国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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空から国が落ちてくる

空から国が落ちてくる時、下から見上げてはいけない。

 

足場がないと分かるからだ。

 

飛行国獣エリュンは翼幅十八キロ、胴だけでも四キロある。鳥に似た白灰の体と、霧鱏みたいな半透明の翼。その左翼が赤く燃え、雲を大きく切り裂きながら落ちていた。

 

背上都市の灯りが、傾いた夜空を滑る。

 

修道院の塔。

 

翼梁回廊。

 

記録庫らしい四角い建物。

 

全部、地面のない高さにある。

 

「落下、百息で胴半分」

 

ネネが帆糸を艇の外へ流す。

 

「左翼の後ろがもっと速い。前はまだ風を受けてる」

 

「砲撃は三発」

 

ミラが透明板を空へ向けた。

 

「一発は翼膜、二発目は左主翼梁、三発目は修道院外縁。翼梁の損傷位置は胴から二・三キロ。完全破断ではありません」

 

完全に折れていないから飛べる、とはならない。

 

残った半分へ都市と翼の荷が集まり、折れるまでの時間が伸びているだけだ。

 

「背上人口、およそ二万」

 

ジオが修道補給索の公開板を読む。

 

「中央修道院九千、両翼回廊六千、外縁の風畑と記録庫五千。避難信号は左翼だけ赤、中央黄、右翼白」

 

落ちた先は空だ。

 

下に町がないから被害が少ない、とは言えない。エリュンの腹には大きな風嚢があり、深霧へ突っ込めば水を吸った帆みたいに潰れる。翼幅十八キロの国獣が急に落ちれば、背の二万人も、下を渡る交易艇も、巻き込まれた風路も沈む。

 

「修道院からの救援要請は?」

 

「なし」

 

「帝国砲船は?」

 

「左後方に二隻。砲口は閉じていません」

 

要請がない国へ勝手に取りつくことになる。

 

だが、こちらは初約資料とバシュを追っている。善意だけでもない。修道国が資料を渡すか迷っている間に落ちれば、助けるふりで欲しい物へ近づいたと言われても否定しにくい。

 

「接触前に条件を送る」

 

ミラが白い信号板を開いた。

 

緊急仮止め。記録庫閲覧、捕虜受領、入国権を対価にしない。作業後の退去要求へ従う。使った継鉄・索・空苔の所有と費用は別協議。停止はエリュン側一、修繕艇側一の赤で成立。

 

落下中の翼から、白が返った。

 

助けてくれという白ではない。書いた条件で接触を許す白だ。

 

それを確認してから、ミラは索帆を開いた。

 

「索帆を開く」

 

ミラが操路卓の中央へ立つ。

 

俺は口を挟まなかった。

 

空を飛ぶ索帆は、継骨工の仕事ではない。吊街の昇降索なら分かる。霧海を渡る艇も、脚や背へ係留するなら触れる。だが落下する国へ横風で追いつき、燃えた翼へ着く経路は、ミラの地図と赤紐の領分だ。

 

「三経路」

 

ミラが地図板へ引く。

 

一つ、エリュンの尾風へ入り、後ろから翼根へ上がる。距離は短いが、燃えた膜が落ちる。

 

二つ、右の健全翼へ索を掛け、背上都市を横断して左翼へ。着地は安全、時間が足りない。

 

三つ、落下前方へ出て、左翼下の上昇風へ索帆を開く。最短。失敗すれば、エリュンに轢かれるのでなく、一緒に落ちる。

 

「三つ目」

 

ネネが風板を白へ返した。

 

「今の横風なら上昇が七。尾風は燃え膜が三回落ちた。右から回ったら、梁が先に折れる」

 

「三つ目で行きます」

 

ミラの決定。

 

「反対は」

 

ある。

 

高い。

 

落ちる。

 

左脚は使えない。右腕も細支え。翼梁へ着いても、走れず、しがみつけず、誰かに運ばれる。

 

どれも操路への反対ではない。

 

「索を二本にしろ」

 

俺が言えたのは、それだけだった。

 

「主索と戻り索はあります」

 

「ミラの腰索を二本。別支点」

 

「艇側が重くなります」

 

「分ける」

 

ミラが俺を見る。

 

