国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

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死んだ国へ降りる索

死んだ国へ降りる索は、二本しかなかった。

 

一本は金属芯。深霧で腐る。

 

もう一本は乾燥骨繊維。腐りにくいが、濡れると伸びて距離がずれる。

 

どちらを命綱にするか、と訊かれたら、答えは簡単だ。

 

「二本とも」

 

休翼床の下倉に眠っていた深霧潜航艇は、六人乗りの丸い殻だった。透明骨の外板へ金属帯を巻き、上昇索と潜航索を反対側へ取る。十五年前の東南盆地観測に使って以来、実潜航はしていない。

 

古いから危険、ではない。

 

新しい封泥が乾きすぎて割れ、古い透明骨は深霧油を含んで白を保っている場所もある。年齢ではなく、今どこが漏れるかを見る。

 

粉圧試験。

 

外板十二区画のうち、右後ろ一枚で粉が内へ引く。封泥を全部塗り直す余裕はない。漏れ一枚だけ外輪を半欠け締め、濾過布を二重にする。

 

濾過嚢は四つ。

 

乾いた試験で一つ六百呼吸。実際の深霧では胞子密度が倍近い。上昇用二つを封じ、探索へ使えるのは二つ、最大六百呼吸。三百で帰路へ向き、四百を越えたら入口が目の前でも戻る。

 

「六百あれば十分?」

 

ネネが嚢の湿りを指で確かめる。

 

「十分って言ったやつから外へ出す」

 

深霧の流れ、艇の漏れ、誰かの呼吸で減る。六百は約束ではなく、今の上限だ。

 

索も同じ。

 

金属芯は百呼吸ごとに腐食目盛りを測り、八分の一減で帰還。骨繊維索は伸び三歩で位置を引き直し、五歩で帰還。二本のどちらかが赤なら、残り一本が白でも帰る。

 

ジオが時刻板へ刻む。

 

ソラネは粉圧と腐食。

 

ネネは濾過嚢と外索振れ。

 

操艇は休翼床の潜航士。

 

俺は死骨の残留振動と入口構造。

 

ミラはリュータ旧図――と、言いかけて止めた。

 

彼女の左手が震えている。

 

赤紐を結べないほどではない。けれど、いつもなら一度で揃う三本目が、二度ほどけた。

 

仕事を渡せば落ち着く。

 

俺はそういう人間だ。怖そうな相手を見ると、持場を作り、道具を握らせる。自分が役に立つと息をしやすいから、相手も同じだと決める。

 

「旧図を頼む」は飲み込む。

 

「降りる。艇に残る。休翼床で中継する。三つ」

 

ミラは結び直した赤紐を見た。

 

「降ります」

 

すぐ答えたから確定にはしない。

 

「担当は、旧図、操路補助、何もしないで同乗」

 

「旧図を読みます。濾過の数はネネへ渡します」

 

「途中で替えるのも白」

 

「はい」

 

手の震えは消えない。

 

消すことを参加条件にもしない。

 

俺だって左脚を床につけられず、右手で槌を持てないまま乗る。できない部分を隠して平気な形を作れば、六百呼吸の途中で全員が払う。

 

 *

 

エリュンへ、盆地上空の三経路を示す。

 

一つ、現在高度を維持して東南風路を通過。翼への負担が最も低い。潜航艇は降ろさない。

 

二つ、盆地外縁を一周し、遺骸の上で高度を下げて潜航艇を降ろす。左翼は主割れ指半へ戻る見込み、砲船に追いつかれる。

 

三つ、北の休翼床へ戻り、遺骸調査を別船へ依頼。透明骨長材を探せるが、今季の東南路を離れる。

 

都市七区は通過四、降下二、北一。

 

エリュンの返りは、通過へ短い赤。北へ赤。盆地外縁へ腹圧一、右翼指一、左翼は停止幅内の四分の一。

 

東南路を選んだことを、遺骸調査の同意へ使い回さずに済んだ。

 

盆地外縁へ入る。

 

砲船二隻は距離九キロ。飛行艇五隻は上昇柱の外。こちらが潜航艇を降ろせば、艇を追うかエリュンを追うかに分かれる。

 

敵の選択を当てにした計画にはしない。

 

