国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
二つの国の真ん中には、国境より先に三百七十二人いた。
古式仮橋は、カロクの前節とフェンの円環外縁を太い腹索でつないでいる。昔、二頭が水を交換する間だけ荷を置いた共有台だ。今は動く国境杭に追い出された家が、橋板の上へ仮小屋を並べていた。
帝国星図では、どちらの国にも入っていない場所らしい。
だから水守も操路士も、そこへ住む人の数を自国の避難表へ入れていなかった。
国境の外なら、落ちても損失欄へ入らない。ずいぶん便利な線だ。
「仮橋の全長、六百二十歩」
ミラが古図と今の測定を重ねる。
「カロク側の主索二本、フェン側三本。中央共有台の下に古い荷逃がし桁が一つ。二頭が離れようとしているため、橋は横へ引かれています」
「切れるまで」
「今の歩調なら五刻。ただし塔が戻れば短くなります」
接触までは十八刻でも、橋は五刻しか持たない。
逃がす先は二つある。カロク前節か、フェン円環城。だが両国の兵が橋口へ立ったままでは、相手側へ渡った者が拘束される。家族の中で所属札が違う者もいる。昨日までフェン側だった小屋が、朝にはカロク側の杭内へ入った例まであった。
救出には停戦が要る。
停戦を決める会議を待つには、橋の時間が足りない。
「同時にやる」
ヤシュが共有板を橋口へ運んだ。
「会議をしながら、人を出す」
エマは操路杖の石輪を二つとも外し、一つをカロク出口、一つをフェン出口の停止印へ置いた。
「一刻の救出停戦。武器は橋から百歩下げる。出てきた者は所属札で分けず、本人が選んだ出口へ通す」
「選べない者は」
「中央の共有荷台へ一度置く。両国の兵は入らない」
ジオが続けた。
警備章は胸にない。代わりに現地災害対応の白い仮札を首から下げている。
「救出中に拘束が必要な者がいると主張する場合、氏名と理由を共同板へ出す。橋上では執行しない。違反側は出口を閉じず、自国兵だけをさらに百歩下げる」
「お前が取り締まるのか」
フェン兵の一人が言う。
「権限はない。時刻と違反を記録する」
権限がない奴が一番先に条件を出すと、腹が立つ者もいる。
だが王国の命令を拒み、警備章を外した事実が共同板にある。王国軍を呼ぶための停戦ではないことだけは、昨日より説明しやすかった。
カロク兵は赤い肩布を外さず百歩下がる。フェン兵も槍を壁の横木へ預けた。黄封と白紐の武器は共同庫のまま。残った元警備隊士二人は、片方がカロク出口、片方がフェン出口で人数板を持つ。
停戦会議の席は、橋を見下ろす共有荷台へ置いた。
ヤシュとエマが向かい合う。間に水位板、帝国管制の鏡写し、王国射殺命令の処置番号。ミラが三図を広げ、ネネは橋の帆糸を読む。
俺は会議の外側で、古い荷逃がし桁を叩いた。
右槌は持てない。左手の探り針で桁端を軽く弾く。
音は二つに割れた。
カロク側は長く低い。フェン側は短く硬い。中央でつながっているはずの桁が、二頭の逆向き荷重で継ぎ目を開いている。橋上の小屋と三百七十二人は、その隙間を広げる重しになっていた。
人を走らせれば軽くなる。
一度に走れば、足踏みが橋を切る。
「四十人ずつ、歩幅をずらす」
中央へ伝声筒を向ける。
「カロク側とフェン側へ同時に出す。先頭が百歩進んだら次。走らない。荷物は背負わず、小台車へまとめる」
橋の上から怒鳴り声が返った。
「家を置いていけってのか!」
