国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う   作:三打して待つ人

71 / 71
完璧な床

目を開けると、床が俺を転ばない位置へ戻していた。

 

寝ていたわけじゃない。

 

アトラスの二歩目で、八核の返りが一度、右奥歯へ集まった。その後の五呼吸が抜けている。

 

意識を失ったのか、記憶だけ飛んだのか。

 

ミラの時刻板では、呼びかけ二回へ無反応。脈、呼吸は開始値。頭を打った跡なし。目の左右差なし。新傷なし。

 

無事、と一語にしない。

 

五呼吸の意識空白、黄。

 

俺は中央工房輪の廊下へ仰向けになっていた。滑り板は横。腰の下へ床が薄く盛り上がり、左脚を荷重なしの高さで支えている。

 

誰かが枕を置いたんじゃない。

 

床そのものが、俺の身体に合わせて変形していた。

 

「動かないで」

 

ミラが言う。

 

「動いてない」

 

「起きようとしました」

 

「まだ肩しか」

 

「床が先に戻しました」

 

肩へ力を入れる前に、腰の盛り上がりが一段高くなったらしい。

 

俺は今度、起きるふりだけする。

 

腹へ力を入れない。左肘も動かさない。ただ天井の継ぎ目を見る。

 

床は変わらない。

 

次は右肩へ半分だけ力を入れる。

 

背中の右側が、力を入れた直後に上がった。

 

直後?

 

ソラネが床粉の板を出す。

 

俺の肩が沈むより、一打早い。

 

「予想した?」

 

ネネが自分の帆糸を俺の袖、床、壁へ三本張る。

 

呼吸で肩が動く時は袖糸が先。起きようとした時は床糸が先。

 

アトラスは、俺の身体が動く前に床を作っている。

 

「起動参照律に俺が入ってるから?」

 

「この廊下だけでは分かりません」

 

ミラが言う。「試験居住輪でも同じ床補正が動いています」

 

中央工房の扉が開く。

 

開けたのはジオだ。警備服ではない。証拠保全札を胸へ出し、後ろに帝都警備二人を連れている。

 

「拘束命令は三十呼吸を超えたため失効。新規命令は、レン一行を中央工房輪内で保護監視。外部通信は検閲、移動は警備同行」

 

「保護?」

 

「逃げれば拘束へ変わる」

 

分かりやすい保護だ。

 

「バシュは」

 

「前鎖を外した。道具袋は証拠庫。歯鍵の透明型を作っている。キエラは無主登録停止申請の公開回線を維持。ソラネとネネへの契約賃金は夜間加算込みで中央工房が仮払いした」

 

全員生存。

 

仕事も続いている。

 

ラグナの映像は、起動直後の三十呼吸から更新がない。伝送索が切れたのか、都市側が止まったのか未確認。

 

急いで通信台へ行きたい。

 

左脚は荷重赤。

 

床が立たせないのは助かる。

 

同時に、どこへ行くかまで先に決められるのは気味が悪い。

 

滑り板へ移る。ミラとジオが両側を持つ。床の盛り上がりが、板の高さへぴたりと合う。持ち上げる距離は半分で済んだ。

 

便利だ。

 

悔しいほど。

 

 *

 

中央工房輪を出る許可はない。

 

だから、出た。

 

警備を殴って逃げたわけじゃない。

 

中央工房輪と医療・配給輪の接続廊下が、起動時の荷重差で黄になった。保全員の半分はドゥラム側へ残っている。補修要員としてアデルの旧試験札を使う。

 

偽資格は看破済み。

 

本物の試験参加記録と、傷地図の共同保全資格は残る。

 

警備二人は止めた。

 

「保護対象を黄区画へ入れられない」

 

「黄を白にしないと医療輪の食料が三刻後に止まる」

 

「別班を待て」

 

「別班の到着二刻。食料停止三刻。間に合う」

 

ジオが言う。「ただし接続廊の荷重は一刻ごとに一増える。二刻後は停止値八。到着と同時に通行停止になる」

 

待てば規則上は間に合う。

 

