国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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すれ違える国

国境杭を抜く話は、国獣より人間のほうがよく踏ん張った。

 

「杭を動かさなければ、帝国星図上の国境と実際の甲上が二千歩ずれる」

 

カロクの杭隊長が言う。

 

「もうずれてる」

 

フェンの水位走りが返す。

 

「毎日動かして合わせてきたんだ」

 

「合わせた先から家を境外にした」

 

「杭がなければ税も配給も裁判もできない」

 

「杭があったから昨日の給水を止められた」

 

共同板の前には、両国十四区画の代表がいる。全員が来られるわけではない。給水所、避難台、脚の止血、塔杭の監視を続ける者は、伝声札で異議と条件を送る。

 

レンの声で命じてくれ、という札も三枚あった。

 

俺は吸振布の中にいる。

 

左脚は添え板、右腕は細支え、肋は一段。低い作業板から、国境をなくせと言えば全都市へ届く。

 

言わない。

 

杭を抜く費用を払うのは、俺ではないからだ。

 

「国境をなくす話ではありません」

 

ミラが帝国線、カロク節、生活配給の三図を並べる。

 

「今夜撤去するのは、二頭の進路と一緒に毎日動かす物理杭です。所属、税、裁判を今ここで統一しません。配給は現在区画と必要量、裁判は事件時点の居住記録、税は次の共同測定まで凍結。正式な国境は、二頭がすれ違った後に別の会議で決めます」

 

国境を消して仲よくなる、ではない。

 

二頭の足元から、刃物みたいな杭をどける。それでも人間の制度は、明日から新しく継ぐ必要がある。

 

ヤシュが赤い杭札を一枚外した。

 

「カロクは前から三節目まで、帝国固定線の杭を撤去する。配給停止札には使わない。税と所属は今日の正午板で凍結」

 

「フェンは円環前区の杭を撤去」

 

エマが残る石輪を置く。

 

「ただし、撤去杭は燃やさない。番号と位置を記録し、共同庫へ保管。帝国が置いた線と、両国が動かした履歴を裁判へ残す」

 

杭隊長の手がまだ止まっている。

 

「俺たちの仕事がなくなる」

 

大きな話の最後に、いちばん具体的な問題が出た。

 

国境杭を走って動かす者は、十二人。家族の水札と食料はその賃金につながっている。杭が悪いから抜けと言うだけなら、十二人を境外へ落とす仕組みは同じだ。

 

「腹合わせの距離杭を測れる人が要る」

 

ミラが言う。

 

「固定線を追うのでなく、二頭の腹角、水弁、脚間を同じ番号杭で測る。今夜は十二人全員。すれ違い後は両国から六人ずつの共同測量へ応募できる。賃金は白管の救護水を帝国へ売り戻さず、両国水費から折半」

 

「応募しなければ」

 

「撤去作業分まで支払います。その後の仕事を罰として止めません。別の水番、橋番へ移る席も出す」

 

杭隊長は、仕事を守るため国境を守ると言わなかった。

 

十二人へ条件を回し、十一人が今夜の撤去へ白。一人は、帝国線を抜けば反逆になるとして赤を出した。

 

「一人赤なら全部止めるのか」

 

ヤシュが訊く。

 

「共同作業への参加は止められる。全体の決定を一人へ渡す条件ではない」

 

ネネが札を分けた。

 

赤の一人は撤去区画へ入らず、番号と抜く前の位置を写す仕事だけを選んだ。抜いたことへ同意しなくても、何が起きたかは測れる。

 

国境杭の撤去が始まった。

 

一本目は、修繕艇の舳先を殴った杭だった。

 

俺たちが来た朝、カロクの歩みで境界を越え、杭隊が走って追いつかせた。今は甲板へ深く食い込み、根元が一欠け曲がっている。

 

カロク工人が周囲の砂を払い、フェン工人が抜けた穴へ仮栓を入れる。番号、旧位置、今位置、曲がりを記録して共同庫へ運ぶ。

 

杭を抜くたび、道が広くなる。

 

ただし、誰の国かは床から消えない。赤い家札、灰色の水札、税の刻み、兵の目。木の棒一本で作られた争いではなかった。

 

