国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
王城の釘を調べる。
俺がそう言う前に、ミラは地図板へ進入路を三本描いていた。
「行かないぞ」
「まだ、どの道とも言っていません」
「顔に王城って書いてある」
「顔ではなく地図です」
廃材庫の壁へ、角冠部の断面が広がっている。
正規の修繕昇降機。祭礼資材用の荷索。王城排水管の外側。どれも吊街から上背へ向かう道だ。七本目の薄板を見た人間が、海水浴へ行く地図とは思えない。
「王城釘は心律核へ直結してる。六本より危険だ」
「だから先に外周を測ります」
「右腕が治るまで外周へ触らない。さっき決めた」
「あなたの右腕についてです」
「あんたの腕も使わせない」
言い切ると、ミラの指が止まった。
赤い紐の三つ目だけ、逆向きの結び目が見える。
「使わせない、ですか」
「監査があんたを探してる。王城は祭礼で警備が倍だ。捕まりに行くようなものだろ」
「危険なのは分かっています」
「分かってないから道を描いてる」
「分かっていて、行くかを決めています」
声は平らだった。
平らだから、俺のほうだけが怒鳴っているみたいに聞こえる。実際、声が大きいのは俺だ。
「決める前に目的を言え。王城釘の何が要る」
「心律核との間に、遮断層があるか」
「なかったら」
「六本を抜く順番が変わります。王城釘を先に弱めなければ、他の痛みが全部、心律核へ流れます」
筋は通っている。
だから余計に止めにくい。
「俺が調べる」
「その腕で?」
「治ってから」
「九十日のうち十日を待って?」
言葉が返らなかった。
「あなたは隠し台帳を持っていて、吊街の通路と職人を知っています。私は王城の古式構造を知っています。仕事を分けると言ったのは、昨日です」
「捕まったら仕事どころじゃない」
「それも私が決める危険です」
「あんたを守るために言ってる」
ミラの琥珀色の目が、地図ではなく俺へ向いた。
「誰から頼まれましたか」
「何を」
「私を守る仕事を」
答えはない。
ラグナには頼まれていない。ミラにも頼まれていない。俺が勝手に仕事の札をつけた。
「頼まれるまで放っておけって?」
「いいえ。危険を教えて、道を出して、それから私に選ばせてください」
「選んで捕まったら、こっちも困る」
「なら、あなたが困るから行かないでほしいと言えばいい」
それは言いにくい。
守るためという札なら、正しい側に立てる。自分が困るからと認めれば、ただの頼みになる。断られるかもしれない。
頭の中では、もうミラを逃がす工程を組んでいた。
廃材測量員の札を作る。夜の交代荷索へ混ぜる。次の国獣間索が張られるまで、吊街外れの濾過艇へ隠す。監査が王城へ集まる三日後に合流する。
安全そうな道を一本選び、それ以外を俺の中で消している。
「三日だけ待て。監査の目が上へ移ったら、俺が測量札を取る」
「三日後も祭礼荷重は残ります。いまだけ王城排水路の点検窓が開いています」
「別の入口を探せばいい」
「別の入口には、心律核へ近い主操路室を通る許可が必要です」
三日待つのは、危険を減らす代わりに機会を一つ捨てる選択だ。悪い案ではない。ただし、捨てる機会はミラのもので、安心を得るのは俺だった。
「リュータでも、危険だからと道を閉じられました」
ミラが言った。
「安全な区画へいろ、王家が決める、操路士は命令だけすればいい。閉じた道の先に何人いたかを、あとから知りました」
平らな声の下で、赤い紐の結び目だけが強く押される。
何人かは聞かない。いま数字を出させれば、その重さで言い返せなくすることになる。
「今夜は廃材庫から出るな」
結局、命令を出した。
ミラの指が、赤い紐の逆向きの結びへ触れる。
「王立操路院と同じですね」
