国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
父は死んだ。
八年前の白降り月二日。そういうことになっている。
なのに三日後の作業板に、父の印がある。
二つの事実を頭の中へ入れると、噛み合わない継鉄みたいに耳の奥で鳴った。どちらかが間違っている。墓か、台帳か、それとも両方か。
「レン」
ミラの声で、昇降鎖がすぐ上まで来ているのを思い出した。
考えるのは逃げてからだ。捕まって保守筒を取り上げられれば、考える材料までなくなる。
俺は父の印へ粉墨を押し、作業記録板の裏へ写した。九十組の印の横に、欠けた輪と二本線が増える。ミラは設置前後の写し紙を地図板へ挟み、留め具を二重に閉じた。
「原本は」
「戻す」
「でも、抜かれたら」
「持って逃げれば、抜く理由をこっちで作る」
七本の筒を棚へ戻し、埃の線を袖でならす。扉の樹脂はミラが持っていた四種類のうち、古い黄灰色を使った。色は合うが、乾くまで半刻かかる。
昇降機の留め爪が、第六足場へ噛んだ。
「下へ」
保守窓の縦穴へ先にミラを入れる。俺も続き、水受けを内側から戻した。左肩が穴の縁へ当たり、昨日ではなく数十息前の打ち身がきっちり抗議してくる。
痛いなら動く。骨は無事だ。
上で靴音が五つ、いや六つ。どれも底が硬い。職人靴じゃない。
「封鎖樹脂に切断痕。室内を確認しろ」
声は若いが、命令され慣れている。王立監査局だろう。
俺たちは響骨二層目の脇を這った。さっき見た黒い釘を越え、北側管の下にある排液溝へ入る。溝は吊街の廃材区まで続く。設計上は液体用なので、人間の膝には一切配慮がない。
「監査が来るの、知ってたか」
小声で聞く。
「今日とは」
「今日じゃなければ?」
「来ることは」
怪しい札が五枚目だ。
俺の前を進むミラの地図板が、時々天井へ当たる。外せば速いのに、背から下ろさない。命より大事かと聞けば、たぶん分からないと答えるんだろう。
背後で保守窓が鳴った。
見つかるまで長くない。
排液溝の先は格子で塞がれていた。錆びた留めを探り針で押し上げる。一本目、外れない。二本目、曲がる。三本目でようやく格子が廃材の山へ倒れた。
音を殺すため受け止めた左肩が、今度は本気で痛んだ。
「右で持ってください」
「先に言え」
「言う前に受けたので」
二人で格子を横へずらす。抜けた先は、吊街最下層の廃材庫だった。
割れた濾過籠、曲がった索輪、樹脂の抜けた継鉄。修理できないと判定された物が、再利用の順番を待って積まれている。人間なら墓場、道具なら倉庫だ。呼び方でずいぶん扱いが変わる。
格子を戻した直後、吊街の警鐘が三度鳴った。
火事ではない。区画封鎖の鐘だ。
「地図描き一名、修繕記録の窃取容疑。外出を止め、各戸を確認する」
骨伝板を通した声が、廃材庫の天井から響く。
説明が早すぎる。あいつらは保守室を見て盗難に気づいたんじゃない。最初から、地図を持つミラを探して下りてきた。
「あんた、何を盗んだ」
「まだ何も」
「『まだ』をつけるな」
ミラは地図板を胸へ寄せた。答えない時の癖なのか、左手の親指が赤い紐の結び目を順に押している。九つ。第1話で見た時と同じだ。
廃材庫の扉を細く開ける。共同廊下の両端で、灰色の監査外套が戸を叩いていた。二人一組。こちらへ来るまで五軒。
俺の部屋へ隠すのは雑すぎる。仕事場へ戻すのはもっと雑だ。
「ここにいろ」
「廃材庫を調べないと?」
「調べる。だから廃材になれ」
一番奥の濾過籠を起こす。外皮は裂けていても枠は使える。内側へミラを入れ、その前に細い索輪と甲板片を積んだ。地図板だけは枠へ引っかかる。
「貸せ」
「嫌です」
「見つかりたいなら抱えてろ」
「折らないでください」
「俺の肩より丁寧に扱う」
