国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

36 / 37
命令書を破らない男

命令書を破るなら、今だと思った。

 

紙は共同板の灯りにさらされている。王国警備局の黒印。牢内射殺。逃走と記録せよ。

 

ジオの右手は命令書の端を掴んだまま動かない。

 

子どものころ、こいつが怒って通行札を二つに裂いたところを一度だけ見たことがある。上層の役人が、下層の水番を名簿の書き損じで追い返した時だ。あとで一月分の賃金を払って札を作り直し、親方に三日叱られた。

 

今度の紙なら、破っても誰も叱らない。

 

少なくとも、この広場では。

 

ジオは命令書を折った。

 

破らず、元の折り目へ戻した。

 

期待した俺のほうが、馬鹿みたいだった。

 

「受領時刻、芽吹き月三十五日、夜前一鐘」

 

命令書の裏へ書く。

 

「開封立会い、フェン国老操路士エマ、カロク国水守ヤシュ、リュータ王家証言者ミラ・リュータ。命令対象レン・カーヴ本人。王国警備官ジオ・ハル、部下四名」

 

警備章を押す音がした。

 

「命令内容は裁判前の射殺、および逃走記録の作成。現場記録と矛盾するため、執行を拒否する」

 

エマが石輪を杖へ戻す。

 

「拒否と書けば、王国へ戻れなくなるぞ」

 

「執行したと書けば、戻ったあともこの紙から逃げられない」

 

「紙を燃やせばいい」

 

ヤシュが言った。

 

「燃やせば、王国はそんな命令を出していないと言える」

 

ジオは公印面を上へした。

 

黒印の下に、ごく小さな二重輪がある。王国警備局の伝令印だと思っていたが、内側の輪に水滴三つと横線が刻まれていた。

 

ミラが管制薄板の鏡写しを並べる。帝国救護隊長欄の受領印も、水滴三つと横線だ。

 

完全に同じではない。命令書側には外周へ王国の鳥刻印、管制板側には帝国の霧冠が付く。ただ、中央の伝令経路番号は同じだった。

 

砂双接触処置、七管路。

 

王国の射殺命令は、帝国が衝突後の救護水を流す管路と同じ処置番号で発送されている。

 

「王国全部と帝国全部が手を組んだ証拠ではありません」

 

ミラが先に線を引く。

 

「この命令の発送経路と、帝国救護管制の砂双接触処置が共有されていた証拠です」

 

ジオは二つの印を透明板へ写し、重なる中央番号だけを赤く囲った。爆破材、命令の発送時刻、帝国管制、射殺命令。四枚の板が一つの処置番号へつながる。

 

それでも実行者の名はない。王国修繕局から筒を持ち出した者も、フェン外門へ詰めた者も空欄だ。

 

空欄を残したままでも、命令書を燃やすより重い。

 

原本は一つしかない。

 

ジオは透明板の写しだけで済ませず、紙の右上へ針穴を三つ、左下へ二つ開けた。穴の位置を管制薄板と同じ目盛りで写す。あとで別の文面へ公印面だけ貼り替えれば、紙の繊維と穴が合わなくなる。

 

エマが裏面の受領時刻を写し、ヤシュが中央の処置番号を写す。ミラは命令本文を一字ずつ読み、三人が別々の板へ取った。俺も格子の内側から、射殺、牢内、逃走記録の三語だけは自分の目で確認したと印を置く。

 

「原本は誰が持つ」

 

「俺が持つ」

 

ジオの答えに、ヤシュが眉を上げた。

 

「命令された本人が?」

 

「執行を命じられた者だからだ。失えば証拠紛失も俺の責任にできる」

 

安全な保管者とは言いにくい。王国から見れば、いちばん先に取り返す相手でもある。

 

そこで原本だけを革袋へ戻し、袋の口へエマの石粉、ヤシュの赤油、ミラの細紐を順に塗った。どれか一つを切って開けても、残り二つへ跡がつく。原本をジオ一人の正しさに預けず、三者の封で囲う。

 

俺は、派手に破るところを見たかった。

 