「一緒にするな」
「危険な道を一つ消して、安全だと決めた道だけを残す。目的は違っても、選ばせない点は同じです」
腹が立った。
ラグナへ釘を入れた連中と一緒にされたからだ。
もっと腹が立ったのは、ずれを指摘する根拠が本文にあるからだった。
言い返す前に、共同廊下の警鐘が一度鳴った。
来客ではなく、警備集合の短い鐘。
廃材庫の外からジオの声がした。
「継骨工カーヴ。王立操路警備隊の事情聴取だ」
ミラと目が合う。
「動くな」
また命令した。
地図板と隠し台帳を濾過籠の二重底へ入れる。心律片はミラが上着の内側へ。俺は作業記録板だけを持って扉を出た。
ジオは一人ではなかった。
青い制服が四人。監査官が二人。廊下の入口と階段を塞いでいる。昨日の「幼なじみの忠告」は終わったらしい。
「任意か」
「今は」
「あとで変わる?」
「お前の答え次第だ」
ジオが二枚の紙を開く。
一枚は俺への事情聴取令。旧第六足場への無許可侵入、保守記録の窃取、旧坑永久充填命令への不正混合。
最後だけは証拠が早い。住民二十人の誰かが話したのか、監査が樹脂を削ったのか。どちらでも、説明して選ばせた結果まで受けるしかない。
もう一枚には、女の横顔が描かれていた。
藍色の髪、二十代後半、琥珀色の目、左手首の赤い操路紐。地図板を携行。
名前の欄は、ミラ・セトではない。
「リュータ王家の操路遺児」
声に出して読む。
紙には個人名がない。王家の何親等か、当時どの操路室にいたか、生存者なのか盗人なのかも書かず、赤紐と地図板だけで同一人物とみなす。捕まえたあとで身元を決められる書き方だ。
似顔絵の下には、接触時の注意が三つある。
命令声を使わせない。響骨へ裸足で立たせない。赤い紐を切断して回収する。
王国は、ミラが古式操路を使えると知っている。昨日の旧坑で初めて見た技術を、令状は最初から危険として数えていた。
「この令状、いつ作った」
「日付は三日前だ」
ラグナが痛いと言う前。
ミラは俺と会う前から追われていた。監査が第六足場へ真っすぐ来た理由も、これで合う。
十五年前に沈んだ国。
王女の操路失敗。
十二歳の一人仕事では描けない地図。
遺児という言葉は便利だ。誰の子かも、何をしたかも書かず、王家に関わる危険物として人を包める。
「罪状は」
「王家操路図の窃取、帝国管理器具への破壊準備、王国進路への干渉」
「壊した証拠は」
「静釘外周に新しい剥離がある」
右腕が固定具の中で熱くなった。
剥がしたのは俺だ。心律片を採ったのも俺。ミラは痙攣を止めた。
「それは俺がやった」
監査官が筆を上げる。
ジオは上げなかった。
「詳しく話せ」
「黒い釘の外周を指一本ぶん削った。痛みの返りが腕へ来て二本折れた。女は古い操路でラグナの痙攣を止めた」
「静釘と知って触ったのか」
「鎮動杭と呼ぶ命令書しか見せてないだろ」
「質問に答えろ」
「答えた。あんたらが名前を隠した道具だ」
監査官の筆が速く動く。
ジオは俺の右腕を見ていた。
「女はどこだ」
「知らない」
廃材庫の扉一枚向こうにいる。
昨日より短い嘘だった。
「昨夜から吊街にいた証言がある」
「誰の」
「証人は明かせない」
「こっちには証拠を出せと言うのに?」
「レン」
ジオが紙を下げた。
監査官が口を挟もうとするのを、左手で止める。警備章の権限がどこまであるかは知らないが、二人は黙った。
「女を匿えば、お前だけでなく住民の仮塞ぎも王命妨害になる。吊街の修繕資格がまとめて止まる」
「脅しか」
「起きることを言っている」
正しい。
ミラを隠すと決めた時、自分の資格は数えた。住民の仕事までは数えていなかった。
「一晩だ」
ジオが低く言う。
「明朝の第一鐘までに、自分で第三区詰所へ来い。女を連れてくれば、保守記録窃取と器具損傷を別々に調べさせる。逃げれば、王城祭礼中の操路破壊として扱われる」
