国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
七百三十一人ぶんの椅子は、なかった。
あったのは百八十二脚。
旧下層食堂の床へ固定された長卓が二十六。片側三脚、端に一脚ずつ。計算なら二百八だが、崩落で二十六脚が抜けている。
だから百八十二。
数字は合う。
何とも合っていない。
*
最初の潜航から浮上し、入口の生体反応だけを公開した。
幼獣一頭発見、とは書かない。
短い二打と細擦れ三つ。入力なし。死骨の三打二打周期と不一致。骨伝、帆糸、粉の三観測。主体数、位置、種類、生存状態は未確定。
帝国飛行艇も同じ公開板を受けた。砲船は距離八キロ。こちらが見つけたものを隠せば、砲撃の口実を増やす。全部送れば、採取隊へ道を渡す。
位置は盆地、左第三肋骨域まで。入口の深度と目印は伏せる。
公開と案内は別だ。
二度目の潜航は内殻籠を積む。
人一人ぶんの透明骨殻に細濾過嚢二つ。入口外へ潜航艇を固定し、内殻籠は人通過幅の空洞を索で進む。三人を一度には運べない。
先行はミラ。
旧図と崩落線を照合し、内側の三退路を出す。
次にジオ。武器は封じたまま、入口支持と時刻。
最後に俺。
低い滑り板ごと内殻籠へ入り、入口内の床索へ移す。立って歩かない。右手で索を引かず、左脚を浮かせたまま。
ネネとソラネは潜航艇に残る。外索、濾過、死骨振動と内部からの新しい返りを分ける。
「生きた律が強くなったら?」
ネネが訊く。
「位置を記録。追わない」
「弱くなったら?」
「記録。追わない」
見つけたものが逃げているのか、呼んでいるのか、深霧流で遠近が変わっただけか分からない。強弱を都合のいい案内へしない。
第二潜航。
第一潜航の金属索は使わない。腐食を磨いて白へ戻すふりをせず、証拠封。新しい金属芯一本と、乾燥骨繊維二本。濾過嚢は第一回の帰還用二つを探索へ回さず、新しい四つを補充する。
同じ安全を、残り物の名前変更で作らない。
潜航艇の積載表へも代価を出す。
内殻籠一、細濾過嚢六、乾燥骨索二、粉筒四、写し板十二。食料は六人半日分。清水は一人三椀。救助対象を見つけても、艇内に空けられる寝台は二つだけ。
「幼獣が三頭いたら?」
「三頭とも載せられる、とは言わない。大きさも呼吸も分からない」
「人がいたら?」
「歩けるか、霧眠か、負傷かで変わる」
救う順を今決めない。
ただし、俺の滑り板が一床を使うことは先に書く。現地で誰かを見つけた瞬間、自分だけ床ではなく人員の外にいるふりをしない。
俺を戻せば一床空く。残れば観測一人分が増える。その時の選択肢だ。
ミラは旧図、ジオは支持、俺は骨伝。全員が同時に代替不能ではない。誰を先に戻すかも、救助対象を見て決め直す。
入口までは百九十六呼吸。
粉筒は残っていた。深霧流は七から六。崩落梁三本の幅は変化なし。短い二打は、着艇前に一度だけ。
ミラが先に入る。
十五呼吸後、操路紐が白一、黄一、赤一を返す。
左は崩落梁。
中央は下層食堂。
右は旧避難艇港へ向かうが、床の半分がない。
中央を選ぶ。
ジオが入り、入口内の骨輪へ二本を別留め。最後に俺の滑り板が内殻籠ごと通る。
死んだ国の中は、静かではなかった。
深霧が割れへ入る擦れ。
外の潜航艇から来る濾過弁。
崩れた配水管の水滴。
昔の荷重が骨へ残した三打二打。
生きている音がしない、とは言えない。
音が多すぎて、どれが今の生体か分からない。
中央路を五十歩。
俺は滑り板の三輪を床の古い荷索へ掛け、ミラが前、ジオが後ろの別索を持つ。二人の腕で俺を運ばせるのではない。床輪と戻り索が荷を受け、二人は進行と停止だけを出す。
それでも俺一人ぶん、濾過と時間を余計に使う。
安くは書かない。
食堂の扉は開いていた。
白い塩のような粉が蝶番を覆い、半分だけ残った表札に、下層共同食堂・第三、とある。
ミラが止まる。
「ここを知ってる?」
「朝は豆、夜は根菜。祝い日は赤い実を一人半分」
旧図を読んだ声ではない。
「入る、戻る、外から見る」
「入ります」
三つを出したことは、彼女の記憶を疑うためじゃない。知っている場所ほど、入れることと入ることが同じになりやすい。
長卓二十六。
椅子百八十二。
壁の配食窓は四つ。大鍋二。片方は横倒しで、白く固まった豆が底に残る。もう片方は蓋が閉じ、王家封ではなく食堂番の木札が掛かっていた。
保存棚には薄い塩パンの石函、乾燥白豆、赤い実の蜜漬け。
「食べられる?」
ジオが封を見て訊く。
「開けてない。濾過も毒も測ってない」
