国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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水泥棒は地図にいない

ジオは、俺を逮捕しなかった。

 

命令を拒否もしなかった。

 

「受領時刻、芽吹き月三十五日、午後一鐘。容疑事実と管轄の記載なし。執行前に補記を求める」

 

黒い命令書の裏へそう書き、警備章を押す。四軒の住所は隠さず、名前だけ布で覆った。フェンの共有板へ他国の家族をさらす必要はないからだ。

 

「補記が来るまで待つのか」

 

「待つとは書いていない。確認する」

 

ジオの声はいつもと同じだった。親指が潰した折り目だけ、戻らない。

 

「部下に知らせる。家族へ逃げろとは命じられない。逃げれば、それ自体を反逆の証拠にされる」

 

「なら、どうする」

 

「四人が自分で選べるだけの文を見せる」

 

正しい手順で家族が助かるとは、もう言わなかった。

 

ジオは命令書の写しを二枚作り、一枚をエマへ、一枚をヤシュへ預けた。原本は革袋へ戻す。俺の腰へ縄を掛けず、フェン甲縁に残した部下のところへ向かった。

 

返事を急かせば、四軒の家を俺の逃げ道へ使うことになる。

 

だから俺も待つ。ただし、何もしないで待つ時間はなかった。

 

帝国補給船へつながる黒管は、今も水の重い音を返している。カロクの前側に残る水は二日と六刻。正午から一鐘過ぎたぶんを引けば、もう二日と五刻だ。

 

証拠を一枚増やす間にも、水は減る。

 

「管を切るか」

ヤシュが言った。

 

「まだ流れる向きも量も測ってない」

エマが操路杖を床へ突く。

 

「船につながってる。それで十分だ」

 

「補水している管なら、切った瞬間に両国が干上がる」

 

二人の声がまた同じ場所へ戻りかける。

 

ネネが帆糸の束を共有板へ置いた。

 

「風なら、切らなくても向きが分かるよ」

 

「さっき一度測った」

ヤシュが言う。

 

「一か所だけ。船が息を吐いた時か、吸った時か分からない。三か所で、同じ長さを、場所を替えて測る」

 

ネネは自分の有給札を板の端へ出した。

 

「細い点検口は、わたしと同じくらいの人のほうが糸を張りやすい。フェンとカロクから二人ずつ借りたい。危ない管の中には入れない。止めたいって言ったら止める。水と食事、それから賃金」

 

ヤシュとエマは、子どもを貸すという言い方をしなかった。

 

カロク側の管見習い二人、フェン側の水位走り二人へ、仕事の札を出した。年長でも十二ほど、いちばん小さい子はネネより頭一つ低い。日ごろから細い樋の外側を掃除し、鐘時刻を運ぶ有給仕事をしているという。

 

四人は最初から仲よく並んだわけではない。

 

カロクの見習いは灰色の結びを触らず、フェンの水位走りは赤い糸を床へ置いた。互いの国の色を持てば、戻った時に水泥棒の手先と呼ばれる。子どもだから昔の争いを知らない、という都合のいい話ではなかった。大人が毎日動かす杭を、細い手でもう持たされている。

 

ネネは赤と灰の糸を全部ほどいた。

 

「色なしにする?」

 

「どっちの測定か分からなくなる」

フェンの年長の子が言う。

 

「じゃあ色は点検口につける。持つ人にはつけない。終わったら、相手の色の板を読み直す」

 

ネネ自身も、カロク側では灰糸、フェン側では赤糸を持つ。色を消して仲直りしたことにせず、仕事をした場所だけへ残した。

 

エマは四人分の飲み水を別に置き、ヤシュは賃金を二国の半額ずつに分けた。片方があとで仕事を罪にして支払いを止めても、全額を失わないためだ。停止札は六枚。俺やエマが続けろと言っても、本人の一枚が赤なら蓋を閉じる。

 

「帝国船を見に行くの?」

フェン側の子が訊いた。

 

「見に行かない。船から三百歩手前で止める」

 

ネネが答える。

 

「見つからないように?」

 

「見つかっても戻れる距離だから」

 