潜航艇を下ろした後も、エリュンは降下地点を離れていい。帰還は休翼床の固定灯、修道会の骨伝浮標、修繕艇の三候補。エリュンが砲撃を受ければ、俺たちを待たず退避する。

 

俺たちの帰りを国一つへ担保にしない。

 

潜航艇の外輪が閉じる。

 

上昇索を緩め、潜航索へ荷を移す。

 

深霧は雲ではなかった。

 

窓の外が白くなった次の瞬間、艇殻へ砂を流すような音が来る。細かい胞子と鉱物粉。外灯は三歩先まで白い柱を作り、その先で途切れた。

 

灯りの縁へ、屋根が一つ現れた。

 

逆さだった。

 

白い瓦の半分は剥がれ、梁へ食卓が細索で結ばれている。家ごと落ちたあと、どこかの骨へ引っかかったらしい。椅子は二脚。一脚の背に、赤い布が残っている。

 

ミラが息を止めた。

 

濾過嚢の数が一拍だけ遅くなる。

 

ネネは彼女を見ずに言った。

 

「呼吸、六息で一つ増えた。苦しい?」

 

「いいえ」

 

丁寧すぎる声だ。

 

「続ける、止める、交替」

 

俺が三つを出す。

 

「続けます。ただ、あの家を位置記録へ」

 

ミラは旧図の下層居住区へ赤い点を置いた。誰の家か、死者がいたかは分からない。食卓があるから家族が死んだ、と物語を足さない。

 

回収もしない。

 

今ここで外へ出れば、一つの椅子のために濾過と索を使い、全員の帰路を削る。置いていくことと、価値がないことは同じではない。位置、外見、固定状態を残し、後の選択へ渡す。

 

「記録、白」

 

ジオが時刻を足す。

 

艇が三歩進むと、家はまた白へ消えた。

 

見えなくなっただけで、なくなったわけではない。

 

上も下もない。

 

艇が傾けば、目より先に腹が間違える。

 

「深度一。濾過一、流れ七」

 

ネネの声。

 

「金属索白。骨索伸び半歩」

 

ソラネの粉板は、音より先に艇殻の細かい振れを拾う。

 

俺は低い座席へ腰と胸を三点留めされている。左脚は浮かせ、右前腕は細支えのまま。探り針は右で握らず、左手の指二本へ革輪で留めた。

 

深霧へ入った勢いで、身体まで白にしない。

 

二十呼吸。

 

外灯の左へ、白い壁が現れる。

 

リュータの響骨。

 

生きている国獣の骨は、表面の薄膜が荷を逃がし、奥で低い律が続く。目の前の白骨には膜がない。細い亀裂へ深霧が入り、縁を内側から削っている。

 

島に見えた。

 

国だったものの肋骨が、深霧の中で一本ずつ別の島になっている。

 

「右外板、腐食点一」

 

ソラネ。

 

金属帯へ黒い粒が出る。まだ深さは爪の四分の一。記録して進む。

 

ミラが旧図を透明板へ重ねる。

 

「現在位置は左第三肋骨。旧避難艇港は前方二百歩、深度三」

 

二百歩。

 

視界は三歩。

 

地図はあっても、同じ道はない。十五年で肋骨が折れ、王城が滑り、下層港は深霧流へ半周回っている。

 

外から入口を探す候補は三つ。

 

旧避難艇港。広いが崩落物が多い。

 

濾過嚢保守口。狭いが心室へ近い。

 

王城下の背籠外窓。図の位置は分かるが、崩落後の上下が未確認。

 

三本を同時に探す時間はない。

 

旧図だけなら避難艇港が最短だ。

 

ミラは港へ白を置かなかった。

 

「崩落時、上街主索の反動が港の外輪へ来ました。入口が残っている確率は、三つの中で一番低いです」

 

自分が切ったから、と一語で言わない。どの索からどこへ荷が走ったかを示す。

 

濾過嚢保守口は、リュータが生きていた時も外から一人ずつしか通れない。十五年の沈積が指二本あれば、内殻籠も入らない。

 

背籠外窓は図でしか見ていない。王家が非常時以外に開けなかったため、崩落荷重の記録がない。

 

確実な入口はゼロだ。

 

