国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
親方の署名は、偽物じゃない。
線が三本、最後の一本だけ短い。三十年使っている調律槌の傷と同じ癖だ。俺が初めて字を習った時、真似して作業板へ書き、頭を叩かれた。偽造防止としては、弟子の教育に失敗している。
だから確かめる必要はなかった。
確かめたい理由はあった。
修理命令の控えを胸へ入れ、上背局へ向かう昇降機に乗った。右腕は副木ごと布で吊り、左肩には骨医から買わされた冷却苔を挟んでいる。吊街から上背へ上がるたび、空気が乾き、床が広くなり、水の匂いが薄くなる。
三層目で、警備兵が俺の通行札を止めた。
「負傷者は下層診療所へ」
「この命令を書いた工頭へ、完了報告を持ってきた」
署名を見せる。
バシュの名前は、俺の資格札よりよく効いた。
上背局の待合には、祭礼用の金布を着た修繕官が並んでいた。壁の振動板には、ラグナの歩調が一本のきれいな線で流れている。吊街の梁が割れた時も、この板は乱れなかった。
痛みの返りを吸ったあとの線なら、きれいで当然だ。
「ドーン工頭は合同会議中だ。報告書は預かる」
受付の役人が手を出す。
「本人に渡せと言われた」
「誰に」
「本人に」
嘘は短いほうが持つ。
役人は俺の固定具と汚れた靴を見比べ、触るのをやめた。第3話の監査官と同じだ。上背では、汚れを落とす手間を嫌う人間ほど簡単に道を空ける。
会議室の扉が開くまで、半刻待った。
待合の振動板には、祭礼荷重の予定が色分けされていた。王城の観覧台、上背広場の屋台、騎獣車、臨時貯水槽。吊街中央梁へ新しい亀裂が出たことは、端の小さな注意欄に一行だけある。
止めたのは住民二十人と警備四人だ。板では「現場処置済み」の五文字になる。上背の祭礼を延期する条件には数えられていない。
右腕が脈打つたび、固定布の下で二本のひびが分かる。これも報告書なら「軽傷一名」だ。数字へ直すこと自体が悪いわけではない。誰が何を失ったかまで薄くする使い方が、筋に合わない。
先に帝国心薬院の白衣が三人出てくる。胸の印は、旧坑の静釘に刻まれていた三角と同じだった。その後ろに王立操路院、監査局、最後がバシュ。
禿げた頭も、白い顎髭も、一日で変わるはずがない。右膝をかばう歩き方も同じだ。
違って見えたのは、俺が違うものを知ったからだ。
バシュは最初に俺の顔を見た。
次に右腕。
最後に、胸から覗く命令書。
「誰が固定した」
「夜番の骨医」
「診断」
「微細骨折二本。八日槌なし、十日目に再検査」
「なら帰って寝ろ」
いつもの順番だ。怪我、可動、睡眠。
その順番を守る人間が、ラグナの痛みを雑音と書いた。
「旧工房で待ってる」
「レン」
「会議の人間へ聞かれたくないなら、来てください」
親方ではなく名前で呼ばれた。
俺は先に背を向けた。右腕が使えないので、殴り合いになれば確実に負ける。ならないことを知っているから背を向けられる自分が、少し腹立たしい。
*
旧工房は吊街と上背の境にある。
俺が十三から道具を洗い、十五で初めて一人用の槌を渡された場所だ。壁の工具掛けは、長さ順ではなく使用頻度順。入口に近いほど毎日使う。バシュのやり方で、俺のやり方でもある。
奥の棚には、俺が最初に割った探り針がまだ残っていた。失敗した道具は捨てず、なぜ折れたかを書いておけと言われた。右へ力を入れすぎ、亀裂の曲がりを無視した、と十三歳の字で札が下がっている。
人間の失敗も同じように残す人だと思っていた。
だから、父母の十七日だけが抜けた保守筒を見た時、最初に疑ったのは局で、バシュではなかった。命令書の署名を見たあとも、誰かに書かされた形を探した。