勇気を試す仕事ではない。六人のうち一人でも赤を出したら、観測ごと戻る。ネネはその条件を本人たちに読ませ、四人が自分で札印を入れるまで糸を渡さなかった。

 

俺の役目は、点検口の外から管の継ぎ目を選ぶことになった。

 

右腕と肋で穴を掘るより、よほど代わりが利かない仕事だ。

 

 *

 

黒管には、同じ形の点検口が七つあった。

 

全部を測る必要はない。カロク管とフェン管が合流する前に一つずつ。合流後に一つ。帝国船の蛇腹前に一つ。四点あれば、どこで流れが増えるか分かる。

 

ネネは帆糸を同じ三十指に切り、端へ水滴ひとつぶんの骨粉を塗った。重さを揃えるためだ。カロクの二人は赤い結び、フェンの二人は灰色の結びを作る。

 

最初はカロク側。

 

点検口の蓋を指二本ぶんだけ開ける。ネネが赤糸を差し、カロクの見習いが十息を数えた。糸は合流点へ倒れ、骨粉が二目盛り流れる。

 

次はフェン側。灰糸も合流点へ倒れ、三目盛り。

 

「こっちが多い」

フェンの子が言う。

 

「糸を替える」

 

ネネは赤と灰を交換し、測る子も入れ替えた。今度もカロク二、フェン三。糸や手の癖ではない。

 

合流後は五目盛りになるはずだ。

 

実際は、七目盛りだった。

 

「二つ増えた」

 

カロクの小さい見習いが管の下を覗く。入るなという線の手前で腹ばいになり、指を差した。

 

黒管の下へ、霧砂と同じ白色の細管がもう一本寄っていた。上から見れば砂に紛れる。帝国の保全図にはない。

 

地下霧水を集める枝管だ。

 

水泥棒は、二国の地図に載っていなかった。

 

最後の蛇腹前で、糸は九目盛りまで倒れた。二つ目の白管が合流している。しかも帝国船の弁が鳴るたび、四点すべての糸が船側へ引かれた。

 

補水ではない。

 

カロクとフェンの水、それに地下の霧水まで、補給船へ吸い上げている。

 

蛇腹前の点検蓋には、もう一枚の薄板が裏返しで留められていた。

 

子どもが見つけたのは、字ではなく四つの刻みだ。黒管の弁に同じ形があり、一、三、九、零の順で深くなる。ネネが糸の目盛りと並べると、補給船の吸い込みが強くなる時刻に一致した。

 

ミラが板を外さず、鏡布を差し込んで裏面を写す。帝国の管制手順だった。

 

接触予定二日前、抽水九。接触一刻前、抽水停止。衝突後、救護水を両国へ有償供給。給水所は帝国警備下へ置く。操路不能となった二頭は、住民保護のため帝国管理路へ移送する。

 

最後の欄には、カロクとフェンの国印を押す場所がない。帝国救護隊長、帝国操路監、帝国水務官の三つだけだ。

 

「ぶつかったあと、水を返すつもりだったのか」

ヤシュが低く言う。

 

返す量は、抜いた量より少ない。しかも代金を取り、給水所と操路を押さえる。二国が水を奪い合って衝突した形が残れば、帝国は泥棒ではなく、水を持ってきた救助者になる。

 

ジオが受けた最初の密命とも継ぎ目が合った。住民保護と航路安定を理由に王国軍の進入路を作る。帝国は反対側から救護水を持ち込む。二国の住民を救う旗が二本立ち、その下でカロクとフェンの進路だけが持ち主を失う。

 

「写しは三枚」

ミラが言う。

 

一枚をエマ、一枚をヤシュ、もう一枚を子ども四人の測定板へ留める。俺たちが持って逃げれば証拠になる形にはしない。薄板そのものも外さず、留め鋲の傷と時刻をそれぞれが写した。

 

帝国の全計画が分かったわけではない。命令者も、救護船の数も、王国とどこまで話が通っているかも空欄だ。

 

それでも、この一本については書いてある。

 

水を減らし、ぶつけ、足りない水を売って二頭を受け取る。

 