潜航士が艇首から三本の短い測索を出す。正面、左下、右上。先端は金属でなく透明骨の丸玉。壁へ当たれば強さではなく戻る時間だけを取る。

 

正面、七歩で接触。

 

左下、三歩。

 

右上、返りなし。

 

古い港へ向かうはずの空間は、左下からせり上がった肋骨片に塞がれている。旧図をそのまま進めば、七歩先で船首を折る。

 

「港線、赤」

 

ミラが自分で引く。

 

地図が外れたことへ謝らない。十五年前の図が現在と違うのは、彼女の失敗ではない。けれど、図を持つ人が赤を引かなければ、他の誰も古い正解から離れられない。

 

右上の空きを十歩だけ試す。

 

艇首を上げる。

 

骨索が伸び一歩半。金属索は艇腹へ擦れ、腐食点が一つ増える。十六呼吸使い、白い空間しか見えない。

 

進み続ければ何かある、を理由にしない。

 

元の位置へ戻る。

 

消費十六呼吸、入口なし。失敗を地図へ残す。

 

俺は艇殻へ探り針を当てる。

 

何も返らない。

 

当然だ。

 

死んだ骨に痛みを訊くな。

 

もう一度、少し強く当てかけて止める。返答がないから入力を増やすのは、生きた相手にもやるべきじゃない。死骨ならなおさら、欲しい答えが出るまで叩くだけになる。

 

「残ってる作業振動を探す。今の返事じゃない」

 

全員へ言う。自分にも言う。

 

艇の推進を止める。

 

新しい振れを消す。

 

深霧が骨の亀裂へ入る音。外索が艇輪を擦る音。濾過弁の二拍。それをソラネとネネの板で先に分ける。

 

残った低い振れが一つ。

 

三打。

 

間を置いて、二打。

 

また三打。

 

ラグナの三打と一休止ではない。

 

修繕坑で梁番が使う作業符だ。三打は荷を受けろ。二打は次の支点へ渡せ。

 

「生前の記録?」

 

ジオが訊く。

 

「たぶん。確かめる」

 

艇から同じ三打二打を返さない。返せば現在の応答と過去の残響が混じる。

 

右へ十歩移動する。

 

三打が弱くなり、二打だけが長くなる。

 

左へ戻る。

 

両方が強くなる。

 

死骨の割れ目を伝い、同じ荷重線へ閉じ込められた昔の打音だ。深霧流が肋骨を押すたび、作業時と似た曲がりになり、記録が薄く再生される。

 

現在意思ではない。

 

だが、昔どこへ荷を渡していたかは分かる。

 

三打の支点を追う。

 

百呼吸。

 

金属索の腐食、十六分の一。骨索伸び一歩。

 

濾過一は残り半分。

 

白い肋骨の間を、艇一つぶんずつ進む。

 

途中、肋骨の表面に四角い穴が並んでいた。

 

修繕足場の差込口だ。

 

上二つは縁が滑らか。繰り返し索柱を入れた跡。下は一度だけ割れ、別の位置へ開け直してある。生前の工人は、最初の足場が荷を受けられないと分かり、半歩横へ支点を変えた。

 

直した人の名はない。

 

それでも、手順は残る。

 

死骨の振れだけではない。穴の摩耗、削り粉の向き、使われなかった最初の支点。過去の律が今の意思でないなら、作業痕も命令ではない。ただ、当時どこが持ち、どこが持たなかったかを教える。

 

俺は右上の滑らかな穴を白、下の割れを赤、開け直した横穴を黄へ写す。

 

入口を探すために、死んだ身体を一つの地図として読む。

 

抵抗がないから好きに削っていい、とはならない。

 

新しい穴は開けない。今ある空間と過去の足場だけで進む。

 

三打。

 

二打。

 

一度だけ、四打が混じる。

 

四打は退避路。

 

旧図では左第三肋骨から下層食堂、避難艇港へ荷を逃がす横梁があった。入口候補のうち、避難艇港へ続く。

 

「港へ」

 

言うと、ミラの左手が板の端を強く押した。

 

「四打は、父の時代も退避です」

 

「今の命令じゃない」

 

「はい」

 

声が丁寧になる。

 