幼なじみが悪い命令を引き裂き、俺の側へ来る。そうすれば、白索を掛けられた手首の熱まで分かりやすく片づけられる。昨日まで追手だった男が、今日から仲間になる。安い芝居なら、その場で拍手が出るところだ。

 

だがジオは、俺の気分をよくするために証拠を捨てなかった。

 

命令を破らないことと、従うことは同じじゃない。

 

俺がようやくそこへ追いついた時、ジオは部下四人の前へ命令書を置いた。

 

「ここからは、俺の命令では決めない」

 

四人の顔が上がる。

 

「警備局の命令へ従うなら、俺を拘束して王国へ戻る選択がある。命令が違法だと判断し、現地に残る選択もある。家族の安全は、どちらを選んでも保証できない」

 

ひどい説明だった。

 

ついてこいとも、帰れば裏切りだとも言わない。家族は助かると励ますこともしない。四人がいちばん聞きたい保証を、最初から出せないと置く。

 

「帰る場合、警備艇を使え」

 

ジオは係留札を出した。

 

「予備帆は一枚減ったままだが、左右調整済み。水と食料は二人ならオルナまで足りる。武器の黄封と白紐は切らず、俺の警備章の写しを持て。命令書原本は渡さない。帰還報告には、現地で執行拒否があったと自分の観測だけを書け」

 

「残る場合は」

 

負傷者記録を持っていた隊士が訊いた。

 

「王国警備の指揮から外す。フェンとカロクの災害対応へ、本人名の有期作業札を申し込め。俺の部下だから受け入れろとは言わない。拒否されたら武器を封じたまま仮待避所にいる」

 

どちらの道にも、罰と仕事がついている。

 

ジオは四人の家名を覆っていた布を外さなかった。家族の住所を広場の選択札へ載せれば、残れと言う重りにも、帰れと言う重りにもなる。

 

「いつまでに決める」

 

代替水路を見ていた隊士が訊いた。

 

「次の塔律を測り終えるまで。およそ百息。短いと思うなら延ばす」

 

「二頭の脚が待たない」

 

「それを理由に急がせたくはない」

 

隊士は少し考え、百息でいいと答えた。

 

四人は一緒に相談しなかった。

 

一人ずつ、共同板の別の角へ移る。帰る者が残る者を臆病と呼ばず、残る者が帰る者を命令の犬と呼ばない。それを命じる文もない。互いに何を思っているかは、俺には読めなかった。

 

百息の間、広場では二頭の測定が続いた。

 

ネネの帆糸はフェンの前脚で南東へ四、後ろで二。ヤシュの水膜はカロク西へ三、三節目だけ北西へ七まで増えた。エマの石輪は前左接地板の割れに合わせ、半欠けずつ沈む。

 

操路塔の一打ごとに、カロク短脚の根元から血がにじむ。

 

白杭を抜く順は、外側からでは駄目だ。外の四本は三節目を左右へ支えている。単一律を送る中央二本を止め、次に北西へ引く三本を一欠け緩める。残り十一本は、脚の沈みが戻るまで支えに使う。

 

「中央二本へ近づけるか」

 

格子越しに訊く。

 

ヤシュが塔の見取板を開いた。

 

「カロク側からは前節の裂け目を越える。今の脚なら往復一刻」

 

「フェン側の古道から三百歩だ」

 

エマが言う。

 

「だが二国の間へ出る」

 

まだ俺は牢の中だ。

 

四者共同管理の正午猶予は、勝手に外へ出ていい札ではない。出れば射殺命令に書かれた「逃走」へ、自分から足を入れる。

 

ジオは共同板を読み直した。

 

「証拠期限の三点中、二点を確認する。爆破準備は朝三から四鐘、カーヴ到着は朝五鐘。王国修繕局材は原物と未開封筒外布で一致。帝国管制と外門破壊の目的は、処置番号を含め三者記録が一致」

 

ミラが王家印を置く。

 

「称号撤回条件は不成立です。三点とも四者で確認できます」

 

エマとヤシュが、自分の板を一枚ずつ重ねた。

 