「連れていけば、赤い紐を切るのか」
「証拠品として預かる」
「裸足で立たせない?」
「拘束中の操路を防ぐ規定だ」
「古式操路は、ラグナの痙攣を止めた」
ジオの目が監査官へ動く。令状にない事実だ。
「それも供述へ残せ。俺の命令記録に、昨日の二次亀裂とお前の申告を添える」
「残せば助かるのか」
「分からない」
ミラと同じ答えだった。
都合のいい保証を作らず、それでも手続きの中へ事実を増やす。ジオが渡せるのは無罪ではなく、最初から王城破壊犯として一つに括られない道だった。
監査官がジオを見る。
「ハル隊士、その猶予は命令に」
「事情聴取令の執行時刻は明朝だ。今夜は所在確認までと記録する」
手続きの隙間を使っている。
命令に逆らわず、俺へ選ぶ時間を渡す。こいつなりの三つの道かもしれない。少なくとも一本しかないふりはしていない。
「なぜ」
「記録を残せと言った」
ジオはそれ以上答えなかった。
警備と監査を連れ、共同廊下を出る。最後まで廃材庫の扉は開けなかった。
靴音が二層上へ消えるまで待つ。
扉を開ける。
濾過籠は空だった。
右奥歯を壁へ近づける。人の呼吸はない。格子の留めが一度だけ外され、元へ戻されている。監査の前に使った排液溝を、ミラは一人で抜けた。
寝床代わりの布は畳まれ、借りた煮込み匙も洗って青い茶碗の横にある。廃材棚からなくなったのは、細い安全索一本、燐苔灯二つ、樹脂へ色を合わせる小瓶だけ。
逃亡者の荷というより、測量へ出る職人の荷だ。
二重底の地図板も、心律片もない。隠し台帳だけが油布に戻され、上へ短い炭筆が置いてある。
文字はない。
角冠部の頁に、三つの小さな丸が描かれていた。
正規昇降機、祭礼荷索、王城排水管。
ミラが最初に出した三つの道だ。
「どれを選んだ」
答えの代わりに、床へ赤い糸くずが一本落ちていた。
廃材庫の奥、排液格子の方向へ続いている。
追おうとして止まる。
隠し台帳をここへ置いていったのは、俺が七本の記録を失わないようにするためだ。心律片を持ったのは、王城釘と照合するため。道も三つ残した。
勝手に逃げたんじゃない。
目的を言い、危険を言い、選択肢を残した。それでも俺が聞かなかったから、自分で選んだ。
俺が描いていた逃走工程を、ミラは知らない。
測量札を作り、濾過艇へ隠し、三日後に合流する。彼女の明日を助けるつもりで、出発時刻から居場所まで一人で決めた。
バシュが六百十二人を守るため、何を知らせるかを一人で決めた。その結果へ怒った同じ日に、俺は一人分の進路なら決めていいと思っていた。
人数の問題ではない。相手が選べる情報を持っていたかだ。
筋が悪かったのは、俺だ。
それでも捕まる前に追いつく必要はある。
今度は「守るから戻れ」ではなく、何を測り、どこで合流するかを決めるために。
右腕を胸へ固定し直す。
隠し台帳は置いていけない。油布へ包み、左肩から下げた。重さが打ち身へ食い込む。
排液格子の先で、赤い糸は切れていた。
外へ出ると、祭礼前の王都が頭上に広がる。角冠城へ続く段丘は金布と灯籠で覆われ、臨時の屋台と観覧台が、ラグナの背へ昨日までなかった町を作っている。
荷が多すぎる。
角冠城の段丘は、本来なら上から下へ荷を薄くする。石造りの城、役所、商家、祭礼広場、外周農地。中心の重さを六本の背梁へ分け、最後に外殻全体へ逃がす構造だ。
今夜は外周ほど重かった。
観覧台が農地の水路を跨ぎ、その下へ酒樽が積まれている。臨時貯水槽は二つの予定が四つ。祝祭鏡の水だけで、吊街の共同浴場三つぶんはある。許可札を取ったあと、各商会が「同じ区画内なら誤差」と荷を足したらしい。
祭礼を楽しみにする理由も分かる。
