国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
父王の声が止まっても、音筒は回り続けた。
針が空の溝を擦る。
しゃっ、しゃっ、と一巡ごとに同じ音がする。十五年前の命令だけが終わらず、今も次の返事を待っているみたいで腹が立つ。
俺は音筒を止めた。
父王が悪い。
そう書けば、話は簡単になる。都市を分ける道を閉じ、帝国の停止勧告を退け、採取と操路出力を上げた。その命令の先で、十二歳の娘が主索を切った。
だから娘は悪くない。
簡単すぎる。
「操路室の原記録は残ってる?」
ミラではなく、トレアへ訊く。
「王城下ならな」
銛を床へついたまま、彼女は旧図の一点を示した。「ここから直線で二百八十歩。今の空洞なら、その三倍はかかる」
俺の脚では無理だ。
滑り板を二人に引かせ、深霧を余計に吸い、帰路を削ってまで行く距離でもない。
「行かない案は?」
「写しで終える。操路室の外壁だけ測る。外艇へ戻って交替班の骨橇を借りる」
ミラが三つ並べた。
最後を選ぶ。
今すぐ真実へ飛びつくより、濾過嚢を替え、俺一人ぶんの荷を道具へ渡す方が早い。
「ミラは?」
俺が選んだ案へ、そのまま乗る前提にしない。
「戻って、再進入を選びます」
「理由は記録へ出せる?」
彼女は回り続ける音筒を見た。
「父が命じた範囲を知りたい。私が知らなかった命令で、私がしたことを薄めるためではなく」
言葉の後半だけなら、正しい証言だ。
前半には、父親の声を聞いた娘の都合がある。公の記録と、個人的に知りたいことが混じっている。
混じっているから赤、とはしない。
「途中で見たくなくなったら?」
「退出します。写しの公開判断は、見た私一人で決めません」
白を置く。
俺も知りたい。ミラを楽にする材料が欲しい。その欲を消せないなら、せめて証拠の読み方へ混ぜない仕組みを先に置く。
*
食堂から入口外艇へ戻り、全員の呼吸値を取り直した。
ミラ八、ジオ七、俺九。深霧眠なし。金属芯索の腐食は八分の一。停止値へ届いたので証拠封し、帰路には使わない。
トレアの相方も戻っていた。名はオド。こちらを歓迎せず、トレアが銛を下げている理由だけを本人から聞く。貸すのは骨橇一台、乾燥索二本、濾過嚢四つ。返却先は食堂でなく外の観測棚。所有と損耗を板へ書く。
ネネは艇に残り、奥壁の二打と王城側の振動を別の帆糸で取る。
ソラネは同行を選んだ。
「記録官だから?」
俺が訊くと、彼女は振動板へ返す。
『十五年前に公開を止めた記録官だから』
立派な償い、とは受け取らない。
彼女が今日どの板を残すかを見る。
潜航士は入口と外艇。トレア、ミラ、ジオ、ソラネ、俺の五人で骨橇へ入る。俺の滑り板は橇中央へ三点留め。右手で索を引かない。左脚は浮かせる。
王城下へ通じる旧配水路は、三度折れていた。
一つ目は乾いた生活管を通る。二つ目は天井が床になった税庫。三つ目はリュータの肋骨と都市骨材の間で、幅が肩二つしかない。
トレアの直線二百八十歩は、崩落後八百四十一歩になった。
途中、死骨に四打の退避律が残っている。
昔の警告だ。
いま崩れる合図へ使わず、粉の落ち、橇の水滴、索の伸びを別に測る。古い四打の直後に新しい粉落ちが二か所。片方は上へ荷重が抜け、片方は橇一台で沈む。前者だけを通った。
王家操路室は、横倒しになっていた。
円い床が壁になり、王座側の高壇は天井にある。操路士十二人の足輪が縦に並び、中央切断桿だけが斜め下へ垂れていた。
ミラの背より長い、白い柄。
