国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
敵国まで、二千歩だった。
近い、と言ったのはネネだ。
「歩けるならね」と付け足したのはミラだった。
カロクの三節目から見下ろすと、灰黄色のフェンはもう霧の向こうの島ではない。低く広い甲が、浅い砂霧を押し分けている。二頭の間は二千歩ほど。カロクが西へ、フェンが南東へ進むたび、その幅は狭くなったり広くなったりした。
間に道はない。
あるのはカロクの短脚、霧砂、フェンの六脚。それぞれが別の間で地面を踏み、国ひとつぶんの重さを持ち上げている。
「走れば半刻だ」
ヤシュが言う。
「走れない」
肋の赤札を見せる。隠して途中で動けなくなるより、今ここで役に立たない部分を出したほうが安い。
操路塔は開いたままだった。低い一音が落ちるたび、三節目だけが北西へ引かれる。カロクの両隣は西へ残ろうとし、節間の革継ぎが限界まで伸びては戻る。
次の加速で、二千歩が千八百へ縮むかもしれない。逆に前節が踏ん張れば、二千二百へ開く。距離を一つ書くだけでは、渡る途中で道が逃げる。
「ここへ橋を掛けるのは無理です」
ミラが透明板へ二頭の足跡を重ねた。
「両端が違う向きへ動きます。一本でつなぐと、橋が先に二国を衝突させます」
ヤシュは古い共有荷台を見た。昨日まで敵が水膜を裂いた跡だと思っていた場所だ。幅広の床は途中で切れ、太い樋だけが横を向いている。
「交換期には、あれを伸ばして渡ったという話もある」
「今は半分しかない」
「だから残りを脚へ載せる」
冗談ではなかった。
カロクの短脚は一本でも家並みほど太い。甲から斜め下へ出て、霧砂を掻いたあと、次の足場を探して前へ送られる。その上面には、昔の金具穴が二列残っていた。共有荷台から短脚へ仮床を下ろし、脚が地面へ着いている間だけ渡る仕組みらしい。
「脚が上がる前に、次の脚へ移る?」
ネネが訊く。
「そうだ」
「失敗した人の数は」
ヤシュは答えず、古い鐘板の裏を見た。そこへ刻まれた欠け印を数える。
「最後の十年で、七人」
「成功した人の数じゃなく、そっちを先に言うのは信用する」
ネネは帆糸を一本出した。ただし契約札へすぐ白は入れない。
渡り方は三つに分けた。
一つ目は、脚上の古道。最短で、カロクの動きを直接読める。足を上げる前兆を外せば落下だ。
二つ目は、修繕艇で二頭の間を飛ぶ。艇は尾から七節目にあり、操路塔の加速中に三節目へ回すだけで一刻以上。フェン側が敵船として射れば終わる。
三つ目は、カロクをいったん離れ、霧砂へ杭を打ちながら歩く。地面は止まっているが、二頭の脚の進路へ入る。
「一と三をつなぎます」
ミラが赤紐を、共有荷台、三本の短脚、霧砂上の古い境界杭へ渡した。
脚が接地している間は古道を使う。次の脚が遠ければ、地面へ降りて境界杭の外を歩く。フェンの前脚が来る前に、その外側へ回り込む。途中で戻る停止点は、共有荷台、二本目の脚、中央杭の三つ。
「俺は二本目で止めるかもしれない」
「全員で戻りますか」
ミラが訊く。
「俺だけヤシュと戻る案も残す。フェンへ入るのに、俺の耳が絶対必要なわけじゃない」
言ってみると、あまり気分のいい案ではなかった。置いていかれるのが嫌なのか、作業から外れるのが嫌なのかは、今は分けきれない。ただ、嫌だから全員を戻す契約にはしない。
ネネが三本目の停止点へ、自分の札印を入れた。
「脚の息はわたしが数える。レンが痛いって言ったら、そこでも止める」