ネネは結論を先に書かなかった。四人へ、自分が測った点と糸の倒れ方だけを書かせる。カロクの子がフェン点、フェンの子がカロク点の板を読み直す。二回の交換測定が一致してから、エマとヤシュを呼んだ。

 

ヤシュは子どもの板を奪わず、その場へ膝をついた。九つの目盛りを、指先で一つずつなぞる。

 

「二日もない」

 

「今朝は二日と六刻だった」

 

「塔が三節目を引いてから、水膜の傾きが変わった。前へ集めた水まで管口へ落ちてる。今の量なら、二日ちょうどだ」

 

証拠はそろった。

 

これを両国へ見せれば、少なくとも相手が水を盗んだという話は止められる。そう言おうとした時、ヤシュは水守印を肩布へ戻した。

 

「エマ。貯水槽の外門を開けろ」

 

「共同板が先だ」

 

「カロクへ水を移す」

 

フェンの子どもたちが糸から手を離した。

 

エマの操路杖が横になる。

 

「それを奪うと言う」

 

「盗まれた分を戻すだけだ」

 

ヤシュは赤い肩布の裏から、短い信号筒を出した。共有荷台の向こうへ赤煙を上げれば、カロクの杭隊と水番が来る。証拠を公開する前に貯水槽を押さえれば、少なくとも二日より先まで水を延ばせる。

 

言っていることは、昨日より悪く聞こえた。

 

だが、昨日より理由が見えた。

 

目の前の子どもが測った正しい数字で戦争を止めても、カロクの水椀は空のままだ。共同板が帝国中央へ届くころ、前節ではもう配れない。

 

「信号筒を置いてくれ」

 

俺が言うと、ヤシュの親指が発火板へ掛かった。

 

「正しい話をしろと待たせて、二日後に死ねと言うのか」

 

「言わない」

 

「なら退け」

 

退かなければ、力で止める場面になる。右腕も肋も使えない俺が体を張ったところで、止められるのは一息だ。英雄らしい一息のあと、ヤシュは信号を上げ、俺は床へ転がる。

 

それでは水が増えない。

 

さっき見つけた白い枝管へ目を戻した。

 

帝国は地下霧水まで吸っている。つまり、管の先には水を集められる層がある。黒管を切るだけなら流れが止まる。白管を船から外し、二国へ返せば、少なくとも次の測定までの水路になる。

 

「奪いに行く前に、一本だけ一緒に外してくれ」

 

「何をだ」

 

「白管。今の九目盛りのうち四つは地下から来てる。船側を閉じて、カロク二、フェン二へ分ける。水が出なければ、俺の案は赤だ。その時は信号筒を止める別の理由を出せない」

 

エマが杖先で床を叩いた。

 

「フェンの水を担保にするな」

 

「フェンにも返す。ここで二国とも同じ器へ受ける。片方が先に満ちたら止める。掘る人、弁を触る人、量を読む人を二国で半分ずつ」

 

ミラが地図板へ三本の線を引いた。

 

黒管を即時閉鎖。白い霧水枝管を二つの仮槽へ分岐。失敗時は元の弁位置へ戻す。帝国船へ戻す線はない。証拠の管を壊さず、接続口と流量板を残す。

 

「工事中も共同板を公開できます」

 

「工事が失敗したら」

ヤシュが問う。

 

「失敗と残水二日を一緒に出す。隠して奪う理由にはしない」

 

ヤシュは信号筒を置かなかった。

 

だが、発火板から親指を離した。

 

「一刻だ」

 

正しさだけでは、暴力は止まらない。

 

空の椀へ何を入れるかまで出して、やっと一刻を買えた。

 

 *

 

白管の分岐は、掘るというより霧砂から掘り出す仕事だった。

 

俺は刃も巻胴も持たない。カロクの管見習いが砂を払い、フェンの水位走りが管の沈みを読む。両国の大人四人ずつが交替で枝管を持ち上げ、ネネが息を数え、ミラが二つの仮槽まで高低差を取る。

 

最初の案はすぐ赤になった。

 

白管を二つへ割っただけでは、船側の吸い込みが両方を空にする。黒管の本弁を閉じれば証拠の流量が変わり、帝国船にこちらの作業が伝わる。それ自体は構わないが、弁を急に閉じると地下の細管へ圧が戻り、どこで裂けるか分からない。