柄の根元に、爪の跡が四本ある。
十二歳のミラの手、と決めかける。
止める。
操路士は何人も触った。崩落後に物が擦れた可能性もある。似合う物語から所有者を作らない。粉の入り方と記録時刻を測り、十五年前以前の傷、使用者不明とだけ書く。
十五年前、十二歳の手があれを下ろした。
小さかったから仕方ない。
大人なら別の正解を選べた。
どちらも、今の俺が勝手に作った逃げ道だ。
年齢で分かるのは、当時使えた腕力、知識、権限、訓練、周囲の大人との関係だ。責任が丸ごと消えるか、丸ごと同じかは、十二という数だけでは決まらない。
「入る?」
「入ります」
ミラは即答したあと、自分で言い直した。
「入口で原記録の保存状態を確認。再生装置が現在系統へつながっていないと分かってから入ります」
ソラネが白を置く。
トレアは黄。
「王家の装置は、死んでいても王家の都合で動く」
反対の理由が具体的だ。
ジオと俺で外管を見る。いや、俺は見て、ジオが外す。
心律返筒は三本。都市骨材へ通じる管は崩落で切断。帝国規格の細い銀管だけ、奥の蓄圧筒へ残っている。現在の生体へ届く線はない。ただし、室内の記録輪を回すだけの圧は残る。
再生すれば、過去の入力に合わせて切断桿と静釘模擬輪が動く。
止める方法を先に出す。
手動歯止め三つ。蓄圧筒の外弁。王家本人認証による記録停止。
どれか一つではなく、三つを別人が持つ。ジオが歯止め、トレアが外弁。ミラは認証。ソラネが時刻と動作を記録し、俺は模擬輪の荷重を見る。
「俺の停止は?」
自分で書いてから気づく。
見張り役だから停止権がない、はおかしい。
異常を骨で拾った時は左手の白板を落とす。ジオが歯止め。聞こえた内容の説明を待たない。
全員白。
トレアだけ黄のまま入室した。
*
最初に動いたのは、七つの黒い輪だった。
実物の静釘ではない。操路士へ位置と吸収量を示す模擬輪だ。
一、二、三。
そこまでは旧王国製。頭が丸く、外管が二本。
四本目から形が変わる。
四枚羽根の頭。北側管。骨灰色の樹脂。帝国目盛り。
ラグナの旧坑で見たものと同じだ。
バシュ親方が再開へ白を置いた第三静釘とも、設計の骨格が一致する。だからバシュがリュータへ打った、とはならない。型を作った者、輸出した者、承認した者、現地で据えた者は別だ。
記録輪の第一層が回る。
『鎮動杭を三から七へ増設。都市傾斜、右六から二へ改善』
父王の承認印。
都市は実際に傾かなくなった。
水路の溢れが減り、上街橋の閉鎖日も短くなった。王家が何も守らず、痛めつけるためだけに釘を増やしたわけじゃない。
増設前の事故表も出た。
東水路の転落九人。王城下の家屋倒壊二十七。季節旋回のたび閉じる市場が十二日。静釘を四本増やした翌年、転落二、倒壊三、市場閉鎖四日。
住民が増設を歓迎した記録もある。
揺れない床が欲しかった。
器が落ちず、寝ている子が壁へぶつからず、商いを毎季止めない街。欲しかったもの自体を愚かだとは言えない。
だからこそ、下層の呼吸値を同じ板へ出さず、採取管を都市安定具へ隠した者の欄が要る。
同じ板の裏に、下層呼吸値がある。
七から五。
五から三。
静釘がリュータの拒否律を吸うほど、帝国の心律返筒は満ちる。採取量は一巡で銀筒四本から十一本へ増加。幼獣泳ぎ場へ戻る深霧流は半分以下へ落ちた。
守られた街路と、細った呼吸は同じ工程の結果だ。
二層目。
帝国側の設計承認が出る。
外地固定設計監査、ヴァレク・オーン。
十五年前の署名。今の宰相になる前の役名だ。
