国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
死んだ人間は、普通、壁を叩き返さない。
普通じゃない死に方をしたからといって、そこまで器用になるとも思えない。
俺は掌を壁から離した。
音が止まる。
もう一度触れる。
高い一打、低い一打、最初と同じ一打。
「聞こえるか」
「耳には」
ミラは燐苔灯を床へ置き、地図板から透明板を抜いた。白い粒が、ラグナの歩調とは違う速さで三度跳ねる。俺にしか聞こえなくても、俺だけの頭の中にあるわけじゃない。
「三回です」
「順番は」
「最初と最後が同じ。真ん中だけ深い」
十歳の俺が叩いた音だ。
そう決めたのは俺で、ミラが確かめたのは高低だけ。それ以上を混ぜれば、仕事ではなく願いになる。
「この奥に空洞がある」
「継鉄側では?」
「いや。そっちは返りが重い。音は壁の下を回ってる」
床へ粉墨を撒き、槌の柄で軽く打つ。黒い粉が三筋だけ途切れた。埋められた継ぎ目だ。八年前の崩落後、壁を補修した人間が別の樹脂で塞いでいる。
父の印がある継鉄は、右の不安定な補助梁の奥。
三打は左の壁。
どちらも追いたい。両方へ手を出せば、両方を落とす。
「継鉄は触らない。左を開ける」
ミラが父の印へ目を向けた。
「いいんですか」
「よくない。だから順番を決めた」
口にすると、少しだけ息が通った。
選ばなかったんじゃない。後へ回した。現場では、それで手を離せる。
壁の前へ短い支柱を二本立てる。一本は床の響骨へ、もう一本は斜めの補助梁へ。ミラに地図板を持たせ、ラグナの次の接地までを数えさせた。
「二十六息」
「壁の線が動いたら言え」
「どの線ですか」
「全部」
「雑です」
「動いた線だけ覚えろ」
槌を振ると、左肩が遅れて痛んだ。右手中心に持ち替える。昨日から今日になったわけでもない打撲を無視して、もう一度。
樹脂の表面が割れる。
下から黒い粉が滲んだ。
第六足場でミラの金属棒についていたものと同じだ。鉄錆ではなく、触れた道具の熱を奪う細かな粉。
「鎮動杭」
「たぶん」
「今度は言い切らないんだな」
「実物を見るまでは」
そういうところは信用できる。
壁をそのまま崩すのはやめた。塞いだ樹脂だけを四角く切り、外殻側の薄板を残して蓋にする。坑道の壁は家の壁と違う。こちらが崩れなくても、向こうの響骨へ急に冷気が当たれば収縮し、上に吊られた家の床まで歪む。
支柱へ粉墨で目盛りを打ち、接地のたびにミラへずれを読ませた。一度目は床側が爪半分沈み、二度目は戻る。三度目は補助梁だけが遅れて鳴った。単に重さが増減しているのではなく、ラグナが脚を着く角度に合わせて逃げ道が変わっている。
「次の接地は浅いです」
「根拠」
「右前脚の時間が二息長かったので、後ろへ残る荷が減ります」
確かに、次は支柱の沈みが半分だった。もう疑うための試験は要らない。ミラの歩調読みを作業条件へ入れ、浅い接地の時だけ樹脂を剥がす。急げば早く開くが、壁の向こうまで一緒に壊す。俺たちには手間を惜しめるほど時間がなく、やり直す時間はもっとなかった。
接地が来る前に作業を止め、支柱のずれを見る。一本目は沈みなし。二本目が爪の厚みぶん右へ動いた。梁へ荷重が寄っている。
角度を変え、壁へ逃げる重さを床へ戻す。左肩で支柱を押した瞬間、痛みが首まで上がった。
「肩を見せてください」
「いま見るのは壁だ」
「あなたが支柱を落としたら、壁も落ちます」
反論の筋がいい。
上着をずらすと、左肩は青黒く腫れていた。ミラは触らず、腕を上げろ、前へ回せ、指を開けと順に言う。
「骨傷はなさそうです」
「さっき自分で聞いた」
「自分の痛みを正確に読む人には見えません」
「会って半日で、ずいぶんな評価だな」
「半日で二度ぶつけています」
数字で言われると弱い。
短い布を脇から肩へ回され、可動を少し制限された。代わりに槌を両手で大きく振れない。振らずに済むよう、探り針で樹脂の層を一枚ずつ剥がす。
三度の接地を待ち、壁を人一人ぶん開けた。
奥に黒い釘があった。