「痛くなくても板が赤なら止めてくれ」
「それも仕事」
ジオは部下四人を連れていくことを選んだ。警備艇を空にはできないので、杭隊の書役二人へ係留棚の立会札を預ける。王国の武器は黄封と白紐のまま。国境を越える許可には、ヤシュがカロク水守印を押した。
フェン側の許可はない。
こちらから敵だと教わった相手へ、こちらの印一つで入る。ずいぶん都合がいい。捕まえる側も走ってくる、というヤシュの話だけは疑う余地がなかった。
*
一歩目から、道が持ち上がった。
共有荷台の端へ下ろした仮床が、カロクの短脚と一緒に霧の上へせり上がる。ネネの帆糸が張り、ヤシュが古い鐘を一度鳴らした。
「接地、百二十息!」
短脚が砂を捉えた。
ミラが先に下りる。赤紐を二列の金具穴へ通し、渡った先で三方向へ張った。俺は右手を使わず、左で腰索を滑らせる。足元は甲というより、ゆっくり傾く屋根だ。
一歩ごとに肋へ小さな振動が来る。痛みは増えない。息も短くならない。そこで速さを上げないのが、一番難しかった。
後ろからジオが追い越さずに付く。
「運べるぞ」
「運ばれたら、降りる時にひねる」
「分かった」
昔なら二度目に同じことを訊いたかもしれない。ジオは一度で引いた。代わりに、次の金具穴へ左の安全索を掛ける。俺の腰索を持つのではなく、道のほうを増やした。
八十息で、ネネが二打した。
脚の奥から、砂を放す細い振動が来る。百二十まであるという古記録より四十も早い。
「上がる!」
走らない。赤紐で示された横のくぼみへ三歩寄り、仮床の低い止め輪へ左肩を入れた。全員が短脚の根元へ集まったところで、巨脚が地面を離れる。
砂霧が下から噴き上がった。
短脚は俺たちを載せたまま前へ送られ、次の接地点を探す。高さは建物五階ほど。落ちれば肋の心配はしなくていい。
ネネは怖いと言わず、帆糸を歯で押さえていた。指で残りの揺れを数え、三本目だけをミラへ渡す。ミラはその糸を赤紐へ結び、次の脚との距離を板へ取った。
「次は届きません。地面へ降ります」
脚が接地する前に、ヤシュが古道の降り索を外へ投げた。ジオの部下二人が黄封のまま巻胴を回し、縄梯子を霧砂へ下ろす。
俺は最後にしなかった。全員の安全を見届けてから降りる役を取れば、右腕と肋で詰まった時に全員を待たせる。三番目で降り、下から縄のねじれだけを見る。
霧砂は固い地面ではない。表面を踏むと指一つ沈み、下の湿った層で止まる。カロクの短脚が抜けるたび、穴の縁が崩れて小さな坂になった。
その穴を二つ避け、帝国の中央杭へ向かう。
敵国まで残り千二百歩。
半分も来ていないのに、フェンの前脚が動いた。
灰黄色の壁が霧の中から持ち上がる。六脚しかないぶん、一本がカロクの短脚より何倍も太い。甲の縁から離れ、俺たちの進路へ振り出された。
「左へ三百!」
ミラが叫ぶ。
三百歩を走れと言われても無理だ。
だがフェンの脚は、いきなり地面へ落ちない。持ち上がり、前へ出て、足裏を広げてから沈む。ネネが帆糸を高く上げ、風の押し返しで残りを読む。
「九十息!」
歩幅を乱さず左へ進む。ヤシュが前、ミラが板を持って隣、ジオたちは後ろで杭を抜きながら来る。国境杭を残せば、逃げ道の真ん中に槍が立つからだ。抜いた杭は捨てず、横へ寝かせて位置札を付けた。
七十息。四十。二十。
最後の二十歩で、肋の内側が熱くなった。痛みは増えたが、息は入る。止まるか。ここで立てば足裏の縁に入る。
「あと十二、同じ速さ!」
