国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
親方を殴るなら、左手しか使えない。
右前腕は細支え。左脚は荷重禁止。左肋骨は深く息を吸うだけで痛みが三まで上がる。殴ったあと格好よく立ち去るどころか、低板ごと巻胴で運んでもらう必要がある。
だから殴らない、というのは少し情けない。
本当は、殴って一つにまとめたくなかった。
交換所の中央で、バシュ親方は鎖付き歩行板へ座っていた。両手は前で縛られ、道具袋は透明箱の中。潰れた左親指も、右膝をかばう座り方も変わらない。
俺を見つける。
最初に顔ではなく、右腕、左脚、胸の順に見た。
「右は」
八年ぶんの説明より先に、それだった。
「細支え。軽く持つだけ」
「左脚」
「脛骨前の骨膜。軸一、表面四。荷重は赤」
「胸」
「左七番。普通の息一、深いので三」
「熱は」
「ない。親方は?」
バシュは自分の手首を見た。
「縄擦れ。右膝は前からだ」
会いたかった。
その一言が腹のどこかにある。生きていた。動像幕の無音の顔ではなく、俺の負傷をいつもの順で訊く声が目の前にある。
同じ場所に、父と母の死を八年隠した男がいる。
安堵と怒りは混ざらなかった。二本の割れみたいに、並んで痛んだ。
「証言を取ります」
ミラが交換所の管理僧へ言う。「捕虜の所有権や引渡し条件とは分けます。本人の拒否、帝国兵の立会い、修道会記録官、住民代表、外部証人を置く。拘束中の発言が強制でないかも記録してください」
帝国兵の隊長が首を振った。
「移送囚だ。交換品の確認以外は認めない」
「何との交換ですか」
「初約資料一式」
人を箱みたいに置いて、資料と替える。
バシュが低く言った。
「俺を受け取るな」
「親方が決めることじゃない」
「お前が払うなら言う」
腹が立つ。再会して十言も経たず、もう俺の選択へ手を出す。
「初約は親方の身代金じゃない。見せるかはエリュンが決める。俺が聞きたいことへ答えるかは、親方が決めろ」
ソラネが床板を二度叩いた。
通訳僧の手を借りず、帝国兵へ記録規則を見せる。捕虜の証言は引渡し契約に含まれない。本人が白、拘束者が立会い、五者が同じ板を読むなら、交換所内の公開記録として許可できる。
帝国兵は反対を記録したうえで席についた。武器は腰のまま、柄へ封紐。ジオは交換所の外で命令書の革袋を持ち、入室者と時刻を記録する。ネネは振動板、ミラは既存写し、俺は質問。住民代表はさっきの水槽係だ。
ソラネがバシュへ白と赤を出す。
話す。拒む。途中で止める。
バシュは白を置いた。
「何からだ」
謝罪から、と言えば楽だった。
頭を下げさせ、許さないと言う。それで俺が裁く側、親方が裁かれる側になる。八年前の工房で親方が言ったとおり、謝られた俺には許すかどうかの番が回ってくる。
いらない。
「第三静釘の作業順」
バシュの眉がわずかに動いた。
「最初から、道具と人と停止板を分けて」
ソラネが床へ白粉で方眼を引いた。道具箱は封じたままなので、薄い木片を静釘、四枚の石を補助梁、赤紐を外周締め輪に見立てる。
バシュは木片を方眼の中央へ置いた。
「霧暦四〇四年、白降り月十八日。旧坑第三基。王立局十二、帝国技師五、下層工房二十一。周辺退避は完了と記録された」
「実際は」
「補助梁内側に六人。お前の父母を含む。荷重逃がし継鉄の班だ」
共同墓標にまとめられた六人。
父母だけを事故の中心へ置けば、残り四人がまた薄くなる。
「一基目と二基目で、高い返律が消えた。三基目は締める前から腹側の戻りが乱れた。俺が一度赤を出した」
「そのあと再開へ白を出した」
「出した」
言い訳を挟まない。
帝国技師は誤差、王立局は都市側の安定を優先できる範囲と判定。バシュは二基目まで継鉄で持たせた経験を根拠に、三基目も支えられると判断した。
そこまでは、王都の工房で聞いた。
「父たちは何をした」
バシュの太い指が、荷重逃がしの石二枚を動かした。
「命令では、外周締め後に下がる補助梁へ継鉄を入れる。二人は継鉄の一枚を曲げ、締め輪の戻り止めへ噛ませた」
旧坑に残っていた、父の印がある曲がった継鉄。
「何のために」
「静釘を抜くためだ」
答えは短かった。
胸の奥で何かが落ちる。期待していた答えのはずなのに、英雄の話には聞こえなかった。
「二人は静釘という名を知ってたのか」
「知らん。だが一基目の前後記録を自分たちで取り、高い返律だけが管へ流れたと見つけた。二基目の熱も測った。三基目を締めれば、ラグナの拒否がまた消えると考えた」
「考えた。確かめたじゃない」
「そうだ」
バシュは父母を正しかったことにしない。