第六足場で見たものより小さい。それでも俺の胸から腰ほどの長さがあり、四枚の羽根を閉じた頭が響骨の分岐へ食い込んでいる。北へ伸びる管は壁の途中で折れ、代わりに釘の芯へ黒い粉が厚く積もっていた。
表面の王立修繕局印は削られている。
下から帝国式の三角印が出ていた。
ミラが透明板を釘の前へ立てる。白い粒は中心を避け、四枚の羽根の間へ細い輪を作った。釘自体が振動しているのではない。周りの響骨から来る細かな律だけが、中心へ落ち続けている。
「さっきの三打も、これが返したのか」
「分かりません。杭に入ったのは八年前で、あなたが木槌を使ったのはその前です」
「壁が覚えてた音を、こいつが引いた?」
「その可能性はあります」
過去の音を覚える響骨はある。強い荷重の癖が年輪へ残り、似た季節に同じ返りを出す。ただ、子供の木槌みたいな小さな音を九年も残す例は聞いたことがない。
聞いたことがないものを、父からの伝言にするのは簡単だった。簡単すぎる答えは保留にする。いま確かなのは、俺の癖をこの壁が返し、その先に誰かが印を削った釘があることだけだ。
「こっちは管が切れてる」
「だから、吸った律が外へ送られず残っています」
「八年ぶん?」
「設置時期が同じなら」
ミラの声が一段低くなった。
赤い紐の九つの結び目を、上から順に指が確かめている。一つ、二つ、三つ。途中で止まり、また最初から。
「触らないでください」
「外周を見るだけだ」
「同じです」
「抜かない。削って隙間を測る」
「この型は、外周にも吸収層があります」
「知ってるのか」
ミラは黙った。
答えない札はもう五枚ある。六枚目を増やしても、いま必要な寸法は出ない。
「じゃあ、どう調べる」
「封鎖して、道具を揃えます」
「監査が先に封鎖したら二度と入れない」
「腕を入れて確かめる理由にはなりません」
正しい。
正しいが、九十日は今日も減っている。監査はミラを探し、原本の欠落に気づけば旧坑も洗う。次に来られる保証はない。
「俺は痛い場所が分かる。返りが強くなったら止める」
「止められる強さだという根拠は」
「第六足場では止めた」
「あれは律が管へ流れていました。これは行き先がありません」
自問する。
ここで引くか。
答えは、壁の向こうに帝国印を残したまま逃げる自分を想像した時に出た。引けない。
違う。引きたくない、だ。
そこを作業上の必須に言い換えれば、父の時と同じ間違いをするかもしれない。
「外周を指一本ぶんだけ。強くなったら、あんたが止めろ」
「私の指示に従いますか」
「筋が通っていれば」
「いまのあなたに、筋を比べる余裕がなくても」
言葉が詰まった。
ミラは俺の目でなく、槌を握る右手を見ている。指の関節が白くなっていた。
「従う」
赤い紐が、ミラの左手首から解かれた。
飾りではなかった。一本に見えた紐は三本を細く編んであり、九つの結び目をほどくと俺たちの間を二度渡せる長さになる。ミラは一端を床の響骨、二つ目を補助梁、三つ目を黒い釘から最も遠い壁留めへ結んだ。
三角形。
逃がせる荷重の候補が三つある。
結び目は、長さを測るためだけじゃない。床へ結んだ三つは間隔が広く、梁は二つ、壁留めは四つ。ミラが一本を弾くと、結び目の数に応じて違う高さが出る。ラグナへ渡すのは人間の言葉ではなく、どの道ならどれだけの荷を受けられるかという見本だった。
「九つで足りるのか」
「足りない時は、道を増やしません」
「どうする」
「止まります。選べない道を選ばせるよりは」
王城の操路塔は、止まることを故障と呼ぶ。吊街ではラグナが止まれば水も畑も困る。だから歩かせる側の理屈も分かる。
それでも、選べない時に止まるという手順を、俺は教本で一度も読んでいなかった。
「声を出します」
「監査に聞こえる」
「歌ではありません。響骨へ通る高さだけ」
ミラは靴を脱ぎ、裸足で床へ立った。右足、左足、両足。その順で重さを移す。
低い音が喉から出た。言葉には聞こえない。問いに近い短い音を三つ置き、そのたび床、梁、壁留めの紐を一本ずつ弾く。