作業上は、別班が来た瞬間に赤だ。

 

警備の一人は黄を置いた。もう一人は赤。

 

ミラが三案を出す。

 

俺たちを戻し別班を待つ。

 

警備同行で接続廊入口まで観測だけ。

 

保全員一名を呼び、共同で仮支えまで。

 

二人は三つ目を選んだ。

 

逃走じゃない。

 

許可された範囲を、現場の必要で一つずつ広げる。

 

それでも宰相府から見れば、拘束対象が輪境界へ近づいている。保護監視札は黄から赤へ変わった。

 

俺たちは接続廊へ入る。

 

床の継ぎ目は、見た目には完璧だった。

 

幅一枚の透明骨。

 

左右の高さ差なし。

 

水糸は中央。

 

粉も動かない。

 

中央計器だけが荷重七、停止八を出す。

 

「どこが七?」

 

保全員が首を振る。「床補正が差を消してる。計器上は接続歯の三番」

 

俺は裸耳で聞く。

 

一つの亀裂音じゃない。

 

誰かが通るたび、床が先に盛り上がり、着地の荷を反対側へ送る。次の人が来る前に戻し、また別方向へ出す。

 

荷が消えたように見える。

 

実際は接続歯の下で、細かく往復している。

 

「通行を止めて一回、補正を切る」

 

「補正停止は主任権限」

 

「じゃあ通行を一人ずつ。歩く前に行き先札を伏せる」

 

予測できない動きへ床がどう返すかを見る。

 

保全員が三枚の札を作る。

 

直進、右、停止。

 

歩く人は自分で一枚引き、胸へ伏せる。床計器には進路を入れない。

 

一人目、右。

 

足を向ける一打前、右床が上がる。

 

二人目、停止。

 

歩き出す構えの時点で、前床が上がり、止まるとすぐ戻る。

 

三人目、直進の札を持ちながら、本人判断で一歩目を短くする。

 

床は最初の長さへ先回りし、足が届かない位置で盛り上がった。踏み外しかけた身体を、別の波が横から支える。

 

転倒なし。

 

荷重七から七半。

 

「進路札を見てない」

 

ネネが言う。「身体の方」

 

筋肉の張り、重心、視線、呼吸。

 

人が自分でも決め切る前の動きを、床が拾っている。

 

拾うのは計器だけじゃない。

 

床下の二十四頭。

 

アトラスの反射核だ。

 

予測が外れても、次の波で転ばせない。

 

完璧に近い。

 

その代わり、外れた荷は接続歯へ細かく積もる。

 

「三番歯を支える。補正を止めないまま、逃がし先を四つへ増やす」

 

俺は仮支えの位置を出す。

 

保全員が持ち、ジオが通行を一人ずつにし、ネネとソラネが予測波と実着地を別板へ取る。ミラは三進路札へ「本人変更」を四つ目として加える。

 

接続歯の荷重は七半から六へ下がった。

 

食料運搬を止めず、床補正も切らない。

 

これも良い修繕だ。

 

俺たちはそのまま医療・配給輪へ入った。

 

宰相府の保護監視札は赤。

 

警備二人は、命令違反として俺たちを追うのでなく、共同作業の立会い者として後ろへ来た。後で自分たちの判断を審理へ出すつもりだ。

 

 *

 

医療・配給輪では、誰も床の異常を探していなかった。

 

起動でずれた寝台三台は、壁から伸びた白い樹脂が脚を包み、もう動かない。転倒した工具箱の跡も、床が平らに戻っている。

 

配膳人の左肩打撲は冷却中。足甲打撲三人は歩行白。未回答・臨時入区者の照合が終わり、搭乗者は一万四千三百十二へ更新。追加二十四人、重複なし。

 

死亡0。

 

行方不明0。

 

ドゥラム側へ家族を残した人、三千七百一。

 

安全と喪失が同じ配給列へ並ぶ。

 

それでも、食事は時刻どおり出ている。

 

水圧は全区画で開始値。

 

患者の薬も切れていない。

 