 

カロクの見習いが、共有荷台に昔使った水袋継ぎを覚えていた。フェンの水位走りは、貯水槽の掃除で使う逆流止めを知っている。二つを合わせ、白管と黒管の間へ一時受け袋を置く。受け袋が膨らんだ分だけ二国の仮槽へ落とし、黒管側は九目盛りから一つずつ閉じる。

 

俺が考えた案ではない。

 

俺に分かったのは、古い水袋の縫い目へ今の圧を掛ければ裂けることだけだ。左手で縁をめくり、硬くなった二か所を粉墨で示す。そこをフェンの工人が新しい布へ替え、カロクの工人が横荷重を逃がす二重結びを作った。

 

工具を持てない手でも、見つける継ぎ目はある。見つけたからといって、全部を自分の仕事へ戻す必要はない。

 

工事板には、受け袋の最大幅、白管の圧、黒管を閉じる順、戻す時の順を別々に書いた。船側が管を引けば即時停止。水が濁り二目盛りを越えれば飲用へ回さない。片国側だけ流量が落ちた場合も、もう片方を満たし続けず両方止める。

 

ヤシュはカロク側の弁、エマはフェン側の弁へ手を置いた。

 

片方だけ先に開かない。二人の合図も使わない。子ども四人が、各点の糸を同時に見て、七から四へ落ちた時に二打一打を返す。

 

最初の一滴は、カロク槽へ落ちた。

 

次にフェン槽。

 

透明に見えた水は、底へ薄い白砂を残した。飲み水にするには濾過と煮沸が要る。量も、一刻で片方百八十椀ほど。七万人と四万人を救える量ではない。

 

フェンの水草布を一枚、修繕艇の霧苔濾過布を一枚ずつ試す案が出た。艇はカロクにある。取りに戻れば一刻を失う。エマは自国の水草布を先に切り、結果が悪ければ次に霧苔布を使うと決めた。フェンだけが布を払うのでなく、カロクは煮沸用の乾燥霧魚油を出す。物が届くまでの最初の水は飲ませず、洗浄と火床用の槽へ分けた。

 

水が見えた途端に、安全だと名前を変えない。

 

それでも、ゼロではなかった。

 

カロク側の残水は二日から、二日と三刻へ伸びる見込み。フェンも水位線十九を今夜まで保てる。明日までの細い継ぎだ。明後日の安心ではない。

 

ヤシュは信号筒を共同板の上へ置いた。発火板を外し、自分の水守印で封じる。エマも操路杖を縦へ戻した。

 

ネネと四人の子どもの測定板は、俺たちの工事板より上へ掲げられた。誰が水泥棒を見つけたかではなく、どの点で何目盛り動いたかが先に読める位置だ。

 

ジオが部下四人を連れて戻ってきた。

 

全員、自分の家名が命令書にあることを確認したらしい。黄封も白紐も外れていない。四人のうち一人が写しを持ち、残る三人が家族への伝言を別々に書いていた。

 

「返事は」

 

訊くと、ジオは俺の腰ではなく、分岐した白管を見た。

 

「執行前の補記を待つ。その間、お前を監視下へ置く」

 

「今までと何が違う」

 

「俺がそう記録した」

 

それで四軒が安全になるわけではない。ジオも分かっている顔には見えたが、言葉では補わなかった。

 

その時、フェンの円環城で火が上がった。

 

音は一つ。

 

遅れて、貯水槽の外門側から灰色の砂柱が立つ。

 

床が跳ね、右腕より先に肋へ衝撃が入った。ミラが赤紐を低い止め輪へ掛け、ネネと子どもたちを伏せさせる。俺も右手を着かず、左膝と肩で床へ落ちた。

 

二度目は来ない。

 

代わりに警報鐘が、カロクの長い律を真似た三連打を鳴らした。

 

「外門が爆破された!」

 

甲上から兵士の声が落ちてくる。

 

「赤い導火索だ。カロクの破壊工作だ!」

 

ヤシュの信号筒は、封じたまま共有板にある。

 

それでもフェンの兵士たちは、円環城からこちらへ走り始めた。

 

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