国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
翼を直せば、飛ぶ。
継骨工としては、ずいぶん便利な考えだ。
左翼の割れを止め、都市荷重を分け、右翼を砲弾から外した。飛べる最低値は全部白。なのにエリュンは翼を広げない。
修道会の三経路へ、三つとも赤を返した。
「左翼がまだ痛い」
俺が言うと、ソラネはすぐ記録しなかった。
手を動かす。
「観測は?」
「枝浅継鉄が半指滑った。主割れは下二割しか残ってない。飛べる最低値と、飛びたい痛みは別だ」
「痛い可能性はある。三経路拒否の理由と同じかは未確認」
分かっている。
自分で言う前に切られると腹が立つだけだ。
「傷以外を探す」
中央修道会は、新しい進路を二つ追加した。
一つ目は、帝国航路。
西の高風へ上がり、砲船二隻と距離を保って帝国管理の修繕港へ。左翼の恒久材、住民用食料、火傷薬、失った記録外皮の代替石を受けられる。対価は初約資料の引渡しではなく、砲撃・公開審理を帝国との共同調査へ戻すこと。
安全な道だ。
帝国が撃った直後でなければ、かなり良い。
二つ目は、ラグナへの最短路。
ミラが出した。
現在の上昇風床から南西へ降り、二日でラグナ北進路へ届く。エリュンは修繕艇より速く、骨伝板四線と初約索引も運べる。左翼は途中の三風床ごとに荷を休ませ、都市の右左を交代する。
欲しい道だ。
九十日の残りを、これ以上減らしたくない。
「三つ目は?」
ミラが俺へ訊く。
二択にしないためだ。
「古い東風。今の帝国航路へ入る前のエリュン記録を探す」
まだ位置も代価も分からない。
選択肢というより、空欄だ。
それでも赤紐を三本にする。
帝国航路。
ラグナ最短路。
旧風路調査。
外部観測は粉、帆糸、透明板、俺の骨伝。三本を一つずつ翼前へ示す。
エリュンは帝国路へ赤。
ラグナ路へ赤。
旧風路調査へ、返りなし。
白ではない。
ただ、赤でもない。
「傷でどれも飛べないなら、三つとも同じ赤になるはず」
ネネが帆糸を巻き直す。
「返りなしだけ違う」
「旧風路の位置がないから、経路として届いていない可能性」
ミラが言う。
俺たちは、エリュンへ何も示していない札に返事を求めたことになる。
「まず飛べるかを分ける」
進路なし。
翼を四分の一だけ開き、同じ上昇風床へ戻す。移動距離ゼロ。左主割れが一指開く、枝浅継鉄が半指増える、右翼前後差二のどれかで停止。
住民と修道会へ代価を出す。都市傾き最大十五度。仮支え区八百は索床へ。火傷・転倒者は中央医療床から動かさない。不明三の捜索索は翼外へ伸ばしたまま、試験で巻き込まない。
七区のうち白五、黄二。黄は左仮支えと医療床。試験一回、十息以内、再試験は別同意。
ミラが進路をつけず、左右の翼角だけを示す。
ネネが帆糸七本。
ソラネは古代碑三列へ粉。
俺は交換所の低板。
「開翼試験。十息。停止は誰でも赤」
エリュンの右翼が開く。
一割。
二割。
左翼も遅れて広がる。
主割れ、指半分。
枝浅継鉄、半指のまま。
都市傾き十二度。
四分の一。
エリュンは翼を閉じた。
進路ゼロで上昇風床へ戻る。
主割れは元の幅。新しい粉切れなし。住民転倒ゼロ。索擦れ一、本人が白。死者・不明の更新なし。
飛べないわけではない。
長距離を安全に飛べる証明でもない。
だが三経路拒否を、傷だけで説明する板は赤になった。
傷以外の候補を、思いついた順に正解へしない。
