国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
九十日後に死ぬのではない。
その一文を、喜んでいいのは三息までだった。
「死なないんだな」
喉から勝手に出た。
ミラもネネも白を返さない。ソラネは初約索引へ落ちた粉を、細い刷毛で三つに分けている。
九十。
還る。
季。
つながって見えるからといって、文章にしてはいけない。さっき自分たちで決めた手順を、もう破りかけた。
「今のは仮読」
俺は自分の板へ赤を引く。「九十日後も生きている、とはまだ確かめてない」
死ぬ数ではない。
それと、安全な数であることは別だ。
東の休翼床、その古い記録庫を借りる。砲船二隻は距離を詰め、飛行艇五隻も外周で待っている。長居はできない。
エリュンの左翼には、透明骨長材が一本足りない。主割れは上昇風へ預けて指四分、枝は半指。砲船が届くまでに、使える資料と使える材を別々に選ぶ必要がある。
「三系統」
ソラネの手を通訳僧が読む。
一つ、ラグナの年輪記録。
二つ、世界背骨の深霧周期。
三つ、リュータの還り記録。
同じ九十が、別の場所にもあるかを確かめる。
ラグナの記録は俺たちが持ってきた。
第一日、右後脚の深い律へ九十回の減衰。二日後、八十八。六息ごとの大律と日周の濾過水温へ重なった。心拍なら二日で二つだけ減るのは変だと分かったところで、俺たちは死の数から進路期限へ仮読を変えた。
だが、何の期限かまでは分からなかった。
ソラネが修道会の年輪写しを出す。国獣の響骨外層は、一年ごとに太くなる木の輪とは違う。移動した深霧帯、濾過量、長い休息が、薄い硬層と柔らかい層の組になって残る。
ラグナの古い削り粉は、王国が三十年前に修道会へ送っていた。
目的欄は、寿命鑑定。
その言葉だけで腹が熱くなるが、先に値を見る。
硬層、八十九組。
最外の柔らかい層が途中。
九十組目へ入ろうとしている。
「年齢が九十ってこと?」
ネネが首を傾ける。
「ラグナは千年以上だ。年じゃない」
同じ種類の深霧を濾した周期だけが輪になる。世界背骨から離れ、戻り、また離れた一往復で一組。
ラグナは八十九回、世界背骨の霧を身体へ通してきた。
九十組目の柔層が始まったところで、右後脚へ最初の静釘が打たれている。王国の操路記録では四十六年前。年輪側の粉には、北へ向こうとする低い擦れが同じ幅で四十六本残る。
「四十六年も?」
言ってから、違うと気づく。
一本が一年とは限らない。
ソラネが赤を引いた。擦れ一本は、世界背骨の北霧が開くたびに付く。開かなかった年は増えない。二度開いた年は二本付く。
人間の暦へ直すには、深霧側の記録が要る。
世界背骨の呼吸孔は、帝国だけの測定物ではなかった。セラトの苔船団、オルナの産師、砂双国の給水番、修道会の渡り鳥見張りが、それぞれ違う目的で霧の増減を残している。
四線へ照会を投げる。
待つ間、休翼床の床下から古い霧筒を引き上げた。九十本の細管が輪になり、一本だけ口が広い。
全部を吹けば何か起きる、という道具ではない。細管の内壁へ残った胞子層を読む記録器だ。
ネネが風を通し、ソラネが粉を置き、ミラが古語の番号を照合する。俺は台座へ探り針を当てるだけにする。
一から八十九は、細い流れが外へ抜けた。
九十だけ、逆に内へ引く。
世界背骨の中心へ吸い込む形だ。
「入口」
ミラが古語を指す。「九十番目の管だけ、入る側です」
国獣が九十日で死ぬ、ではない。
九十番目の霧相で、外を巡る流れから世界背骨へ入る流れへ変わる。
そこまでは白にできる。
「入らなかったら?」
俺が訊く。
霧筒は答えない。
リュータの記録を開く。
ソラネが十五年間、公開しなかった六束のうち、王家の年輪写しは三枚だけだった。ミラがそれを受け取る。指は止まらない。止まらないことを、平気の証拠にはしない。
リュータは十五年前、九十番目の入口へ届く前に都市主索を切られ、深霧盆地へ落ちた。
いや、俺の頭がまた一列にした。
主索を切ったのはミラだ。だが、その前に静釘で心臓を拘束され、上街、下港、幼獣解放索を帝国の中央結節へまとめられていた。切断後も幼獣二十四反応は離脱し、リュータ本体は遺骸になった。
何が死因かは一語へしない。
見るのは、その後だ。
崩落十三日後の記録。
遺骸周辺の深霧から、濾過後の清水が三日だけ湧いている。四日目、呼吸可能域が半分。七日目、遺骸上の空気路は閉じた。
心律は消えていない。
周囲の幼い反応へ、低い三線を返し続けている。
それでも濾過は止まった。
