国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
町を動かした翌朝、最初に外したのは、俺が締めた継鉄だった。
産湯小屋の裏、緑の成長継ぎへ回した固定帯の締め輪だ。ハナが骨樹脂を剥がし、帯を緩めたあとも、古い継鉄だけは木鞍の脇へ残っていた。二指ぶん動けるから当面は持つ。オルナへ来た日、そう測り直したのは俺だ。
今朝の隙間は、一指半しかない。
産道が開き、都市の荷が降り、根の脈が大きくなった。昨日までの安全幅が、今日も安全とは限らない。分かっていたはずのことを、鉄の輪が俺より正直に示している。
「また固めるのかい」
白刃を持ったハナが、俺の左手を見た。
「外す」
「切れば早いよ」
「帯は使える。継鉄だけ抜く」
木鞍の荷を上索へ移し、産湯小屋の床へ赤い停止札を出す。俺は右手を添えず、左で継鉄の留め木を押した。錆びた鉄は動かない。
一息ぶん力を増やしかけて、肋の内側が硬くなる。腕で勝てないものを体幹へ回す癖は、工具より先に手へ馴染んでいる。
「止める」
声にすると、ハナが上索をもう一段張った。木鞍の重さが抜ける。留め木の下へ根皮油を一滴入れ、待つ。錆が油を吸ったところで左の親指を当てると、今度は音もなく抜けた。
継鉄が固定帯から外れる。
緑の膜がゆっくり広がり、二指、三指と幅を戻した。床は爪一枚傾いたまま止まる。水平にはならない。水槽の脚を一本伸ばせば、湯はこぼれなかった。
「鉄を戻す印は要るかい」
ハナが訊く。
「要らない。根の最小と最大を板へ残す。木鞍の脚で合わせる」
古い継鉄は修理箱へ戻さなかった。使えない鉄ではない。今の根へ使わないだけだ。白布を巻き、七村の共同材置き場へ預ける。誰かが別の荷へ使うなら、その時の幅を測ればいい。
材置き場の番は、白布へ「不良」と書きかけた。俺は止めて、外した理由を三つだけ記す。今朝の根幅三指、継鉄の内幅二指、成長中は再使用しない。別の荷へ使えるかどうかは、使う側が測る欄を空けた。
壊れていない道具を外すと、失敗を隠すために捨てたくなる。逆に、まだ使えると言って元の場所へ戻したくもなる。どちらも鉄の行き先を俺一人で決める点は同じだ。共同材になった継鉄は、修理箱へ戻るより遠く、ゴミ穴へ落ちるより近い場所へ残った。
産湯小屋の壁には、十二枚の卵札がまだ掛かっていた。
全部に、通過時刻と深霧へ入った向きが書かれている。無事という印はない。今日の呼吸を測っていないのに、昨日の丸を伸ばすことはできないからだ。
小屋の外では、七村が朝の形を作っていた。
尾寄りの浅瀬へ並んだ苔灯りは、夜の間に二つ消えた。燃料切れではなく、頭村の風道から来た水滴で芯が寝ている。灯り番が芯を交換し、水番の交替表には夜半で抜けた二人と、代わって入った三人の名がある。
一季の町は、きれいな仮住まいじゃない。
家の床が合わず眠れなかった人。移した根菜棚の位置が分からず朝食を抜いた人。外縁根へ移る予定を保留した家。昨夜の停止板が白でも、朝には新しい赤が出る。
赤札の横には、戻る日ではなく次に測る日が書かれていた。七日後に風道の胞子詰まり、一巡後に水樋の沈み、ひと月後に産室側の根幅。元の中央村へ戻す工程表はない。戻りたい家がなくなったわけではなく、戻せると先に決める人間がいなくなった。
それでいい。
一度決めたから最後まで正しい、という継鉄を、今度は町の相談へ付けないで済む。
*
出発前の共同記録は、冬蔵ではなく七村の中央水場で開かれた。
元の冬蔵前へ集まれば、町がまだ一つだった形を議場へ戻すことになる。水場は七つの可搬根が見える位置にあり、どの村からも同じ一本の仮橋で来られる。
シガが昨夜の共同写しを三枚、離して置いた。幼獣神経索の移送日、帝国産師団の回収番号、アトラス育成槽の受領印。原板は産室の二重鍵庫に戻り、封印線も切れていない。艇内の八原板と、外周根の銀箱二つは、まだ閉じたままだ。
「この写しを、誰の証言として残しますか」
シガはハナでもテアでもなく、ミラへ訊いた。
七村の人たちが、少しずつ静かになる。
十五年前の切断記録を読んだ者もいる。七百三十一という数を聞いた者もいる。知らない者には、ミラは昨日まで帝国艇に入って戻ってきた地図描きだ。全員の見方を一つへ揃える必要はない。
ミラは赤紐の第三結びへ一度触れた。それから、王家の鳥刻印がある骨輪を台へ置く。
「ミラ・リュータとして証言します」
声は広い水場の端まで届いた。