怒っているのか、怖いのかは決めない。彼女は地図へ四打の位置と時刻を書き、港の直線を消した。

 

「崩落前の線を追わない。現在の振れが曲がる場所を追います」

 

旧図を捨てず、正解にも据えない。

 

二百呼吸。

 

濾過一を閉じ、二へ切り替える。ネネが一の入口を封じ、使用済み札を自分の袋へ入れる。戻り用二つへ手を出さない。

 

金属索腐食、八分の一の半分。骨索伸び二歩。

 

帰還条件までは余白がある。

 

目の前の肋骨が崩れていた。

 

白い梁三本が折り重なり、奥に黒い空洞がある。入口らしい。

 

俺の頭はすぐ、三本をどう起こすか考える。

 

上の梁へ支え。

 

中を半歩切る。

 

下へ荷を逃がす。

 

生きた骨なら、そうする。

 

だが、この骨は新しい荷へ応じて厚くもならない。支えを入れても、残った別の骨が治るわけではない。入口を開けるための解体と支持だ。修繕の手順で呼べば、死んだ身体を元へ戻せるふりになる。

 

「上は起こさない」

 

現在の空洞を測る。

 

艇高より指三つ低い。人は通れる。

 

潜航艇を無理に入れず、外へ固定して小型の内殻籠を出す案がある。だが六人全員は乗れない。濾過嚢も別になる。

 

候補を作る。

 

一つ、ここを入口として記録し、今日は戻る。

 

二つ、内殻籠で二人だけ入り、五十呼吸で戻る。

 

三つ、別の広い港口を百呼吸だけ探す。

 

代価。

 

一は生存最優先、内部確認なし。

 

二は人数分離、細濾過嚢二、内部崩落。

 

三は濾過と索を消費し、入口なしで帰還余白を削る。

 

ミラが三本を同じ長さで描く。

 

全員の板は、一へ白。二と三は黄か赤。

 

俺も一へ白を置く。

 

入口を見つけた成果で、次の危険を安くしない。

 

「戻る」

 

ジオが帰還時刻を刻む。

 

潜航士は艇首を上へ向けるが、すぐ浮上索を巻かなかった。

 

帰る判断を出した後に、現在位置を封じるためだ。金属索の腐食、骨索の伸び、外板の粉圧、濾過二の残り、入口の高さ、崩落梁三本。次に来る者が、今日の白を初期値として信じないよう、深霧流七、艇人数六、測定時刻も添える。

 

ソラネが入口外側へ粉筒を一本だけ留めた。目印であって所有杭ではない。筒は三日で溶け、骨へ穴を開けない泥留め。帝国採取隊や別の避難者が先に見つけても、ここを俺たちの入口だとは主張できない。

 

ミラは旧図へ、新しい入口と書かなかった。

 

「入口候補。人通過可能、艇通過不可。内部未確認」

 

それだけだ。

 

見つけた喜びより、書かない欄のほうが多い。

 

その時、探り針の革輪が左指を打った。

 

深霧流ではない。

 

外索でも、濾過弁でも、三打二打の古い作業振動でもない。

 

短い。

 

高い。

 

二つ。

 

空洞の奥から来る。

 

ネネの帆糸が、同じ二つを拾った。

 

ソラネの粉板にも、白い粒が二度立つ。

 

俺たちは入力していない。

 

昔の作業律は深霧が骨を押す時だけだった。今の二打は、その周期から外れている。

 

十呼吸待つ。

 

もう一度。

 

短い二打。

 

次に、細い擦れが三つ。

 

「入る?」

 

ネネの問いに、喉が先に白と言いかける。

 

生きているなら助けたい。返りがあるうちに見たい。

 

でも内殻籠の条件は変わっていない。人数分離、細濾過嚢二、崩落梁、内部の深さ不明。新しい情報は生体反応だけで、安全値は一つも増えていない。

 

「今日は入らない。返りの時刻と方向を持って戻る」

 

助けないのではない。

 

次に入った人まで戻れる工程へしてから来る。

 

帰路まで含めて、救助だ。

 

ネネは白。ミラも、震える指で白を置いた。

 

死骨の記録ではない。

 

入口の向こうに、生きた幼獣がいる。

 

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