「置いていく物を俺が決めない。五刻で切れる可能性がある。人、薬、水、食料、道具の順に共同台車へ。家材を運ぶなら一巡目の人が出たあとだ」
「五刻って本当か」
「今の測定だ。塔が戻れば短くなる。止めたままなら伸びる」
安心させる数字ではない。
選ぶための残り時間だ。
橋上の代表が、各小屋へ板を回し始めた。寝たきりが七人、乳児十一人、歩行補助が二十三人。薬箱は四つ、水樽は大小十九。家畜は霧鶏三十六羽。物より人が先、だけでは運ぶ手が足りない。歩ける者の一巡目を減らし、担架と乳児を両出口へ同数近く置く。
「カロクへ二十二、フェンへ十九。残りは本人の出口札」
ネネが組を分ける。
「同じ家族は離さない。出口が決まらない家は中央共有台」
子どもに家族の行き先を決めさせたわけではない。橋上から来た希望札を、歩幅と人数へ組み直す仕事だ。
第一組が動き出した。
橋板が鳴る。
右、二十人。
左、二十一人。
百歩ずらし、次。
荷逃がし桁の割れ音が少し細くなる。
会議のほうでは、ヤシュが停戦板の期限を一刻から五刻へ延ばせと求めていた。
「橋が五刻なら、最後まで武器を下げる」
「救出後、そのままカロク兵がフェン外門へ入る可能性がある」
エマが返す。
「外門は王国材で壊された」
「だからカロク兵が安全とはならない」
同じ言い争いへ戻ったように聞こえる。
だが昨日と違い、二人の手は同じ救出板の上にある。ヤシュはカロク兵の移動線を、エマはフェン外門の停止線をそれぞれ描いた。
「救出五刻。兵は現位置から進めない。違反時は相手の避難民を拘束せず、自国兵を下げる」
「水路は」
「白管の共同停止を維持。片方だけ閉じない」
「国境杭は」
「会議中は動かさない」
ヤシュが水守印を出す。
エマの石輪が隣へ来た。
その瞬間、細い音がした。
探り針より高く、弓弦より遠い。
ミラの赤紐が地図板を引き倒す。
「伏せて!」
帝国補給船の方向から、白い矢が飛んできた。
狙いは二人の間の共同板だ。
ヤシュは板へ手を伸ばしたエマの肩を引き、エマは操路杖をヤシュの膝裏へ入れた。二人が互いを倒す形で床へ落ちる。
矢はさっきまでヤシュの喉があった高さを通り、エマの石輪を一つ砕いた。
二本目が来る。
ジオが武器を抜く代わりに、会議机を立てた。矢は板を貫通し、帝国管制の鏡写しから二指外へ刺さる。
「船側、距離九百!」
残留隊士が叫ぶ。
「射線は白管点検口の上。煙幕を!」
権限のないジオの指示へ、フェン兵とカロク兵が同時には動かない。
三本目の前に、ネネが橋の色糸束を火床へ投げた。湿った糸は燃えず、白砂の煙だけを上げる。カロクの管番が乾燥魚油を一滴足し、フェンの水位走りが濡れ布で煙を橋と会議席の間へ倒した。
射線が消える。
「記録板は」
床へ伏せたまま、エマが訊く。
「無事だ」
ヤシュは自分の胸の下から共同板を引き出した。
「あんたの肩は」
「打っただけだ。お前の膝は」
「杖で殴られた」
「避けさせた」
「知ってる」
仲直りには見えなかった。
互いの国を信用したわけでもない。ただ、相手が死ねば自分の正しさを証明できる、という動きはしなかった。
ヤシュの右掌に床板の擦り傷、エマの左肩に打撲。可動は保たれ、出血はヤシュだけ。二人とも会議続行を選ぶ。負傷記録を先に共同板へ足してから、砕けた石輪の代わりに水守印と残る一輪を並べた。
「五刻の救出停戦」
「同意する」
狙撃で止められる前に、二つの印が板へ落ちた。
*
第三組が動き始めた時、古式仮橋の中央が一指沈んだ。