砲船への警戒。
都市荷重。
住民が飛行を拒んでいる。
初約資料を動かしたくない。
上昇風床そのものへ留まりたい。
エリュンの産卵や群れに関わる進路。
六欄を作る。
砲船警戒は白に近い。二隻は高度五上、測距継続。だが砲船から遠ざかる南路まで赤だった。警戒だけでは三拒否を説明しない。
都市荷重は、四分の一開翼で傾き十二度、主割れ指半、住民転倒ゼロ。長距離白ではないが、短い移動不能でもない。
住民七区の進路札を取り直す。
帝国路は赤四、黄二、白一。
ラグナ路は赤二、黄四、白一。
旧風路調査は赤ゼロ、黄七。場所と代価がないため白を出せない。
住民の選択とエリュンの返りは似ているが、同じではない。帝国路へ住民多数赤でも、南路は全員赤ではない。人間の拒否を国獣の理由へ代入しない。
初約資料は三経路へ分散したまま、表題と封印位置を動かしていない。記録官が運搬赤を出しているが、資料を残し人だけ飛ぶ案にもエリュンは赤。
現風床への留まりは、修道会の停止路へ赤を返したので下げる。
残るのは、進路そのもの。
「絞りすぎ」
ネネが言う。
「産卵か群れって、まだ何も見てない」
そのとおりだ。
傷でないと分かって、次に物語らしい理由へ飛びついただけだ。
産卵、群れは空欄へ戻す。
確定したのは、進路なしの開翼は白、示した西・南・停止は赤、位置なし旧路は無返答。
「理由を探す前に、旧路の入力を作る」
ソラネが白を置いた。
分からない場所を、希望で埋めない。まず経路を実物にする。
「最短路をもう一度」
口から出た。
ラグナへ二日。
初約「声」の残り半分も、エリュンが進路を選べば揃うかもしれない。ラグナの九十日、バシュの公開証言、ソラネの資料。全部を一度に運べる。
エリュンにも左翼を直す必要がある。ラグナの修繕都市なら材と工人を出せる。
理由はいくらでも作れる。
「同じ案を二度出すなら、新しい情報か代価変更が要ります」
ミラの声は平らだ。
「左翼が飛べると分かった」
「エリュンも分かりました。そのうえで最短路を白に変えた観測は?」
ない。
俺に都合が良くなっただけだ。
「ラグナの期限は、エリュンの進路を決める札じゃない」
言うと、腹が重くなる。
助けを求めている。
だから他の国獣が自分の道を曲げ、俺たちを早く運ぶべきだ。そう考えれば、帝国が交易や薬のため国獣を航路へ固定した形と近づく。
目的の大きさで、使った相手の拒否は消えない。
「最短路は再提示しない」
ミラが赤紐を回収する。
「急がなくていいとは言っていません」
ミラが透明板を畳まずに続けた。「修繕艇だけでラグナへ向かう経路、エリュンの旧風路調査と並走できる中継路を探します。エリュンを運搬手段へ入れないだけです」
諦めることと、別工程へ分けることも同じではない。
修繕艇は翼根へ係留中。左支え肋は復旧済みだが、食料・清水の再計数をしていない。今すぐ二日路へ出られるとは決めない。ミラは地図板へ、修繕艇単独、骨伝板中継、エリュン旧路の三線を別色で引いた。
俺の焦りをエリュンへ払わせずに、ラグナの期限も止めない道だ。
残念そうにも、安心したようにも見える。どちらとも決めない。彼女自身もラグナを急いでいる。それでも案を出した本人が、拒否後に押し直さなかった。
*
旧風路の記録は、中央記録室に一枚で残っていなかった。
現行図は帝国航路、西高風、南無国風床。十五年前より前の図は、修道会の三年ごとの航路帳へ分かれている。