十五年ものだ。深霧内で腐っていないように見えても、安全とは限らない。
それ以前に、俺たちの食料ではない。
生存者がいる可能性を確認した直後だ。所有者が全員死んだと決め、勝手に非常食へ変えられない。
持参した硬パンを食べる。
白豆の匂いはしない。なのに、ミラが話したせいで温かい煮込みを想像してしまう。
壁際に、青い茶碗があった。
縁が欠けている。
俺の部屋の茶碗とは違う。色も形も、欠けた位置も違う。
似た物を見つけるたび、自分の家へつなぐな。
これは誰か別の人の食卓だ。
茶碗の下に、薄い札が挟まっている。
配食名簿。
王国籍の登録欄、作業班、食事数、未払い。
表は公式の住民名。
裏に、別の字で名前が並ぶ。
棚番。
排液さらい。
幼児見守り。
臨時索持ち。
居住区番号なし。王国配給印なし。食事代は日払い、寝床代は同じ札から引く。
無籍者。
公式の住民として数えられず、仕事と食事には毎日いた人たちだ。
ミラが裏の一行を指す。
「サナ・イル」
公式死亡記録に、その名はない。
「知ってる?」
「食堂の朝番です。赤い実を子供へ少し多く切って、毎回怒られていました」
記憶があるから死亡、にはしない。
別の板を探す。
配食窓の下に、避難札の束が落ちていた。
一人一枚ではない。避難艇ごとに挟み、乗った者の名へ穴を開ける。
サナ・イル。
第六下層艇。穴あり。
避難。
生存、ではない。艇へ乗ったところまで。
分類欄を作る。
死亡確認。
避難工程確認。
不明。
公式七百三十一も同じ三欄へ戻す。死亡確認記録だからと一束で数えず、名前、確認場所、確認者、遺体の有無を一行ずつ見る。
最初の二十人。
死亡確認十八。避難札との重複一。不明一。
重複一は、死亡記録が間違いとは限らない。艇へ乗った後に亡くなった可能性もある。確認時刻を並べる。
避難札が先。
死亡確認は二刻後。
分類は死亡へ置き、避難工程も消さない。
不明一は、死亡場所が「上街中央」とだけあり、確認者印がない。公式数には入っているが、確認済みと同じ白にはできない。
「七百三十一を減らすの?」
ミラの声が硬い。
「減らさない。確かめ方を分ける」
数字を減らして、彼女の責任を軽くするためじゃない。
増やして重くするためでもない。
一人が、どの記録で、どこまで確かめられたかを戻す。
椅子の下から作業靴が出る。
片方だけ。
踵へ、イオ・レムと刻んである。裏名簿にいる。避難札に穴なし。死亡記録に名なし。
靴があるから死んだ、とはしない。
裸足で逃げたかもしれない。替え靴かもしれない。食堂へ戻れず置かれただけかもしれない。
不明。
欠けた椅子も同じだ。
誰かが座っていた証拠にはなる。崩落時にいた証拠にはならない。
未払い札は、食事を受けた日までは示す。生死は示さない。
物が人を思い出させる。
物だけで最後を決めない。
同じ名前も、人を一つにしない。
裏名簿に「ベル」が三人いる。
鍋番ベル。
夜索ベル。
小ベル。
公式記録にはベル・ナハが一人。死亡場所は上街西橋。三人のうち誰かと同じかもしれない。
ミラが覚えていた鍋番は、右親指の先がない。
食堂の未払い札には、親指でなく左小指の押し印。本人が押したとも限らない。夜索と小ベルの身体記録はない。
三人を一人へまとめれば、数はきれいに減る。
まとめない。
鍋番ベル、夜索ベル、小ベル。公式ベル・ナハとの関係未確認。四行を残す。
逆もある。
サナ・イルと朝番サナは、同じ配食時刻、同じ筆跡の未払い印、第六艇札の同じ寝床番号。別人である反証がない。こちらは重複候補へ置くが、原二行は消さない。
子供の呼び名には、そもそも一人分の欄がない。
「鍋裏のチビ」
仕事は豆殻拾い。食事は大人半分。寝床代なし。避難札には、朝番サナ同伴一、とだけある。
名前は分からない。
だからサナの付属物にはしない。
人物一。覚え名、鍋裏のチビ。避難工程、第六艇。現在名、生死、サナとの関係は不明。
一行増える。
七百三十一という公の数字は、最初から整った枠を持っていた。確認者、場所、王国印。
裏の人たちは、食事、仕事、寝床、呼び名を別の板から拾わないと一人にならない。
数える手間が多いことを、存在が薄い理由にしていた。
ミラは名前を十七人覚えていた。
サナ。
イオ。
鍋番のベル。
朝だけ来た双子の呼び名二つ。
だが裏名簿の字と合わないものが三つある。呼び名、別名、ミラの記憶違い。どれかは分からない。
彼女が覚えているから正しい名へ直さない。
「覚え名」と別欄へ残す。
三十呼吸ごとに外へ板を送る。
ネネとソラネが同じ名前の重複、避難札穴、公式記録の時刻を照合する。