ネネの声を使う。急がず十二歩を終え、フェンの脚が作る影から出た。
背後で砂霧が爆ぜる。
灰黄色の足裏が地面へ沈み、寝かせた国境杭を三本まとめて消した。
「国境、踏まれたね」
「四人で運べても、あれには勝てないらしい」
軽口を一つで止める。左脇を押さえ、呼吸を十回測った。痛みは二段上がり、一段戻る。走行なし、転倒なし、息切れなし。ネネが板を黄から白へ戻すまで、その場で待った。
敵国へ着く前に、こちらの国境は砂の下だった。
*
フェンの甲縁には、弩を構えた兵士が三十人いた。
こちらが敵国へ無断で入ったのだから、数に文句は言えない。
先頭にいたのは兵士ではなく、白髪を短く切った女だった。腰は少し曲がっているが、持っている操路杖は真っすぐだ。杖の先には灰黄色の石輪が二つ。フェンの短く硬い律に合わせる道具だろう。
「カロクの水守が、王国兵を連れて貯水嚢を奪いに来たか」
「話をしに来た」
ヤシュが水守印を見せる。
「水を盗んだあとで?」
「盗んだのはそっちだ」
二人の答えが同時だった。
これなら、どちらかの嘘を見つければ早い。
そう考えた。片方の記録が水量を増やし、もう片方が減らしているなら、数字を測り直せば終わる。俺は人間同士の争いまで、ひびのある板と同じにしたかったわけだ。
「老操路士エマだ」
女は名乗り、俺たちの武器と道具を分けて見た。ジオたちの剣には黄封。俺の腰には槌がなく、ミラは地図板、ネネは帆糸。最後にヤシュの肩布へ目を止める。
「記録を持ってきたなら、一枚だけ読む。兵は甲縁に残せ」
「部下を置いて俺だけ入る」
ジオが言う。
エマはうなずき、円環城の下へ俺たち五人だけを通した。
フェンの貯水槽は、甲の中央にある円い縦穴だった。底は見えない。壁に刻んだ百本の水位線のうち、今の水面は下から十九。湿った跡は二十三まで残っている。
「三年前、カロクが交換荷台を切ってから、毎乾季に七本ずつ減った」
エマは古い記録板を並べた。
「去年は五本。今年は四本。向こうの水膜へ吸われた分だ」
ヤシュも水守塔の写しを出す。
「カロクは三年前から戻り水が減った。今年は前節で二日と六刻。フェンが止めた分だ」
どちらも、相手が増えた記録を持っていない。
まず時刻が違う。カロクは律が尾まで届く二百四十息を一巡へ足す。フェンは二拍の鐘をその場で日替わりにする。同じ「乾季一日目」でも、板の端が半刻ほどずれていた。
ミラが帝国星図を下へ敷いた。昨日は生活を切り離すために使った、動かない星の線だ。今日は二国の時刻を一つへ合わせるために使う。
「帝国の正午星を基準にします。両方の板で、影が最短だった印を選んでください」
ヤシュは三枚、エマは四枚を出した。
ネネが水位線の間隔を測る。カロクは膜の面積、フェンは縦穴の深さで数えているから、一本を一本のまま比べられない。ミラが古い共有荷台の樋幅を使い、両方を椀数へ直した。
同じ正午へ揃えた最初の年、カロクは千二百椀を失っていた。フェンは九百椀を失っている。
次の年は、カロク千五百、フェン千三百。
今年は正午までに、カロク八百、フェン七百六十。
どちらも減っていた。
「板を替えたな」
エマがヤシュを睨む。
「そっちこそ、減ったふりをしてる」
「二人とも、今の板だけなら合ってる」
言うと、二人の視線が同時に来た。疑う先を失った顔ではない。次の嘘つきを俺へ変えただけだ。
「カロクからフェンへ流れたなら、合計は同じになる。フェンからカロクでも同じだ。二国とも減って、減り方まで年ごとに近づいてるなら、出口は別にある」
