国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
リュータの心臓は、もう動かない。
その奥で、何かが育っている。
王家操路室から食堂へ戻る途中、短い二打は六回返った。こちらが入力した時ではない。古い四打の直後でもない。
生きた反応、と書ける。
幼獣、と書くにはまだ足りない。
「先に外へ戻る?」
骨橇を止め、全員へ出す。
操路室への往復で濾過嚢を二つ使った。借りた四つの残りは二つ。食堂奥壁の内側は深霧圧が外より二高い。開ければ未知の空間、未知の対象、未知の帰路が増える。
「戻って再装備」
ジオ。
「入口まで戻らず、食堂でオドの予備嚢を待つ」
トレア。
「今日は開けず、差圧だけ測る」
ソラネ。
ミラは三案を聞いてから、自分の案を加えた。
「食堂へ戻る。壁を開けるかは、外艇のネネと潜航士を含めて決める」
それを選ぶ。
生体反応を見つけた人間だけで、救助開始を決めない。
*
食堂へ着くと、奥壁の二打が一度止まった。
代わりに、壁下の細孔から白い霧が糸みたいに漏れる。
差圧は二から三。
操路室の誤作動で、死骨の奥へ残圧が回ったせいだ。俺たちが記録を再生した代価が、ここへ来ている。
開けずに帰れば安全、ではなくなった。
圧が四へ上がれば、古い扉の留めが先に外れる。人が準備して開けるか、勝手に破れるかの違いだ。
外艇へ全値を送る。
ネネから返ったのは、短い二打が止まった時刻と、細擦れが十六か所へ分かれた記録だった。
十六。
主体数とはまだ書かない。
潜航士は新しい濾過嚢六つ、薄い圧抜き管二本、内殻布一枚を入口から送れる。到着まで百二十呼吸。オドは観測棚から骨栓四つと乾燥苔を持つ。
「待つ間に四へ上がったら?」
「細孔へ圧抜き管一本。二本目は予備。三を維持できなければ退避」
「下がったら?」
「二で停止。開扉は新しい嚢が届いてから」
俺の答えをソラネが板へ移す。
誰かの王家命令にはしない。
細孔へ一本目を入れる。右腕は使わない。ジオが管を押し、トレアが骨栓、ミラが圧板を見る。俺は床の返りと、奥の十六擦れを分ける。
圧三。
二と半分。
二。
短い二打が戻った。
今度は一つじゃない。
近い二打、遠い二打。遅い二打。二打の間が一呼吸ずつ違う。
リュータの残響が割れて聞こえるんじゃない。
生きているものが、別々の間を持っている。
装備到着。
開扉は指一本ずつ。差圧二を一と半分、一、半分へ落とす。一段ごとに三十呼吸待ち、十六の細擦れが消えないことをネネとソラネの二系統で見る。
最後の留めを外す。
白い霧が食堂へ流れた。
匂いは、濡れた骨と古い豆。
その下に、温かい水の匂いがある。
心室は食堂より狭かった。
横倒しの器官壁が弧を描き、中央に黒い深霧水が溜まっている。死んだ心律管が天井から細根みたいに垂れ、水面へ触れていた。
白い卵膜が十六。
大きいものは俺の胴。小さいものはネネが丸まったくらい。どれも死骨へ固定されず、深霧水の中で少しずつ位置を変えている。
帆糸を一本ずつ渡す。
十六本が、違う順で動いた。
温度も違う。膜の厚みも違う。近い二つへ同じ水滴を落としても、返す間が違う。
数えるだけでは足りない。
一番手前へ、三つの入力を出す。
温かい深霧水を半椀。帆糸を一度だけ引く。死骨の長い三打を床から入れる。
水には膜全体が膨らむ。
帆糸には接点だけが返る。
三打には、短い二打のあと、低い一つ。
隣の卵は、水へ膨らむところまでは同じでも、帆糸を二度返し、三打へは沈黙した。
反射の差か、好みか、成長段階かは分からない。
分からないままでも、同じ装置の十六端子ではないと言える。