それでも棒がなければ、二頭の進路へ合わせて人の罪まで毎朝動かすことはできない。

 

三十六本。

 

前区の固定杭が全部抜けた。

 

帝国操路塔でまだ律を受ける白杭十一本は別だ。先に止めた中央二本と北西三本は律管を封じ、現場位置を写したうえで証拠台へ抜き上げてある。残る十一はカロク三節目の脚を支えながら引いている。国境杭と一緒に抜かず、二頭の荷重を腹側へ移してから順に止める。

 

「腹角、あと一欠け」

 

ミラの報告。

 

接触計は十五。止まっているように見えるが、塔律は黒管から流れ続ける。共同台の荷が一つでも偏れば、すぐ減り始める。

 

腹合わせの工程を開いた。

 

第一、カロク側面弁を四分の一。

 

第二、フェン腹側の受け嚢を一線。

 

第三、共同台の十二欠けを一つずつ後ろへ送る。

 

第四、二頭の前脚が同時白になるまで、塔杭を抜かない。

 

水を移す向きは、カロクからフェンだけではなかった。

 

フェンの貯水嚢には、乾季後半用の重い底水が残っている。白砂が多く飲用には向かないが、カロクの広い水膜を冷やし、短脚の根元を洗うには使える。カロクの白管水はフェンへ渡し、フェンの底水はカロク側面へ戻す。

 

交換だ。

 

「弁を開く」

 

ヤシュとエマが同時に言った。

 

水が動く。

 

共有荷台の下で、二本の太い管が震える。透明な水ではない。片方は白砂混じり、片方は灰黄の底泥を含む。飲ませる水と脚へ使う水を別袋へ取り、混ぜて安心な水にしない。

 

カロクの水膜が西へ広がる。

 

フェンの貯水嚢が腹側へ一線下がる。

 

二頭が顔を寄せるのではなく、腹を横へ滑らせた。

 

「前脚、カロク黄」

 

「フェン白」

 

まだ塔杭は抜けない。

 

共同台の第一欠けを後ろへ送る。水樽六十、受け袋一線、支え材、乾燥食。カロク後節とフェン後輪へ半分ずつ。

 

「カロク白」

 

両方そろった。

 

白杭の外側二本を、一欠け緩める。

 

塔律は強くなる。帝国船が抜去を感知したらしい。黒管の中で九つの弁が一度に鳴る。

 

ネネの帆糸が赤へ倒れた。

 

「共同台、差二!」

 

全停止。

 

水弁を閉じない。急閉鎖すれば圧が短脚へ戻る。現在開度を保ち、共同台中央の浮き袋を半欠け膨らませる。ミラが三点吊りの中央を南へずらし、フェン工人が接地板の裂けへ補助索を一本足す。

 

差一。

 

白へ戻る。

 

二本をさらに一欠け。

 

白杭は一本ずつ役目を失う。抜いた杭には帝国印、律管の向き、黒管からの逆送跡が残る。折らず、三者封を付け、国境杭とは別の証拠庫へ運ぶ。

 

四本。

 

七本。

 

最後の四本は、カロク短脚を支えている。

 

抜けば脚が沈む。残せば塔律を受ける。

 

「杭を抜かず、管だけ外す」

 

カロクの管番が提案した。

 

白杭の頭へ入る律管を、外周支持から切り離す。杭本体は仮支えとして残し、黒管との細管だけを証拠位置を写して封じる。

 

俺は低い板から、管径と圧を読む。

 

「一度に四本は赤。対角二本ずつ。外した直後、短脚の沈みを二打一打見る」

 

「誰の案として書く」

 

ジオが訊く。

 

「管番の案。俺は停止順だけ」

 

成功を自分へ戻さないため、という格好のいい理由だけではない。現場を見ていない俺が、杭構造まで発明したことにすれば、次の誤りも俺へ集まる。

 

対角二本。

 

短脚沈み、半欠け。止血布の出血増加なし。

 

残り二本。

 

塔の単一律が途切れた。

 