狙撃で人が伏せ、足踏みの間が崩れた。カロク側へ偏った六十三人分の荷が、開いていた中央継ぎ目へ一度に乗る。
荷逃がし桁が、今度は三つの音に割れた。
「止まれ!」
橋上の全員を止める。
止まっても、橋は戻らない。カロク側主索二本のうち一本が毛羽立ち、フェン側三本の中央が石輪半分沈む。二頭が逆へ踏ん張るたび、中央共有台が左右へ裂かれる。
人を先へ進めれば足踏みで切れる。
残せば重さで切れる。
古図の荷逃がし桁には、今は使われていない横穴が二つあった。一つはカロクの短脚節、もう一つはフェンの円環接地板へ向く。
二頭が腹を合わせていた時、橋の荷を片方だけへ載せないための穴だ。
「脚節をつなぐ」
ミラが地図板を起こす。
「二頭へ橋の重さを半分ずつ返す?」
「今だけ。カロクの短脚支え索と、フェンの接地板外輪を横綱で結ぶ。橋中央をその上へ吊る」
「国獣同士を拘束する索になります」
「踏み幅が違ったら切れる留めにする。二頭が離れるのを止めない。橋の落ちる一打だけを分ける」
古式穴へ通せる横綱は一本しかない。フェンの外門予備索。太いが、中央に古い継ぎ目がある。そこを意図的な切れ目にすれば、左右差が三目盛りを越えた時に先に外れる。
問題は、二頭の律を同じ瞬間へ合わせる方法だった。
ネネの帆糸は外から見える。ミラの透明板は橋の傾きを読める。カロク管番とフェン工人は索を通せる。
最後の留めを閉じる瞬間だけ、橋板の中を走る二頭の共振を聞く必要がある。
俺が行くのが早い。
「中央へ出る」
「負傷制限は」
ミラが訊いた。
「走らない。右手は使わない。左肋へ索を掛けない。留めを閉じたら戻る」
「戻れなくなった後の工程は?」
「戻る」
答えになっていないと、自分でも分かっていた。
それでも橋は沈む。
ジオが何か言う前に、左手で探り針を持ち、中央共有台へ向かった。
一歩ごとに橋が左右へ逃げる。右腕は胸の細支えへ固定。肋は二段。走らず、踏み板の中央だけを選ぶ。
橋上の人たちは止まったまま道を空けた。
カロクの管番が横綱を短脚節の支え穴へ通す。フェン工人が円環外輪へ返す。ミラの赤紐が三点を示し、ネネの帆糸が左右の律を色で返す。
俺は中央の留めへ左足を添えた。
耳より、脛の骨のほうが床へ近い。
カロクの長い踏み。
フェンの短い二拍。
重なるのは、二拍目のあと半息。
「今!」
左手で留め板を落とす。
横綱が張った。
橋中央の荷が一度、俺の左足を通った。
脛の表を、熱い探り針で縦に裂かれたような痛みが走る。
膝が落ちた。
横綱は切れない。橋は一指戻り、カロクとフェンへ荷を半分ずつ返した。
成功した。
そう言う前に、次の踏みが来る。
俺の手は留め板の上だ。左足をどければ、微妙な隙間が開く。俺が押さえ続ければ、二頭のずれが脛へ来る。
また、自分を部品にした。
「レン!」
ミラの声が遠い。
ジオが中央へ来て、俺の腰ではなく留め板へ補助楔を打った。黄封の武器は使わず、フェン工人の木槌を借りている。
荷が楔へ移る。
俺は左へ倒れた。
「倒れた後の工程を、誰へ渡した」
ジオが訊く。
答えがない。
留め板を閉じるところまでしか決めていなかった。次の踏みで隙間が出たら誰が楔を足すか。左右差が三目盛りを越えたら誰が切れ目を開くか。橋上の再開合図を誰が出すか。
全部、俺が立っている前提だった。
「ネネ、左右差」
声を出すと肋より脛が痛んだ。
「今一。三で切る」
「ミラ、透明板と切れ目の位置。フェン工人に渡してくれ。カロク管番は楔、二打一打ごとに半欠け確認。橋の再開は中央代表。俺じゃない」