膜の根元も見る。
死骨から直接生えたものは一つもない。深霧水の中に薄い袋状の栄養膜があり、古い心律管へ巻きついている。管を外せば運べそうに見えるが、一本の管から三つ、別の管から二つへ水が分かれ、膜同士も細い流れを交換している。
卵一つずつを函へ入れれば救助、とは限らない。
今の群れ全体が、一つの保温と栄養の仕組みだ。
「持ち出せる?」
ミラの問いへ、すぐ白を出さない。
「このままなら無理。十六の位置、水温、流れ、心律管をまとめて移す器が要る。個別に切れば、どこまで落ちるか未測定」
「ここへ残すのは?」
「遺骸が崩れなければ。崩れる時刻は空欄」
見つけたことで、安全になったものは一つもない。
「リュータ?」
トレアが訊く。
生まれ変わりか、と続けなかった。
「リュータの死骨に残った心律を使ってる。でも、同じ律じゃない」
死骨は長い三打、二打。卵は短い二打を土台に、それぞれ一つ余る、間が伸びる、最後が低い。
「同じ記憶は?」
「測れない。少なくとも、今の返りは十六別々」
リュータが十六に分かれて戻った、とは書かない。
トレアは水面へ膝をつかなかった。
神殿みたいに拝みもしない。
銛の柄で、卵へ届かない位置の水深を測る。
「交替班がここを守れるか」
「七人で入口、圧、濾過、温度を全部は無理」
「なら、生存者会へ増員を出す」
旧国の奇跡ではなく、夜番と濾過嚢が必要な現場として扱う。
その方が、いま水の中にいる十六へ近い。
死んだ心律が養分になっている。
深霧水が膜を満たしている。
終わった身体の中で、別の身体が始まっている。
ラグナが還れば、ラグナは帰ってこない。
同じ声、同じ癖、同じ故郷を背負った相手には会えない。それは変わらない。
でも、終わった後に残るものが、腐るか奪われるかだけじゃない。
ラグナの心律も、いつか誰かの最初の息になるのかもしれない。
救いだ、と決めるには早い。
ラグナ本人が次の命を作るために還りたい、と聞いたわけじゃない。新しい個体も、誰かの喪失を埋めるために生まれるんじゃない。
それでも、還りを全部失敗の側へ置いていた俺の表には、知らなかった列が増えた。
「採取痕」
ジオの声で、頭を上げる。
心室の反対側。
死骨壁に、丸い穴が六つある。
古くない。
切粉が深霧水へ沈み切らず、縁の樹脂はまだ柔らかい。帝国の骨灰色。穴から細い銀索が伸び、十六卵の外周へ捕獲輪を作っている。
俺たちの入口とは別経路だ。
穴の向こうで、金具が鳴った。
「全員、接触なし。退出路確認」
ジオの武器袋は封じたまま。
トレアの銛は手に戻る。けれど卵の前へ立たない。心室入口の横、逃げ道を塞がない位置へ移る。
灰色の防霧衣が一人、二人、三人。
六人。
胸章は帝国アトラス資源回収局。先頭の女は短い採取杖、後ろ二人は折畳み捕獲函。残り三人が穿孔機、索銃、記録箱を持つ。
「回収局主任、キエラ・ノウ」
女が開示板を出した。「滅失国獣内に発生した無主生体資源を、帝国保護規則第八条により収容する」
卵を指して、生体資源。
「現在反応十六。無主物扱いへ異議」
ソラネが振動文字を板へ出す。
「耳のない記録官か。帝国放送で見た」
キエラはソラネでなくミラを見る。「滅失した王国に所有権はない。王家を名乗るなら、帝国保護下で請求を出せる」
ミラへ王女名を使わせ、卵を王家の所有物として争わせる形だ。
「生体反応に所有権を置きません」
ミラは答える。「リュータ王家の物だとも主張しない」
「なら無主だ」
「物ではない、という異議です」
キエラは記録箱から別の板を出した。
保護函十六。深霧濃度は帝国標準五。温度幅は基準から上下二欠け。アトラス育成槽まで三日。輸送中の停止基準は膜収縮三割、反応消失一刻。