ソラネは三十年分だけを出した。
念のため百年、にはしない。
帝国航路へ変わった前後、五年ずつ。渡り鳥記録、深霧上昇記録、空苔収穫、翼膜温度、都市荷重を同じ日付へ重ねる。
二十一年前。
エリュンは春の後半、東南の深霧盆地へ降りている。
翼膜温度が平常より三高い。
腹風嚢の圧が二増え、食料用の渡り鳥卵採取を全面停止。小型渡り鳥が翼端へ巣材を運び、大型鳥はエリュンの下を同方向へ飛ぶ。
二十年前も同じ。
十九年前も。
十八年前、バシュが渡り鳥衝突修繕で一季いた年。東南風路へ入る前、翼下の風抜きを青栓で調整した記録がある。
「何を修理した」
公開通廊のバシュへ骨伝板をつなぐ。
「翼端へ鳥が集まりすぎた。追い払ってはいない。前後差を揃え、外側の巣を内側三列へ移した」
「エリュン自身は」
「腹の下へ、透明な袋を二つ下げていた。記録官は産卵膜と呼んだ。中身は見ていない」
産卵。
国獣の卵か、別の生き物を運ぶ膜か、断定しない。
当時の記録には、腹側二膜、熱上昇、深霧上昇三本、渡り鳥群の同伴。二十日後、膜は空。幼体の目視なし。深霧へ入ったのか、孵ったのか、失われたのか分からない。
記録だけでは、膜が何だったか決められない。
住民名簿から、当時の翼下工を探す。
生存三人。
一人は現在の左仮支え区。歩行困難で移動赤。骨伝板を本人の寝床へつなぐ。
一人は風畑を退職し、中央水槽係。砲撃後の水袋移動に参加している。
一人は二年前にエリュンを降り、西の地上町へ。現在接続なし。
二人の証言を別々に取る。
左仮支え区の老工は、透明膜を卵袋と呼んだ。中で動く影を一度見たと言う。形は翼のある魚、長さ人二人。だが夜、下から灯り越しに見ただけ。
水槽係は影を見ていない。膜へ送る温水が通常の腹風嚢より三高く、二十日後に水が急に減ったことを覚えている。孵化鐘は鳴っていない。
一致するのは、透明膜二、温度三高、東南盆地へ入り、二十日後に空。
影と卵という名は、一人の観測。
「産卵風路」と索引へ書く時も、確定と通称を分ける。古い航路帳の正式名が東南産卵風路だったため名称は残すが、現在のエリュンが産卵する、幼体がいる、親として帰りたいとは断定しない。
名前のほうが、証拠より先に感情を作る。
ただ、エリュンは毎年同じ季節に東南盆地へ向かっていた。
十五年前、航路が変わる。
帝国からの安全勧告。
リュータ崩落で深霧流が不安定。東南盆地は上昇噴流、礫雨、方向喪失の危険。修道国の中立航路を西高風へ移し、渡り鳥の保護区は西へ代替設定する。
修道会は白を置いた。
ソラネは十九歳で受領番号をつけた年だ。
「危険は実測した?」
深霧上昇記録を開く。
十五年前、東南三本。強度七、五、六。
十四年前、七、六、六。
十三年前、六、六、五。
航路変更前の十九年前は、七、五、六。
変わっていない。
礫雨は十五年前に二回。二十一年前は三回。危険が消えたわけではないが、急に航路を閉じる増加もない。
「帝国勧告を外部測定せず採用した」
ソラネが記録する。
「当時はリュータ崩落直後。記録院は予防を優先した」
「結果は?」
西へ移った最初の年、エリュンは出発鐘へ三度赤を返した。
修道会は左翼膜の熱と解釈し、冷却空苔を増やした。四度目の出発鐘で帝国航路へ入る。
腹側の透明膜は一つ。
翌年、なし。
その後十四年間、記録なし。
産卵に失敗した、とはまだ書けない。