「比較対象が信用できません」
板を受け取り、作業上着の背へ差す。肩紐が打ち身を押した。地図一枚で人を殴れそうな重さだ。こいつは十五年ぶんの道を全部持ち歩いているのか。
扉を開け、わざと廊下へ出た。
監査官の一人がすぐ俺を見た。胸の銀札は上背第三監査班。磨かれすぎて、自分では甲の下へ潜らない札だと分かる。
「継骨工。止まれ」
「止まってます」
「第六足場の所属か」
「今朝までは」
「意味は」
「親方が右後脚を封鎖したので、次は左前脚です。配置替えの紙なら班長へ」
監査官は俺の左肩を見た。上着へ錆と樹脂がつき、腫れ始めている。
「その傷は」
「廃材格子に負けました」
「いつ」
「今」
嘘は少ないほうが持つ。格子にぶつけたのも、今なのも本当だ。釘の横で一度目をやった部分だけ言わなかった。
「ここへ女が入らなかったか。二十代後半、藍髪、地図板を携行」
「入ったなら、もっとましな倉庫を勧めます」
「質問に答えろ」
「見てません」
監査官の目が背中の板へ向いた。
「それは何だ」
しまった、という顔はしない。できない時は、相手より先に面倒そうな顔をする。
「廃材台帳です。引き取りますか?」
板を半分抜く。上に被せた俺の作業記録板には、表側の「右後脚、外層異常なし」が見える。監査官は文字と俺の汚れた袖を比べ、触るのをやめた。
上層の人間が下層の物を嫌う時、汚れは便利な鍵になる。
「倉庫を改める」
「どうぞ。右側の濾過籠は腐液が残ってます。靴が溶けても賠償はしません」
監査官二人が中へ入る。俺は入口に立ち、聞かれてもいない廃材の説明を始めた。折れた索輪は再焼成できる。甲板片は吊棚の補強へ回す。濾過籠の外皮は駄目だが枠は使える。
ミラが入った籠も、槌の柄で一度叩いた。
「これは?」
「枠だけ。中は腐ってます」
返りは鈍い。中に人がいる音だが、監査官には分からない。いや、普通の継骨工にも分からない。俺の右奥歯が、籠の向こうで小さく速い呼吸を拾った。
監査官は鼻を覆い、奥まで入らずに出た。
「見つけた場合は第三区詰所へ届けろ。隠匿は資格剥奪だけでは済まない」
「賞金は」
「ない」
「では見つからないかもしれません」
睨まれた。
余計な一言だった。だが、普段から口の悪い人間は、嘘をつく時も口が悪くていい。その点だけは日頃の積み重ねに感謝する。
二人が次の区画へ移る。靴音が階段を上がり、別の扉を叩くまで待った。
濾過籠の前をどけると、ミラは膝を抱えたまま目を閉じていた。
「行ったぞ」
返事がない。
一瞬、腐液で本当にやられたかと思った。籠を叩くと、琥珀色の目が開く。
「……何分ですか」
「寝てたのか」
「目を閉じていただけです」
「人はそれを寝るって言う」
立ち上がったミラの膝が伸び切らず、枠へ手をついた。掌の赤みはさっきより濃い。目の下には白い霧粉じゃ隠れない影がある。
この足場へ来る前から寝ていない。いつからかは聞かない。聞けばまた答えないことが増える。
「動くな」
「監査が」
「いま出れば見つかる。腹が鳴っても見つかる」
俺の部屋は廃材庫の二つ上だ。監査が反対の階段へ入った隙に戻り、朝の煮込みと青い茶碗を持ってきた。ついでに黒パンを二つ。自分の分まで渡すほど親切じゃないので、一つは腰袋へ入れる。
「食え」
「代金は」
「骨貨十二枚」
「高くなっていませんか」
「隠匿込みだ」
ミラは茶碗を両手で受けた。欠けた縁を親指で確かめてから、そこを避けて口をつける。道具の傷を先に見る。少しだけ食べ、すぐ地図板へ手を伸ばした。
「食ってからにしろ」
「冷めています」
「冷めた煮込みは逃げない」
「監査は逃げます」
「逃がせ。いま追う相手じゃない」
自分で言って、バシュと同じ台詞に聞こえた。
二人とも落ちたら原因が喜ぶのか。
