国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
母獣が身を折る時、森は二つに割れた。
最初に切れたのは木でも根でもない。
冬蔵前へ張られていた白い物干し索だった。中央が急にたるみ、次の瞬間には反対へ張って、干していた根皮布を空へ飛ばす。
足元から、オルナの細かな歩調が消えた。
何十本もの短い脚が一斉に止まる。森全体が一呼吸だけ沈み、それから産室のある腹側を内へ抱えるように曲がった。
「伏せろ!」
冬蔵の壁根が持ち上がる。
俺は右手を出さなかった。左膝をつき、腰環の短索を資源表の支柱へ掛ける。深く吸った分だけ左の肋が刺したが、息は途中で止めない。
板の向こうでネネが転がった。黄色い靴が根のくぼみへ引っかかり、帆糸を持つ手は離れていない。
ハナは十二枚の卵札を壁から引き剥がした。冬蔵番の老婆は杓子ではなく、薬の残量板を抱えている。
人、薬、記録。
少なくとも、目の届く範囲には全部ある。
そこで森が割れた。
冬蔵と産室の間を走る根道が、中央から指一本、腕一本、人一人ぶんと開いていく。土はない。割れ目の下に見えるのは、何層にも重なった青白い根と、そのさらに下の深霧だった。
道の両側にある家が別々の方向へ傾く。片方は頭側、もう片方は尾側。間を渡していた水管が伸び、留め輪が一つずつ白くなる。
「主管を閉じるな!」
ハナの声が飛ぶ。
水番が大弁へ走りかけて止まった。閉じれば裂けた管から水は出ない。上段菌床、冬蔵、産室へ行く分も出ない。
「裂け目の左右で枝弁だけ戻せ。中央の圧は旧樹洞へ逃がす。人は根道から外へ!」
言いながら、帝国外周を見る。
白い艇はまだ根へつながっていた。
渡り板の上には、泥の足跡が一人ぶん。先端だけが艇内へ消え、板そのものは巻き上げられ始めている。
追える。
旧樹洞の保守道から外周根へ抜ければ、巻き上がる前の渡り板へ届く。俺は走れないが、ネネかジオへ道を渡せる。艇へ上がった後のことは考えていない。
違う。考えたくないから、追うところまでを仕事にしようとした。
根道の割れ目から、白い湯気が上がる。
旧樹洞の四温槽だ。主管から逃がした戻し水が一度に入り、底の割れた熱籠二基へ予定の倍の圧を掛けている。
帝国艇と産室と中央村。
三つとも、俺のいる場所から別の方向だった。
「レン、板!」
ネネが倒れた資源表を起こす。支柱の片方が抜け、板は中央から斜めに割れていた。
割れた線の下に、古い粉墨が三本残っている。
一本は産室から旧樹洞へ。戻し水と熱を運ぶ四溝。
一本は旧樹洞から深霧側の保守道へ。外周根と帝国艇の下へ出る細い道。
最後の一本は中央七根村を横へ通り、三本の定礎根を順につないでいた。
ミラが採液管を調べた時、共同記録用に写して残した線だ。調査回廊で主管、戻し水、菌床を分け、昨日は七と不足五と旧樹洞を同じ板へ置いた。線は全部見ていた。
見ていたのに、三本目を道だと思っていなかった。
定礎根の線には、黒い固定輪の位置だけでなく、村の下にある白い二重印がいくつも入っている。傷でも水弁でもない。王都の分離継ぎと、セラトの浮函で見た主留めと仮留めの形だった。
「ハナ。この印は何だ」
板を見せる。
ハナの白い眉が上がった。
「古い根分けだよ。まだ読める人がいたのか」
「何を分ける」
「町を載せた浅根を、母根から」
オルナの背上都市は、最初から太い定礎根へ固定されていたわけではない。
森がまだ低かった頃、村は表面近くを横へ這う浅い根へ一つずつ載っていた。水場が変われば、根の白い離れ目を切り、木鞍と家をまとめて別の背へ運ぶ。育った根はオルナへ残り、村を載せた外皮だけが籠になる。