「私は十五年前、リュータの王家非常切断鍵を使い、中央主拘束索を切りました。上街の崩落を早め、公式に確認された死者は七百三十一人です。同時に下港と幼獣解放索が開きましたが、幼獣二十四頭の現在は確認できていません」
昨日までの話を、短くしても軽くはしない言い方だった。
「王女の名は、私がその鍵を使えた理由と、王家記録へ証言を求めるために使います。私の行為を王家以外へ押しつけるためにも、王家の命令を私の行為から消すためにも使いません」
根議会の老人が手を上げた。
「では、その名でオルナと帝国の交渉役に残っていただけるか」
丁寧な問いだった。旗を持てとも、王冠を被れとも言っていない。それでも、行き先を決める問いであることは変わらない。
「必要な証言には戻ります。ですが、残るか進むかは私が決めます」
ミラは骨輪を台から取った。
「ミラ・セトとして描いた地図も、ミラ・リュータとして切った索も、別の人間の仕事にはしません。どちらの名も私の責任から逃げるためには使わない。そして、どちらの名も、私の次の進路を決める許可札にはしません」
拍手は起きなかった。
代わりにシガが証言欄を三つへ分けた。本人が行った切断。王家と帝国の命令・設計。まだ分からない二十四頭と集計外の死者。それぞれへ、ミラの署名、既存記録、空欄を置く。
空欄を埋めたふりをしない板へ、ミラ・リュータの名が入った。
次にテアが前へ出た。
帝国の現場章を外さず、自然休眠の診断根拠がなかったこと、長眠液には膜を保つ実効があったこと、処置卵の幼獣神経索を研究回収品として引き渡す工程に産師団が加わったことを読む。自分が見た欄と、昨日まで見ていなかった裏面を分ける。
ハナも、自分が冬食を守る数だけ卵を残し、外した卵の行き先を確かめなかったと記した。
十二頭が生まれた朝に、全員が正しかった話へはならなかった。
ただ、子を連れ出した記録は残った。王女の名も、産師の印も、都合のいい時だけ消せない形になった。
ジオは艇内八原板の未開示を、完了欄へ移さなかった。表題と封印番号だけの写しへ「内容未受領」と追記し、シガへ同じ時刻板を一枚預ける。帝国艇が第一夜鐘前に離れるなら、閉じた八枚を持って出た事実まで記録するためだ。
テアは帝国艇へ戻らず、期限まで産室の現場章を預かると署名した。帝国を辞めたとは言わない。現場に残ることと、帝国の全命令を拒むことも同じではない。ハナと別々の温度板を持ち、二人の値が違えば七村の共有板へ両方出す。それが、十二頭を送り出した後に残った産師の仕事だった。
共同記録が閉じると、ミラは骨輪を左手首の赤紐へ戻した。
俺を見なかった。
同行の話を、皆の前の証言へ混ぜない。その分け方を見て、俺も声を掛けなかった。
*
修繕艇の出港準備は、昼鐘までに終わった。
旧背面へ使った測り縄を二本残し、霧苔濾過布を三枚積む。清水は一巡分。食料は七日。冬蔵から多く取れば、移住した村の余剰九日を削る。砂双国までの航路が延びた時は、途中の苔船団で買う契約にした。
艇の二重庫は開けない。市場から載せた台帳十六枚と三室箱は、封印を確かめるだけだ。小瓶も首紐のまま。ネネの骨貨は十枚。俺は相変わらずゼロなので、途中で働ける仕事を先に航路板へ書いた。
「雇い主が無一文って、だいぶ危ない契約だよね」
ネネが言う。
「払う分は前に渡した」
「次の一巡は」
「砂で稼ぐ」
「砂を直して骨貨が出るの」
「そこから調べる」
ネネは共同札の停止欄を俺へ見せた。無計画を理由に、まだ契約を切る気はないらしい。
船尾では、ジオの部下が警備艇の予備帆を継いでいる。失った一枚は戻らない。新しい布を足し、左右の重さを合わせていた。ジオの追跡任務も、警備章も残っている。
オルナへ来た時と同じ関係ではない。仲間になったと呼べるほど、命令も罪状も消えていない。
だから、そのまま出る。
以前なら、ミラの透明板を操路卓の左へ置き、赤紐を掛ける釘まで先に空けていた。共同作業の準備だと言えば間違いではない。だが今日は、操路卓を空のままにした。
置き場所を消したわけでも、来るなという意味でもない。俺が作った席へ戻ることを、同行の返事にしないためだ。
ミラは艇へ上がると、透明板を左ではなく中央へ置いた。赤紐は釘へ掛けず、自分の手首に巻いたまま。俺が何も用意しなかったことに礼も不満も言わない。その一歩ぶんの距離を、昔の軽口で埋めるのはやめた。
荷札を左手で締め終えた時、折り畳んだ板が目の前へ出た。
ミラの地図板だ。
昨夜引かれた「直さない道」の横へ、新しい紙が留めてある。
