国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
外向きに開いた風扉へ、帝国兵が歩行板を押す。
鎖が一度鳴った。
バシュ親方は立ち上がらない。立てないのではなく、縛られたまま急に動けば帝国兵へ制圧の理由を渡すからだ。潰れた左親指を膝へ置き、板が動くのを待っている。
止めるなら簡単だ。
ジオが封じた剣を抜く。ミラが赤紐で扉を落とす。ネネが巻胴を外す。俺は何もできないが、三人なら捕虜一人を奪えるかもしれない。
そのあと帝国砲船二隻が反対翼を撃つ。
エリュンの住民二万人へ、親方一人の重さを載せる。
「止めない」
先に言ったのはバシュ親方だった。
「親方の命令は聞いてない」
「お前の顔に言った」
殴るより先に言い返す元気はある。
ミラは赤紐を出さなかった。ジオも剣へ触れない。ネネは巻胴の歯を数えているが、外す手は伸ばさない。
ソラネだけが、帝国兵の前へ立った。
手には修道会の決議板がある。
通訳僧が読む。
「決議に従い、捕虜バシュ・ドーンを帝国移送隊へ返還する」
白粉のついた指で、ソラネは返還欄へ記録官印を押した。
俺の腹の中で何かが暴れる。
親方を助けたいからだけではない。砲弾を撃った側へ、中立を守るため人を返す。その手順が、あまりにきれいだった。
「それで終わりか」
手話へ直される。
ソラネは返還板を帝国兵へ渡し、次の板を出した。
公開審理申請。
「返還決議には従う。返還前の交換所手続きとして、捕虜本人が同意した公開証言の照合を求める。終了条件は、証言項目四件、既存記録の所在確認、各当事者の異議記載。身柄を奪わず、結論もここで決めない」
帝国兵の隊長が板を押し返す。
「時間稼ぎだ」
ソラネの返しは速い。
「開始から一刻を上限とする。帝国の資料回答期限とは別。砲撃で中断した場合、中断者も記録する」
「修道会は返還を決めた」
「決めた。だから返還する。未照合の証言を消して返すとは決めていない」
隊長は外の砲船を見た。
回答期限は半刻より短い。公開審理は一刻。帝国が待つ保証はない。
「申請者は誰だ」
ソラネは自分の名を書いた。
ソラネ・ユイ。中央記録官。保管責任者。証言対象でもある。
「あんたも?」
俺が訊く。
「過去十五年、静釘関連資料を保管し、公開しなかった」
通訳僧の声が交換所へ落ちた。
帝国兵より先に、ミラが動かなくなった。
ソラネは歩行板の進路を塞がない位置へ退く。規則どおり、申請板を修道会二人、住民代表、帝国立会人、外部申請人へ回した。
帝国隊長は赤。
住民代表の水槽係は白。
修道士は一人が赤、一人が白。
外部申請人の欄へ、ミラが白を置く。
五者一致ではない。
だが交換所の公開審理は、身柄移動を止める決議ではなく、記録設備を使う申請だ。記録官、住民、外部の三者白で設備を開き、反対者を異議席へ置ける。帝国兵は立会いを拒めば、帝国不在のまま証言が残る。
隊長は赤札を置いたまま席についた。
風扉は開いている。
親方の歩行板も出口へ向いたまま。
奪っていない。救えてもいない。
その途中に、話す席だけを差し込んだ。
*
骨伝板は、声を遠くへ送る道具ではない。
薄く削った響骨板を同じ幅、同じ張り、同じ三点支えへ置く。片方で刻んだ短い振れを中継梁が拾い、次の板へ形だけを渡す。長い言葉は崩れる。名、数字、白赤、短い文。途中の各修道院が受けた形と送り直した形を残すので、どこで変わったか後から追える。
ソラネは中央交換所から四本を開いた。
西、ヴァルド王国公開記録塔。
南、自由市セラト共同板。
東、オルナ産室記録庫。
北西、砂双国中央仮橋。
帝国中央への線もある。隊長は接続許可を出さない。拒否時刻だけが帝国席へ刻まれた。
「こんなものがあるなら、最初から使えばよかっただろ」
ソラネは板の張りを測りながら答える。
「使った。保管照会にだけ」
「公開には?」
「使わなかった」
十五年前、リュータが沈んだ。
帝国は中央索切断による王家の国殺しと報告。オルナ交換路は、下層艇と幼獣二十四の離脱反応を報告。ヴァルドの古い同腹記録には、リュータとラグナの響骨分岐と、同型静釘の設置位置があった。
エリュンは全部を受け取った。
ひとつの結論へまとめず、別記録として保管した。
ソラネが封印索引だけを公開板へ写す。
帝国から三束。
中央主索切断時刻、上層崩落線、公式死亡確認七百三十一。王家命令を国殺しと判定した報告。添付の救出者欄は封じられ、人数の外側に空白がある。
オルナから二束。
交換路へ入った下層艇の通過振れ。幼獣様反応二十四。リュータ本体の沈下後も、北東の深霧へ短い呼吸が移った記録。生存や現在地は未確認。