「理由は?」

 

「一つ切れた時、もう一つで戻る」

 

作業語だけを出す。

 

ミラは追及しなかった。赤紐を操路卓、艇首の横輪、本人の腰索へ三経路で掛ける。主索はジオ、戻り索はネネの巻胴。どちらかが赤なら滑空を中止する。

 

「レンは低板」

 

「分かってる」

 

左脚を添え板ごと、艇床の低い修繕板へ固定する。高い所が怖いからではない。負傷制限のためだ。

 

そういうことにしておく。

 

 *

 

索帆が開いた。

 

修繕艇が地面を失う。

 

正しくは、もともと空に浮いている。霧海の艇は索と帆で国獣の間を渡る。だが普段は下に深霧があり、遠くに背や脚が見える。今は雲の上へ出て、白いものが全部下へ流れていた。

 

見なければいい。

 

左翼梁まで七百歩。

 

横風七。

 

艇首傾き右二。

 

主索荷重六、戻り索四。

 

数字へ直せば、空は作業板になる。

 

「前方、膜片!」

 

ネネが叫ぶ。

 

燃えた翼膜が家一軒分の大きさで飛んでくる。

 

「主索を二、戻りを一。右帆閉じ半分」

 

ミラの指示。

 

ジオが巻胴を二目盛り引き、ネネが戻り索を一つ遅らせる。艇は膜片の下へ潜り、熱風だけを受けた。

 

俺は何も指示しない。

 

船体の継ぎ目が鳴れば言える。翼梁の割れなら見られる。だが風を読むミラの声へ、怖いから別案を足せば、全員の手が一拍遅れる。

 

「落下、百息で胴七分」

 

「加速しています」

 

ミラが赤紐の一経路を翼下風へ振る。

 

返りは二打一打。

 

左翼の面振動だ。音より、透明板の縁が大きく撓む。

 

「翼根へ寄せます。全員、低く」

 

修繕艇がエリュンの左翼下へ入る。

 

上に国がある。

 

半透明の翼膜越しに、修道院の灯りと走る人影が見える。翼梁は白い骨柱で、幅だけで吊街の大通りほど。砲弾が当たった場所から黒い裂けが三方向へ伸び、後ろ側の膜が焼け落ちている。

 

「接触まで三十息」

 

「翼梁が下がる瞬間へ合わせる。二、二、一」

 

ミラの数えに、エリュンの翼が返る。

 

二。

 

二。

 

一。

 

艇底が翼梁へ触れた。

 

ジオが主索を梁外輪へ。ネネが戻り索を二つ目の外輪へ。別支点。ミラの腰索も二本のまま。

 

俺の低板は、四人掛かりで運ばれなかった。

 

翼側から来た修道士が幅広の滑り板を渡し、低板ごと巻胴で引く。人の腕へ俺の全荷重を預けず、板と索へ分ける。俺は左手で止め索だけを持ち、右腕と左脚を動かさない。

 

翼梁へ降りた。

 

降りた、と呼んでいいのかは怪しい。

 

床が四十五度傾き、その下に雲しかない。

 

「損傷を見る」

 

声が少し高くなった。

 

風のせいだ。

 

たぶん。

 

砲弾孔は主翼梁の上面から入り、下側二割を残して貫通している。割れは前へ十二歩、後ろへ十九歩。翼を上げる時は下側へ引張り、下げる時は上側へ圧縮が来る。今は残った下二割だけで、背上都市の左半分を支えていた。

 

「次の大きな羽ばたきで、後ろ十九歩が開く」

 

「止める方法は」

 

ミラが訊く。

 

「翼を止めたら落下が速くなる。仮継鉄で割れの開きを一度だけ遅らせる。荷を右へ移す時間を買う」

 

エリュンの翼梁は半透明で、普通の骨樹脂は熱を持ちすぎる。修繕艇にある継鉄は国獣の甲板用。直接打てば硬さが違い、穴の端から新しい裂けを作る。

 

「間へ何を噛ませる」

 

修道士が空苔布を出した。軽く、風を含む。翼梁の表面と同じ温度まで冷えている。

 

「三枚。継鉄は閉じ切らない。指一本の滑りを残す」

 

「槌は」

 

「俺は使えない」

 