「救護は」
「俺を外へ」
最後に、自分を工程へ入れた。
ジオとフェン工人が、肩と骨盤へ幅布を通す。左脚を持ち上げず、板ごと横へ滑らせる。俺がいなくても留めは残った。
第一組が再び動く。
四十人ずつ、左右へ。
横綱の左右差は一、二、一。三へ届かない。
中央共有台の代表が歩行を止め、ネネが律を読み、ミラが切れ目を見て、二国の工人が楔を受け持つ。
俺は橋口の救護布へ寝かされた。
左脛は前面だけが熱く、指一本の幅で腫れ始めている。曲がりなし。足首も指も動く。踵を軽く押した軸痛は一段、脛表を触れた痛みは四段。骨の中が割れた音ではない。表の骨膜を共振で傷めた可能性が高い。
「歩ける?」
ネネが訊いた。
「今は赤。腫れが増えなくても杖が要る」
「いつまで」
「少なくとも三日。明日の腫れで延びる」
格好のいい答えは出ない。
右腕をかばい、左肋をかばい、今度は左脚まで使えない。残った丈夫な場所を数えるほうが早くなってきた。
それでも橋上の人数板は減っていく。
三百。
二百。
百。
最後の七人は寝たきりの担架と、その家族だった。どちらの国へ行くか決めず、中央共有荷台を選ぶ。両国の出口から同数の担ぎ手が来て、橋口まで運んだ。
先に退避した六十八人も中央を選んでいる。カロクとフェンのどちらへ行くか保留した者は、合わせて七十五人。所属を決めるまで閉じ込める場所ではなく、次の測定で三つの行き先を選び直せる一時台とした。
三百七十二人、全員退避。
擦り傷三、転倒一。行方不明なし。狙撃による死者なし。
家材と霧鶏は一部残った。橋上代表が、生き物を先に出し、家材は橋が保つ限り次の一刻で運ぶと決める。人が助かったから全部成功、とは書かない。置いた暮らしの量を別板へ残した。
救出停戦の五刻は、まだ一刻以上残っていた。
ヤシュとエマは狙撃矢を机へ置き、その場で次の停止条件を足した。二頭の接触回避工程が終わるまで、両国兵は現在線から前進しない。国境杭も動かさない。白管の水は同量・同時停止を続ける。帝国船からの射撃へ反撃する場合も、相手国の甲上を射線に使わない。
期限は「勝つまで」ではない。
次の共同測定、三刻後まで。その時点で水、脚、避難民、兵の位置を公開し、延長か終了をもう一度選ぶ。
ヤシュの擦り傷とエマの肩打撲も、停戦の美談へ使わなかった。互いを庇った事実、矢の方向、共同板を狙った角度を記録し、二人が今後も相手国を疑う権利は残す。
俺が許さなくてもジオと仕事ができるのと、たぶん同じだ。
好きになることと、同じ板を使うことは別の工程にできる。
橋の荷が軽くなると、古い共有台の床から砂が落ちた。
下に刻印がある。
二頭の脚へ向かう横穴と、中央の荷逃がし桁。その三つを囲む古式の節文。
ネネが砂を払い、ミラが透明板へ写す。
「初約の節です」
まだ読めるのは、一字だけだった。
荷。
取得したわけではない。橋を空にしただけでも、二頭へ索を掛けただけでも、節は返ってこない。何をどう分ける約束なのか、古い刻みの続きは橋下へ埋まっている。
その時、止めたはずの操路塔が白く光った。
中央二本の律管ではない。
帝国補給船から新しい律が砂下の黒管を逆流し、残した十一本の支持杭すべてへ入る。
支えに使っていた杭が、一斉に引き杭へ変わった。
カロク三節目が北西へ沈む。
フェンの円環脚も、横綱を通じて半歩引かれる。
接触計が十八から十五へ落ちた。
帝国は操路塔の衝突速度を、最大まで上げた。