国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
骨医は、俺の右腕を見るなり治療費を二倍にした。
「無許可作業でやった顔だから」
「顔で骨の値段を決めるな」
「じゃあ、どこで」
「壁に挟んだ」
「壁が内側から二本も折ってくるかい」
吊街の夜番骨医は、患者の嘘を治す気がない。嘘をついたぶんだけ黙って料金を足す。
旧坑を出てすぐ、ミラを廃材庫へ戻し、心律片の小瓶も地図板へ入れさせた。赤い操路紐は九つの結び目に戻り、左手首へ巻かれている。ほどく前と同じに見えるが、三つ目だけ結びの向きが逆だった。
俺は診療棚へ右腕を載せた。
固定を解かれると、腫れは肘の近くまで広がっていた。骨医が薄い振動板を指先から順に当てる。三か所目で歯の奥まで嫌な音が来た。
「二本。ずれてはいない」
「一巡か」
「八日は槌を持つな。十日目に再検査。左肩も冷やせ」
「八日でいいのか」
「いまの固定を外さず、右で茶碗を持たず、痛みが減った日に働かなければ」
無理だと思っている顔だった。
観察根拠は、骨医が先に二巡ぶんの固定布を出したことだ。
響骨を薄く削った副木へ替えられ、肘と手首をまとめて布で吊られる。右の指は動くが、拳を作ると前腕の奥が熱い。
治療費は骨貨二十六枚。壁に負けた肩と釘に負けた腕で、今月の食費まで負けそうだった。
廃材庫へ戻ると、ミラは地図板を抱いたまま入口に立っていた。
「どうでした」
「八日」
「十日です」
「聞いてたのか」
「壁が薄いので」
「八日槌なし。十日目に再検査だ」
「では十日です」
こいつは不明を埋めないくせに、医者の言葉は一番悪い側で確定する。
「心律片は」
ミラが地図板の内側を見せる。小瓶は綿布で二重に包まれ、細い革紐で板の中央へ固定されていた。白い霜は消え、黒い薄片も動いていない。
右奥歯を近づけると、かすかな高低がまだある。
「あんたが持て」
「あなたが採った証拠です」
「右腕で瓶を落とす証拠も欲しいなら別だ」
ミラは板を閉じた。
一晩だけ廃材庫に残れと言い、俺は部屋へ戻った。寝台へ横になる頃には、夜明け前の配水鐘が鳴っていた。
眠りは一刻も持たなかった。
*
共同廊下を揺らす足音で目が覚めた。
王立修繕局の灰色上着が三人、監査局が二人、その後ろに操路警備の青い制服が四人。吊街にしてはよく磨かれた靴が並んでいる。
先頭の警備兵だけ、顔を知っていた。
黒い髪を短く刈り、左眉の索傷まで昔のまま。肩は記憶より広くなり、胸には銀縁の警備章がある。
「レン」
名前で呼んでから、そいつは横の監査官を見た。
「継骨工カーヴ。起きていたか」
「今ので起きた」
「腕はどうした」
「壁に負けた」
ジオ・ハルは眉を寄せた。子供の頃から、俺が嘘をつくと同じ顔をする。
公務中に昔話を始めるほど親切ではなく、巻いた紙を左手で差し出してきた。
「修理命令だ。旧修繕坑から異常振動が検出された」
「異常なしじゃなかったのか」
「再判定された。国獣の老化による雑音だ」
紙を受け取る。
命令の題は、旧坑永久充填工事。黒い釘も、鎮動杭も、静釘も書かれていない。老化した響骨が不要な律を返し、上背祭礼の安全を損なうため、硬化骨樹脂二百樽で坑道を埋める。
痛いと言った音が、雑音になっていた。
「診断したのは誰だ」
監査官が答える。
「王立操路院と帝国心薬院の合同測定だ。資格外の疑問は工事後に書面で受け付ける」
「工事後なら、測る場所が樹脂の中だ」
「だから永久充填だ」
話が閉じている。
封鎖樹脂より固い。
帝国製の操路塔が来たのも八年前だ。
それ以前、ラグナは深霧の流れで道を変え、隣国との一時索が年に何度も切れた。塔が一定の進路を保つようになってから、背上麦は決まった日に売れ、薬も冬前に届き、吊街の職人にも仕事が増えた。