言うのに、前より時間が掛からなかった。

 

翼梁工が二人いる。俺より若く見える一人と、灰白の作業衣を着た一人。二人へ割れ端の粉と荷重方向を示す。

 

「上の二本は浅く、下の一本だけ深い。羽ばたき二打一打の、一打のあとに締める。閉じすぎたら赤」

 

「お前は何をする」

 

灰白の工人が訊く。

 

「探り針で割れの開きを読む。締める合図は出す。でも槌は持たない」

 

自分で打つほうが早い。

 

右腕が使えたとしても、ここでは翼梁工のほうが材を知っている。できない分野まで指揮台へ戻す理由はない。

 

継鉄を置く。

 

空苔布三枚。

 

上二本、下一本。

 

二打一打。

 

一打のあと、槌が落ちる。

 

一本目。

 

二本目。

 

下の一本。

 

割れの開きが十九歩先で止まった。

 

「仮止め白。次は荷を右へ」

 

修道院の鐘が、翼全体へ信号を送る。

 

背上都市の左区画には、記録庫三棟、石碑庫、空苔水槽、住居約四千人分。全部を右へ移す時間はない。

 

「建物を動かすのではありません」

 

ミラが修道院の荷重図を開く。

 

「動かせる中身を先に。水、記録函、人。石碑庫の固定石は残す。右の空き回廊へ三経路で分散」

 

「記録を捨てるな!」

 

修道士の一人が言う。

 

「捨てません。原位置、右回廊、中央修道院の三つ。重い石箱は中身だけ出し、箱を左へ残す」

 

「閲覧封が切れる」

 

「封印番号と外箱位置を先に写します。中身を読むためではなく、束ごと同じ重量布へ移す。右へ着いたら修道会の記録官が再封。私たちは表題も開きません」

 

「砲船に奪われたら」

 

「一か所へ集めません」

 

ミラは右回廊を三つに分けた。前の風畑、翼根の石床、中央修道院の外壁。どこか一つへ弾が来ても、全記録と全住民が同時に失われない。初約資料がどの束か、修繕艇側へ知らせないまま重さだけを均等にする。

 

左翼住民にも三経路を出す。右へ移る、中央へ移る、左翼根の仮支え区へ残る。負傷者と子どもを自動で右へ送らず、医療床がある中央を第一候補として本人・家族へ返す。ただし砲弾孔から百歩以内は赤で、選択の対象にしない。

 

「時間は」

 

「百八十息で三巡。残る人は仮支え区へ百二十息」

 

全員を動かせるとは言わない。

 

動く人数、残る人数、置く荷を同時に数える。

 

初約資料がある記録庫だ。

 

帝国が狙った物を、砲撃から守るため右へ集めれば、次の弾の的にもなる。

 

「資料名を隠して三分」

 

ミラが続ける。

 

「初約だけ別に動かせば、帝国へ位置を教えます。重量と耐火だけで分ける。閲覧権は動かしません」

 

俺は継鉄の割れを読む。

 

ネネは翼の撓み。

 

ジオは修繕艇と翼梁の二索。

 

ミラが都市荷重を右へ送る。

 

左水槽の水を袋へ分ける。一袋を大きくせず、十六袋。記録函は石外箱を残し、中の薄板束を防火布で包む。住民は走らず、翼の下がる時に三十人ずつ中央を渡る。

 

一巡目。

 

左翼梁の撓み九から八。

 

二巡目。

 

八から六。

 

右の健全翼は四から五へ重くなる。

 

「右へ載せすぎると、今度は逆へ回る」

 

「右上限六」

 

ミラが透明板へ線を引く。

 

「左六、右六で止めます」

 

三巡目の途中、帝国砲船から白い信号膜が開いた。

 

砲撃ではない。

 

文字が空へ投影される。

 

初約資料一式を引き渡せ。修道国の中立と飛行路を保証する。回答まで一刻。拒否または資料移動を確認した場合、反対翼を射撃する。

 

「落とすための砲撃ではなかったのか」

 

ジオが言う。

 

「落ちる寸前にして、資料を出させるためです」

 

ミラは荷重移送を止めない。

 

資料移動を確認したら撃つ、と書いてある。だが左翼へ残せば、今の破断で落ちる。

 