それは信頼というより、八年使った自分の判断を壊したくないだけかもしれない。親方が隠したと認めれば、教わった作業手順まで全部疑う手間が増える。俺は真実より先に、使い慣れた道具を守ろうとしていた。
二刻後、扉が開いた。
バシュは一人だった。右手に槌「古女房」、左に小さな薬包を持っている。
「腕を出せ」
「話が先です」
「腫れ止めだ」
「署名が先だ」
命令書を作業台へ広げる。
バシュは見下ろし、否定しなかった。
「俺が書いた」
言い訳から入らないところまで、いつもの親方だった。
「老化の雑音だと思ってますか」
「思ってない」
「旧坑を二百樽で埋めるべきだと?」
「思ってない」
「じゃあ、何に署名した」
「お前を現場監督にする命令だ」
答えの角度が違う。
俺が旧坑を知っている。命令どおり全部を埋めない。吊街の荷重も見る。そこまで読んで署名したと言いたいらしい。
「俺が仮塞ぎにする保証はない」
「する」
「住民を巻き込むかもしれない」
「説明して選ばせる」
「何で分かる」
バシュの視線が、俺の右腕へ落ちた。
「そう教えた」
作業台を左拳で殴りそうになった。
肩が痛み、止まる。骨医には感謝しない。痛みがなければ殴っていたという言い訳を残したくない。
「俺に説明して選ばせたことは?」
バシュの顎髭が動かなくなった。
命令書の横へ、作業記録板を置く。裏側。九十組の三線、父の作業印。
「白降り月二日に死んだ父親が、五日の鎮動杭台帳へ印をつけてる」
次に、固定した右腕。
「旧坑の壁の奥に黒い杭があった。王立印を削って、下から帝国印。外周に触れたら、八年ぶんの律が腕へ戻った」
最後に、バシュの槌を見る。
「知ってたんですね」
問いではない。
バシュは薬包を工具台へ置いた。槌は手放さない。
俺が子供の頃、悪い報告をする時と同じだった。逃げるためではなく、手に何もないと話せない人間の持ち方だ。
「八年前、鎮動杭として三本入れた」
工房の外で、ラグナの歩調が低く通る。
「一基目は右後脚。戻りの高い律が消え、背上の揺れが三割減った。二基目は肩甲の下。交易索が安定した。三基目が旧坑だ」
「静釘」
「その呼び方を知ったのは後だ」
一基目の工事は、成功として祭りになったらしい。揺れで閉じていた上背倉庫が再開し、吊街にも三十七人ぶんの保守仕事が下りた。返律の高い部分が消えたことを、職人たちは亀裂が馴染んだ証拠だと読んだ。
二基目のあと、肩甲下の温度が上がった。代わりに交易索は切れなくなり、王立局は「都市側の安定を優先できる範囲」と判定した。バシュは隣接する響骨へ継鉄を足し、毎巡の点検項目を増やした。それでも工事そのものは止めなかった。
三基目では、杭を締める前から右後脚と腹側の返りが同時に乱れた。バシュは一度中止を出し、帝国技師は許容誤差だと再開を求め、王立局も立会印を押した。
「親方は再開に同意した?」
「した」
「危ないと分かっていて」
「二基目まで、継ぎを足せば持った。三基目も持たせられると判断した」
結果を知ったあとなら、馬鹿な判断だと言える。
俺も旧坑で、外周を指一本だけなら止められると判断した。同じ言葉を使った。違うのは、バシュにはその前に二基ぶんの成功があり、俺には第六足場の一度きりの検査しかなかったことだ。
「いつ」
「三基目を入れた日」
白降り月十八日。
バシュが日付を言った。
父と母の墓標より十六日後。台帳の欠けた十七日の中だ。
「二人は、その日に死んだ?」
「そうだ」
「墓は二日だ」
「局が変えた。白降り月二日の小崩落へ、死者六人をまとめた」
「何のために」
「五日から始まった帝国との試験工事に、死者を出さなかったことにするためだ」
空の棺。
父の工具札と、母の手袋。
雨の葬式が何日だったか、俺は覚えていない。墓へ刻まれた日付を、死んだ日だと思っていただけだ。
「三基目で何があった」
バシュの指が槌の古い傷をなぞった。