文面は短い。
都市落下推定を一万二千人から千人未満へ低減。心律採取増による下層影響は王国側の配分で処置可能。分離案は統治空白と避難遅延を生むため不採用が妥当。
人の名前が一つもない。
ヴァレクの署名の隣には、代替案の比較がある。
都市四分割は準備九日、住民移送二万一千。下港切離しは二十四分だが、王家徴税簿と帝国採取管を区画ごとに作り直す必要あり。七静釘は設置三日、住民移送なし。
速くて、安い。
しかも上街の事故は減る。
数字だけなら選びたくなる。俺が吊街の工房で、三日で直る継ぎと九日かかる継ぎを並べられたら、三日を選ぶ。
ただし、三日の方が別の区画から呼吸を奪うと知っていれば話は変わる。
この比較表では、その代価が「下層配分で処置」の一行へ畳まれていた。
下層の呼吸三も、幼獣二十四も、処置可能という箱へ入っている。
俺だって似たことをする。
荷重六、亀裂一、退避二十。数字へしなければ工程は作れない。
違うのは、数字にしたあと、払う本人へ戻すかどうかだ。
この板には戻り先がない。
三層目で、十二歳のミラが入室する。
姿が映るわけじゃない。
足輪の荷重。王家鍵の挿入。声紋。操作した弁。外から届いた話管。その時刻が順に灯る。
ミラは六歳から非常切断鍵の訓練を受けていた。
知っていたこと。
中央主索を切れば、上街吊索が一夜鐘以内に落ちる予測。上街に数百から千人を超える人が残ること。下港艇列が離脱できること。幼獣泳ぎ場の圧が戻ること。
知らなかったこと。
都市分離三案が試験済みだったこと。父王が帝国の採取停止勧告を退けたこと。静釘の返律がアトラスへ送られること。切断後、最初の橋が一夜鐘ではなく半鐘で落ちること。
選べなかったこと。
七本を段階停止する権限。上街四区画だけを分ける弁。下港六艇単位の切離し。心律採取の停止。操路士十二人を室へ戻す命令。
それでも選んだこと。
王家鍵を入れ、中央主索の安全蓋を開け、切断桿を下ろした。
記録話管から、子供の咳が流れる。
下港第三艇、濾過値二。
第四艇、扉不動。
泳ぎ場、独立反応二十四。うち八つが呼吸間隔を伸ばしている。
上街からは退避時間を求める声。
西橋、水番班未退避。
トレアの握る二枚の札が鳴った。
彼女は銛を床へ押しつける。ミラを見ない。
記録の中の父王が命じる。
『王家鍵を保持。切断を禁ず。操路出力を維持せよ』
十二歳の声が返す。
『下港の濾過が止まります』
『王都を分けるな』
切断桿が動いた。
現在の室内で、過去をなぞる模擬桿が落ち始める。
同時に七つの黒輪が回った。
三つ目が引っかかる。
十五年の腐食で歯が欠け、記録通りの位置を越えて、残圧を中央輪へ送った。
床だった壁が震える。
死んだ響骨の奥を、重い一打が走った。
食堂奥の二打とは違う。生体の短い返りではなく、模擬輪の残圧が都市骨材へ逃げた衝撃だ。現在系統へつながっていない、という入口の確認が外れた。
切断された管の先で、骨同士が触れている。
配管は切れていても、荷重はつながる。
「外壁へ一打。二打目まで七呼吸」
ソラネが水滴板を見る。天井になった高壇から、白い粉が一本落ちた。
次の衝撃で外扉が狭まれば、骨橇を出せない。
俺が模擬輪へ手を伸ばして押さえるのは赤だ。右前腕で受けられない。左脚も使えない。だから止める人へ値を渡す。
「三輪目、左へ歯二つ。中央へ逃がすな。外弁は一気に引かず、戻し半分を先に開ける」
俺の白板が手から落ちる。