「修道会は?」

 

「中央修道院で回答中。現場へは、都市を保てとだけ」

 

灰白の翼梁工が答えた。

 

中立という言葉は、砲撃を止める膜にはならないらしい。

 

四巡目。

 

左六、右六。

 

移動した住民は三千二百。中央医療床へ五百八十、右三経路へ二千六百二十。左翼根の仮支え区へ残った八百人は、記録函と空苔水槽の監視、歩行困難、本人の残留選択を別欄にする。置き去りという一語にも、英雄的な残留という一語にもまとめない。

 

水袋十六のうち十二は右と中央、四は左の消火へ残す。記録束は三経路へ分散し、石外箱は左の重しとして位置を固定。荷を軽くするため空へ捨てた物はない。

 

翼の傾きが四十五度から二十へ戻る。

 

エリュンが風を受け直した。

 

落下は百息で胴七分から、胴二分へ下がる。

 

「着地帯まで持つ?」

 

ネネが訊く。

 

「今の仮継鉄なら三百息。修道院の上昇風床へ降りるまで二百二十」

 

「余り八十」

 

「余りじゃない。ずれた時の分だ」

 

修道院の風床が前方へ開く。地面ではなく、翼根の広い回廊だ。エリュン自身が右へ一度、左へ二度、面振動を返す。

 

ミラが滑空経路を決めた。

 

「主索を先、戻り索は半息後。修繕艇を風床へ。翼梁班は仮継鉄を残して退避」

 

「ミラの腰索、二本とも確認」

 

また口から出た。

 

「確認済み」

 

ミラの声は変わらない。

 

全員が風床へ渡る。

 

最後にミラが赤紐を翼梁外輪から外した。主索へ体重を移し、戻り索で横振れを止める。足の下には雲だ。

 

落ちる。

 

そう見えた。

 

実際は三経路の中央へ滑っている。

 

ミラが修繕艇へ戻った時、息を吐いたのは俺のほうだった。

 

エリュンは上昇風床へ腹を預けた。

 

着地ではない。落下を止め、風へ浮き直すための仮座だ。それでも背上都市の傾きは十度まで戻り、灯りの移動が止まる。

 

負傷者は、砲撃時の火傷十二、転倒二十九、翼梁回廊からの落下不明三。修繕作業中の新規負傷は打撲二、索擦れ四、死者確認なし。不明三を無事へ丸めない。

 

継鉄は三百息の仮止め。恒久修繕ではない。

 

「さっきの二本」

 

ミラが俺の低板へ来た。

 

「主索と戻り索は最初からありました。どうして私の腰索を二本に?」

 

「一つ切れた時のため」

 

「それは聞きました」

 

作業は終わった。

 

もう数字へ隠す理由はない。

 

「落ちたら嫌だった」

 

言葉にすると、ずいぶん短い。

 

「仕事として必要な二本と、俺が嫌だから増やした一本を、同じ理由みたいに言った」

 

ミラは赤紐の結びを一つ外した。

 

「増やす前に言ってください。重さを払うのは艇と私です」

 

「次は言う」

 

「次も落ちる前提ですか」

 

「落ちない経路も出す」

 

少しだけ、ミラの口元が動いた。

 

仲直りの印ではない。俺がまた安全の形で本人の選択へ重りを足した事実は残る。それでも、理由を隠したまま正解だったことにはしなかった。

 

 *

 

中央修道院の記録室へ運ばれた時、最初に会ったのは耳の聞こえない記録官だった。

 

ソラネ・ユイ。

 

短い黒髪、灰色の記録衣。片手に白粉袋、もう片手に薄い床板を持っている。俺の顔より先に、低板の脚、左脛の添え板、探り針の先を見た。

 

隣の通訳僧へ、両手で短く合図する。

 

「あなたが国獣の声を聞く継骨工か、と訊いています」

 

「そうだ。聞こえる」

 

ソラネの手がもう一度動く。

 

通訳僧は一瞬、言いにくそうにした。

 

ソラネが床板を指で叩く。省くな、という合図らしい。

 

「証明のない騒音を、声と呼ぶな。彼女はそう言っています」

 

落下する国を仮止めした最初の挨拶としては、ずいぶん歓迎が悪かった。

 

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