俺だって恩恵を受けている。骨医の副木に塗られた止血薬も、帝国便で来たものだ。操路塔を止めろと言うだけなら簡単だが、明日の薬と食料をどう運ぶかまで答えなければ、下層から先に困る。
便利だったことと、痛みを雑音にしていいことは別だ。別なのに、命令書は前者を盾にして後者へ蓋をする。
「俺は骨医から槌を止められてる」
「監督だけでいい」
ジオが俺の右腕へ目を落とす。
「親方のドーン工頭は上背局へ呼ばれている。吊街側の班で旧坑を知るのはお前だ」
知っているから埋めさせる。
偶然なら、ずいぶん筋の悪い偶然だ。
「期限は」
「祭礼荷重が乗る正午まで」
あと三刻。
断れば、別の班が本当に二百樽を流す。従えば、自分で釘も父の継鉄も埋める。
「命令は受ける」
ジオの肩が、ほんの少し下がった。
安心したとは断定しない。警備章へ置いていた指が離れたのを見ただけだ。
「ただし、右腕は使わない。吊街の補助員を出してくれ」
「名簿を作る」
「名簿より先に樽を運ばせろ。三刻しかない」
監査官は不満そうだったが、命令を急いでいるのは向こうだ。働き手を拒む理由はない。
廃材庫へ工具を取りに行くふりをした。扉の内側でミラが待っている。
話は骨伝板から聞こえていたらしい。
「二百樽では、旧坑の荷重が吊街へ逃げます」
「分かってる」
「硬化前なら釘の律も」
「吸われる。だから全部は入れない」
「命令に逆らうんですか」
「見た目は従う」
廃材棚から泡骨灰を三袋、古い濾過繊維を四束選ぶ。硬化樹脂へ泡骨灰を混ぜれば、表面は同じ色で固まるが、中は衝撃で崩せる。坑道全部ではなく、入口から二歩だけを本樹脂で固め、その奥を泡灰と繊維の仮塞ぎにする。
検査槌の返りも、短時間なら永久充填とほとんど同じだ。
「ばれたら資格停止です」
「もう予定に入ってる」
「住民も処罰されます」
手が止まった。
俺一人で詰めれば時間が足りない。補助に入る住民へ、知らないまま偽装をさせることになる。
自分だけで背負うなと骨へ教わった夜の次に、もう同じ穴がある。
「仮塞ぎだと伝える。嫌なら本樹脂の班へ回ってもらう」
「理由は」
「旧坑を全部固めると吊街へ荷が来る。それだけで十分だ」
釘やミラのことまで話す必要はない。だが、何へ手を貸すのかを隠したら、バシュが俺にしたことと同じだ。
「私は」
「地図を描け」
「ここで?」
「吊街の下梁を全部。ひびが動いたら、どこへ逃がすか三つ出しておけ」
ミラは一度だけ頷いた。
助手ではない。旧坑を塞ぐ俺と、二次亀裂を見るミラ。仕事を分ける。
廃材庫を出ると、ジオが壁にもたれていた。
「誰と話してた」
「道具」
「返事をする道具か」
「俺の道具は態度が悪い」
ジオは扉へ手を伸ばした。
俺は左肩で道を塞ぐ。打ち身が痛んだが、顔には出さない。
「廃材庫は昨夜、監査済みだ」
「だから今日も空とは限らない」
「だったら自分で見ろ。俺は樽を運ぶ」
先に歩く。
背中を見せるのは賭けだった。扉が開く音はしない。代わりに、ジオの靴が追いついた。
「藍髪の女を探している」
「聞いた」
「地図板を持ってる」
「俺より字がうまそうだ」
「レン」
今度は公務の呼び方ではなかった。
「見てない」
短い嘘だった。
ジオはそれ以上聞かなかった。昔なら、俺の襟を掴んででも吐かせた。いまは警備章が間にあり、俺の上着には隠した小瓶の冷気がない。互いに見えていない物が増えた。
旧坑前には、樹脂樽が二列に並んでいた。
補助へ来たのは、吊街の住民二十人。配管工が三人、洗濯場の索番が五人、荷揚げ人が七人、残りは修繕経験なし。向かいの双子まで粉墨籠を抱えている。
「お前らは帰れ」
「レン兄も片手だ」
「だから大人を使う」
「大人より走れる」
