国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
ミラが自力で帝国艇から戻ってきた時、俺は深霧の下へ町を置く方法を三つ試し、三つとも失敗していた。
オルナが身を折ってから、夕鐘までに七根村の三分の一は背から離れた。人が住んだまま動かせる根と、荷を降ろしてからでなければ動かせない根。それから、生きた緑の膜が渡っていて、いま切ればオルナを傷つける根。白く乾いた離れ目を選んで町側だけを外していけば、少なくとも古い仕組みはまだ動く。
問題は、外した町をどこへ置くかだった。
いまの森より二層下、深霧の底にある古い背面。そこへ空の荷籠を三つ降ろし、俺たちは順に確かめた。
一つ目。濾過布を張った籠は、三十息で白く詰まった。
二つ目。帰り水の細管は古い背面まで届いたが、途中で根に挟まれ、水が指一本ぶんしか上がらなかった。
三つ目。苔灯りは霧に呑まれた。消えてはいない。光が足元まで来ず、あれでは寝床と崖が同じ色になる。
「空気なし、水ほとんどなし、明かりなし」
俺が板へ三本の横線を引くと、ネネが隣で腕を組んだ。
「住めないね」
「今日のままならな」
言い直してはみたものの、ないものが三つも並ぶと、前向きな言葉は薄い。しかも上では、外された住居根を仮支えに預けた人たちが待っている。今夜じゅうに戻すか、別の置き場を決める必要があった。
共有板の数字は、夕鐘を過ぎても変わらない。打ち身六、蒸気咳二、行方不明なし、骨の怪我なし。卵を人工の管で運ぶなら、長く保てるのが七、短く保てるのが五、冬越しの九は生活用から動かせない。薬の欄だけは、明日の第一夜鐘以降の供給がなく、空白のままだ。
四本の経路は生きている。だが、どれも産室と古い空洞をつなぐための経路だ。家、倉庫、井戸場、寝床を抱えた町を一晩で逃がす道にはならない。
仮支えの上では、住民たちが荷を抱えたまま座っていた。戻してくれと言う人も、ここまで外したなら進めと言う人もいる。どちらが多いかを数えて決める話ではない。戻せば産道をまた押す。進めば、まだ住めない場所へ家を降ろす。その費用を払う本人たちに、選べる形を出すのが先だった。
深霧へ垂らした三本の測り縄を、根渡り職人が巻き上げる。俺は右手を添えるだけにして、左で戻った籠の留め具を外した。肋が引きつる前に腰を落とす。走れない、担げない、ひねれない。仕事場では、できないことを忘れるのが一番高くつく。
二つ目の籠を引き寄せたところで、ネネが手を上げた。
「待って。縄、四本ある」
俺たちが垂らしたのは三本だ。
根の裂け目の向こう、帝国艇を留めている古い保守道から、細い赤い紐が伸びていた。泥に隠れた紐が一度張り、二度緩む。三度目に白い指が縁へ掛かった。
根渡り職人が助けに出るより先に、その手が自分で体を引き上げた。
灰色の外套。折り畳んだ地図。透明板。肩から泥を落としながら、ミラが保守道の穴から這い出してきた。
俺の口から出たのは名前じゃなかった。
「怪我は」
「ありません。右膝に泥、左袖に艇の油。どちらも洗えば済みます」
ミラは立ち上がると、八枚の小さな写し札を地図の上へ置いた。全部に帝国印と番号がある。けれど、文字は表題だけだ。
「原板は艇内です。内容の開示はされませんでしたので、封印番号と表題だけ写しました」
「どうやって出た」
「閉じ込められた部屋からです」
声が低くなったのは、俺よりジオだった。契約板を抱え、帝国艇との間を往復していた顔から、いつもの愛想が消えている。
「期限前の拘束は禁止したはずです」
「あちらは、記録保護のための一時待機と呼びました。橋を巻き、内扉を外から閉じても、拘束ではないそうです」