猶予は役目を終えた。

 

無罪を決める裁判ではない。だが、少なくとも俺がフェンへ来る前に仕込まれた爆発で、今夜撃たれる理由はなくなった。

 

ジオは牢の封へ手を掛けた。

 

「王国警備による拘束を終了する」

 

「射殺命令を拒否したから逃がす、ではないんだな」

 

「それでは俺が命令へ反抗するため、お前を使うことになる」

 

警備章の封を外す。

 

「拘束時点の容疑を、時刻証拠と物品目録で維持できなくなった。四者確認により釈放する」

 

水で膨らんだ木格子が開いた。

 

一日も入っていないのに、広場の風はひどく広く感じた。

 

右手を使わず、左手で格子を支えて出る。平常呼吸一段。肋は変化なし。足元に白い拘束索はない。

 

それでも、ジオの射線を横切る時だけ首の後ろが硬くなった。

 

命令を拒んだと分かっている。弓も抜いていない。頭より体のほうが、白索の記録をよく覚えている。

 

ジオは気づいたようだったが、近づかなかった。

 

謝罪もしない。

 

「逮捕したことまで、間違いだったとは書かない」

 

俺へ聞かせるというより、拘束記録の続きを読んでいた。

 

「爆発直後、フェン兵とカロク兵を止める手続きとして必要だった。お前の同意はなかった。四家の時間を買うため、お前を囮に使った。その責任も消さない」

 

「射殺しなかったから帳消し、とはならないな」

 

「ならない」

 

手首を見た。

 

白索の跡はもう薄い。薄くなったから、掛けられなかったことにはできない。

 

「今、許すか訊かないのか」

 

「訊けば、お前に俺の次の仕事までさせる」

 

ずるくない答えだった。

 

許すとも、許さないとも決めなくていい。塔の杭を止める間、反対意見を言える相手かどうかだけを測ればいい。

 

「じゃあ、先に仕事だ」

 

「そうしてくれ」

 

代わりに警備章を胸から外し、命令書の革袋へ結んだ。

 

「ジオ・ハルは、ヴァルド王国警備局の現地指揮を離脱する」

 

部下四人へではなく、共同板へ向けた声だった。

 

「追跡、逮捕、移送、射殺の指揮権を使用しない。フェン、カロク両国へ、国獣接触災害の現地対応員として作業を申請する。王国の命令記録、警備章、武器は裁判証拠として保全する」

 

「王国を捨てるのか」

 

ヤシュが訊く。

 

「王国が出した命令の責任を、王国の外から追う」

 

「離反者を信用しろと?」

 

「求めない。作業ごとに監視と停止条件を置け」

 

エマは石輪を一度鳴らした。

 

「現地対応員として、塔の中央杭までの経路警備を申請するなら受ける。武器は封じたまま。フェンの兵を指揮しない」

 

「同意する」

 

そこで、四人の百息が終わった。

 

最初に動いたのは、爆破現場へ立ち会った隊士だった。警備艇の係留札へ自分の印を置く。

 

「帰国します。原物を見たこと、ハル隊士が命令を拒否したこと、処置番号が一致したことを報告する」

 

もう一人、俺の拘束記録を持っていた隊士が隣へ印を置いた。

 

「自分も帰る。家族を移せるとは思わない。それでも、住所を知っている者が命令側だけになるよりはましだ」

 

残る二人は、すぐジオの横へ並ばなかった。

 

負傷者記録の隊士はエマへ、代替水路の隊士はヤシュへ、それぞれ作業札を求めた。

 

「ハル隊士の部下としてではない」

 

「分かっている」

 

「王国へ戻らないと、今決めたわけでもない。塔停止までの一刻だけだ」

 

「それでいい」

 

二人は別々の札へ署名した。

 

俺は、残った二人を仲間と呼びかけてやめた。

 

同じ側へ立ったように見えても、選んだのは一刻の仕事だ。家族を脅された者へ、今度はこちらが居場所を担保に忠誠を求めたら、命令書と結び方が同じになる。

 