走る必要がある仕事ではない。
双子には廊下の亀裂へ粉墨線を引き、動いたら鐘を鳴らす役を渡した。追い返せば、どうせ見えないところから覗く。仕事に入れて立つ場所を決めたほうが安全だ。
住民を二班へ分ける。
一班は命令どおり入口へ本樹脂。もう一班は、理由を説明したうえで泡骨灰と繊維の仮塞ぎ。
「監査へ見つかれば、俺が混合を指示したと答えろ。嫌なら本樹脂だけ運んでくれ」
七人が本樹脂側へ移った。
責める理由はない。資格もない住民が王命違反を選ぶ義理はもっとない。
残った十三人の中で、洗濯場の索番が鼻を鳴らした。
本樹脂へ移った配管工の一人は、上背の資格試験を来月に控えていた。荷揚げ人の夫婦には、監査局で働く息子がいる。罰を受けるのが自分だけでは済まない人間ほど、命令どおりの樽を選ぶ。
逆に残った者も、俺を信じたからではない。昨日から廊下の扉が閉まりにくい、洗濯索の水滴が一方へ流れる、寝台の脚が浮く。自分の生活で荷重の偏りを見ていた。
「吊街の梁が固い樹脂でまた割れるなら、洗濯物が落ちる。あたしはそっちのほうが困る」
立派な理念より、濡れた服のほうが現場を動かす。
右腕は布で胸へ固定したまま、左手で混合比を示す。泡灰二、樹脂一、濾過繊維を腕一本ごと。住民が練り、運び、奥へ積む。
俺がやったのは、厚みを測って順番を変えることだけだ。
それでも、三樽目で口を出しすぎた。
「そこは俺が」
樽へ左手をかける。
ジオが反対側を持ち、取り上げた。
「監督だけと言った」
「警備は樽運びまでやるのか」
「無許可修繕の監視だ」
広い肩で樽を担ぎ、坑の入口へ運ぶ。靴を汚したくない上層の監査官と違い、ジオは泥へ普通に入る。
昔からそうだ。規則を守れと言いながら、危ない荷だけは先に持つ。
「その腕、壁じゃないな」
「骨医にも言われた」
「二本だろ」
見ただけで数を当てたわけじゃない。副木の留めが二か所だけ浮いている。子供の頃、互いの怪我を隠してバシュに叱られた経験が役に立っている。
「何をした」
「間違った場所へ腕を入れた」
「女と一緒に?」
答えなかった。
ジオの顎が固くなる。
「現場の勘で規則を越えて、自分だけ怪我するならまだいい」
「よくないだろ」
「よくない。だが、お前は周りまで入れる」
その言葉は刺さった。
旧坑でミラを巻き込み、住民十三人へ偽装を選ばせている。ジオの姉が、近所の職人の無許可継ぎで落ちたことも知っていた。善意で支えを足し、その重さが隣の足場を外した。
「だから、全員へ説明した」
「説明すれば、崩れてもいいのか」
「崩れない道を三つ用意して、選んでもらう」
「資格のない住民に荷重計算を選ばせるな」
「資格のある局が、ラグナの痛みを雑音と書いた」
声が大きくなった。
坑口の住民がこちらを見る。俺は息を吐き、下げる。
ジオの姉が落ちたのは、俺たちが九歳の時だった。
近所の職人が、揺れる廊下へ善意で支柱を一本足した。廊下は止まり、その重さが隣の索棚へ移り、姉を乗せた床だけが外れた。許可を取っていれば助かったとは限らない。それでも、誰が計算し、誰が止められたかの記録は残ったはずだ。
ジオが規則を信じるのは、上層に褒められたいからじゃない。結果を「仕方なかった」で消させないためだ。
その理屈を知っていて、俺は記録に残せない仮塞ぎをしている。
「聞こえないものを、ないことにした。旧坑を固めれば、その重さが吊街へ来るのも書いてない」
「証拠は」
「俺が聞いた」
「それだけでは命令を止められない」
「じゃあ、何人の耳があれば痛いことになる」
ジオは答えなかった。
答えられないのではなく、答えを言わない顔だった。眉の傷の下が動かず、樽の縁を握る指だけが強くなる。
その時、上背から操路鐘が鳴った。
細く、まっすぐな一音。