帝国船の黒管は震えている。だが白杭へ出口がない。塔そのものは立ったまま、引く力だけを失った。

 

カロクが長く踏む。

 

フェンが短く二拍。

 

共同台が一打を返す。

 

初約「荷」の順だ。

 

「腹角、合いました」

 

ミラが透明板を重ねる。

 

側面弁と貯水嚢口が、古い磨耗帯の位置で向き合った。

 

二頭の腹が触れる。

 

ぶつかる音ではない。

 

広い水袋を、もう一つの水袋へそっと当てたような低い音だ。間の霧砂が左右へ逃げ、古式仮橋の横綱が一度たるむ。

 

水が本流で交換される。

 

カロクからフェンへ、白管仮水路の何倍もの量が流れる。フェンからカロクへは底水と冷えが戻る。飲用槽、脚洗浄、貯水、共同袋を別の弁で分ける。

 

カロク短脚の律が長くなる。

 

フェン前左接地板の振れが半分へ下がる。

 

痛みが消えたとは言わない。出血した根元も、割れた板も残る。外門は壊れ、負傷者もいる。

 

でも、新しい傷は増えない。

 

接触計は零になった。

 

衝突ではなく、腹合わせとして。

 

二頭は三刻、並んで歩いた。

 

その間に都市荷重を前から腹、腹から後ろへ移す。共同台の水・食料・支え材を十二欠けの逆順で返す。返す先は元の倉とは限らない。前へ偏らないよう、両国の区画責任者が現在の脚と暮らしを見て選ぶ。

 

中央三十五人は、すれ違い後も共有荷台へ一刻残ることを選んだ。カロクへ移った二十一人、フェンへ移った十九人にも戻る道を一刻開ける。所属札はまだ凍結。

 

国境杭を抜いた道を、二頭が通る。

 

カロクは西へ。

 

フェンは南東へ。

 

顔をぶつけず、腹を合わせ、水を渡し、互いの尾が過ぎていく。

 

すれ違った。

 

終わった直後ほど、数字を取る。

 

カロク短脚四本。二本は止血、二本はにじみが一段残る。新しい根裂けなし。フェン前左接地板は一枚破損のまま、裂けの伸びなし。外門は片軸破断で閉鎖継続。仮橋の横綱は切断条件三に対して差一、家材の回収はまだ半分。

 

人の負傷は、爆発時の裂傷四、耳鳴り七、左足骨折一。橋救出の擦り傷三、転倒一。ヤシュ右掌擦傷、エマ左肩打撲。俺の右前腕、左肋、左脛。新しい死者も行方不明もゼロ。

 

俺の左脛は腫れが指一本幅から広がらず、踵の軸痛一、表面四。骨膜損傷の見立てを維持し、杖を使っても移動は必要な二歩まで。三日後ではなく、翌朝もう一度測る欄を置いた。

 

水は増えた。

 

だから安全、とは書かない。カロクの全節へ均等に届くまでの時間、フェン外門が使えない間の配水、白砂水の濾過布、底水で洗った短脚の感染。次の共同測定までに残る仕事を別板へ出す。

 

帝国黒管は船側を閉じ、現地口へ三者封。塔の白杭は先の五本と今回の七本、計十二本を証拠庫へ移し、最後の四本は短脚の仮支えとして律管だけ外した。国境杭三十六本は番号順に別庫。混ぜれば、帝国の強制操路と両国が毎日動かした境界の責任が一つになるので、保管場所も記録色も分ける。

 

共同給水は九区画白、三区画条件白、二区画赤のまま次の一刻へ継続。赤の二区画にも残水値を出し、参加しない罰はつけない。停戦は次の共同測定まで延長され、その先は自動で永久停戦にしない。

 

国がすれ違えたから、人間の争いも解決したわけではなかった。

 

ただ、次に争う時、相手の水を盗んだという嘘と、国境杭がそこにあるからという理由は、昨日ほど簡単には使えない。

 

歓声は一つではなかった。

 

カロクの長い鐘、フェンの二拍、共同台の一打。三つが勝手な速さで鳴る。誰かが統一しようとしたが、ネネが止めた。

 

