国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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国境は歩いて逃げる

国境杭が、修繕艇の舳先を殴った。

 

砂双国へ着いて最初に壊されかけたのが船で、壊しかけたのが国境だ。ずいぶん律儀な出迎えである。

 

「帆を落として!」

 

ミラの声で左の引き綱を放す。右手は細支えの中へ戻したまま、左足で巻胴の止め木を踏んだ。艇が半身ぶん横へ滑り、赤黒い杭の先が舷板をかすめる。

 

杭は霧砂へ刺さっていなかった。四人の兵士が担いで走っていた。

 

正しく言えば、走っているのは俺たちの下の大地のほうだ。全長十五キロの砂節獣カロク。その三十を越える体節が赤茶の甲を波打たせ、無数の短脚で浅い霧砂を西へ掻いている。修繕艇は最後尾の係留棚へ横づけしようとしていた。

 

そこを、杭を持った兵士たちが東へ駆け抜けた。

 

「退け! 帝国測量の正午線が動いた!」

 

動いたのは線ではない。カロクだ。

 

その指摘は、たぶんここでは安い。

 

芽吹き月三十五日の朝。オルナを出て二日半、俺の肋は咳をすればまだ痛むが、揺れの少ない甲上を歩く許可まではネネの呼吸板で白になった。走る、持ち上げる、右槌を振る、体をひねる。その四つは赤のままだ。

 

だから杭のほうを避けた。国境にぶつかって肋を悪くしました、では修繕費を請求する相手が分からない。

 

「今の、何?」

ネネが畳んだ帆の陰から顔を出した。

 

「たぶん国境」

「国って四人で運べるんだ」

「人手が足りない日は三人かもしれない」

 

笑いかけたところで、岸棚から短い鐘が五つ鳴った。

 

カロクの背へ載る町は、一つの大きな街ではない。節ごとに水膜溝と家並みがあり、間を細い節間橋がつないでいる。俺たちが着いた尾から七節目では、鐘を聞いた人たちが水椀を持って一斉に北側へ走り出した。

 

反対からは、同じ数くらいの人が押し戻されてくる。

 

さっきの杭が、二つの列の間へ立てられた。

 

杭の東へ残った給水棚には赤布、西へ追い出された列には灰布。兵士が、井戸番の板から家名札を外していく。

 

「正午改界だ。フェン側へ出た者へカロク水は渡せない」

 

「朝はこっちだった!」

 

水椀を二つ抱えた男が杭へ詰め寄る。裸足の子が腰布をつかみ、引きずられないよう踏ん張っていた。

 

「家は動いてない。井戸だって動いてないだろ」

「帝国星図の線が基準だ。越境一日は配給停止。杭を抜けば妨害罪になる」

 

線と現場のずれは笑える。

 

ずれた線で水を止められる側でなければ、だ。

 

男が椀を地面へ置くより早く、兵士の一人が柄へ手を掛けた。黄封も白紐もない、すぐ抜ける剣だ。

 

後ろの警備艇からジオが飛び移った。着地で甲板が揺れ、俺の肋まで響く。

 

「武器を抜く前に、適用時刻を示せ」

 

「ヴァルドの警備に権限はない」

「ない。だから命令ではなく確認だ。正午改界なら、今鳴った鐘は朝五鐘だろう」

 

兵士は剣から手を離さない。ジオも警備章を高く掲げず、腰の黄封へ触れなかった。部下四人には艇へ残るよう手で示す。

 

ここで王国軍の進入路を作れという密命を使えば、境を押し返す理由はいくらでも作れる。ジオの革袋は腰にある。封書を破らなかったのと同じように、今も出さないままだった。

 

兵士が答える前に、水守塔から赤い肩布の男が降りてきた。

 

若い。俺よりいくつか上だろうが、日に焼けた顔の目元には、眠っていない人間の細い割れ目がある。両手の指先だけが白くふやけていた。水槽へ腕を入れ続ける仕事の手だ。

 

「鐘がずれた」

 

男は兵士ではなく、給水棚の水時計を見た。

 

「三節目が今朝から速い。尾節の鐘索へ遅れが出てる。改界は正午ではない。札を戻せ」

 

兵士たちは不満を隠さなかったが、剣より先に家名札を戻した。男と子は水椀を受け取る。これで解決、とはならない。杭はその場に残り、次の鐘でまた誰かの家を越える。

 