ミラは契約の写しを開いた。身柄を帝国側へ渡すのは明日の第一夜鐘。その前に扉、索、見張りのどれかで退路を断てば、身柄条項だけを停止する。第三者の立会いを増やさないという条件も、帝国側が八枚の公文板を開示することと対になっていた。
八枚は閉じたまま。ミラを入れた扉だけが閉じた。契約の二行を、帝国側が同時に破った形だ。
ジオが契約板を裏返した。そこには、さっきまでなかった細い赤線が一本増えていた。ミラが艇内の押印面から写してきた時刻と、外でジオが橋の巻き上げを見た時刻が一致している。
帝国側が何と呼んでも、扉の内側から開けられず、期限前なら拘束だ。
「契約の身柄条項は失効です。補給と記録開示の義務は残ります」
ジオは板を抱え直し、帝国艇を見た。
「逃げた相手に補給しない、と言わせない書き方にしておいて助かりましたよ。戻ってもう一度、公開の場で読み上げてきます」
「お願いします」
ミラが頭を下げる。ジオは八枚の写し札だけ受け取り、根渡り職人を二人連れて艇へ戻った。銀の記録箱二つは、まだ補給箱の横に封じたままだ。
俺はミラの手を見た。爪の間に黒い油が入り、赤い紐の擦れが指へ残っている。それでも血はない。
「正面の扉以外に、記録投函筒と床下の点検口がありました。風の冷たさと外板の振れを透明板へ写すと、点検口の留めが三点だと読めます。艇がオルナの動きで傾くたび、赤紐で一つずつ荷重を抜きました」
「三つ同時じゃなくていいのか」
「非常時に一人でも外せる構造です。三つ同時なら、記録室に三人いなければ沈めという設計になります」
一点目は、記録棚へ紐を回して横へ引いた。二点目は、投函筒の蓋を支点にして上へ抜いた。最後だけは自分の体重を使い、艇が尾側へ沈む瞬間に床を踏んだという。順番を間違えれば、前の留めが戻る。ミラは外板の揺れを七回待ち、四回目までに順番を確かめ、残り三回で外した。
見つけた出口へ飛び込んだわけじゃない。通れる幅、戻せる床板、下に生きた根があるかを先に測っている。八枚の原板を持ち出さなかったのも、盗んだ記録だと言わせないためだ。逃げる場面でまで、こいつは退路と証拠を別の勘定にしている。
なるほど、と口にする気はない。
ミラは床板を外し、補給函を下ろす索へ移り、艇の腹から保守道へ入った。誰にも引いてもらわず、誰にも扉を開けてもらわず、戻ってきた。途中で見つけた古い風道まで地図へ足している。
それを聞き終えたところで、俺は一番言ってはいけない形に安心を変えた。
「もう一人で行かせない」
ミラの指が、赤紐を巻く途中で止まった。
「それは相談ですか。命令ですか」
「今後の同行条件だ。単独で帝国の施設へ入る時は、外に二人置いて、帰還時刻と――」
「なら、同行はここまでです」
迷いのない声だった。
保守道のそばにいた職人たちが、測り縄へ目を戻す。ネネだけは俺たちを見比べたあと、黙って三つの籠を片づけ始めた。
「待て。危険だったんだぞ」
「知っています。だから地図を作り、契約違反を記録し、出口を三つ探しました」
「失敗したら戻れなかった」
「その失敗の責任も私のものです」
「私は、保護されるために同行しているのではありません。保護対象に置き直すことが条件なら、その条件を受けないだけです」
「あんただけで済まない。俺たちは――」
「私の選択で他の人へ費用が出るなら、その人たちは協力を断れます。作業を止める権利もあります。でも、レンが私の代わりに選ぶ理由にはなりません」
胸の内側で、折れた骨とは別のところが詰まった。
同じ失敗はしないつもりだった。目的を聞く。道を聞く。戻る時刻を置き、危険の合図まで決めてある。前よりはましなやり方を、俺たちはもう持っている。
それらは、相手の選択を残したまま、一緒に払う危険を測る方法だった。ところが俺は、方法を覚えたせいで、使えば正しいと勘違いした。答えが気に入らなければ同行条件に格上げし、守らなければ離れると言える。それでは質問の形をした命令だ。