帰る二人にも、裏切り者という札は貼れない。

 

待つしかない選択はある。待っている間に、こちらが測れる仕事を出す。

 

「警備艇は二人で出せるか」

 

「出せる」

 

ジオではなく、帰国を選んだ隊士が答えた。

 

「離船索を一本増やしてくれ。カロクが次に踏んだ時、係留棚が尾側へ振られる」

 

「作業札を出せ」

 

「俺は無一文だ」

 

「知っている。カロク水守へ請求する」

 

ヤシュが嫌な顔をした。

 

それでも水守印を一つ出した。

 

帰る者と残る者が、最後の共同作業で警備艇の索を一本増やす。別れがきれいになったわけではない。次に会えば、片方は王国の命令を持って来るかもしれない。

 

だからこそ、今の索だけは荷重を測って結んだ。

 

帰国組が持つ物も公開した。水袋四つ、乾燥魚二日分、警備章の写し、射殺命令の文面写し、処置番号を重ねた透明板。速割粉の原物は持たせない。警備艇の応急修繕筒も黄封を切らず、一筒のまま戻す。

 

残る二人は武器帯を外し、フェンの共同庫へ預けた。黄封も白紐もそのまま。素手になったから安全だとは言わず、塔へ持ち込む探り棒と止血布を一本ずつ目録へ載せる。

 

警備艇が離れる時、ジオは見送りに行かなかった。

 

帰る二人も敬礼をしない。係留棚の索を外し、増やした一本が荷重を受けるのを確認してから切り離す。艇はカロクの尾側へ半周し、オルナ方面の航路へ向きを変えた。

 

仲間が半分になったのではない。

 

四人が、二つずつ別の危険を選んだ。

 

 *

 

塔の中央杭へ向かう準備は、半刻で整った。

 

ジオと残留隊士一人が経路警備。ヤシュの管番二人が中央杭の律管を閉じる。エマの工人二人が北西三本を一欠けずつ緩める。ミラは十六本の荷重図、ネネは帆糸と停止札。

 

俺は現地へ行かない。

 

塔まで三百歩でも、三節目が沈めば帰りは倍になる。右腕と肋を抱えた継骨工を運ぶ人員は、脚の止血へ回したほうがいい。

 

共有荷台の指揮板から、同じ鐘の測定だけをつなぐ。

 

前なら、解放された最初の仕事として走っていた。

 

牢から出たばかりの足で危険な塔へ行けば、誰にでも分かりやすく役に立てる。だが、今必要なのは俺の格好ではない。中央杭を止める順番と、止めた後に脚が沈まない確認だ。

 

「中央一、律が半分」

 

ネネの伝声筒が返す。

 

フェン前脚の帆糸、南東四から三。

 

「中央二、閉じる」

 

塔の単一律が一打、途中で途切れた。

 

カロクの水膜は西三のまま。三節目前だけ北西七から五へ戻る。短脚の出血は四本中二本で止まり、残る二本も脈打つ量が半分になった。

 

「北西杭、一欠け」

 

ミラの地図板で赤い線が一つ緩む。

 

フェンの接地板は割れたままだが、新しい裂けは伸びない。

 

塔は止まりかけている。

 

その時、カロク前節の鐘が十八回鳴った。

 

ヤシュの見習いが、息を切らして共有板へ飛び込んでくる。

 

「接触まで、十八刻!」

 

一日は二十四刻だ。

 

残り十八時間。

 

旧推定の二日余りは、塔が脚を壊しながら引いたぶん消えていた。

 

「避難は」

 

エマが問う。

 

「円環城の外縁は半分。カロク前節は杭の内側へ移動中」

 

「二頭の間は」

 

見習いの顔から血の気が引いた。

 

共有荷台の古図を広げる。

 

カロクとフェンが水交換に使っていた古式仮橋。その上へ、国境杭の移動で家を失った両国の避難民が仮小屋を作っている。

 

三百七十二人。

 

塔の中央律を止めても、二頭の慣性までは消えない。

 

十八時間後に閉じる二頭の間へ、避難民の仮橋が取り残されていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。