正しい命令と、隠していい事実は別だ。そこを一緒にしてしまえば、俺も同じになる。
ミラは結局、茶碗を空にした。匙を置く音が一度だけ枠へ当たる。
「父親の印を追うなら、これを見てください」
地図板を開く。ラグナの六脚と背骨を描いた板の下から、別の薄板が出てきた。
白い線で、長い胴と二枚の鰭らしい形が刻まれている。町の区画もある。中央の高台、腹側へ連なる食堂と艇港、背の縁に沿う小さな家々。
その町並みの半分へ、黒い斜線が引かれていた。
「どこの地図だ」
「リュータです」
名前は知っている。
十五年前、深霧へ沈んだ国。白い霧鯨の背に十二万人が住み、王女が操路を誤って国ごと殺した。祭礼の説教では、命令へ逆らった罰として語られる。
「墓の地図を背負ってたのか」
「墓にした人たちの地図です」
言葉の選び方が変わった。平らなのは同じでも、赤い紐へ触れる指が止まっている。
「あんたはリュータの人間か」
「地図を覚えたのは、そこでです」
「十五年前なら、十二歳だろ」
ミラの目が細くなる。
「年齢まで数えていたんですか」
「荷重と日付を数えるのが仕事だ」
答えにはならない。十二歳の子が一人で国獣一頭ぶんを測れるわけがない。誰かに教わったか、持ち出したか。あるいは、本人が言っていない名前に理由がある。
いま暴いても、父の印は増えない。
「それで、この墓が何の役に立つ」
ミラはリュータの板を九十度回し、ラグナの地図へ重ねた。
六脚と鰭。黒い甲獣と白い霧鯨。外から見れば似ても似つかない。
ところが、響骨の太い線だけが重なった。
頭部から二本。胸部で四つへ分かれ、腹を回って心室へ戻る。右後脚に当たるラグナの枝は、リュータでは右の胸鰭へ伸びている。形は違っても、分かれる順と間隔が同じだ。
黒い点の位置まで。
「同じ鎮動杭か」
「リュータで使われた型を、八年前にラグナへ移しています」
「どうして国獣の種類が違うのに合う」
「響骨の育ち方が近いからです」
「近いって、どのくらい」
ミラは答える前に、赤い紐の七つ目を押した。
「同じ群れで育った個体に見える程度には」
見える程度。
知っているとは言わない。だが、この地図を描いた人間は、二頭の骨を比べられる場所にいた。
「父の印は」
「リュータ側の作業印一覧に、似たものがあります」
板の端に小さな印が並んでいる。帝国式の三角、王立修繕局の輪、国ごとの職人印。その中に、欠けた輪と二本線。
横には「荷重逃がし・旧坑経由」と刻まれていた。
旧坑。
吊街の北端、八年前の崩落で閉じた修繕坑。父と母の墓標が建った原因の場所だ。
喉の奥に、冷めた煮込みより重いものが残った。
あの日から、旧坑へ近づかなかったわけじゃない。仕事で外を通ることはある。崩落は荷重事故で、現場は封鎖され、両親は死んだ。それ以上でも以下でもない。そう並べれば、歩けた。
中へ入る必要だけがなかった。
必要ができた。
十一歳の葬式で、棺は二つとも空だった。深霧へ落ちた遺体は戻らない。代わりに、父の工具札と母の灰色の手袋が一つずつ入り、共同墓標には六人の名前と「荷重事故」の四文字が刻まれた。
俺はバシュに、どの梁が折れたのか聞いた。右からか、上からか、先に鳴った場所はなかったのか。泣き方が分からなかったわけじゃない。原因が分かれば、次に同じ場所へ立つ時だけは止められると思った。
バシュは「子供の仕事じゃない」と言った。
だから二年後、継骨工になった。子供でなくなれば答えをもらえると思い、荷重表を覚え、字を覚え直し、父の古い槌より重い槌を持てるようになった。それでも旧坑の記録を求めなかったのは、仕事にしてしまえば墓を開けることになると知っていたからだ。
荷重事故。死者六名。坑道閉鎖。
三つ並べれば終わった話にできた。親が死んだ理由を毎朝考えなくても、目の前の亀裂は塞げる。そのやり方で八年持たせた。