数字はあった。
ただし、目の前の水は濃度八。温度幅は卵ごとに一欠け以内で違い、最小個体はさっき水流から外れただけで一欠け下がった。
「標準五へ移した試験は?」
「同種の先行群で済んでいる」
「同種の根拠」
「国獣由来卵膜」
広すぎる。
オルナの卵と、セラトの幼体と、ここにいる十六を同じ箱へ入れている。
「ここで三つだけ試せる。空函へ現在水を入れる。卵は動かさず、栄養膜の流れを函の管へ通す。三十呼吸で温度と返りを見る」
「回収を遅らせる提案か」
「保護の方法を確かめる提案だ」
キエラは受けなかった。
危険値がないわけじゃない。三日で運ばなければならない理由も、ここが崩れる可能性もある。帝国函の方が安全な部分だってあり得る。
だからこそ、現在水を入れる小さな試験さえ拒む理由が、卵の安全以外にある。
「収容後の用途は」
ミラがもう一度訊く。
「アトラス生体基盤の予備群。孵化、神経分離、育成の判断は中央保護院が行う」
保護函の先が出た。
生かすことと、本人の身体を本人へ残すことが同じ規則に入っていない。
キエラの採取杖が上がる。
「法廷で争え。現場では保護を優先する」
「本人の現在反応、移動時の危険、収容後の用途は?」
「孵化前だ。意思能力はない」
短い二打が十六。
人語の意思、と言い切る材料はない。でも、入力へ別々に返す主体を、反応が小さいから物へ戻す理由もない。
キエラは捕獲輪を締めた。
卵のうち外側四つが中央へ寄る。
深霧水の流れが変わり、最小の一つが死骨管から外れた。
温度が一欠け下がる。
「停止」
白板を出す。
「その一つ、栄養線が切れた。戻して再測定」
「保護函で補う」
「函の温度と深霧濃度は?」
「回収規格内だ」
数字を出さない。
索銃の男が一歩出る。
ジオも一歩出た。武器は抜かず、警備章と三者封の命令袋を見せる。
「現場危険値の不開示を記録。回収停止を要請する」
「離反した王国警備に権限はない」
「権限でなく、記録者として言った」
捕獲輪がもう一段縮む。
交渉は続いている。
作業は止まっていない。
キエラは法の返事を待つふりで、卵を穴側へ寄せている。
こちらも、話だけで止められると思うな。
心室の床を見る。
死骨へ残る荷重履歴。
生前、心臓が縮むたび、外側の骨板が三打で沈み、内側が二打で上がった。死後もその順だけが残っている。いまは水と卵が重しになり、外板は半指下がったまま。
回収隊の六人は外板の上。
俺たちは内板。
間に、古い調整梁が一本。
梁を外せば外板が落ちる。
人ごと深霧水へ落とす。それは赤だ。
外すんじゃない。
生前の二打目まで戻す。
荷重履歴だけを信じない。
死骨の動きは昔の値だ。十五年で調整梁の歯が減り、水の重さも変わっている。
トレアへ乾燥索を指一本だけ引いてもらう。
外板が爪半分上がる。粉落ちなし。水位は爪先ほど下がり、十六の温度は変わらない。
戻す。
同じ位置へ戻るまで二呼吸遅い。
予想へ遅れを足す。上げる時より、戻す時の方が危ない。捕獲輪が緩んだあと、板を急に戻せば水流が卵へ当たる。
だから一度上げたら戦いが終わるまで保持。戻しは外板から回収隊が降り、卵の位置を十六確認してから一歯ずつ。
「トレア、右壁の乾燥索は動く?」
「半分」
「ジオ、調整梁の歯を一つ戻せる?」
「右手なしで指示できるなら」
「できる」
俺がやる必要はない。
ソラネへ予想を書く。
外板が指二本上がる。回収穴側へ傾斜四度。卵側の水位は指一本下がるが、三十呼吸以内なら膜温度変化なし。外板と捕獲輪の索角が逆になり、締めれば捕獲函ではなく穿孔機を引く。