「死んだからでしょ」
ネネが言う。
「その可能性が一番高い」
でも、それだけなら九十番目の入口記録とはつながらない。
ミラが紙の端を裏返す。
王家の古い手順書。還り前に都市荷重を三段階で降ろす。貯水区、工房区、居住区。荷が半分を切ると濾過嚢を閉じ、背上へ送っていた清水と空気を自分の内側へ戻す。
そこから世界背骨の深霧へ沈む。
「都市を載せたままでは?」
ジオが古語欄の空白を指した。
古語の欄に、赤い王家訂正がある。
都市荷重が残れば内向き濾過へ切り替えられない。外向きのまま九十番目の霧を越えると、響骨外層が硬化。濾過嚢は閉じず、開いたまま動かなくなる。
背上への水と空気が止まる。
都市が死ぬ。
国獣も、還りへ入れない。
九十日後にラグナだけが死ぬのではない。
九十日目までに都市を降ろし、世界背骨へ入る進路へ載せなければ、ラグナの濾過が止まり、背上に残った人間も死ぬ。
「じゃあ、間に合えば死なない?」
ネネの問いへ、今度はすぐ答えられなかった。
還りは、治療じゃない。
ラグナは都市を降ろし、深霧へ沈む。心律は幼体の群れへ道を返す。だが同じ身体、同じ歩調、同じ背中で戻ってはこない。
俺が育った吊街も、角冠城も、あの黒い外殻の上にあるから同じ場所だった。
ラグナが戻らないなら、同じ故郷も戻らない。
安堵が遅れて怒りへ変わる。
「ふざけるな」
誰へ向けたのか分からない。
九十日で死ぬと思って走ってきた。死なないと分かった。なのに次に出てきた答えが、正しく終わらせろ、だ。
静釘を抜けば戻ると思っていた。
痛みを塞げば、前と同じ道を歩けると思っていた。
同じ窓、同じ寝台、欠けた青い茶碗。役に立たない日にも帰れる席を、ラグナの背中ごと残したかった。
それが無理なら、何を直してきたんだ。
左手が霧筒の縁を握る。掌の赤線が痛む。
ミラは止めない。慰めもしない。
「私は、リュータを止められませんでした」
静かな声だった。「終わりを受け入れたのではありません。選べるものを減らされて、残った線を切りました」
だから、ラグナにも切れと言っているわけではない。
今回は、まだ選べる線がある。
俺は手を離す。
直す対象を間違えていた。
ラグナの寿命を継ぎ足すことじゃない。
都市を落とさず降ろす仕組み。
水、風、医療床、寝床、仕事場、記録庫。背中から外しても生活が切れない継ぎ目を作る。
言うだけなら簡単だ。
エリュンの住民七区へ、ラグナ都市降下の仮工程を送る。知らない国の仕事なのに、返りは早かった。
左仮支え区の翼梁工は、都市を降ろす前にラグナの荷重図が要る、と黄。静釘で歪んだ外殻から区画を外せば、残った側へ割れが走る。
医療床は、患者を一度で別の土地へ移す案へ赤。火傷十二人を休翼床の端まで運ぶだけでも三人が移動赤だった。十万人を数字の箱にしてはいけない。
水槽区は、外した後も濾過水をどこから取るのか、と黄。ラグナの背を降りることは、ラグナが作る水と空気から離れることでもある。
記録庫は、不明三人を降下人数から引くなと返した。
見つからない人は、いない人ではない。
都市を降ろす話を急ぐと、最後に名簿の端から落ちる人が出る。リュータの公式七百三十一が、同じ形で頭へ刺さる。
「最初の仕事は、背籠を取りに行くことじゃない」
俺は工程板の先頭を消す。
ラグナ上の全区画へ、主留め、仮留め、生活管、患者、移動できない設備、名簿にない寝床を自分たちで記録してもらう。王城から順に降ろすとも、下層から順に逃がすとも決めない。
外す順番を決めるための板を、先に配る。
エリュンの七区で試す。
中央居住路の一画を仮に対象へして、留め具と生活管を数えた。主留め六、補助索十四。水管二、排液一、声路一。登録寝床百二十六、実際の寝床百三十一。名簿外が五つある。
「五人?」
ネネの指が、増えた寝床を一つずつ追う。
「寝床が五つ多い、まで」
交替勤務の仮眠、物置へ移った病人、二人で一床を使う家族かもしれない。人数に直す前に居住路の書き手へ返す。
仮留め一本を外す想定を置くと、水管二本のうち一本が先に引かれる。区画は外せても、水が切れる。
可搬継ぎ目があることと、生活を運べることも別だ。
だから必要なのは巨大な籠一つではない。外す前の仮管、外した後の水槽、降下先の濾過嚢、患者を揺らさない床、名簿を作り直す人の席。
修理より、ずっと多い。
俺一人の仕事ではない。
それを認めると、前なら手を離した気がした。
今は違う。
継骨工の俺が見るのは、外した瞬間にどこへ荷が逃げるかだ。水は水番、患者は医療床、寝床は住民、進路は操路士、記録は聞こえる人と聞こえない人の両方が持つ。