どれか一つへ進めと命令しているんじゃない。
三つの道を順に見せている。
床の奥から、かすかな返りが来た。
一つ目には長く、二つ目には短く、三つ目には返らない。
「床へ逃がします」
ミラの声は平らだったが、最後の音だけ息が擦れた。
「分かった」
「接地まで十二息。削るなら今です」
俺は探り針を黒い釘の外周へ入れた。
一枚。
骨灰色の樹脂が剥がれる。
二枚。
下から細い溝が現れ、黒い粉が吸い込まれるように動いた。
右の奥歯が鳴る。
三打。詰まった休み。
「止めますか」
「まだ浅い」
三枚目へ針を入れた瞬間、音が腕へ来た。
痛い。
熱い。
重い。
帰れない。
降ろして。
探して。
言葉じゃない。言葉になる前の圧が、右の人差し指から骨を逆に登った。八年ぶんが一度に入ったわけではない。入ったのは爪先ほどの欠片だ。それでも、人間の腕には多すぎた。
手を離そうとした。
指が動かない。
「レン、離して」
「動かない」
黒い釘の羽根が開く。
ラグナの全身が跳ねた。
接地の時間じゃない。右後ろ脚だけが痙攣し、旧坑の床が横へ落ちる。支柱が一本浮いた。父の曲がった継鉄を抱える梁から、石が降る。
ミラが赤い紐を強く弾いた。
床、梁、壁留め。三つの音。
返りは床。
さっきより低い声が坑内を通った。意味は分からない。ただ、命令形ではないことだけは分かる。同じ高さを押しつけず、ラグナから返るたびに半音ずつ下げ、床へ逃げる道を何度も置き直している。
「腕を切ります」
「物騒だな」
「釘から、です。身体ではありません」
冗談を言っている場合じゃない。けれど口が勝手に逃げた。
「右へ倒れて。三つ数えます」
「二の途中か」
「今度は三です。一、二、三」
俺は右へ体を投げた。
ミラが壁留めの紐を足で踏み、両手で俺の腰索を引く。探り針が溝から抜けた。
右腕の中で、乾いた音が二つした。
視界が白くなる。
床へ肩から落ちる寸前、左手で受けた。打ち身が潰れ、息が止まる。それでも黒い釘からは離れた。
ラグナの痙攣は続いていた。
開いた羽根から黒い粉が吹き、旧坑の壁へ細かな亀裂が走る。
「俺は何を」
「動かないで」
ミラは俺を見なかった。
赤い紐の三角形だけを見ている。床へ返った律が弱くなると、結び目を一つずらし、梁へ流れる分を増やす。壁留めが鳴れば、足の位置を変えて三つの道を出し直す。
声が震えていた。
怖いのか、過去を思い出しているのかは分からない。裸足の爪先が血の気をなくしても、順番だけは崩れない。
俺にできるのは、指示どおり動かないことだった。
それがひどく難しい。腕は燃えている。支柱の一本が傾いている。父の継鉄の上から石が落ちている。直す場所がいくつも見える。
「レン」
「動いてない」
「呼吸を。四つ吸って、六つ吐いて」
言われたとおりにする。
吸う。吐く。
もう一度。
自分が作業の中心から外れると、坑の動きが見えた。ミラが床へ流した荷重を、最初に立てた支柱が受けている。二本目は右へ動いたままだが、崩れてはいない。黒い釘の羽根は、少しずつ閉じていく。
やがて、ラグナの脚が本来の歩調へ戻った。
一歩。
休み。
次の一歩。
ミラが最後の低い音を置く。床の響骨から長い返りが来て、赤い紐の震えが止まった。
坑内に残ったのは、俺の荒い呼吸と、落ちた小石の音だけだった。
支柱の目盛りは、作業前から一本半ずれていた。黒い釘へ流れた律を床へ逃がしたぶん、最初に決めた荷重線が変わっている。ミラは息を整える前にその数字を地図へ書き、次に入る人間が同じ場所へ支柱を立てないよう、赤い斜線を加えた。
俺なら、先に倒れた人間を見る。
ミラは先に、次の事故を止めた。
どちらが優しいかという話じゃない。役割が違う。俺が自分の腕と釘だけを見ている間も、こいつはラグナ、坑道、支柱、次に来る職人までを一枚へ置いていた。
「終わりました」
ミラはその場へ膝をついた。
倒れたのではない。赤い紐の結びを一つずつ解き、最後まで自分の手で回収してから座った。指がうまく曲がらず、三つ目の結びに時間がかかる。
「今のは」
「古い操路です」