赤い肩布の男がこちらを向いた。

 

「オルナからの修繕艇だな。水守ヤシュだ。報告より半日遅い」

 

「途中で向かい風を二度食った。衝突まで半日減ったなら、その値から出してくれ」

 

「二日と六刻。フェンが進路を戻さなければな」

 

最初から原因が決まっている言い方だった。

 

ヤシュは俺の右腕と細支えを見て、次に警備艇を見た。歓迎できる材料が一つもなかったらしい。

 

「負傷した継骨工と、追ってきた王国警備。何を直せる」

 

「まず、壊れてる場所を決めつけない」

 

自分で言ってから、さっきの笑いを思い出す。地図が馬鹿なんだと決めて終わりかけた。危ないところだった。

 

ミラが艇から折畳み地図板を持って降りる。操路卓で置いた時と同じく、俺の脇ではなくヤシュと俺の間へ立った。

 

「ミラ。帝国星図の線と、カロクの節を別々に写せるか」

 

「できます。フェンの現在図もあれば、三枚にします」

 

頼む前から出来る前提で話したが、進め方まで決めたつもりはない。

 

「役割を頼みたい。杭が何を基準に動き、何を一緒に動かしてるか、選んで測ってくれ」

 

ミラは共同契約板を開き、目的欄の下へ短く書いた。帝国線、カロク節、生活配給の三図を分離。観測前の継続欄へ自分で白を入れる。

 

「受けます。線を正しく引き直すことは、まだ目的にしません」

 

ネネも別紙の有給札を出した。

 

「息は測る。杭は運ばない」

 

「それでいい」

 

俺も自分の継続欄へ白を入れた。砂双国へ着いた時点で、三人とも前の返事に引きずられず選び直したことになる。

 

砂双国で最初の共同作業は、国境を直すことではなく、三つに分解するところから始まった。

 

 *

 

帝国の国境は、空に打った二つの星杭を結ぶ線だ。

 

空なら動かない。地図の上でも動かない。困るのは、その下を二頭の国獣が歩くことだった。

 

ミラは透明板の一枚へ星線を引き、二枚目へカロクの節を写した。三枚目には井戸、配給棚、家、節間橋、処罰杭を置く。

 

重ねると、同じ家が朝はカロク国、昼は境外、翌朝にはまたカロク国へ戻る。

 

「家が往復してるんじゃない。国境が歩いて逃げてる」

 

「逆です」

ミラが言う。

 

「帝国側は、国境だけが動かないと主張できます」

 

なるほど。地図の上では、逃げているのは七万人を載せたカロクのほうだ。十五キロの国が一軒の家ごと線を越える。それを毎日、杭隊が走って追いかける。

 

無駄な仕事に見えるが、杭の位置で水、税、夜番、裁判、渡橋許可が変わる。杭隊を止めれば、給水棚の番が誰へ渡していいか分からなくなる。間違えて渡した井戸番も越境加担で処罰される。

 

「こんな線、抜けばいいだろ」と言うだけなら簡単だ。

 

抜いたあと、今夜の水を誰が配る。

 

給水棚の裏には、境を越えた家の札が束で掛かっていた。朝に灰布へ移されたのは三十七戸。水だけではない。夜番を外された家が十一、橋の通行を止められた荷車が六、境外の井戸から汲んだとして罰金を付けられた井戸番が二人。三日前の札には赤が戻り、処罰だけが残っている。

 

「戻ったなら、罰も消すんじゃないの」

ネネが札の穴を数えた。

 

「越えた時点では違反だ」

杭隊の書役が答える。

 

「じゃあ明日また越えたら?」

「また止める」

 

同じ家が何度も敵国になり、そのたび一日ぶんの水を失う。杭を走らせる四人が怠けているわけでも、井戸番が意地悪を楽しんでいるわけでもない。動く国へ動かない罰則を継いだせいで、全員が毎日きちんと間違える仕組みになっていた。

 

俺なら、まず札に二つの穴を開ける。星線上の所属と、今いる節の生活配給。だが俺が穴を増やしただけでは、兵士は古い一穴で剣を抜く。

 

「今日だけ水を戻して終わりにはしない」

 

ヤシュへ言い、三十七戸の札を表へ並べた。

 