ラグナへ南東の進路を保てと送る帝国製操路塔の音だ。吊街の梁が、一斉に低く軋んだ。
旧坑の静釘が拒否の返りを吸う。
消えた返りの代わりに、荷重が腹側へ抜けた。
双子の鐘が廊下の奥で激しく鳴る。
「線が切れた! 三つ!」
住民を坑から出す。
本樹脂の樽を閉め、火を落とし、索番へ人数を数えさせる。二十人。監査官も警備もいる。
吊街中央の支え梁に、指二本幅の亀裂が走っていた。
朝にはなかった。粉墨の縁がまだ濡れている。旧坑を埋めた重さではない。操路塔の一音で静釘周辺から逃げた荷が、最も古い吊街梁へ集まった。
「老化の雑音で、梁は割れない」
ジオにも聞こえる大きさで言う。
返事を待たず、住民へ仕事を振った。
配管工は上の水を止める。索番は左右の吊索を一段ずつ緩める。荷揚げ人は廃材庫から長い継鉄を二本。双子は亀裂の端を追って粉墨線を延ばす。
俺は槌を持たない。
持てないからではなく、持たなくても直せる順番を出す。
ミラが廊下の向こうに一瞬だけ姿を見せた。藍髪は布で隠し、地図板も廃材布へ包んでいる。監査の視線が坑へ集まる間に、壁へ白い印を三つ残した。
上の梁、右の空き索、下の廃水管。
荷を逃がす三つの候補だ。
俺は上を選ばなかった。祭礼荷重が来れば潰れる。
下も選ばない。廃水管の先には住居がある。
「右の空き索へ二割。残りは左右均等」
空き索は、三年前に閉じた共同浴場の吊り線だ。いまは荷を持っていないが、留め具の二つが錆びている。二割以上を渡せば、亀裂より先に索が切れる。
索番二人へ錆びた留めを交換させる間、荷揚げ人が左右の主索を半段ずつ緩める。急に緩めれば上の家が滑るため、双子の粉墨線が指一本動くごとに止めた。
ジオが即座に警備兵を右索へ回した。
反対しない。証拠が目の前にある時は、こいつは動く。
長い継鉄を亀裂の上下へ渡し、住民が締め具を回す。俺は左手で粉墨の動きを見た。右腕は脈打っていたが、固定布の中から出さない。
一度目、上側の線が細く開く。締めすぎだ。
半段戻し、右索を爪一枚ぶん張る。二度目は下が動いた。廃水管へ荷が落ちかけているので、左主索へ一人分だけ重りを移す。
三度目、どの線も切れなかった。
俺が槌を振れば、たぶんもっと早い。だが、俺一人の打音より、二十人が別々の線を見るほうが、見落としは少なかった。
操路鐘が二度目を鳴らす前に、荷重は右へ逃げた。
亀裂は止まった。
誰も落ちなかった。
それから旧坑へ戻り、入口二歩を本樹脂で固めた。奥は泡灰と繊維。検査棒を当てれば、硬い返りがする。見た目にも永久充填だ。
父の継鉄と黒い釘へは、崩せる道を残した。
正午の鐘と同時に、監査官が完了印を押す。
「命令どおり、旧坑の異常は封鎖された」
異常を閉じ込めれば、なくなるらしい。
便利な仕事だ。俺には向いていない。
監査官たちが上背へ戻る準備を始めた。ジオは残り、吊街梁の亀裂を自分の命令記録へ写している。
「あの女を見つけたら、俺が先に話す」
「警備の仕事か」
「幼なじみの忠告だ」
「さっきはカーヴだった」
「お前が嘘をつく時はレンだ」
目が合った。
廃材庫の扉を開けなかった理由を聞こうとしたが、ジオは先に記録板を閉じた。
「命令には従え。変えるなら、変えるための記録を残せ。お前の耳だけで人を巻き込むな」
正しいところがある。
だから腹が立つ。全部間違っている相手なら、遠慮なく殴れるのに、右腕が使えない今は特に困る。
修理命令の控えを受け取り、折り畳む。
その時、紙の下端に署名欄があるのを見つけた。
合同測定承認、王立修繕局・腹側工頭。
白い顎髭の親方が、三十年使った槌と同じ三本線で印を結ぶ癖を、俺は知っている。
バシュ・ドーン。
ラグナの痛みを「老化による雑音」と判定し、旧坑を永久に埋めろと命じたのは、親方だった。