国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
銛の先は、ミラの胸から動かなかった。
ジオの武器は封じた袋の中だ。
近い。
配食窓まで四歩。女――トレアの腕が伸びれば三歩半。銛は短く、深霧の中で索を切る艇内具。刺すだけじゃない。先端の返しを服へ掛け、窓側へ引けば、ミラの足場を崩せる。
俺は滑り板から立てない。
立てたとしても、間へ入るのが正解とは限らない。俺の身体を盾にすれば、トレアへ「撃つなら別の人を先に傷つけろ」と押しつけるだけだ。
「選択を出す」
俺は両手を見える位置へ置く。右前腕は細支えのまま。
「俺たちが退出。食堂入口で写しだけ置く。ここで人数と目的を記録。外のソラネを仲介にする。三つ」
「四つ目」
トレアの声は掠れていた。「切った女を置いて、男二人が出る」
「赤です」
ミラが答えた。
俺が止める前に、ではない。
自分へ出された候補を本人が拒否した。
「理由は?」
トレアが問う。
「私の身体を担保にした話はしません。話すなら、私も途中で退出できる席で」
銛が指一本下がる。
許した合図ではない。
胸から喉へ狙いが変わっただけかもしれない。外輪の粉は動かない。トレアの左肩は上がったまま。撃たないとも決めない。
「王女の言葉か」
「ミラの選択です」
「名前を変えれば、切った索が戻るのか」
「戻りません」
ミラの声は丁寧だ。「私が切りました」
謝罪を先に置かない。
赦しを取るための言葉にしない。
トレアは銛を下ろさず、顎で俺を示した。
「そっちの脚」
「左脛の骨膜。左肋ひび。右前腕細支え」
「走れない」
「走らない。退出は滑り板と床索」
「武器」
ジオが封じ袋を床へ置く。王国警備章は外さない。袋の三者封、受領時刻、本人名を透明板へ書く。
「俺はジオ・ハル。十五年前の切断には不在。王国警備でミラを追跡し、レンを逮捕した。今は命令を拒否して離脱。武器は封じたまま」
善人の紹介にしない。
トレアの目が警備章へ止まる。
「王国の犬が、離れたと言えば首輪が消えるのか」
「消えない。証拠として持っている」
銛がもう指一本下がった。
今度はミラの肩口。
外艇へ通じる糸話管が、俺の右脇に垂れている。手を伸ばせば届く。ただし、トレアへ断らず触れば、応援を呼ぶ動きにも見える。
「外へ今の条件を伝えていいか」
「何のために」
「俺たちが勝手に話を変えないため。そっちの言葉も、俺たちの言葉も、同じ時刻で残す」
トレアは銛の先で話管を示した。触ってよい、とは言わない。けれど、俺がゆっくり管を引き寄せても狙いは上がらなかった。
ソラネへ人数と位置、銛、退出三案、奥壁への接近禁止を伝える。返ってきたのは突入の提案ではなく、全員の生存確認と記録板の読み上げだった。ネネは外艇。操縦士も席を離れていない。食堂入口から追加の足音なし。
「仲介は受けます。ただし、こちらから結論は作りません」
ソラネの声を開放管で流す。
トレアは短く鼻を鳴らした。「神殿が結論を作らない日もあるのか」
「今日から増やします」
軽口ではないらしい。だから俺も笑わなかった。
「話はここで」
トレアが決める。「食堂の物へ触るな。奥の壁へ近づくな。写しは見せる。原板は動かさない」
俺たちが先に決めた条件と近い。
だから信用できる、にはしない。
「こちらからも。全員いつでも退出。銛を向けたまま近づかない。外の二人へ同時記録。生体反応へ攻撃しない」
「最後は何だ」
「壁の向こうから、短い二打が返ってる」
トレアの銛が初めて止まった。
下がりはしない。