冬を越した祝いで、上背麦の取引が決まり、吊街の子供にも甘い焼き菓子が下りてくる。年に一度だけ、角冠城の水を全区画へ流す日でもある。中止すれば、屋台の借金を返せない家が何十軒も出る。
だから誰も、自分の樽一つが国を傾けるとは思わない。
樽一つでは傾かない。
誰も全体を見ずに足した樽全部で、傾く。
上背局の予定板で見た数字より、屋台が二列増えていた。王城前には水を張った祝祭鏡、騎獣車が十六台。荷重許可札のない露店まで、通路の隙間へ杭を打っている。
祭礼荷索の交代表が、外壁詰所に下がっていた。
今夜の下り便は、空樽と廃材のみ。上り便は食料、灯油、貴族用の座具。人員欄には監査印が要る。
俺は炭筆を左手へ持った。
右手で書く癖があるので、字はひどく曲がる。かえって別人の記入に見える。
下り便の廃材測量員を一名増やし、名前を「ミラ・セト」、任務を「角冠排水管の亀裂確認」とした。下り便なのに任務が上側なのは、交代前の回収担当という形にする。
時間は一刻前。
すでに通過したことになる。
前の担当者の名を書き換えれば、その人間が共犯になる。空いていた予備欄へ一行を足し、人数合計も十五から十六へ直す。重量欄は変えない。測量員一人ぶんの重さは、廃材を一袋減らしたことにした。
偽造にも、荷重と同じ逃がし先がある。
自分の作業印を押せば、調べられた時の責任は俺へ来る。正しいことをした証明にはならないが、知らない荷揚げ人へ落とすよりは筋が通る。
ただし、ミラの名を本人の許可なく使った事実は残る。選ばせろと言われた直後に、別の形でまた先に決めている。
改竄した表を見て、自分でも雑だと思う。監査官が読めば、十分で破れる。だが、ミラが王城内で止められた時、「無札侵入」ではなく「修繕班の表記ミス」と言い張る隙間にはなる。
俺の作業印を押す。
資格を失う証拠が、また一枚増えた。
「カーヴ」
背後から呼ばれ、心臓が一度変な打ち方をした。
ジオではない。祭礼荷索の若い警備兵だ。
「その腕で上がるのか」
「監督だけだ」
「表は」
「更新した。廃材測量員が一人、先に上がってる」
警備兵は左手の曲がった字を見た。祭礼前で、後ろには樽車が六台待っている。一人の測量員より、荷列を止める損のほうが大きい。
印だけ確かめ、通した。
荷索籠へ乗る。
片手では安全環を留められず、荷揚げ人に頼んだ。自分でできると言いかけ、飲み込む。頼む時間は三息。片手で落ちれば全員の半日だ。
籠が上がる。
吊街の灯りが下へ遠ざかり、上背の祭礼灯が近づく。ラグナの黒い甲は金布で隠れ、足元の生きた揺れを、楽団の太鼓が上から塗り潰している。
一層目を越えた時、荷索の左縄が先に張った。王都全体が右へ爪一枚ぶん傾いている。
二層目では、排水が本来の樋を外れ、金布の端から細く落ちていた。祝祭鏡の水がすでに片側へ寄っている。
「上へ合図を送れ。荷を止めろ」
「祭礼開始前だぞ」
「だから、始まる前に止める」
荷揚げ人が赤灯を振る。上の詰所から返ったのは青。運行継続の色だ。行列を止める権限が、下り籠の異常申告より祭礼進行へ置かれている。
俺は籠の床へ左膝をつけた。
太鼓を避け、索とラグナの外殻を通る低い律だけを探す。通常の三打はある。その後の休みが、歩みごとに細くなる。
その太鼓に混じって、別の音がした。
三打。
休みがない。
右の奥歯が強く鳴る。
隠し台帳の薄板が、左肩の袋で一斉に震えた。
「籠を止めろ」
荷揚げ人が制動索を引く。
遅い。
ラグナの右後ろ脚が、接地の途中で痙攣した。
荷索籠が横へ振られる。上背から悲鳴が落ち、金布の段丘が波みたいに傾いた。屋台が滑る。祝祭鏡の水が片側へ溢れ、騎獣車が留め鎖を引きちぎる。
右後ろ脚が、地面から離れた。
次の一歩が来ない。
王都が、ゆっくりと右へ傾き始めた。