仕事を分けても、目的は薄くならない。
ラグナを残すためではない。
ラグナが自分の身体を終えられるように、俺たちの荷を返すためだ。
それでも腹は立つ。
終わりを受け入れることと、きれいな話にすることは違う。
期限を計算する。
第一日の九十から、現在まで二十四日。霧相の最後まで六十六日。
世界背骨へ入る最短路は、ラグナが今いるヴァルド南東域から三十三日。静釘六本が残った現在速度では、もっとかかる。
つまり準備に使えるのは、最大三十三日。
三十三日後までに都市降下を始め、ラグナを北の進路へ載せなければ、移動日数が足りない。
一日遅れれば、最後の移動日を一日削る。後で走れば取り返せる余白ではない。
「期限、三十三日」
ジオが時刻板へ刻む。
帝国放送へ勝つための数字ではない。住民を急がせる脅しにも使わない。計算式、最短路、静釘による遅延、外れた場合の再計算日を一緒に出す。
公開板の表題でも揉めた。
王国へ「ラグナ終了期限」と送れば、退避命令には速い。だが還りを死と同じにし、残る住民を自殺者のように扱う。
「救命期限」なら、ラグナを救うには延命しかないと読まれる。
「都市降下準備期限」
ミラが書く。
三十三日はその下の黄欄。霧相六十六日、最短移動三十三日、差し引き三十三日。静釘遅延は未加算。開始日は、王国が受信した日ではなく最初の九十を観測した日。
全市声路で一度に流す前に、文字板と触れ紐へも同じ式を落とす。
最初の返答は、ヴァルドへ戻る警備艇から来た。
王立局は九十日を「反乱工による虚偽の国獣終末宣告」として封鎖中。だが右後脚第一基跡の濾過水温は、俺たちが離れた後も六日目までは一日一段ずつ変化していた。八十六、八十五、八十四。日数と一致したところで、王立局が水番板を封じている。
現在の六十六は経過日からの推定で、ラグナ自身の直接値ではない。その差も黄へ残す。
次に、吊街の古い水番印。第一基を抜いた後、北側管の水が一刻だけ澄んだが、王国操路で南東へ戻されるとまた濁った。進路と濾過がつながっている。
最後に匿名の板が一枚。
町を降ろしたら、どこが国になる。
答えを急げなかった。
ラグナの背から離れた家々を、同じヴァルドと呼ぶのか。王城印がある場所か、人が集まった場所か、ラグナがいないなら国名も終わるのか。
「未決」
そう返す。
三十三日で決めるのは、誰を置き去りにしないかと、何を先に外せば生活が続くかだ。国名を守るためにラグナを止めるとは決めない。
匿名板も公開列へ残した。
四国から深霧周期の返りが来る。
セラトの苔船団は北向き流へ変わるまで六十五日から六十七日。
オルナの産師記録は、根毛の内向き濾過開始が六十六日。
砂双国の給水番は、世界背骨側の井戸圧反転が六十六日±一日。
修道会の渡り鳥は六十四日から六十八日。
一日まで断定できない。
だから三十三日は白でなく、最悪側へ寄せた黄とする。明日から毎日、四系統を更新する。
「エリュンは?」
ネネが翼床の外を見る。
東南路の先には、リュータ遺骸の深霧盆地がある。エリュンが選んだ産卵風路と重なる。
リュータの最後の三枚に、今まで読めなかった古語がある。
初約索引の五番目と同じ形。
別れ。
その下に、国獣の背上都市を十二の区画へ分ける図。主留め、三段仮留め、生活管の外窓。アトラスの可搬都市輪と似ているが、中央に命令核はない。
代わりに、区画を一つずつ受ける籠型の中核が描かれている。
古語の名は、背籠。
実物位置は、リュータ遺骸の旧王城下。崩落後の測定でも、空洞一つだけ形が残っている。
設計図だけで都市は降りない。実物が腐っていない保証も、十二万人分を運べる保証もない。
だが、アトラスの可搬輪を兵器核から外して使う道と、リュータの背籠をつなげられるかもしれない。
次の修理対象が、初めて形になった。
エリュンの東南続行へ、都市側の目的を追加する。
産卵風路を奪わない。
リュータ遺骸へ寄るかは、エリュンへ別の三経路と代価を出す。
立寄りが赤なら、修繕艇だけを降ろす。
ソラネが白。
ネネが白。
ジオは砲船到達までの残りを刻む。
ミラだけ、まだ板を伏せている。
リュータの断面図へ、十二歳の王家鍵役の印があった。彼女が切った中央主索と同じ印だ。
俺は訊かない。
共同契約では、目的地ごとに同行も離脱も選べる。帰還を命令欄へ入れないと決めた。
ミラが自分で板を開く。
東南。
リュータ遺骸。
自分の名を、操路士の欄へ書く。
「私は、リュータへ帰る」