知っているのか、驚いたのかは決めない。ただ、握りの親指が返し留めから外れた。今すぐ発射する形ではなくなる。
「それを幼獣と呼んだか」
「生体反応。主体数、種類、状態は未確認」
「なら、話せる」
*
トレアは第六下層避難艇の艇長だった。
切断の日、艇には百四十六人。
登録九十三。
無籍五十三。
配食名簿のサナ・イルと、鍋裏のチビも乗った。艇は中央主索が切れた反動で下港外輪から離れ、深霧へ落ちた。
「救われた人数は?」
口から出かけた問いを止める。
百四十六人乗ったことと、百四十六人が助かったことは別だ。
トレアがこちらを見る。
「訊け。計算したいんだろ」
「到着確認を取りたい。救われた数で、ミラの切断を白にするためじゃない」
「百二十九」
第六艇は南東の地上突起へ着いた。深霧眠七、衝突死四、到着後三日以内に六人が死亡。十五日後の生存確認百二十九。
到着、と呼べる形でもなかった。
艇底は右へ傾き、濾過筒は二本のうち一本が折れた。着地先の岩棚は、大人が横に五人並べば端へ届く幅しかない。百四十人を超える身体が、壊れた艇と岩の隙間で息を分けた。
七人を眠らせた深霧は、同じ場所に溜めない。起きている者が口布を替え、眠った者を高い側へ運ぶ。濾過嚢は登録順でも年齢順でもなく、一息ごとの呼吸値で回した。艇長のトレア自身は最後の列へ入った。
「立派だったと言いたい顔だ」
「言ってない」
「言いそうな顔はしてる」
たぶん、していた。
苛立ちの置き場を、分かりやすい賞賛で塞ぎたくなる。家族を残した艇長が、それでも百二十九人を十五日先へ運んだ。そこだけを切り取れば、英雄という札を貼れる。
でも、その札を貼った瞬間、トレアが夫と息子を上に残した判断まで美談の材料に変わる。
「到着後、誰が何をしたかも記録にある?」
「ある。眠った七人を運んだ名も、死んだ四人の位置も、壊した配給箱も。善行表じゃない。次に同じ艇が落ちた時、何を先に直すかの表だ」
それなら読める。
人を褒めるためじゃなく、次の損失を減らすための記録だ。
サナは生存。
鍋裏のチビは、到着名簿で自分の名を選んだ。
リム・サナ。
サナの子ではない。艇内で同じ濾過嚢を使ったため、到着後に本人が同じ姓を選んだ。
勝手に親子へしなくてよかった。
「サナ・イルは、その名を認めたのか」
「認めるも何もない。あの子が名乗った。サナは『同じなら食事の呼び出しで二人とも振り向く』と文句を言った。それでリムが、先に年下を呼べばいい、と返した」
生き残った人の会話だ。
救助名簿の数字じゃない。配食の呼び声へ二人が振り向き、どちらが先かで揉めた。その面倒くささまで残っている。
胸の奥で、百二十九が少しだけ人の形へ戻る。
「今は?」
「四十三人の所在を追える。死者六十一。残り二十五は不明」
十五年後の現在だ。
百二十九を、そのまま生存者数へ残さない。
トレアは四年前から盆地へ戻っている。外の深霧観測棚に七人の交替班があり、一巡ごとに二人ずつ遺骸へ入る。今日は相方が艇の濾過交換へ戻り、食堂には一人。
保存棚の淡青封泥は、その交替班が付けた。
「食べたのか」
「食べた。最初に来た年、所有者照会を生存者会へ三巡出した。返答があった棚は本人へ返した。返答なしは共同保全、開封数を記録。あんたらの分はない」
「取るつもりはない」
「つもりは記録にならない」
そのとおりだ。
俺たちの未開封、位置記録、持参食使用の板を見せる。
トレアは白を置かない。時刻と棚数を照合し、異議なし、とだけ書いた。
信用ではない。
記録が合った範囲だけだ。
「夫と息子は上にいた」
トレアが言う。
夫ダルは上街の水番。