二人が作った手順は、締め輪を半欠け戻し、曲げ継鉄で保持し、静釘を指二本だけ浮かせるものだった。周辺荷重は前後二方向しか測っていない。腹側へ逃げる第三経路は、当時の記録にない。
六人のうち、残る四人へ本当の目的を説明した証拠もない。
「俺は止めた」
バシュが赤紐の前へ手を置く。
「曲げ継鉄を見つけた。抜けば腹側へ荷が落ちると判断した。二人へ外へ出ろと言った」
「従った?」
「従わなかった。次の締めで記録も異常も消える。今しかない、と」
「親方は」
「停止板を赤にした。帝国技師が主卓から白へ戻した。俺は内側へ入り、継鉄を外そうとした」
床の木片が動く。
外周締め輪が半欠け進む。曲げ継鉄が戻り止めへ噛む。静釘は指一本浮き、溜めていた律と都市荷重が同時に外へ出た。
補助梁四枚のうち、腹側二枚が指四本下がる。
バシュは石を倒した。
「俺は二人を止めた側だ。だが再開へ白を出し、赤を主卓から戻せる工程を受け入れ、内側六人を退避済みとした記録へ印を押した側でもある」
「父たちが抜こうとしなければ、死ななかった?」
「その日はな」
逃げない答えだった。
「じゃあ親方が再開しなければ」
「その日、全員生きていた」
父と母は、痛みを聞いて正しいことをした英雄ではない。外部観測も逃がし道も足りないまま、同僚へ危険を知らせ切らず静釘を抜こうとした。
バシュは二人を殺しただけの悪人ではない。止めようとした。
それでも、最初の再開へ白を出した。
どれか一つだけなら、怒りやすかった。
俺は左手を握る。
殴れる距離だ。
バシュは避けない。俺の手ではなく、左脚の添え板を見ている。立ち上がるな、と言いたい時の顔だ。
握った手を、記録板へ置いた。
「もう一回」
「何をだ」
「赤を出した位置から。誰の手が何へ触れたか、時刻を半息で」
殴れば、その一回で終わる。
作業順は、間違いが出なくなるまでやり直せる。
バシュは二度目を始めた。
父が曲げ継鉄を戻り止めへ。母が腹側梁の粉を読む。別の工人二人が継鉄を運び、二人が内索を保持。バシュが赤。帝国主卓が白。締め輪半欠け。腹側粉切れ。母が停止を叫ぶ。父が継鉄を外そうとする。バシュが父の腰索を掴む。補助梁が落ち、内索が六人を梁側へ引く。
三度目は、ソラネが各人の位置へ番号を置いた。
母の停止申告から崩落まで四息。
バシュの赤から主卓の上書きまで七息。
退避済みの虚偽印は、再開前に王立局書役が押し、現場頭のバシュが追認している。
失敗は父母の無断除去だけではない。停止権を遠い主卓が奪えたこと。内側人数を数えなかったこと。二方向しか測らなかったこと。再開の得を受ける側が安全判定もしたこと。
六人を潰したのは、一人の悪い手ではなかった。
だから、誰の責任も薄めていいわけではない。
ミラが持ってきた写しを方眼へ重ねる。
王都を出る前にバシュから受け取った隠し台帳十六枚。その三基目だけは右下が焦げ、補助梁の事故前と指四本下がった事故後の線が残っている。父の数字は角張り、母の時刻は丸い点で区切られていた。
「証言だけなら、後から整えられます」
ミラは父の曲げ継鉄の位置を示した。「旧坑で最初に見た時、この継鉄は梁の奥に残っていました。レンは周辺崩落を理由に取得していません。触れた記録もない。台帳の位置と、今日の再現は一致します」
ネネが振動板の端を指した。
「お母さんの丸い点、最後だけ間が短い。四息じゃなくて三息半」
バシュはすぐに首を横へ振った。
「俺の記憶では四だ」
「どっちを残す?」
「両方だ」
ソラネも白を出す。証言四息。現存写し三息半。原板未確認。差の半息は、都合よく同じへ丸めない。
バシュは、自分の話を正しく見せるため母の点を読み替えなかった。だが、それだけで残りが本当になるわけでもない。
「帝国主卓の上書きは」
ジオが命令書用の薄板を開く。「当時の王立事故報告では、現場赤なし、主卓白のまま。バシュの証言と矛盾する。主卓の原記録が必要だ」
ソラネは検証待ちへ三項目を書く。
旧坑現地の曲げ継鉄。
帝国主卓の色替え記録。
退避六人の作業札原本。
俺が親方を信じても、三つは白にならない。信じなくても、曲げ継鉄の位置は消えない。
人間の話も、七歩と七歩半みたいに分けて残せる。
「事故のあと、何を隠した」
「死亡日。退避人数。最初の赤。二人の除去試行。主卓の上書き。腹側へ移った荷重。全部だ」
「自分で?」
「正本の訂正へ印を押した。元札は十六枚へ写し、工房に隠した」
「一部を残したから、隠してないことにはならない」
「ならん」
「六百十二人の仕事を守った」
「守った」
「俺を食わせた」
「食わせた」