「帝国式の換算で誤魔化す気か」
エマが言う。
その疑いも正しい。星時刻も椀換算も、ミラと俺が選んだ。
「だから、俺たちの答えを採用しなくていい」
共有板を空にして、三つの欄を作る。
一つ目。カロクの水膜から、同じ幅の器へ一杯。
二つ目。フェンの貯水槽から、同じ器へ一杯。
三つ目。互いの記録係が、相手の場所で水位を読む。正午星から次の正午星まで、同じ板へ減少だけを書く。
「今から一日待てというのか」
ヤシュの声が荒くなる。
「待つだけじゃない。三年前から増えた管を探す。二国の管を、同じ印で追う」
相手の嘘を暴けば済むと思っていた。違った。
二人とも、見た範囲では正しい。その狭い正しさへ国を載せ、相手の見えない管を嘘と呼んできた。
なら、見る範囲をつなぐしかない。
エマは長く黙ったあと、操路杖の石輪を一つ外した。ヤシュは赤い肩布から水守印を解く。二つを空の共有板へ並べた。
共同測定は、信用から始まらなかった。
相手に自分の板を監視させることから始まった。
*
三年前から増えた管は、貯水槽の底近くにあった。
帝国の保全管。表の札にはそうある。干上がった時に地下霧水を補うため、フェンの腹を通って砂下へ降ろした管だとエマは説明した。
だが管の外側は冷たく、内側から低い振動が続いていた。補う水が止まっているなら、空管がこんな重い音を返すはずがない。
カロク側の水守板にも、三年前の同じ月、帝国保全管の増設がある。ミラが二国の断面図へ線を引くと、二本は地下で一本の太管へ寄った。
「出口が書かれていません」
「帝国の地下設備だ。砂上の国には管理権がないとされた」
エマの杖先が黒管を示した。
国は地面の上を歩くのに、下へ刺した管だけは帝国の持ち物になる。国境より便利な理屈だ。
俺たちはフェンの腹下にある保守籠へ降りた。右手は細支えのまま、左の腰索だけを使う。降下はジオが巻胴を回し、ネネが管の風を読む。砂下と呼ばれる場所は、霧砂の表面から二層下。日の届かない白い流れの中を、黒い管が南へ伸びていた。
管へ耳を当てない。奥歯の音を証拠にすれば、また俺一人の板になる。代わりに水椀を管壁へ当て、ネネの帆糸を水面へ浮かべた。一定の間で、糸が南へ倒れる。
吸っているのか、送っているのかはまだ決められない。
線だけを追う。
黒管は三百歩先で霧砂から出て、太い蛇腹へ変わった。蛇腹の先には、帝国旗を畳んだ灰色の補給船がいた。帆を落とし、二頭の死角を同じ速さで進んでいる。
船腹の接続口へ、カロク側とフェン側の管印が並んでいた。
第三の出口は、地図にない国ではなかった。
帝国の補給船だった。
上へ戻った時、黒い伝令筒がジオを待っていた。
王家封ではない。警備局の外命令を届けたものと同じ黒だが、今回は封の上へ、部下四人の家名が刻まれている。
ジオは部下を甲縁へ残してきた。だから封を開いたのは自分一人だ。俺たちから二歩離れ、時刻を書いてから文を読んだ。
顔色は変わらない。
ただ、紙を持つ親指が、古い折り目を一つ潰した。
「何が来た」
ジオは命令書を隠さなかった。共有板の横へ置く。
レン・カーヴを国獣衝突工作の容疑で正式逮捕し、王国管理下へ移送せよ。
従わない場合、同行部下四名を反逆加担とし、その親、配偶者、子を連座捜査の対象とする。
末尾には、四つの家の住所まで書かれていた。
今度の命令は、ジオ一人の正しさを折りに来たんじゃない。
四人の帰る場所を、人質にしていた。