一つ、二つ、三つ。
「杭の外周を締めた時、右後脚から腹側へ荷が移った。旧坑の補助梁が落ちた」
「父と母は」
「梁の内側にいた」
「何をしてた」
返事が一拍遅い。
「荷重逃がしの継鉄を入れていた」
「曲がったやつか」
バシュの目が、初めて俺へ戻った。
旧坑で見たことを、そこまで話していなかった。
「触ったのか」
「触ってない。周りが落ちる」
「そのままにしろ」
「何をしてた」
もう一度聞く。
「本当に継鉄を入れてただけですか」
槌を握る手に力が入る。
バシュは嘘をつく時、目をそらさない。仕事で相手の手を見ろと教えたのは、この人だ。
「今日は、そこまでだ」
答えない。
答えないことが答えの形を作る。
父と母は、命令どおり継鉄を入れていただけではない。
「何で黙った」
「三基目で工事は止めた」
「残り四本はある」
「王城と帝国の別班が入れた」
「止めてない」
声が大きくなる。
右腕の奥が脈打つ。固定具の中で指を握り、すぐ開いた。
バシュは工房の戸を閉めた。
「契約を切れば、吊街と左右工房区の職人六百十二人が即日解雇だった。操路塔の保守も帝国班へ替わり、薬便と穀物索の優先枠を失う」
六百十二人には、杭を入れた職人だけでなく、樹脂を煮る者、索を編む者、濾過嚢を洗う者、食堂で朝鍋を作る者まで含まれていた。契約札を失えば、上背の住居へ移れる技術者より、吊街から出られない家族が先に食えなくなる。
帝国は脅しただけではない。三年分の安定賃金と骨医薬、子供の初等札を出した。俺もその札で十三まで学校へ通った。
悪い条件だけなら断りやすい。欲しいものを正確に並べた契約ほど、切った時に誰が困るかまで見えてしまう。
「六百十二人と、父さんたちを比べたのか」
父さん、と口に出た。
普段は父親としか言わない。十一歳の葬式以来、使わなかった呼び方だ。
「比べた」
バシュは逃げなかった。
「生きてる六百十二人を取った。お前もその中に入れた」
「俺は職人じゃなかった」
「職人見習いの枠へ入れた。仕事と食事があれば、吊街から追い出されない」
だから十三で道具を洗い始めた。
治療代の代わりに三年、と言われた右奥歯も、その年にバシュが詰めた。
「俺を育てたのは、黙らせるためか」
「違う」
「じゃあ善意か」
「そういう話にするな」
初めて、バシュの声が強くなった。
「食わせたことと、隠したことは別だ。俺が一緒にしたら、お前は飯の分だけ黙るしかなくなる」
言われる前から、胸の中では一緒になっていた。
熱を出した夜、背負って骨医へ走った。十三の俺が工具を壊した時、賃金から引かず自分の槌を貸した。初めて一人で塞いだ亀裂を、褒めずに翌日の仕事へ入れた。
そんなものは、署名一つで消えない。
消えないから、邪魔だった。
バシュが最初から悪い人間なら、全部を捨てられる。食事も寝台も仕事も、嘘をつくための道具だったと決めればいい。
現実は筋が悪い。俺を育てた手と、父母の記録を隠した手が同じだ。
「六百十二人を守ったことは、二人を隠した理由にならない」
「分かってる」
「今も旧坑を埋める命令へ署名した」
「お前に現場を渡すためでも、虚偽命令へ加担した事実は変わらん」
「謝らないんですか」
聞いてから、何を期待したのか分からなくなった。
バシュは槌を作業台へ置いた。
「謝って、お前が許す番になるのは今じゃない」
工房が静かになる。
ラグナの足音だけが、床を一度ずつ持ち上げる。
「俺がしたことは、公開記録に出す。職を失うのも、裁かれるのも後で受ける。だが今、お前が静釘を抜くなら止める」
「止められると思いますか」
「その腕を見ろ」
右腕は、副木の中でも熱い。
「一片で二本折れた。釘を抜けば、溜めた律と逃がしていた荷重が同時に戻る。旧坑だけじゃない。背上の家も、吊街も落ちる」