息子ユンは十三歳。水番見習いとして、父親と同じ班にいた。
切断当日、トレアは第六艇へ降りる前、上街西橋で二人と別れた。家族を艇へ乗せれば、艇長が身内を先に逃がしたとされる。王家避難規則では、下層艇の艇長家族は上街の最終便まで待機。
「私が規則を守った」
トレアの声に、泣きも怒鳴りもない。「娘が鍵を切ると知らず、夫と息子を上へ残した。あんたが切って、私の艇は離れた。二人の橋は落ちた」
ミラは何も言わない。
トレアは腰袋から薄い金属片を出した。
水番の札。縁にダル。裏にユン。二枚を重ね、一本の細索で結んである。腐食を落とした跡が何度も重なり、名の部分だけ金属色が残っていた。
「橋へ戻った時に拾った。二人の身体はない」
死亡確認は、札だけか。
訊きかけて止める。遺体の有無で、今ここにある損失を薄くする質問になる。
いや、記録には必要だ。ただし、今この順番で俺が訊くことじゃない。
「死者六十一に、二人は?」
代わりに範囲を確かめる。
「入っていない。あれは第六艇のその後だ。上街の死者表は別」
混ぜない。
百四十六、百二十九、四十三、六十一、二十五。ダルとユン。全部が同じ列に入るわけじゃない。
俺の頭が勝手に秤を作る。
第六艇百二十九人生存。
夫と息子二人死亡。
二人より百二十九人が多い。
違う。
百二十九人を救った結果はある。二人を失った結果もある。一方をもう一方の代金にすれば、トレアへ「大勢のためなら家族二人を払ってよかった」と言うことになる。
逆に、二人の死だけで艇百二十九人の生存を無かったことにすれば、生きた人をミラを責める邪魔な数字へする。
どちらも人を数として使っている。
「救われたから、許すと思うか」
「思わない」
「家族を殺されたから、全部間違いだと言うと思うか」
「それも、俺が決めることじゃない」
「逃げた答えだな」
「そうかもしれない。でも、あんたの許しも断罪も、俺が先に文章にしない」
トレアの銛が床へ下りた。
手からは離れない。
「切った人」
ミラを見る。「あの時へ戻ったら、また切るか」
ミラの左手が震える。
赤紐へ伸び、途中で止まった。
「同じ三択なら、と答えれば、三択を作った人たちを消します」
トレアは待つ。
「切らない、と答えれば、下層と幼獣の窒息を消します。切る、と答えれば、上街の崩落を選び直せるふりになります」
「答えないのか」
「私が切った事実は変えません。今は、同じ三択を作らせないために来ました」
許してくれとは言わない。
十二歳だったから仕方なかった、とも言わない。
トレアは長く息を吐く。防霧面の内側が白く曇った。
「その答えで、私は楽にならない」
「はい」
「あんたは自分が楽になるために来たんじゃない、と言えるか」
ミラはすぐには答えなかった。
「言えません」
左手の震えを、右手で隠さない。「父の国で何が起きたか知りたい。私が選ばされた形を確かめたい。知らないまま責められるより、知って責められたい。私のためでもあります」
「なら、私のためは」
「私が決めません。あなたが見せる範囲だけ、受け取ります」
トレアの目が細くなる。
赦しを求める人なら、もっときれいなことを言う。被害者のために真実を、とか、未来のために、とか。
ミラは自分の利害を消さなかった。
だから正しいとは限らない。でも、少なくともトレアへ善意の受取人役を押しつけてはいない。
「でも、記録庫へ案内する」
許したからではない。
記録を見せる判断と、ミラへの許否を分けた。
*
食堂奥の壁は、配食棚ではなかった。
旧下層自治記録庫の外扉だ。