けれど俺がいま出したのは、それらを一緒に決める相談じゃない。帰ってきたミラの首へ、同行という名の安全綱を結ぶ命令だった。
「悪かった。次からは――」
ミラの目が細くなる。
「謝罪を、次の作業命令に変えますか」
そこで言葉を切った。
代わりの規則を出せば、俺はまた安心できる。外には二人。三本の退路も用意する。危険度は板へ書けばいい。どれも仕事としては間違っていないし、共同作業なら必要になる。
ただし、それを同行を続ける条件にした瞬間、ミラの選択は俺の管理物になる。
「……変えない」
俺は板へ伸ばしかけた手を下ろした。
「一人で行くな、は撤回する。悪かった」
ミラは何も言わない。許すとも、まだ足りないとも返さない。
「あんたが戻らないのが怖かった。追わずにここへ残った俺まで、見捨てた側になる気がした。帰ってきた途端、次は失わない仕事にすれば、その怖さを俺の得意な形へ変えられる。そうやって片づけようとした」
自分で口にすると、ずいぶん勝手な修理だった。相手の道を塞いでおいて、これで故障しないと言い張っている。
「あんたが自分で選んで間違える分まで、俺が先に引き受けることはできない。横で止血することはできる。間違える道そのものを消す権利はない」
「それに、あんたが失敗した時だけ俺の責任だと言うなら、成功した時も俺の手柄にできる。そんな同行はおかしい」
ミラがほんの少しだけ顎を上げた。賛成ではない。続けろ、という合図に見えたので、勝手に安心しないよう続きを言った。
「同行を終えると言ってもですか」
「止める権利はない」
そこは言えた。言えたせいで、腹の底が冷える。
俺は古い背面の図を開き、三本の横線をミラへ見せた。
「ただ、町を降ろすには、あんたの三経路の読み方が要る。帝国の板を読む腕も、古い仕組みを新しい図へ重ねる腕も要る。技術者として残ってほしい」
一度、息を整えた。肋の痛みとは関係なかった。
「それとは別に、俺はあんたにいてほしい。王女だからでも、罪の勘定を一緒に払わせたいからでもない。返事が俺の望むものと違っても、技術の話とは別勘定だ」
ミラは俺を見たまま、赤紐を最後まで巻いた。
「いまは産室へ戻ります」
「それは返事か」
「返事ではありません。十二本の圧が、待ってくれませんから」
それだけ言うと、ミラは透明板を一枚抜いた。帝国艇から保守道を通ってくる途中で写した、新しい線だった。
「古い背面の上に、閉じた風道が三つあります。死んではいません。上から押されて、口が潰れています」
透明板を俺の図へ重ねる。失敗の横線を引いた濾過、水、明かりのうち、濾過の下に古い三本の枝が現れた。
「上というのは」
「町です」
ミラは産室のほうへ歩き出した。呼び止めはしなかった。
代わりに俺は根渡り職人へ、空の荷籠を戻すよう頼んだ。
古い背面へ人は降ろさない。次に試すのは、町の重さだった。
七根村の外れにある空の倉庫根を選び、乾いた白い離れ目を確認する。緑の膜は渡っていない。黒い固定輪は外さず、荷を仮支えへ移し、町側の留めだけを八分の一ずつ緩める。
一度目。倉庫根の重さを半分だけ仮支えへ預ける。
深霧へ垂らした濾過布が揺れた。白く詰まっていた布の中央へ、指二本ほどの透明な穴が開く。古い風道が息を吐いた。
産室から伝令板が返る。十二枚の水皿のうち、頭側の四枚が出口へ髪一本ぶん動いた。
二度目。倉庫根の重さを全部預ける。
風道の口は指四本へ広がった。挟まれていた帰り水の細管から、籠の底へ水が落ちる。今度は十二枚すべての水面に波が立った。動いた幅は違う。頭側は大きく、尾側はまだ小さい。それでも、止まった皿は一枚もない。