「なら、どうする」
「抜かない」
「それで九十日後を待つ?」
バシュの眉が動いた。
知らない顔ではない。知っていて言われると思わなかった顔だ。
「九十をどこで」
「ラグナに聞いた」
バシュは何も言わず、古女房を取った。
作業台を三度叩く。
低い一打。少し高い一打。低い一打。
一拍の休み。
第一話と同じ、ラグナの通常の返りを測る三打だ。
「お前の歯は、どこまで聞く」
「質問してるのは俺です」
「答えろ」
「局の板に戻らない音まで」
「そうか」
その二文字の中に何があるかは、分からない。
バシュは槌を壁へ戻し、工具掛けの一番奥を押した。板が外れ、中から油布の包みが出てくる。
「工事を止めた後、残りの位置を調べた。局の正本へ書けば消されるから、別に残した」
油布を開く。
薄板が十六枚。設置日、班、型、管の向き、周辺荷重。俺たちが保守筒で見つけたものより細かい。
文字はバシュ一人のものではない。薬品記号は帝国式、梁の数字は父の癖に似た角張った字、接地時刻は母が使っていた丸い点で区切られている。正本から写しただけでなく、現場で集めた札を継ぎ合わせた記録だ。
三基目の頁だけ、右下が焼けていた。事故で焦げたのか、処分しかけて止めたのかは分からない。そこには補助梁の初期位置と、事故後に指四本下がった線が両方残る。父の曲がった継鉄がある場所とも一致した。
一枚目、右後脚。
二枚目、左肩甲。
三枚目、旧坑。
残り四本は腹中央、背骨根、首の操路節、王城のある角冠部。
「七本」
「全部だ」
「何で今まで隠した」
「持っていると知られれば、処分される。お前へ渡せば、お前が行く」
「もう行った」
バシュは俺の固定具を見る。
否定できない。
「だから渡す。だが抜くな。見るなら、周辺荷重を四方向で測れ。単独で入るな。右腕が治るまでは外周にも触るな」
「親方の命令は、もう信用しません」
親方と呼んでいた。
口が八年ぶんの習慣を勝手に続ける。
「命令だから従うんじゃない。自分で確かめて、筋が通っていたら従う」
「それでいい」
あっさり言われると、余計に腹が立つ。
薄板を左手で抱える。右腕を使わない持ち方を、バシュが無言で直した。下から油布を折り、肘へ載せる。
手を払わなかった。
許したからではない。落とせば、また記録が消えるからだ。
工房を出る前に振り返る。
「父たちが三基目で何をしたかも、自分で確かめます」
「ああ」
「親方が話さなくても」
「記録が残っていればな」
それは脅しではなく、バシュ自身へ向けた言葉に聞こえた。
*
廃材庫へ戻ると、ミラは地図板の上に心律片の小瓶を置いていた。
油布の薄板を一枚ずつ見せる。彼女は設置位置へ黒い点を加え、管の向きをリュータ図と比べた。
「七本で合っています」
「抜くなと言われた」
「正しいです」
すぐに答えた。
「一緒に隠した人間の肩を持つのか」
「命令をした人と、命令の内容は分けます」
第3話で俺が言えなかったことを、ミラは平らに言う。
正しい命令と、隠していい事実は別だ。逆も同じらしい。隠した人間の言葉でも、正しい危険は残る。
「抜かずに調べる。四方向の荷重、三つの逃がし道、心律片の返り。全部、別の手段で確かめる」
「右腕が治るまで」
「外周には触らない」
「約束ですか」
「作業条件だ」
ミラは追及しなかった。約束より破りにくいと分かったのかもしれない。
最後の薄板を地図へ重ねる。
王城のある角冠部。六本は静釘から北側の操路管へ線が伸びている。七本目だけ、線が下へ向かっていた。
太い一本が、ラグナの背骨を通り、胸の中央へ落ちている。
「この印は」
「心律核です」
「国獣の?」
「人間なら、心臓に近い場所です」
王城の床から伸びた黒い釘は、操路塔へつながっていなかった。
ラグナの心臓へ、直接刺さっていた。