ヴァルドから一束。
リュータとラグナの幼い響骨分岐、同腹群の交換記録、両国に使われた黒杭の型照合。王立局は受領後、この束を同腹研究へ分類し、事故照合から外した。
「互いに違う話じゃない」
俺が言う。
上層が落ちたことと、下層艇が通ったこと。七百三十一が確認されたことと、その数に入る資格すらなかった者がいること。幼獣二十四の反応が出たことと、救出が成功したと確定していないこと。
同時に残せる。
「当時は、同じ板へ置けば一方が他方を宣伝に使うと判断した」
「別々のまま公開する方法は」
「なかったのではない。作らなかった」
ソラネは索引の公開停止欄へ、自分の印を三つ示した。最初は十九歳の細い刻み。二つ目は二十二。三つ目は二十八。年を重ねるほど線がまっすぐになっている。
迷わなくなった証拠には見えない。
迷いを記録へ出さなくなった跡に見えた。
「なぜ出さなかった」
ソラネの手は止まらない。
「帝国は航路を閉じると通告した。王家残党は、幼獣救出記録を復国の正当性へ使うと求めた。オルナは産室交換路の位置を隠すよう求めた。三者へ同じ物を出せば、中立記録の利用先を制御できない」
「閉じておけば利用されない」
「そう判断した」
「誰も確かめられないまま」
「そうなった」
言い訳はしない。
だから余計に腹が立つ。
「正しい記録を残したんだろ。いつか誰かが使えるように」
ソラネが俺を見る。
「そう考えた」
「便利だな」
肋骨の痛みを越えない息で言葉を切る。
「聞けば、俺が直す。記録を残せば、いつか誰かが直す。どっちも今ここで、自分が払うものを後ろへ送ってる」
自分へ刺さる。
ラグナの痛みを聞いた時、俺は場所さえ見つければ自分の仕事になると思った。住民の生活、ミラの選択、国獣本人の進路まで、直すという箱へ押し込もうとした。
ソラネは資料を守る仕事へ押し込んだ。
逆向きだが、逃げ道の形は似ている。
「保管しなければ消えた」
ソラネは手を動かす。
「保管したため残った。それは成果。公開しなかったため、反証に使われなかった。それは責任。片方で片方を消さない」
バシュ親方が言ったことと同じだ。
仕事を守った。記録を隠した。
俺を食わせた。選択を説明しなかった。
中立も、善い結果だけで作った白い服ではないらしい。
「十五年前、あんたはいくつだ」
「十九」
「一人で決めた?」
「違う。私は受領番号を付けた。公開停止は記録院七席の決議。現在まで延長した決議は三年ごとに更新。私は三度、継続へ白を置いた」
若かったから免責、命令だったから免責、今は違うから免責。
どれも使わない。
ソラネは三枚の古い決議写しを自分の前へ置いた。
「五年前にも白を置いた?」
ミラの声だった。
平らすぎて、俺のほうが息を止める。
ソラネは頷く。
五年前、オルナ交換路から人物照会が来た。
逆第三結び。
霧鯨の尾を鳥へ見立てた骨輪。
リュータ王都操路証の指位置。
十二歳で死んだとされた王女ミラ・リュータが、十七歳で生存している可能性を示す三照合だった。
「知っていたの」
「生存可能性を高と記録した」
「どこまで」
「オルナから北西へ出た。王国境で名をミラ・セトへ変更。静釘型を調べていた。接触先は不明」
俺と会う二年前まで、エリュンの記録はミラの背中を追っていた。
「連絡を拒んだ?」
「拒んだ。記録官が接触すれば、帝国へ生存を確定させる。修道会は本人保護を理由に照会を封じた」
「私へは、封じたことも知らせずに」
「知らせれば伝達路から位置が出る」
守るため、知らせない。
親方と同じ言葉が、別の手から出る。
ミラは怒鳴らなかった。赤紐を一本だけ取り出し、床へ三つの輪を作った。
「一つ。私へ接触する。帝国に位置が出る危険」
二つ目。
「記録を第三者へ分散し、本人へ接触方法だけを選ばせる」
三つ目。
「何も知らせない」
ソラネは三つ目へ白を置いた。
「当時、選んだ」
「二つ目を検討した記録は?」
「ない」
「なら保護ではありません。私の選択を抜いた保管です」
ソラネは反論しなかった。
「五年前の白を撤回する。記録へ、本人選択経路の未提示と追記する」
「撤回しても五年は戻らない」
「戻らない」
ミラの手が赤紐を強く引く。切れない。赤い線が指へ食い込む。
俺は手を伸ばさない。
代わりに、透明板をミラの届く位置へ置いた。彼女が記録を読むか、閉じるか、選べる場所へ。
ミラは板を取った。
透明板には、五年前の移動が三行だけあった。
オルナ北西路。十七歳前後。赤い九結び。
ヴァルド南境。ミラ・セト名。黒杭図を照会。
その先、保護のため追跡停止。
ミラは最後の四字を指でなぞった。
「追跡を止めたのではありません。私へ届く道を止めた」