「国獣を動かす命令じゃなかった」
「道を三つ出して、返りを待ちます」
「操路官は一つしか出さない」
「だから、あれは操路ではなく牽引です」
言い切った時だけ、ミラの声に硬いものが混じった。
俺は右腕を持ち上げようとした。肘から先が震え、途中で落ちる。
「見るなと言っても見るんだろ」
「見ます」
上着の袖を切られた。前腕の中央がすでに腫れ、皮膚の下に二本の赤い線が浮いている。ミラが指先で触れる前に、俺は槌の柄を左手で当てた。
返りは二か所で途切れた。
「ひびが二本。細い」
「動かさないでください」
「分かってる」
「分かっていて動かす人なので言っています」
反論できない。
予備の継鉄から細板を二本外し、布を巻いて前腕の上下へ当てる。ミラが赤い紐とは別の固定紐で締めた。指先の色と温度を確かめ、きつすぎないところで止める。
右手は開く。閉じる。だが、槌を握れる強さはない。
「何日」
「骨医に見せるまで作業禁止です」
「質問に答えろ」
「軽ければ一巡。無理をすれば、ずっと」
九十日のうち十日。
高い。自分で増やした手間としては、かなり高い。
「あんたの指示に従わなかったら」
「腕だけでは済みませんでした」
落ちた支柱を見る。父の継鉄を抱える梁は、石一枚ぶん下がっていた。俺が釘へ残ったままなら、反射的に支えへ行っただろう。右腕で、あの荷重を受けて。
たぶん、旧坑ごと落ちていた。
痛みに耐えるのは、仕事のうちだと思っていた。
正しくは、避けられない痛みを動ける範囲へ収めるのが仕事だ。自分から増やした痛みは料金でも覚悟でもない。ただの追加故障で、周りの人間へ作業を押しつける。
右手が使えなければ、明日から槌を持てない。吊街の靴も配管も直せない。役に立つことで寝台代を払ってきた俺にとって、それは腕のひびより認めにくかった。
だからこそ、いま「大丈夫だ」と言えば、ミラが固定具を巻く手間まで無駄にする。
「助かった」
ミラが顔を上げた。
礼を言われると思っていなかった顔に見えた。観察根拠は、まばたきが一度遅れたことだけだ。
「次から、あんたが操路を決める。俺は周りの継ぎを見る」
「次があるんですか」
「釘は七本ある」
「そういう意味では」
「分かってる。次は同じやり方をしない」
言い切るには、右腕の固定具が重かった。
それでも、聞けることと耐えられることは別だと骨へ刻まれた。同じ間違いをすれば、今度は知らなかったとは言えない。
黒い釘の前へ戻る。
近づくなとミラが言う前に、左手を上げた。
「触らない。落ちたものだけ見る」
探り針が抜けた溝の下に、爪ほどの黒い薄片があった。釘の芯を覆う層から剥がれ、骨灰色の樹脂の上で震えている。
ミラは地図板から透明の小瓶と、銀色の挟み具を出した。
「これは?」
「心律片だと思います」
「また、思いますか」
「リュータでは、そう呼んでいました」
挟み具で薄片を拾う。瓶へ入れた瞬間、透明な壁に白い霜が広がった。
黒い釘の羽根がわずかに動く。
「一片だけにする」
「はい」
「残りは封じる。外した樹脂も戻す」
左手だけでは樹脂を均せない。ミラがへらを持ち、俺が厚みを指示した。さっきまでなら、道具を渡す側と使う側を逆にしていたはずだ。
へらの角度は悪くない。二度目で厚みが揃った。
「地図描きより、継骨工のほうが向いてるんじゃないか」
「資格がありません」
「俺もなくなる予定だ」
旧坑の壁を仮封鎖し、支柱の位置を地図へ残す。父の継鉄には近づかない。
最後に、心律片の瓶を床へ置いた。
「聞くんですか」
「触らない。板で見る」
透明測定板を瓶の下へ差す。ミラが白い粒を平らにし、俺は調律槌の柄を板の端へ当てた。右腕は固定したまま、左の指だけで一度叩く。
瓶の中の薄片が震えた。
一つではない。
高い律が二つ。低く短い律が一つ。その奥から、少し遅れて四つ、五つ、もっと細い音が返る。互いの間を探るように鳴り、一つが止まると別の一つが同じ高さを返した。
人間の声じゃない。
ラグナの三打でもない。
小さな国獣たちが、暗い場所で互いを呼んでいた。