停止条件は卵一つでも温度一欠け低下、梁の粉落ち二本、外板上昇指三超。
ネネへ外から予想を送る。
返り白。
キエラが採取杖を振った。
青い衝撃が走る。
トレアの銛が杖の先へ絡み、床へ逸らす。光が死骨を焦がした。
索銃の男がジオを狙う。
ジオは武器袋を盾にしない。三者封の証拠を壊さず、横倒しの足輪を蹴って身体を沈める。銀索が頭上を通り、食堂扉へ刺さった。
二人目の回収員が俺へ来る。
狙いは身体じゃない。滑り板の左留めだ。外せば俺を退路からどかせる。
左手で留めを守ろうとして、止める。
右前腕は使えない。左脚も床へ置けない。ここで組み合えば、俺だけでなく通路を塞ぐ。
「板ごと右へ半歩!」
ミラが圧抜き管を固定し、滑り板の床索を引く。俺は右へずれ、回収員の手が空を切る。仕事を奪われたんじゃない。動かせる人へ動きを渡した。
男は次にソラネの記録板へ手を伸ばす。
ソラネは板を抱えず、写しを床へ散らした。奪うなら六枚全部を拾う必要がある。その間も、本板へ時刻を刻む手は止めない。
ミラは卵の前でなく、圧抜き管へ走る。退路の圧を一へ保つ。
俺は滑り板から動けない。
動かなくていい。
「一つ戻す」
ジオが調整梁の歯を打つ。
トレアが乾燥索を半分引く。
外板が上がった。
指一本。
二本。
回収隊の足元が穴側へ傾く。誰も落ちない。壁に近い三人は索を取る。捕獲輪を引いた二人の力だけ、穿孔機へ返った。
機械の脚が外れる。
回収穴へ横倒しになり、捕獲函二つを塞ぐ。
回収員二人が膝をつく。頭部打撲なし。一本の索が腕へ絡むが、指は動く。こちらの新傷もない。
勝った数にしない。
六人のうち四人は動ける。卵まで三歩。俺たちの退路も一本。外板を戻せない時間が伸びるほど、心室の水流は弱くなる。
罠だ。
でも、死体を武器にして潰す罠じゃない。
リュータが生きていた時、心臓と卵を守るために荷重を逃がした動きを、壊さない範囲で一度借りた。
最小の卵が水流へ戻る。
温度も戻る。
「捕獲輪を切れ」
トレアの銛が銀索一本を切る。
ジオは二本目を足輪へ巻き、締める力を床へ逃がす。
ソラネは戦いを見物しない。六人の位置、衝撃杖一、索銃一、こちらの荷重操作、卵の温度を記録し続ける。
キエラが倒れた穿孔機を越えた。
俺ではなく、心室奥へ走る。
奥には卵しかないと思っていた。
違う。
旧図の背籠中核は、王城下。
いま俺たちがいる心室の、さらに上だ。
起動線が心室を通っている。
「止めろ!」
キエラは古い命令輪へ帝国の銀鍵を差した。
王家鍵ではない。
十五年前、帝国が増設した採取管の保守鍵だ。
命令輪の半分だけが回る。
キエラの足元で、古い緑灯が十二個ついた。
背籠の可搬受け輪。
続いて八つの浮力槽のうち、三つが白、一つが黄、四つは暗い。完全起動じゃない。三槽だけで都市荷重を引けば、どこかが先にちぎれる。
「起動を切れ。浮力三、受け輪十二だ!」
「無主設備の保全だ」
キエラは鍵を離さない。「卵群も都市記録も、地上へ上げる」
上げることと、壊さず運ぶことを同じにするな。
死骨全体から、今までで一番深い音がした。
三打。
二打。
過去の作業律が、次々に目を覚ます。
心室の天井が上へ離れた。
十六の卵が一斉に沈む。
温度低下一欠けが三つ。
停止条件へ触れた。
トレアが乾燥索を保持したまま叫ぶ。
「王城側の骨が割れる!」
死骨の奥で、細い破断が七つ連なった。
食堂側の帰路はまだある。王城側は、ミラが立つ圧抜き管の向こうで狭まり始める。
いや、俺たちが下がっているんじゃない。
旧王城、食堂、下港外輪。
死んだリュータの背に残った都市区画が、背籠に引かれて浮上を始めた。