ジオが歯止めを押す。一つ目は滑った。二つ目で桿の速度が半分。トレアが外弁を引くが、固着して指二本しか開かない。
ミラは叫ばなかった。
中央認証板へ王家印を入れ、右から二番目の細弁を半周、左端を一周戻す。
「王家操路鍵、ミラ・リュータ」
声の高さで装置を従わせるんじゃない。
名、印、弁の順番、停止句。その四つが一致しなければ認証輪は開かない。
「再生ではなく現在停止。第一圧を捨て、第二輪を空転。中央記録を切る」
一つずつ、装置の白灯が消える。
最後の黒輪が止まった。
二打目は来なかった。
外扉の幅は開始から指一本減。退出可能。粉落ちは高壇一か所、ひびの新規延長なし。生体反応側の帆糸は、ネネから白二回。こちらの誤作動で反応が消えた、とは書かずに済む。
ミラの声が特別に美しかったからじゃない。六歳から身体へ入れられた手順を、十二歳の自分が従えなかった命令と切り分け、今の本人が停止へ使った。
壁の震えは収まる。
奥から、短い二打。
生体反応も残っている。
ソラネは停止時刻、歯止め二、外弁指二本、認証四条件を全部板へ残した。王女が声で奇跡を起こした、という一行にしない。
「あの時も、その停止句を知ってた?」
トレアが訊く。
「知っていました」
ミラは認証板から手を離す。「でも、停止できるのは記録輪だけだと教えられていました。静釘と採取管は王と帝国の二重鍵。私は触れる権限がないと」
「試したか」
「一度。拒否灯でした」
試したから免責、にはならない。
拒まれた事実も、切った事実も残る。
トレアは二枚の水番札を袋へ戻した。
「記録を見れば、私はあんたを許すべきか」
「いいえ」
「父親だけを憎めばいいか」
「それも、私が決めることではありません」
「じゃあ何が変わった」
ミラは止まった七輪を見上げた。
「あなたの夫と息子が残った理由を、私たちだけの判断だったことにしない記録が増えました。私が切った記録は減っていません」
トレアは返事をしない。
銛も渡さない。
ただ、王家印の音声写しを自分の交替班保管庫へ置く、と板へ書いた。ソラネはエリュン公開審理、ジオは契約袋、ミラは本人証言添付。原記録はここ。四経路のうち一つを王家本人が閉じても、全部は消えない。
装置が止まり、隠れていた最下層の記録帯が出た。
切断後の追跡索だ。
二十四の生命律が、深霧へ散った線。
六つは西。五つは南。一本は途中で消失。残り十二は東へまとまり、十五年の途中でオルナ母根域の繁殖律へ接続している。
途中で消えた一本を死亡へ置かない。追跡索が切れただけかもしれない。
西六と南五も現在生存は不明。
東十二だけも、線がオルナへ届いたから親とは限らない。通過した、母根へ寄った、別の群れと混じった可能性がある。
俺たちが芽吹き月三十日に取った、十二の卵膜の返りを重ねる。
比較するのは鳴き方じゃない。
生まれ水へ返す三段の間。響骨が分かれる順。親側から卵膜へ渡る低い基礎律。シガの交換簿にある繁殖群の照合規則を使い、十二本を一本ずつ重ねる。
ソラネが組合せ順を隠し、俺とミラが別々に照合する。十二本すべてで東群の枝番号が一致。西、南、消失一本では一致しない。
ネネの外板へ、親と仮定した時の予想三つを送る。
卵膜十二の返り順が同じ。オルナ低律に先行して親側基礎律が立つ。リュータ追跡索の枝番号がそれぞれ別で、一頭を十二回数えていない。
三つとも白が返った。
ここでようやく親群と書ける。
一致は、卵十二ではない。
親側の基礎律、十二。
切断で離脱した二十四頭のうち十二頭が、オルナで今季生まれた個体群の親だった。