三度目は逆にした。荷を町へ戻し、留めを同じだけ締める。
風道は閉じ、水はまた細り、十二枚の皿が元の位置へ戻った。
偶然じゃない。町の荷重と、古い背面の風道と、産室の狭まりが同じ固定輪につながっている。
「もう一度、別の根で」
俺が言う前に、ネネが予備の測り札を職人へ渡した。
「一個だけだと、たまたまって言われるからね」
二本目は水蔵の外棚にした。中身を空にし、生きた膜がないことをハナが水皿で、テアが温度板で確かめる。固定輪を八分の一緩めると、別の風道が開き、産室では尾側の六枚が先に動いた。荷を戻せば、また閉じた。
三本目でも同じ値が出る。
測り札の誤差は、三回とも指の爪より小さい。温度板は赤へ寄らず、オルナの緑の膜にも濁りは出なかった。荷を戻せば圧も戻る。切って進む試験ではなく、同じ場所へ帰せる試験になっている。
俺たちはそこで一度止めた。通ると確かめたからといって、続けて外す権利までは生えない。町を降ろすのは、仮支えで待つ人たちの仕事と寝床を動かすことだ。次の固定輪に手を掛ける前に、今夜の測定値を全員へ見せる必要がある。
場所によって動く卵が違う。だから、これまでは七つぶんの人工経路をつなぐしかないように見えた。水と熱と薬を人の管で回し、狭いところを一つずつ通す。その工程で、期限まで確実に保てるのが七だった。
けれど、十二枚は別々に止まっているんじゃない。
町の重さが、産道の十二か所を別々の固定輪で押さえている。
俺たちは全四路を使って、まだ外していない町根の荷重を測った。古い成長板へ、いまの根の太さを重ねた。ミラが産室から送ってきた十二枚の透明板には、それぞれの卵膜の最大幅が写されている。
最大の卵膜を通すには、いまより腕一本と指三本ぶん広げる必要がある。
乾いた離れ目だけを外し、残る町根の荷を仮支えへ移した時に戻る幅は、腕一本と手のひら二枚ぶん。二本の根で実際に開閉させた値と、古い成長板の比率も合った。生きた膜へ刃を入れる必要もない。
古い背面の風道も、全部で九つ戻る。帰り水は四路から分けられる。灯りだけは町から持ち込む必要があるが、苔灯りなら荷車二台で済む。空気も水もない土地ではなくなる。
旧背面に町を置けるかという問いにも、ようやく条件つきの答えが出た。先に荷を降ろせば、風道が開く。開いた風道を確かめてから次の住居根を降ろす。水は四路のうち一本を生活用へ戻し、残る三本で産室を保つ。明かりは最初の荷として運ぶ。順番を守れば、人を霧の中へ先に置かずに済む。
そこまで板へ書いた時、産室からハナが走らずに急いできた。後ろからテアが十二枚の水皿を載せた台を押し、ミラが透明板を抱えている。
ミラは俺ではなく、共有板を見た。
「人工経路を使う場合の保全数は」
「七のまま。短期五も変わらない」
「都市荷重を外した場合は」
ハナが最大幅の板を、開いた産道の図へ重ねる。余る。二番目も、三番目も、最後の一枚も、すべて輪の内側へ収まった。
テアが薬の欄を指した。
「薬を十二倍に増やす必要はありません。詰まりを解いたあとの保温と帰り水なら、いまある分で順番に渡せます。孵るまで安全だとは、まだ言えません。でも、通れない卵はありません」
ネネが共有板の七を消そうとして、手を止めた。
「これは消さないほうがいいよね」
「ああ。町を降ろす前は七だ」
俺はその下へ、新しい一行を書いた。
都市全荷重除去時、産道通過・孵化工程移行可能数――十二。
十二枚の水皿が、オルナの浅い呼吸に合わせて揺れた。母獣が何を望んでいるかは、まだ知らない。十二卵すべてが無事に孵る保証も、まだどこにもない。
それでも、物理の答えは板に残った。
七を十二へ増やすために、五つぶんの水と熱を新しく作る必要はなかった。
オルナの産道から、町のほうを降ろせばいい。