短い二打は扉の向こうから来る。トレアの交替班も、三日前から確認していた。扉を開けなかったのは、内側の深霧圧が外より二高く、封を切れば食堂へ一気に流れるため。
生体反応の確認と、記録庫への進入は同じ工程ではない。
今日は扉を開けない。
トレアが案内したのは、食堂と同じ圧の横室だ。
王家命令の写しが、陶板棚へ残っている。
十五年前より前、都市分離案は三度出されていた。
下港外輪を六艇単位で切り離す案。
上街を四区画へ分け、主索切断時も一斉崩落させない案。
背籠中核を王城下から下層へ移し、可搬区画を一つずつ受ける案。
提出者は下層自治会、避難艇組合、王立修繕局の一部。
技術欄には、主留め、三段仮留め、生活管外窓。アトラスで見た可搬輪と同じ考えがある。
最初の案には、試験済みの数字まで付いている。
下港一単位の切離し、九分。生活管の封鎖、四分。補助浮袋の展開、十一分。合計二十四分で、主索が落ちる前に外へ逃がせる。
二度目の案は、上街の水路を四つに分ける。通常時は同じ水を回し、事故時だけ石弁を閉じる。三度目は、背籠中核を動かすたび王家の印を一つ必要とする。つまり、王権を消さずに分ける案まで出していた。
国をばらばらに売る提案じゃない。
一緒に死なないための継ぎ目だ。
それでも赤だった。
命令欄は全部赤。
王家印。
理由、国土の分断を禁ず。
国の領域はリュータ背上と一致し、都市区画の恒久分離は王権・税・防衛・祭祀を損なう。
緊急時の仮切離しも、王家操路室の単独許可なしでは禁止。
「ミラが切る前に、逃げ道を閉じていた」
口にすると、胸が少し軽くなる。
真犯人を見つけた気分だ。
父王が悪い。
帝国が悪い。
ミラは減らされた三択を選んだだけ。
そう並べれば、隣にいる人を楽にできる。
できない。
「だからミラに責任がない、とはならない」
自分で続ける。
「ああ」
トレアが答える。「王が道を閉じた。帝国が釘と中央結節を作った。私たち艇長も、家族待機の規則を守った。切った人は切った。欄を奪い合うな」
彼女自身も規則へ従った責任を、夫と息子を失った被害で消さない。
陶板の裏に、艇長組合の異議がある。
署名二十七。
トレアの名もある。
異議を出した。
それでも出航当日は規則を守った。
抵抗した記録と、従った結果が同じ人にある。
ミラは三枚の命令板を順に写した。手が止まったのは父王の印ではなく、生活管外窓の図だった。
「この弁なら、下層の圧を残したまま上だけ切れます」
「当時もそう書いた」
トレアが答える。「王家操路室は、分ければ国獣への命令が届かないと言った」
「実際は?」
「試験では届いた。だから試験記録ごと封じられた」
俺は図の番号を読む。
王立修繕局、分岐二十四。
アトラスの反応二十四と同じ数字だから、と飛びつかない。けれど写しへ印は付ける。数が同じという事実と、意味が同じという推測は別欄だ。
人は一列にならない。
三度目の分離禁止命令には、添付音筒があった。
王家操路室から帝国心薬院へ送ったもの。
封は割れている。トレアの交替班が一度再生し、写しを二か所へ分けた記録がある。
「聞くか」
ミラへ選択を出す。
「ここで聞く。外へ持ち出してから聞く。聞かずに封番号だけ取る」
ミラは、ここで聞くへ白を置いた。
音筒を低速で回す。
最初に、深霧濾過の値。
次に、静釘を七本へ増設した後も、リュータが北進路へ擦れる報告。
帝国技師は心律採取を一巡止め、都市分離を始めるよう勧告している。
返す声は、ミラの父王だった。
『都市分離は認めない』
一度、雑音。
『国体維持を優先する。心律採取を継続し、操路出力を上げよ。王家の責任で要請する』