いま、その継ぎ目から父の印が出ている。
台帳が間違いなら直せばいい。墓が嘘なら、嘘をついた人間を探す。どちらにしても、見なかったことにする作業手順はない。
「監査が上へ移るまで待つ。暗くなったら行く」
「私も」
「地図だけ貸せ」
「嫌です」
予想どおりの返事だった。
俺は青い茶碗を取り上げ、布で拭く。縁の欠けへ煮込みが残っていた。
「じゃあ寝ろ。二刻」
「眠れません」
「さっき寝てた」
「あれは」
「目を閉じてただけ、はもう使ったぞ」
ミラは何か言い返しかけ、やめた。廃材籠へ背を預ける。地図板は胸に抱いたままだった。
俺は入口へ座り、黒パンを噛んだ。左肩が脈に合わせて痛む。共同廊下では監査官の靴音が行き来し、時々、誰かの子供が泣いた。
一刻もしないうちに、ミラの呼吸は長くなった。
寝顔を眺める趣味はない。赤い紐の結び目も、閉じた地図板も、聞けていない答えもそのままにして、俺は見張りへ戻った。
*
夕鐘のあと、旧修繕坑へ向かった。
監査は吊街の中央へ上がっていたが、区画封鎖は続いている。表の橋を避け、濾過嚢の裏を通る細索を使った。ミラは俺の半歩後ろを歩き、ラグナの傾きが変わる前だけ肩を叩く。
旧坑の入口は、俺の記憶より小さかった。
子供の頃は、父の背中が塞ぐほど大きな穴に見えた。いまは二人並べば肩が触れる。封鎖板には八年前の局印と、崩落死者六名の札。父と母の名前もある。
見ないつもりだったのに、最初にそこを見た。
「開けるぞ」
ミラは何も言わず、地図板から黄灰色の樹脂を出した。閉じる準備だ。
封鎖板の留め金は、外す順を間違えると坑全体へ警報が走る。上、右下、左、中央。父に教わった順番が指に残っていた。
板の向こうから、湿った空気が出る。
八年前の匂いなんて覚えていないはずなのに、濡れた鉄と古い樹脂を吸った瞬間、母の手袋が頭に浮かんだ。指先だけ何度も縫い直した、灰色の手袋。
記憶は役に立たない順で戻る。
坑内の足場は半分崩れ、響骨の補助梁が斜めに落ちていた。燐苔灯を二つ点ける。ミラが一つ持ち、地図の「旧坑経由」を照らした。
「右へ十歩。その先に荷重逃がしの継鉄があるはずです」
「壁しかない」
「崩落後に塞がったなら」
「掘る」
肩に負担をかけないよう、短い槌で崩土を崩す。三打ごとに返りを待つ。二度目で空洞が鳴った。
二人で拳二つぶんの穴を開けると、奥に曲がった継鉄が見えた。
普通の継鉄じゃない。幅が広く、中央に深い折れ目がある。折れたというより、途方もない荷重を一度だけ受け、逃がし切れず曲がった形だ。
端に欠けた輪が見える。
父の印。
手を伸ばしても届かない。周囲の崩土を除けば取れそうだが、上の補助梁が一緒に落ちる。いま動かせば、証拠より先に俺たちが埋まる。
「場所だけ写せ」
「持ち出さないんですか」
「持ち出せない。まだ」
その言葉に、自分が少し驚いた。
父の物なら掴みたかった。墓のほうが間違いだという証拠なら、なおさらだ。それでも、周りを見ずに引く手は止められた。
ミラが地図へ継鉄の位置と梁の傾きを書く。俺は壁へ掌を当て、崩落の奥を探った。
この坑へ最後に入ったのは、崩落より一年前だ。父の工具箱から木槌を盗み、見よう見まねで壁を三度叩いた。一打目は手首が浮いて高くなり、二打目は直そうとして低すぎ、三打目でようやく一打目へ戻った。
父には「音を作るな、返りを待て」と笑われた。子供の癖が抜けるまで、その不揃いな三打を何度も繰り返した。
響骨は冷えている。
古いひび。固まった樹脂。人が通らなくなって八年ぶんの沈黙。
その中を、軽い打音が走った。
一打。少し高い。
二打。低い。
三打。最初と同じ。
大人の槌じゃない。
十歳の俺が父の工具箱から盗んだ、小さな木槌の音だった。