが消えるわけでもない。
「切らない道は」
ミラは三本の赤紐を並べた。
「拘束を維持して上層避難を続ける。その間、下層艇は離脱できず、幼獣の呼吸はもって一鐘。リュータの心室も限界でした」
一本目を外す。
「下層の離脱索だけ切る。中央輪が戻り、扉は指一本しか開かない。試しました。艇一隻も通りませんでした」
二本目も外す。
「中央輪ごと切る。下層は開く。上層は予定より早く崩れる」
残ったのは一本だった。
「私は三つ目を選びました」
「切らなかったら、七百三十一人は生きた?」
ネネが、残った一本を見ながら訊いた。
ミラは首を横へ振った。
「分かりません。上層避難の時間は増えました。だから助かった人はいたはずです。一方で、心室は限界線を越えていました。拘束を続けた時、上層が最後まで浮いたかも分かりません」
「じゃあ、切ったから死んだっていうのも嘘?」
「違います。私が切ったことで、残っていた時間を短くした人がいる。それは分かっていました」
助かったと断言できない未来で、知っていた損失を消さない。
逆に、いつか崩れたはずだという未来で、自分の切断を全部の原因にもしない。
逆向きの第三結びを切断溝へ入れ、自分の名を言い、主切断桿を下ろした。
刃が入ったのは都市の吊索そのものではない。リュータを留める拘束索だ。だが中央輪で都市索とつながっていると知っていた。
だから「帝国が壊した」とだけは言わない。
だから「王命に逆らった事故」とも言わない。
「私が、国の索を切りました」
ミラの声は震えなかった。
左手の爪だけが、赤紐の跡へ食い込んでいた。
*
切断の後、地図の三本は別々に動いた。
下層の離脱扉が開き、腹側港の艇が深霧へ出た。何隻が最後まで浮いたかは、ミラも確認できていない。少なくとも港を塞いでいた艇列が動き、上層から落ちる荷の真下を外れた。
幼獣の泳ぎ場では、二十四の反応が一斉に散った。
「二十四頭と、どうして分かった」
ネネが聞く。
「泳ぎ場には一頭ごとの水膜がありました。離脱索を開いた後、別々の場所から二十四の短い呼吸が出口を通った。数えたのは私一人ではありません。産師二人と下層艇の風読みが照合しています」
「名前は」
「ありませんでした。王家の台帳では孵化前資産、帝国の台帳では反射試料候補です」
ネネの帆糸が、ぴんと張った。
「それ、名前がないんじゃなくて、つけなかったんだ」
「はい」
「どこへ行ったの」
ミラは答える前に、公式記録の五枚目を出した。
切断後の帝国回収艇入域。
静釘、返律筒、採取済み銀筒の回収。
深霧内の生体反応二十四。追跡索を降ろす。
その先は、開示された板にない。
「私は二十四頭が深霧へ出たところまで見ました。その後、帝国艇が追跡した。逃げ切ったのか、捕まったのかは分かりません」
「助けたって言えないじゃん」
ネネの言葉は容赦がなかった。
「はい。あの時、採取管と閉じた泳ぎ場からは出しました。十五年後のいまも自由だとは言えません」
下層艇も同じだ。
切った瞬間に生きていたことと、その後の人生を救えたことは違う。ミラはそこを自分に都合よくつなげなかった。
上層では、残した誘導索が最初の反荷重で外れた。東避難橋が半鐘で落ち、三居住区のうち二つが深霧へ入る。最後の一つは王城側へ引かれたが、接続床が割れた。
切断室にも退路はなかった。ミラは残した一本で上層へ開路律を送り、同じ律を下層港へ三度流した。二度目で天井が落ち、三度目は返りを拾えなかった。床が裂けた後、腹側を離れかけた艇の索工が彼女を引き上げた。
「自分だけ逃げる道を先に作ったわけではありません」
そう言ってから、ミラはすぐに首を振った。
「ですが、私が生きて艇へ乗り、上に残った人が落ちた結果は変わりません。逃げなかった証明に使うつもりもありません」
公式死亡確認、七百三十一。
「あなたが見た死者は」
ジオが訊いた。
「落下を直接見た人がいます。通信が切れた人もいます。全員の最期を見たわけではありません」
「では、七百三十一を自分が殺したと断言する根拠は」
ミラの目が初めてジオへ鋭く向いた。
「私を軽くするための質問ですか」
「証言の範囲を決める質問だ」
ジオは記録板をこちらへ見せた。
本人が認める行為。主拘束索の切断。
本人が事前に知っていた危険。上層数百から千人超、最短一鐘での崩落。