膜が出なくなった。東南へ向かう時期だけ翼膜温度が上がり、出発鐘へ赤を返す。西航路へ入ると、三日後に温度が下がる。
修道会は毎年、翼熱を治療した。
冷却苔。
風抜き拡張。
都市荷重の右移し。
傷に対する修理としては正しい。
戻りたい進路への圧を、傷の熱へ読み替えていたなら、直すほど古い道から遠ざける。
俺がさっきやりかけたことだ。
「旧風路の位置を出す」
東南盆地。
深霧上昇三本。
渡り鳥群。
過去の腹側二膜。
現在の代価。帝国航路外、砲船追跡、左翼仮修繕、盆地礫雨の危険。
白に誘導しない。
西帝国路、南ラグナ最短路、東南旧風路。三つを同じ板へ戻す。
今度は旧風路も空欄ではない。
東南へ百二十キロ。最初の上昇柱まで半日。三本の深霧上昇、礫雨観測、休翼床二か所。左翼仮継鉄は一つ目の休翼床で再測定。砲船が追えば、引き返す北路と、都市だけを中央風床へ降ろす停止路。
ミラが三本の赤紐を同じ長さで置く。
帝国路。
ラグナ路。
東南旧路。
エリュンの翼面へ順に示す。
帝国路、短い赤。
ラグナ路、短い赤。
東南旧路。
腹風嚢の圧が一つ上がる。
右翼が東南へ指二本ぶん開き、左翼は仮継鉄の停止幅を越えない四分の一で続く。古代碑の青列が二分と遅れ一。ネネの長糸が下から返る。
白に近い。
だがエリュンはまだ離床しない。左翼の恒久修繕、住民七区の現在経路同意、砲船への停止条件が揃っていない。
進路への面振動を、出発同意へ広げない。
「東南を選択候補として記録」
ソラネが白を半分置く。
「産卵風路へ戻りたい?」
俺は問いの形で口にする。
「観測は、東南旧路へ同方向の翼開きと腹圧上昇」
通訳僧が返す。「目的は未確定」
それでいい。
少なくとも、修道会が安全だと思う西でも、俺たちが急ぐ南でもない。エリュンが毎年通っていた東南だ。
東南の反応を記録した直後、帝国砲船が信号を出した。
東南風路は航行禁止。
理由は、十五年前と同じ深霧流不安定。
「現在値を出せ」
ジオが返す。
帝国船は回答しない。
代わりに、砲撃で外れた測距板の一枚が上昇風床へ落ちていた。翼梁工が回収し、ソラネが砲撃物証として封じたものだ。
表は砲口角。
裏には、飛行禁止区の識別線がある。
東南盆地を中心に、半径四十キロ。
深霧危険の印ではない。
帝国工廠の三角印。
資材便だけが通る八本の細線。
識別名は、ATLAS外殻建造区。
資材線八本のうち三本は、帝国中央からではない。
一つはオルナ近くの産師補給路。
一つはセラトを通っていた旧心薬便。
一つはヴァルド王国の南交易索。
俺たちが別々の国で見た薬、幼獣神経、静釘試料の道が、東南盆地へ集まっている。どの荷が実際にアトラスへ入ったかは、この測距板だけでは分からない。それでも、造船所が孤立した帝国工房でないことは線の数が示す。
ソラネは十五年前の安全勧告へ、建造区秘匿との関係未調査と追記した。
「エリュンの産卵を止めるために迂回させた?」
ネネが訊く。
そこまでの証拠はない。
帝国が隠したかったのは造船所で、毎年東南へ来るエリュンが邪魔だった。透明膜が消える結果を予測したか、知った後も続けたかは別の記録が要る。
目的と結果を、今の怒りだけで一つの罪へ溶かさない。
八本の線は、次に見る場所を示していた。
十五年前の迂回は、危険からエリュンを守るためだけではなかった。
深霧の上に造船所を隠し、毎年そこへ戻る国獣を空から遠ざけるためだった。