共同操路・修繕契約。
「読んでください」
ミラはそう言って、俺と一歩ぶんの距離を取った。
最初の欄は目的。国獣と住民の異なる進路を測り、三つ以上の選択肢と停止条件を公開する。
次は権限。修繕、操路、息読みは別の仕事で、誰も他の二人の身体、名、過去、帰還を担保にしない。
危険を共有する時は、参加を断れる。別行動を選べる。予定時刻を決めても、遅れだけで追跡や拘束へ切り替えない。同行を続けるかは別に相談する。戻らない可能性を隠さず、戻ってほしいという個人的な希望は命令欄へ書かない。
最後は期限だった。
一つの目的地ごとに更新。次は砂双国。到着後、観測前に三人それぞれが継続か離脱かを選ぶ。
「三人?」
「ネネの有給契約は別紙のままです。ここで勝手に変えません。ただ、共同作業の停止権は同じ欄へ置きます」
ネネ本人にも板を渡す。最初に見たのは、立派な目的欄ではなく賃金と食事だった。そこが別紙のまま続くと確かめ、共同停止欄へ自分の札印を押す。雇われる側の確認であって、俺たち二人の契約へ従属する署名にはしない。
「目的地ごとなら、砂で嫌になったら更新しなくていいんだね」
「私も、レンも同じです」
ネネはそこで白を入れた。
筋が通っている。
通りすぎていて、逃げ道もよくできていた。俺が昨日言った、技術者として必要だという話へは、これで答えられる。個人的にいてほしいという話には触れなくても済む。
そこを指摘すれば、返事を催促することになる。
「直すところは」
ミラが訊いた。
俺は板を最初から読み直した。相手が選んだ失敗の責任を奪わない。成功を自分の手柄へもしない。別行動を罰にしない。
一か所だけ、粉墨を入れる。
「相談の途中で、どっちかが契約を切ると言っても、その場の仕事の停止は先にやる。怒ったまま弁を開け放すのは別勘定だ」
「同意します」
ミラが追記した。
「他には」
「ない」
署名欄は上下ではなく、横に二つ並んでいる。
先に書いたのはミラだった。
ミラ・セト。その下へ小さく、証言上の名はミラ・リュータ、と添える。
俺は隣へレン・カーヴと書いた。右手は使わず、左の文字は少し傾いた。
「同行は続けます」
ミラが署名を乾かしながら言った。
「技術者として?」
訊いたあとで、昨日と同じ二つをまた一つへ戻しかけたと気づく。
ミラは怒らなかった。赤紐の結びを一つだけ確かめる。
「それは、この契約への返事です。それ以外は、契約にしません」
答えがないわけではなかった。
俺が欲しい形へ、今ここで全部埋めないという答えだった。
「分かった」
それ以上は訊かず、契約板を地図へ留めた。
直さない道の隣へ、次の目的地までの線が伸びる。
*
出港索を外す直前、砂交易路の伝令凧がオルナの外周根へ落ちてきた。
帆には、砂節獣カロクの節印と、盾獣フェンの甲印が並んでいる。仲のいい印ではない。衝突警報だ。
ミラが透明板を報告図へ重ねた。
「現在の歩幅が続けば、三日後に正面で接触します」
カロクは東から西へ。フェンは北西から南東へ。二頭とも国境線へ向かっているのではない。動いている二頭の進路が、帝国地図の一本線の上で交わる。
「自然な進路か」
「この図だけでは分かりません。ただ、カロク側の三節目だけが前日より速い。操路で引かれた時のずれに似ています」
衝突まで三日。
俺たちの修繕艇なら、風を二度替えて二日半。右腕と肋を理由に走れなくても、船まで止める必要はない。
七村の人たちへ出港時刻を告げると、根菜棚の女が食料袋を一つ投げてよこした。
右手を出す前に、ネネが横から受け取る。
「砂から帰る時、町がどこにあるかは訊いてから来な」
「勝手に元へ戻す線は引かない」
「ならいい」
修繕艇が旧背面を離れる。
オルナは尾寄りの浅瀬へ足を置いたまま、低い歩調を返した。別れの歌だとは決めない。風道九本と七村の灯りが、白い霧の中で少しずつ小さくなる。
警備艇も後ろから索帆を上げた。
その時、王国の黒い伝令筒が上空から降り、ジオの艇へだけ細索を掛けた。
王家封。警備局外秘。
ジオは部下四人を船尾へ集め、封を切った。小さな艇では、風下にいても読み上げる声がこちらまで届く。
「砂双国の国獣衝突を、住民保護および航路安定のための介入理由として利用せよ。現地の停止要請より、王国軍の進入路確保を優先すること」
誰も返事をしなかった。
ジオも命令書を破らない。日時と受領者を裏へ書き、警備章と一緒に革袋へ入れた。
三日後の衝突は、もう事故として待たれていなかった。