一度の潜航では終わらなかった。
最初の帰還で二十人。
二度目は配食名簿の左半分、四十七人。
三度目は避難札と未払い札、五十三人。
四度目は靴、寝床札、呼び名違いの重複候補。
入口の外へ戻るたび、原板は棚へ戻し、写しだけを潜航艇へ送る。細濾過嚢は外殻内で洗い、乾燥風を通す。一つが白へ戻るまで一刻。待つ間にソラネとネネが写しを照合し、俺たちは持参食と清水を取る。
保存棚は開けない。
四度目の浮上前、エリュンは砲船接近で盆地外縁を離れた。待機を続ければ左主割れと住民へ代価が出る。俺たちを待たず東南路を進む条件どおりだ。
修繕艇は骨伝浮標の上へ残る。帰還先はエリュン一つではない。
夜になり、深霧の外も中も白さは変わらなかった。
違うのは時刻板だけだ。
五度目の潜航で、二百二十八行すべてを照合対象へ入れた。短い二打は毎回、食堂奥から一度か二度返る。追わない判断も毎回取り直す。生きているかもしれない、を名簿作業の中止札にしない。名簿を終えるため、生体反応を後回しにしたことにもせず、二つの班と時間を分ける。
潜航士とジオは、食堂奥の壁、別出口、内殻籠の旋回幅を測る。ミラと俺は名簿。ネネとソラネは外で両方を受ける。
六度目。
芽吹き月37日未明。
現在の分類にたどり着く。
食堂だけで裏名簿は二百二十八行。
同じ筆跡、同じ作業、同じ食事時刻を重ねると、呼び名違いの重複候補が十五。確定できる別人は二百十三。
死亡確認五十二。
避難工程九十七。
不明六十四。
二百十三人。
公式七百三十一に入っていなかった。
公式死亡五十二を加えれば、死者は七百八十三。
そう書きかけて止める。
五十二の確認条件を、公式七百三十一とまだ同じ尺度へ揃えていない。遺体確認、崩落目視、同席者証言が混じっている。合計欄は黄。
数を足すのは、二つの板が同じ単位だと確かめてからだ。
ただし、公式集計外に死亡確認記録が五十二ある事実は消さない。
「公式より多い」
ジオが言う。
「死者が、ではない」
ここで確認した対象が二百十三人多い。避難九十七を死者へ足さない。不明六十四を生存へ逃がさない。死亡五十二も、確認者と場所がある範囲だけ。
数字は増えた。
責任の重さを競う秤には載せない。
ミラは二百十三人目を書いたあと、最初のサナへ戻った。
「第六艇の到着記録がありません」
避難工程へ白を置いた九十七人は、艇へ乗ったところまでしか分からない。助かった人として切断の成果に数えれば、また記録の先を作ることになる。
「次に探す板へ入れる」
第六艇、第一艇、第三艇。到着記録のない艇名を別索引へ出す。
今日の分類は終点ではない。
死亡、避難、不明のどこへ置いても、次に確認する場所を残す。
食堂の奥で、短い二打がした。
さっきより近い。
壁一枚向こう。
俺たちは入力していない。ネネの外板にも同時刻の細律。
生体反応は白に近づく。
その直後、配食窓の内側で金属が触れた。
古い作業律ではない。
ジオが全員停止を出す。
窓下の粉を見る。新しい擦り跡。深霧粉がまだ溝へ落ち切っていない。保存棚の一番下だけ、封泥の色が違う。十五年前の白灰ではなく、休翼床で使ったものに近い淡い青。
誰かが最近、ここを開けて閉じた。
保存食を所有者不在と決めなかったのは正しかった。
生体反応の主体と、食堂を使う人が同じとは限らない。短い二打は壁の向こう。新しい擦り跡は配食窓。位置が二歩違う。
人がいる、と大声で呼ばない。
敵か、生存者か、採取隊かも分からない。退路三つを確認し、武器袋は封じたまま、透明板へこちらの人数三、負傷一、交渉希望、退出可能と書いて床へ置く。
返りはない。
それでも名簿を放り出して壁を壊さない。
反応位置を印し、次の退路を測る。帰還濾過は残り二百呼吸。壁の向こうへ入れば、別の出口は未確認。
「今日の持出し」
名簿原板は持ち出さない。
深霧中で乾燥外気へ出せば、十五年保った板が割れる可能性がある。写し三枚。公式、裏名簿、避難札を別々に。保存食、茶碗、靴は位置記録だけ。
持ち出す物を俺たちだけで決めないためにも、原位置を残す。
帰還を出す。
食堂入口へ向き直った時、ジオが止まった。
封じた武器袋ではない。
食堂の配食窓、その暗がりから、細い銛が伸びている。
先端はミラの胸へ向いていた。
深霧面の奥に、人が立っている。
白髪を短く切り、防霧面の片側だけを上げた女。左腕に旧下層避難艇長の輪章。
ミラが名前を呼ぶ。
「トレア」
女の銛は下がらない。
「王女と呼ぶな」
掠れた声だった。
「あんたは、切った人だ」