「違うままで合ってる」

 

二頭の歩調も、完全な同期から少しずつ外れる。

 

同じ国獣になったわけではない。

 

別々の進路へ戻れるほど、近づき方を直しただけだ。

 

 *

 

芽吹き月三十六日の朝、修繕艇がカロク尾から共有荷台へ回ってきた。

 

警備艇はもうない。帰国した二人が王国へ証拠写しを運んでいる。

 

残った元隊士二人は、砂双国へ留まることを選んだ。一人はフェンの爆破証拠庫、一人はカロクの塔杭証拠庫。期限は次の共同測定まで。ジオについて来るために残ったわけではなく、各自の観測へ署名した者として、原物が消えないかを見る。

 

ジオは警備章を革袋から出した。

 

鳥刻印の縁には、旅の間についた傷がある。王都で俺たちを追った時も、セラトで武器を封じた時も、オルナの契約に立ち会った時も、レンを牢へ入れた時も同じ章だった。

 

外して捨てれば、離反は分かりやすい。

 

ジオは捨てなかった。

 

射殺命令、逮捕命令、介入密命と一緒に三者封の革袋へ入れる。

 

「次の裁判へ出す」

 

「裁かれる側にもなるぞ」

 

「そのために持つ」

 

「俺を逮捕した分も?」

 

「記録から外さない」

 

許したわけではない。

 

白索の手首はもう痛まないが、思い出せる。四家の時間を買うため、俺を囮にした。必要だったと言われても、本人の同意がなかった事実は残る。

 

それでも、次の仕事で反対意見を言う相手としては信用できる。

 

「エリュンへ行く」

 

俺が言う。

 

「バシュがそこを通る。修道国には初約全文の記録がある」

 

「追うのか」

 

「二つとも見る。親方が何をしたか。帝国が何をしたことにするか。初約の残りが、二頭を直すための道具なのか、それ以外なのか」

 

「俺も行く」

 

ジオは命令書を出さなかった。

 

だから、こちらも許可札を出さない。

 

「反対意見を言う席なら空いてる」

 

「ずいぶん待遇が悪いな」

 

「寝台は荷物用だ」

 

牢で交わしたのと同じ言葉だ。

 

今度は少し笑った。

 

追手と囚人の軽口へ戻ったわけではない。方法が違う時に止め合う席を、新しく一つ作っただけだ。

 

ミラはエリュンまでの三経路を地図板へ引く。上昇索で渡り風路へ直接、フェン後輪から帝国航路を逆行、カロク尾の修道補給索を追う。

 

ネネは風を測り、修道補給索が一番白いと出した。時間は一日半。帝国航路より遅いが、砲船の見張りを避け、左脚を載せたまま進める。

 

俺が旅へ出た理由は、ラグナを救って故郷へ帰ることだった。

 

今も変わっていない。

 

変わったのは、ラグナだけが同じ仕組みに縛られているわけではないと知ったことだ。

 

セラトの呼吸。オルナの卵。カロクとフェンの水。どれも静釘と帝国管と、人間が便利にした線へつながっている。

 

寄り道が増えたのではない。

 

故郷へ帰る道の幅が、俺一人では塞げないほど広かった。

 

修繕艇が修道補給索へ帆を向ける。

 

左脚はまだ赤。エマの削った杖で二歩だけ移り、あとは低い寝台へ座る。ミラが操路卓、ネネが帆糸、ジオが船尾の荷重板。誰も俺を運ぶためだけの席には入らない。

 

砂双国が後ろへ離れていく。

 

二頭はもう別の方向を歩いている。それでも白管の共同給水所は、細い一本を次の測定まで残していた。

 

渡り風路の上から、鐘が落ちてきた。

 

一打。

 

続いて、空が赤く光る。

 

雲の上にいた巨大な影が、片側の翼膜を燃やして傾いた。

 

飛行国獣エリュン。

 

その背には、塔と修道院と、何千もの灯りが載っている。

 

帝国砲船がもう一度火を噴いた。

 

エリュンの高度が落ちる。

 

空を渡る一つの国が、俺たちの正面へ向かって墜ち始めた。

 

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