「境を直す話と、次の鐘まで誰へ渡すかを分けたい。水守が今いる節を保証する。杭隊は星線上の所属を別に記録する。二枚が食い違っても、一巡は処罰を止める。飲んだ水を後で罪には戻さない」

 

ヤシュは即座に白を入れなかった。全節の残水を問われ、書役へ確認させる。尾側は四日、中央は三日、前側は二日と六刻。同じカロクの上ですら、水の余裕は揃っていない。

 

「一巡では長い。次の正午鐘までだ」

 

「短いが、次を測る時刻はある」

 

仮札は白になった。境は残り、三十七戸の水も戻る。きれいな解決ではない。それでも、国境の相談が終わるまで子どもに空の椀を持たせるよりはましだ。

 

ミラは三枚をずらし、星ではなくカロクの節間を基準にした四本目の仮線を置いた。家と井戸は同じ側へ残る。ただしフェンへ近づくほど、帝国線との差は広がった。

 

「カロク側の配給だけなら、この線で固定できます」

 

「国境を変えるのか」

ヤシュの声が硬くなる。

 

「変えません。生活板を国境から外す案です」

 

「フェン側へ水を渡すための抜け道に使われる」

 

ヤシュは三枚目の西端を指で押さえた。そこには、今は閉じられた幅広の荷台がある。カロクの節甲から横へ張り出し、途中で切断された太い樋が二本。敵国へ向けた橋にしては、床が低すぎる。

 

「フェンがあの荷台へ近づき、うちの水膜を裂いた。三年前から乾季の戻りが減ってる。今度は進路まで塞いだ」

 

「水膜を裂いた跡はどこだ」

 

「前から三節目だ」

 

加速している節と一致した。

 

ヤシュに案内され、俺たちは節間橋を二つ渡った。走れないので、一歩ごとに手すりの傾きを読む。カロクは節ごとに動きが遅れて届く。尾側が沈んだあと、二十息ほどして前の甲が持ち上がる。橋はその差を長い革継ぎで逃がしていた。

 

三節目へ近づくにつれ、人が減った。水膜溝は乾き、赤茶の甲へ白い塩筋が残っている。細い家々の窓には布が張られ、井戸桶は底へ届かず転がっていた。

 

ネネが塩筋の上へ帆糸を渡す。

 

「風、上へ抜けてる。膜が破れたなら横へ流れるんじゃないの」

 

「乾いたあとで向きが変わったのかもしれない」

ヤシュは答えたが、指先が肩布の端を強く巻いた。

 

断定ではなく、候補が一つ減った顔に見えた。

 

裂けたという場所へ、刃傷はなかった。

 

代わりに、甲の側面が帯のように磨かれている。幅は家二軒ぶん。前後へ長く続き、表面の細かい突起だけが寝ていた。何かと一度ぶつかった傷ではない。同じ高さ、同じ向きで、何年も押し合った擦れ方だ。

 

磨かれた帯の下に、閉じた孔が並んでいた。

 

俺の腰ほどある薄い弁だ。ひび割れた縁へ左の指を当てると、中は空洞で、奥へ湿った反響が返る。カロクの背にある水膜溝から、側面の孔へ抜ける管らしい。

 

「これ、外へ捨てる水路か」

 

ヤシュはすぐには答えなかった。

 

「古い排水孔だと教わった」

 

「排水なら下向きにする。横へ、それも全部同じ高さに出す理由がない」

 

ミラは透明板を甲へ垂直に立てた。磨かれた帯と孔の高さを写し、フェンの側面図を出す。

 

灰黄色の盾獣。低い甲。腹の下へ大きな貯水嚢がある。図の上で二頭を近づけると、フェンの腹嚢の縁が、カロクの孔と同じ高さへ来た。

 

ヤシュが板を取り上げようとして、途中で手を止めた。共同契約の道具を勝手に奪わない程度には、こちらの仕事を見ている。

 

「そんな図は帝国の古地図にない」

 

「これはリュータに残っていた渡り獣図です。国境が引かれる前のもの」

 

「昔の絵で、今の水不足を決めるな」

 

正しい反発だった。古い形が残っていても、今も同じ働きをするとは限らない。

 

俺は孔の一つへ水椀一杯を流す許可を求めた。ヤシュは一杯の量まで板へ書き、自分で水を持ってきた。

 