四十六年前、都市の荷を安定させるため、その浅根を三本の定礎根へ縛った。白い根分けは床と固定輪の下へ埋まり、切る仕事ごと忘れられた。
「切れば町が落ちるか」
「支えなしならね」
「いまは」
ハナは割れた根道を見る。
「切らなければ、母根が先に裂ける」
選べる道が三つになった。
帝国艇を追う。
産室と旧樹洞へ入る。
都市を母根から外す。
三つ目だけは、俺がここにいなければ始められない。定礎根、家、冬蔵、水管、逃げる住民。全部の荷を同じ板で見る人間が要る。
ミラは自分が帝国艇へ入った後も、線を一本にしなかった。
どれを選べとも書いていない。
「ネネ。産室の糸は」
「十二本ともある。二本たるんだ。切れてない」
「ハナ、旧樹洞を任せられるか」
「テアと水番がいる。あんたが来ても、手は出させないよ」
俺がいなくても動く場所を二つ確かめた。
残った場所で仕事をする。
ジオが根道の向こうから来た。走ってはいない。部下二人へ前を空けさせ、自分は傾いた家の子供を背負っている。俺の前で膝をつき、子供をハナへ渡した。
「帝国艇が係留索を巻いている。あと半刻で離れる」
「止められるか」
「オルナ域の命令権はない」
予想どおりの答えだった。
「契約の立会人なら」
胸元から、さっき預かった王国側立会印を出す。
ジオは受け取らない。
「お前が持てと言った」
「あの時は、第三者へ拘束を広げない証拠だった。いま使う仕事がある」
契約はまだ終わっていない。
芽吹き月三十二日の第一夜鐘まで、帝国は産師、長眠液、人用薬、保護航路、一巡分の補充、公式記録を出す。ミラが期限より早く艇へ入っても、その義務は減らない。
オルナの根が割れ、供給路は止まりかけている。ここで艇が係留索を巻けば、残りの薬函を積んだ外周根まで引き剥がす。帝国側の都合で履行不能にすれば、身柄条項は失効する。
失効した後にミラを返すかは、また別の争いだ。
少なくとも、いま離れる理由は一つ消せる。
「供給不履行の異議を出せ。公式記録も六枚で終わりじゃない。あんたが受領人だ」
「俺は王国警備だ」
「だから帝国だけの帳面にならない」
ジオが立会印を取った。
「艇を止めても、ミラ・セトを連れ戻す権限はない」
「分かってる」
「お前は来るな」
「分かってる」
二度言うと、ようやく自分の耳にも入った。
ジオは部下二人を残し、一人だけ連れて外周根へ向かう。帝国艇を止める仕事と、ミラの進路を決める仕事を一緒にしないためだ。
俺は資源表を裏返した。
「中央七根村を、母根から外す」
*
切るのは生きた根じゃない。
最初にそれを、集まった全員へ三度言った。
白い根分けは浅根の外皮と母根の間にある。脈を送る緑膜はオルナ側へ残し、水管と木鞍と床だけを村側へ持っていく。黒い固定輪も切らない。先に荷を外してから緩め、定礎根が自分の太さへ戻る道を残す。
「白と緑を間違えたら」
若い根切り工が訊く。
「止める。白い離れ目は汁が出ない。緑は脈で幅が変わる。乾いた黒粉がある場所は古傷だから、その場でハナへ回せ。分からない色を勘で白にするな」
白い離れ目が二本続かない場所もある。昔の移設後に母根が上から育ち、継ぎ目を緑膜で橋渡ししていた。そこは切断候補から外し、両側の可搬根へ索を一本ずつ増やす。切る数を予定へ合わせるより、切れない場所を残した方が町は持つ。
産湯小屋で成長継ぎを傷と間違えた俺が言う。失敗を隠すより、見分け方の値段には使える。
作業は三班に分けた。
頭側は冬蔵と上段菌床。尾側は中央村の家と根菜棚。腹側は産室外壁と旧樹洞。各班に根切り工、水番、家移しを一人ずつ置き、粉墨板を二枚。片方が赤なら、俺の合図を待たず止める。
支えは切る前に作る。
中央村の家はもともと根皮紐で吊ってある。三軒ずつ枝寄せできると、昨日の資源表へ住民が書いた。枝寄せ索を隣の可搬根へ渡し、床の重さを半分ずつ預ける。