切断後の結果。下層艇離脱、幼獣二十四反応の退出、上層崩落。
帝国公式記録。死亡確認七百三十一、静釘と返律筒の回収。
未検証。切断しなかった場合の死者、生存艇数、幼獣二十四頭の現在、各命令者と設計責任。
「あんたが七百三十一人全員を殺した、とは証言から確定しない。あんたの切断が関係ない、とも確定しない。俺はそのまま書く」
「王国の警備隊が、国殺しを否定するんですか」
「呼び名は罪状じゃない」
ジオは記録槌を置いた。
「俺の仕事は、あんたを軽くすることでも重くすることでもない。後で都合のいい一行にまとめられないよう、何をしたか残すことだ」
規則を盾にする男は、規則を刃にも鞘にも使う。
俺には、まだそこまで整った答えがなかった。
「レンは」
ミラが俺を見た。
何を言ってほしいかは聞かなかった。
許すと言えば、十二歳の被害者へ戻して守れる。許さないと言えば、七百三十一の後ろへ彼女の全部を押し込められる。
どちらも、いまの俺が楽になる言葉だ。
「全部聞くまで決めない」
「いま、全部話しました」
「あんたが知ってる全部だ」
俺はジオの未検証欄を指した。
「落ちた側の人間、逃げた下層艇、二十四頭、王家、帝国。まだ誰の話も聞いてない。あんたがやったことを、あんたの罪悪感だけで完成させない」
「私の選択だったことまで、他人のせいにしないでください」
「しない。切った欄からあんたの名を消さない。輪を作った欄へ、あんた一人の名も書かない」
慰めにはならなかった。
ミラの爪は赤紐から離れない。
それでも俺は、よくやったとも、仕方なかったとも言えなかった。七百三十一人の家族が目の前にいたら、同じ言葉を出せる自信がない。
「怒っていますか」
「怒ってる」
王女の名を隠したことにも、知っていた危険にも、自分一人を契約の代価へ置いたことにも。
「でも、怒ってる間に責任の欄を一つにしない」
ミラは、ほんの少し目を伏せた。
ネネは途中で出なかった。代わりに二十四の点を一つずつ帆糸で囲み、番号ではない空欄を作っている。
名前は、見つけてから本人と決めると言った。
*
根待ち室を出た時、昼鐘が鳴っていた。
公開資源表の数字は変わっていない。
対象十二。
安全七。
不足五。
冬食余剰九日。
薬は、芽吹き月三十二日第一夜鐘の先が空欄。
告白を聞いても、桶は増えない。
ミラは三目的の許可札をハナへ残し、公式薄板の写しをシガへ渡した。自分の折畳み板と透明板は背へ戻す。赤紐も左手首にある。
旅支度に見えた。
「どこへ行く」
「帝国艇です」
「期限は明日の第一夜鐘だ」
「それより前に拘束しない条項です。私が早く入ることを禁じてはいません」
契約の穴ではない。
本人のために残した選択が、帝国へ行く側にも開いている。
「なぜ今日だ」
「公式記録の残りを開かせます。補充の一巡を、現場在庫だけで終わらせないための受領人にもなります」
「それは帝国へ入らなくても契約で出させられる」
「破れば身柄条項が失効するだけです。薬が遅れた一日は戻りません」
正しい。
正しいから、腹が立つ。
「十五年前、私は一つを通すために別の一つを切りました」
ミラは公開資源表の不足五へ触れた。
「同じことを正しいとは言いません。ですが、使える代価を数えずに安全な側へ立つことも、もうしません」
「だから自分を数えたのか」
「はい」
旧樹洞の保守道はある。
安全に孵せる数は七まで増えた。
けれど、残り五つと薬の代わりはまだない。代案と退路を揃えてから止めたいと言う。俺が決めた順番は、間に合わなかった。
「使ってくれとは言わない」
ミラの足が止まる。
「行くなと命じる材料も、まだない。でも、あんた一人で払えば直るとは思ってない」
「それで十分です」
「十分にするな」
初めて、ミラの口元が少しだけ崩れた。
笑ったわけじゃない。
「だから今度は、私を使ってください」
彼女は泥靴のまま、帝国外周根へ向かった。
ジオは追わない。契約に第三者の拘束を広げないため、王国側立会印を俺へ渡す。ネネも帆糸を握ったまま動かなかった。
俺も走らなかった。
走れない身体と、走らないと決めた約束は、外から見れば同じだった。
森の端に、帝国艇の白い渡り板が下りる。
その上へ、泥の足跡が一人ぶんだけ続いた。