「それも免責にはならない」
「ならん」
何を言っても、バシュは謝罪へ逃げなかった。
ソラネが次の欄を指す。
心薬試料。
ジオが交換所の外から三枚の照会写しを出した。市場公開板、命令記録、セラト修理函封印庫へ分けたものの一枚。差出人バシュ・ドーン。運賃本人払い。売買価格空欄。代金受取先なし。宛先は公衆鑑定窓。
用途は、鎮動杭の剥離片、複数幼体様律の疑い、薬用転換・再販売禁止、局外構造照合、公開監査。
「告発のつもりだった?」
「そうだ」
「八年黙ったあとで」
「七年目に四基目の保守記録から、幼い律が混じるのを見つけた。王立局へ二度出した。一度目は老化雑音、二度目は薬用価値ありで戻った。三度目を局外へ送った」
「俺には言わずに」
「言えば、お前が行く」
「行った」
「ああ」
同じやり取りを八年前から続けている。
守るため知らせない。俺は知らされなくても行く。その結果、準備も証人もなく怪我をする。
「親方が俺の歯へ響骨片を詰めた時、こうなると知ってた?」
初めて、バシュの返事が遅れた。
十一歳。事故のあと、吊街の崩れで割った右奥歯。治療代の代わりに道具洗い三年と言われた。
「普通の骨材が足りなかった。ラグナが自然に落とした古い響骨片は工房にあった」
「それだけ?」
「詰める前、お前は床の三打を歯で数えた」
「知ってたんじゃないか」
「可能性は見た。国獣の律を聞く子供だとは決めなかった。治療後、作業板と違う音を言うたび、外部の粉と合わせた」
「俺に説明は」
「しなかった」
また一つ増える。
親方は俺の耳を作ったわけではない。だが響骨片を選び、違う音を拾う可能性を知りながら、治療を受ける俺へ説明しなかった。
役に立つ歯だ。
この歯がなければ、ラグナの痛みも九十日も聞けなかったかもしれない。
役に立った結果は、説明を省いたことを正しくしない。
ソラネの板へ、治療目的、素材、事前観測、本人説明なし、と四欄で残す。
「十一歳に、説明して選べって無理じゃない?」
ネネが訊いた。
俺ではなく、バシュとソラネの両方へだ。
バシュは少し考えた。
「治療しない、普通骨材を待つ、響骨片で塞ぐ。三つは言えた。普通材を待てば歯を失う可能性、響骨片が床振れを拾う可能性もだ」
「レンが食べられなくて、痛くて、親方の家にいる子でも?」
「だから俺の勧めへ逆らいにくい。それも記録すべきだった」
俺は当時なら、何を選んだだろう。
たぶん響骨片だ。歯を失えば見習い仕事に落ちると思い、バシュが勧めるならすぐ頷いた。
同じ答えを選ぶことと、選ばせなくていいことは別だ。
「砂双国の塔を爆破した?」
「していない。移送命令が出たのは、王国保守庫から速割粉が消える前日だ。帝国の取調べで塔構造は訊かれたが、答えていない」
「証明は」
「ない。拘束時刻と移送板は帝国が持っている」
ソラネは無罪とも有罪とも書かない。本人否認、確認資料未提出。
帝国兵の隊長が不満そうに床を鳴らした。
「移送囚の確認は終わった。交換回答を」
バシュが俺を見る。
「まだあるか」
ある。
熱を出した夜のこと。初めて槌を持たせた日。父母の墓で何を考えたか。なぜ一度も泣かなかったのか。俺を引き取って後悔したか。
どれも、今の公開板で答えを取る質問ではない。
「謝らないのか」
結局、それだけは訊いた。
バシュは縛られた両手を膝へ置いた。
「謝罪は記録する。だが今、お前へ許しを求めるためには使わない」
「同じに聞こえる」
「俺は六人の退避を確認せず、再開へ白を出し、事故後の虚偽訂正へ署名した。お前の治療素材も説明しなかった。悪かった」
親方の声は平らだった。
「許さなくていい、とは言わん。それも俺がお前の答えを決める言葉だ。公開審理で証言し、処分を受ける。静釘を外す作業では、俺の知る工程を出す。別々にする」
欲しかった謝罪ではない。
たぶん、欲しかった謝罪なんて最初からない。父と母は戻らない。正しい順に言葉を並べても、空の棺へ二人ぶんの重さは入らない。
「親方」
呼び方は残った。
「次に俺の選択を隠して守ったら、その時は殴る」
「左でか」
「治ってから両方で」
バシュは笑わなかった。俺の右支えを見て、治るまで使うな、とだけ言った。
その時、中央修道院の決議鐘が鳴った。
一度。長く。
ソラネの前へ、封じた決議板が届く。
修道会十二席。バシュの交換受領、四。拒否、三。中立規則に従う帝国移送への返還、五。
初約資料は渡さない。
だが帝国との敵対行為を避けるため、帝国が連れてきた捕虜は帝国へ戻す。
理屈は別々だった。
結果だけが、同じ鎖へつながる。
交換所の風扉が、今度は外向きに開いた。