「結果として、そうした」
「私は五年間、リュータの記録が全部帝国にあると思っていました。だから帝国の保管艇へ入り、身柄と交換して開けさせようとした。エリュンに写しがあると知っていれば、同じ選択をしなかった可能性があります」
可能性、とミラは言った。
絶対に入らなかったとは言わない。オルナの薬と産師、十二卵の不足は本当にあった。記録の別経路があっても、自分を差し出す道を選んだかもしれない。
それでも、選べる道が一つ消されていた。
「私はあなたを守ったと記録した」
ソラネの手がゆっくり動く。
「現在の事実に合わせる。本人へ経路を示さず、危険比較と選択を代行した」
ミラは白も赤も置かなかった。
「訂正は受け取ります。許すかは今決めません」
ソラネも返事を求めなかった。
「全部、公開審理へ出してください。私の生存記録も、隠した決議も」
「位置情報を含む」
「現在地はもう帝国に知られています。過去の協力者名と退路は伏せ、私に伏せる範囲を確認させる。あなたが一人で保護を決めない」
ソラネは白を置いた。
*
四本の骨伝板へ、返りが来る。
最初は砂双国。
エマ・ルス。ヤシュ・ベル。共同給水板と塔杭十二本の保管記録あり。王国速割粉、帝国黒管、砲撃映像、バシュ移送表示について証言可。両国別印。白。
次にオルナ。
ハナ・オル。テア・ヴィン。シガ・ルウ。幼獣神経移送原板、リュータ交換簿、ミラ本人照合、帝国艇の期限前拘束記録あり。証言可。白。
セラト。
マルク・エイン。ネネ本人名の消失と復帰、心薬試料出荷簿、公衆鑑定窓、幼体函十二の記録あり。公開板で証言可。白。
ヴァルド王国線は返りが遅い。
王立公開記録塔からではなく、途中の警備艇が受けた。
ジオの元部下二人。射殺・逃走偽装命令写し、南第三庫の速割粉欠損照会を保持。王都へ到着前。証言可。白。
ジオが自分の革袋を板の横へ置く。
「私は逮捕、囮利用、介入密命への加担も証言する。王国代表ではない。元現地指揮としてだ」
「ネネは」
「本人名で出す。子供代表にはならない」
ネネが答えた。「セラト十二頭、オルナ十二頭、リュータ二十四頭は別。見たのと、記録で読んだのも別にする」
「ミラは」
「主索を切った本人として。王家全部の答えにはしません」
「親方は」
バシュ親方が縛られた手を上げる。
「三本の設置、第三基再開、記録改竄、告発試料。雇用六百十二を守った話も出す。免責欄には入れない」
ソラネは最後に自分の欄を作った。
静釘・リュータ資料を十五年保管のみ。ミラ生存可能性を五年秘匿。公開停止決議へ三度白。現在、撤回。資料保全の成果と、反証を遅らせた責任を分記。
公開審理は、誰か一人を悪人にして終わる裁判ではない。
だからといって、全員が少しずつ悪かった話へ薄める席でもない。
誰が、どの時刻に、何を知り、何を選び、何を知らなかったか。
別々の板を、同じ床へ載せる。
水槽係が骨伝板の端へ、エリュン住民の欄を足した。
「記録を開く人だけで、翼を払う話にしないで」
左翼仮支え区八百。中央と右へ移った三千二百。都市全体は約二万。砲撃時の火傷十二、転倒二十九、翼回廊から不明三。初約やリュータに関わらず、今ここで照準の下にいる人数だ。
「審理を開けば撃たれる、閉じれば安全、でもない」
水槽係は外の砲口を見た。「もう三発撃たれた。中立でいれば撃たれないという最初の条件は壊れてる。でも、開くと決めるのも記録官だけじゃない」
ソラネは住民停止欄を作る。
審理そのものを止める赤。
公開範囲を狭める黄。
避難・翼修繕を優先して証言順を遅らせる白。
左仮支え区、中央医療床、右翼居住路、修道院、翼梁工、風畑、水槽。七区へ骨伝板の短線を分ける。全員の投票を十九息で集めるふりはしない。今いる各区の作業責任者へ、審理開始と砲口変化を同時に知らせ、停止が来た区の資料・人を勝手に使わない。
記録を公開する正しさも、住民の拒否を踏み板にはできない。
「バシュ親方を返す前に、これを開く」
帝国隊長が赤札を強く押した。
「認めない」
「異議として記録する」
ソラネの手が返す。
「帝国不在で裁いた結論は無効だ」
「結論を出さない。証言と反証条件を公開する。帝国席は空けておく」
「砲船は待たない」
「待たない選択も、帝国の欄へ入る」
交換所の床が、低く震えた。
エリュンの翼振れではない。
ネネが帆糸を窓へ投げる。糸は左ではなく、右へ引かれた。
「砲船、動いた」
ミラが透明板を空へ向ける。
帝国砲船二隻のうち、後ろの一隻が高度を三つ下げる。閉じていた砲口が開き、エリュンの左翼ではなく、まだ傷のない右翼へ線を合わせた。
回答鐘は鳴っていない。
期限まで、まだ十九息あった。