冬蔵は動かせない。中身を九つの小棚へ分け、頭側と尾側へ交互に吊る。余剰九日を一つの床へ残さない。薬板と十二の卵札はハナが旧樹洞へ持っていった。
産室外壁だけは、母根と一緒に曲がる必要がある。
都市側へ持っていかない。
四十六年、人間の町を支えた壁を、今度はオルナへ返す。
「第一の根分け、支え半分」
頭側の板が白を返す。
尾側も白。
腹側だけ赤だった。
「何が動いた」
骨伝板からテアの声が来る。
『産室の戻し水、二番溝が下限です。卵膜の位置は変わっていません』
「切るな。旧樹洞の三番槽から一桶回せ」
『一桶では温度が指一節下がります』
「熱籠を強めるな。二番溝の巻きを一つ外し、流れを早くする」
『試します』
待つ。
帝国艇の白い帆が、森の端で見えていた。係留索はまだ張っている。渡り板にはジオが立ち、白襟の男と契約板を挟んでいる。
骨伝板が一度鳴った。
『帝国側は、母獣急変による緊急離域を主張。供給函は艇内に残り二、公式記録は未開示八板。こちらは履行途中の離域と、係留索巻上げによる外周根損傷を異議にした』
ジオの声だ。
「返事は」
『艇長は、身柄受領で契約の主要目的は達したと』
腹の奥が冷える。
人を受け取れば、薬も記録も端数になるらしい。契約文にはそんな順番はない。
「身柄条項と供給条項を分けろ。帝国が書いた板だ。主要かどうかを後から足すな」
『もう言った。外周根の張力が下限へ戻るまで、係留索を一歯でも巻けば現場損傷として記録する』
「止められそうか」
短い間があった。
『命令では止められない。だが艇長が、契約違反と根の切断を自分の名で同時に選ぶなら、その板を全員へ読める』
ジオが使えるのは刃じゃない。
出ていく費用を、出ていく側の欄へ戻す。それで係留索は、少なくとも次の連絡まで動かなかった。
ミラは見えない。
見えない場所を追いたくなるたび、腹側の赤板を見る。
一人で帝国艇へ入ったことを信じる、という言葉は便利だ。何もしない自分をきれいにできる。
違う。
待つなら、戻ってくる場所を残す仕事が要る。
『二番溝、平常の爪一枚上。三呼吸維持』
腹側の板が白へ変わった。
「第一の根分け、八分の一」
根切り工が白刃を入れる。
音はほとんどしない。乾いた外皮が裂け、下から緑の薄膜が現れる。その膜へ刃を当てる前に止まり、木の薄板を差し込む。村側の浅根が爪一枚浮いた。
定礎根の黒輪が鳴る。
「輪を外すな。半段だけ戻せ」
固定を失う前に全部開けば、四十六年ぶんの荷が一度に根へ返る。王城の分離継ぎで東役所班が二段外した時と同じだ。
半段。
定礎根が太くなる。
産室側の割れ目が、指半分戻った。
「次」
第二、第三。
三つ目で頭側の家が一軒滑った。家移しが根皮紐を張り、隣の可搬根へ荷を逃がす。中に残っていた老人は、椅子ごと窓から出された。本人は鍋を忘れたと怒っていたので、意識の確認にはちょうどよかった。
人数板には打撲六、湯気を吸った咳二、行方不明なし。
直った数ではない。今のところ増えていない数だ。
第四の根分けへ刃を入れた時、オルナがもう一度身を折った。
今度は全員が支え索へいた。
中央村の床が母根から腕一本ぶん離れる。切り残した白い外皮が張り、根切り工の一人が刃を落とした。
「拾うな!」
刃は深霧へ落ちず、下の根皮網へ刺さる。道具一本より、離れ目へ手を入れる人間のほうが高い。
母根の曲がりは止まらない。
オルナは都市を落とそうとしているのか。産道を開く反射か。痛みで身体を丸めただけか。
俺の耳だけでは決められない。
「ネネ、帆糸」
「十二本ある。今度は、順番が違う」
旧樹洞から産室へ渡した糸が、一本ずつ上がっていた。
右奥の一番。
少し遅れて左下。