弁の上へ薄い革を張り、ネネが帆糸を結ぶ。水を入れると、糸は奥へ引かれたあと横へ揺れた。排水ではない。どこかから返る圧を受ける形だ。

 

二度目はしない。一杯で分かるのは、管が横からの圧を待つ構造だということまでだ。

 

ヤシュは乾いた孔を見下ろした。

 

「水守の古い言葉に、腹合わせというのがある」

 

「喧嘩の作法か」

 

「乾季の終わり、カロクがフェンを押し返した勝利の日だと教わる」

 

声が少し遅れた。

 

「その夜だけ、全節の水膜が満ちたとも」

 

押して勝ったのに、水が増える。

 

ずれは二つあった。なら、別の意味を疑う値打ちは出た。

 

ミラが二頭の図を腹側で合わせた。カロクの長い体には、薄く広い水膜がある。フェンは小さいが、腹へ深い貯水嚢を持つ。片方は広く集め、片方は深く保つ。横の孔と腹嚢を合わせれば、圧の差で水が往復する。

 

乾季に二頭はぶつかっていたんじゃない。

 

腹を寄せて、水を交換していた。

 

ヤシュは否定しなかった。肯定もしない。肩布をほどき、磨かれた帯の長さを測り始めた。

 

水守塔から持ってきた古い木札も、地面へ並べる。勝利の日と書かれた札には、戦利品の数ではなく、前節から尾節までの満水時刻が刻まれていた。一番前が満ちてから一番後ろまで二百四十息。カロクの律が節を渡る遅れとほぼ同じだ。

 

「フェンを押し返したなら、先に潰れるのはこの孔だ」

俺は磨かれた縁を指した。

 

長年使った継ぎ目は、壊れ方まで仕事を覚えている。この弁は潰れていない。平らに擦れ、開く余地を残している。勝敗を決める衝突ではなく、荷重を預け合う接触だった可能性が上がった。

 

ヤシュは木札の表題を粉墨で消さなかった。横へ新しい欄を作り、「交換の可能性、フェン側未確認」と書いた。自分の国の古い祝いを、その場で全部嘘にしない。だが今の観測に合わない意味だけは保留へ動かした。

 

それで十分だった。昔の話を信じるかではなく、今の孔が使えるか調べる仕事へ移った。

 

「フェン側にも同じ跡があれば、進路妨害という決めつけは外せる」

 

俺が言うと、ヤシュは測り縄を張ったままこちらを見た。

 

「向こうへ渡るには国境許可が要る」

 

「その国境、さっき走ってたぞ」

 

「だから捕まえる側も走ってくる」

 

冗談の顔ではなかった。

 

 *

 

昼鐘の前、三節目がもう一度速くなった。

 

最初に気づいたのはネネの帆糸だった。磨かれた帯へ張った十二本が、前から順ではなく、中央の四本だけ強く震える。

 

カロク本来の律は遅れて伝わる。前が沈み、次の節が受け、その次が送る。ところが今は、三節目だけを見えない巻胴で引くように、両隣より先へ出ていた。

 

節間橋が限界まで伸びる。

 

「全員、橋から降りろ!」

 

ヤシュが鐘索を引く。俺たちは水守塔の基礎へ退いた。走らずに済む距離だったのは運がいい。

 

赤茶の甲の中央で、黒い柱が開いた。

 

水守塔ではない。帝国印のある操路塔だ。今まで低い家並みに紛れていた外板が左右へ倒れ、内側の鉄肋が空へ伸びる。柱の根から三節目へ、白い押さえ杭が十六本も刺さっていた。

 

一つの候補しか出さない操路。

 

黒い塔が、低い一音を落とす。

 

奥歯の響骨片が先に痛んだ。小瓶の律ではない。もっと太く、返事を待たず、同じ向きだけを何度も押す音だ。

 

カロクの無数の脚が、ばらばらに霧砂を掻いた。

 

尾側は西へ踏ん張る。前節は体を沈める。三節目だけが命令へ引かれ、節間橋を張り切ったまま北西へ向きを変えた。

 

ミラの三枚の板が、足元でずれる。

 

星図の線でも、節に沿う生活線でもない。

 

三節目の新しい進路を伸ばした先に、灰黄色の巨影があった。

 

フェンだ。

 

塔は、カロクを水の相手へ会わせようとしていなかった。

 

正面からぶつけようとしていた。

 

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