中央の二本が続き、外側、頭側、尾側。十二本が一度に震えるのではなく、離れた場所から順に張って戻る。
「卵が動いたのか」
『膜位置は変わっていません』
テアが即答する。
ハナの水椀も、同じ順で縁を鳴らした。ただし音の始まりは産室ではない。
もっと下。
オルナの脚だ。
左前の短脚が深霧の下へ荷を置く。その足圧が腹根を上がり、一番の膜の下で薄く広がる。次は右の中脚。別の根を通り、左下へ。何十本もある短脚のうち十二の接地だけが、産室の十二か所へ違う道で届いていた。
足音は卵から来ていない。
オルナが、自分の身体の下から位置を返している。
そう言い切る前に、ネネが十二本の糸を一度外した。結びを左右へ入れ替え、同じ順を待つ。
また左前。
右中。
中央二つ。
糸の場所を替えても、足圧と膜の位置の組は変わらなかった。テアの温度板、ハナの水椀、俺の作業板へ時刻を分けて書く。
三つが揃った。
「一つだけ通す動きじゃない」
ネネが言った。
十二の卵がすべて安全に生まれる、とまでは書けない。
ただ、オルナが身を折った先には十二か所ぶんの足場がある。一つを選び、残りを押し戻す動きではなかった。
俺は第四の根分けへ白線を入れ直した。
「十二の位置を、都市の荷重板へ重ねる。足圧の道を一本も塞がない順で外す」
これで可搬根を切る場所が変わる。
頭側から順ではない。十二の足圧を横切らない離れ目から、尾、外、中央と回る。作業は遅くなる。母根へ戻る幅は増える。
「第五、尾側。第六は外。中央は最後」
各班が復唱する。
俺は刃を持たない。
十二の足音、三枚の粉墨板、戻し水、家の人数を同じ時刻へ置く。どれかが赤なら止める。
それだけで、森は少しずつ二つに分かれた。
壊れて離れるのではない。
オルナへ残す母根と、人間が運ぶ町を、昔の継ぎ目で分け直す。
*
夕鐘前、中央七根村の三分の一が可搬根へ載った。
全部ではない。
冬蔵は九棚に分け、上段菌床は最低流量、産室と旧樹洞の四溝も持っている。打撲六人と咳二人は産湯小屋へ移し、新しい骨傷はない。行方不明もゼロのまま。
帝国艇は離れていなかった。
白い渡り板の前に、ジオの立会印と帝国の契約板が並んでいる。補充の薬函が外周根へ下り、公式記録らしい銀板が二箱、シガの書役へ渡された。
ミラは戻らない。
戻らないことと、艇が動いていないことだけが、今ある事実だった。
「今日中に町を全部外すのか」
根切り工が訊く。
「外した後の置き場所が先だ」
可搬根は浮函ではない。母根から離れても、根皮紐と木鞍で一刻は持つ。夜を越すには、同じ広さの生きた背面へ載せ直す必要がある。
ハナが古い成長板を持ってきた。
四十六年前のオルナは、いまより背が低い。中央七根村が載っていた浅根の位置も、現在の産室よりずっと後ろにある。根が育ち、森が頭側へ移るたび、古い背面は外皮の下へ回っていた。
「現在の背で空いてる場所は」
「ないよ。頭側は採液塔、尾側は冬蔵と根菜棚。外縁は歩くたび幅が変わる」
「脚の間は」
「十二の足圧を通す。町を置けば、また産道を塞ぐ」
ネネが帆糸を古い成長板へ重ねる。十二の位置を避け、三万人ぶんの可搬根を置ける幅を探す。
一か所だけあった。
オルナの尾寄り、いまの森より二層下。昔、中央村を載せていた広い背面だ。固定輪も採液管もなく、十二の足圧の外へある。
板の高度線は、白い深霧の中へ沈んでいた。
「ここ、息できないよ」
ネネが言う。
深霧面から大人三人ぶん下。
人間が防霧面なしで立てる場所ではない。水管も光も、今の道から届かない。
それでも、都市を一時置ける広さと、オルナが十二の卵へ足圧を通せる位置を両方満たすのは、そこしかなかった。
俺は作業板の移設候補へ、一本だけ線を引いた。
旧背面。
故郷を守るために町を動かす道は、霧の下にあった。