ラグナ避難輪から来たマウラは、温かい椀を二つ持っていた。

 

「ケルの分」

 

「水管?」

 

「白。外地補助員にも床が図を出してくれる。最終弁は触れないけどね」

 

マウラは俺の顔を見て、先に言った。

 

「帰らないよ」

 

「まだ訊いてない」

 

「訊く顔だもの」

 

ラグナは走っている。

 

上街の橋が外れ、吊街の索が切れた映像をマウラも見ている。

 

俺の中には、故郷が壊れてるんだから戻りたいはずだ、という勝手な形がある。

 

「アトラスの下に何がいるか、記録は見た?」

 

「二十四頭。生きた身体。三頭ずつ八つ。個別の赤が平均で消えた」

 

「起動が前倒しされたことは」

 

「同意してない。怒ってる」

 

「それでも残る?」

 

「残る」

 

マウラは椀を一つ配膳台へ置いた。

 

「吊街へ戻れば、明日の水があるか分からない。ここにはある。私は国獣を痛めていいと白を出してない。でも、あの子たちを外す方法ができるまで、自分の家を捨てて崩れるラグナへ戻るとも書かない」

 

筋が通っている。

 

俺の望む選択じゃないだけだ。

 

「情報が足りないと思わない?」

 

「足りない。だから個体値を毎日出して。降りる道も作って。知ったら私が帰る、って先に決めないで」

 

洗脳された住民にすれば、説得する俺が正しい側へ立てる。

 

安全な水を選んだ人へ、幼獣の痛みを分かっていないと決めれば、俺は自分の家を欲しがらずに済む。

 

そんなに簡単じゃない。

 

ケルが水管区から来た。

 

床は彼の歩幅に合わせ、工具箱の重い左側だけ一指高くなる。ケルは気づいて、わざと足を一度止めた。

 

床も止まる。

 

「便利だろ」

 

「怖くない?」

 

「怖いよ。俺が転ぶ前に知ってる。でも、吊街の床は俺が落ちてからしか直らなかった」

 

良いものは良い。

 

怖いものも怖い。

 

二つの札を一枚に塗らない。

 

ラグナ先行移住者二百四十人へ、起動後の第一札が回った。

 

質問は一つにしない。

 

現在アトラスへ残る。

 

ドゥラムへ降りる。

 

ラグナへ戻る輸送ができた時に戻る。

 

決めない。

 

それとは別に、幼獣個体値の公開、起動前倒しへの異議、国名・資格・自治条件の再審を取る。

 

最初の回答二百二十七。

 

アトラス残留百七十一。

 

ドゥラム降下十六。

 

ラグナ帰還希望十一。

 

未決二十九。

 

未回答十三を残留へ数えない。

 

残留百七十一のうち、幼獣接続継続へ白を出した人はゼロ。個体値公開要求百六十三、接続を止める安全工程要求百五十九、回答なし八。

 

アトラスへ残ることと、今の仕組みを認めることも同じじゃない。

 

ドゥラムへ降りたい十六人には、高所恐怖、家族、前倒しへの抗議、仕事の四理由がある。ラグナへ帰りたい十一人にも、家、救助、王国維持、置いた道具と別々の理由がある。

 

マウラは残留、個体公開白、接続継続赤、自治再審白。

 

ケルも残留だが、資格再試験は受けると書いた。帝国規格を嫌っているのに、最終停止権を取れるなら技術を覚える方を選ぶ。

 

「都合がいいって言われるかな」

 

「誰に」

 

「故郷を捨てたくせに国名を残せ、帝国の床を使うくせに幼獣を外せって」

 

「都合はあるだろ。俺にもある」

 

ケルが眉を上げる。

 

「床は欲しい。幼獣は部品にしたくない。ラグナは助けたい。俺の耳は鍵から外したい。全部ほしい」

 

「無理じゃない?」

 

「今の設計では無理。だから、どれを諦めるかを先に人へ決めさせず、無理の場所を直す」

 

言いながら、自分がまた全部直す形へ寄っていないか確かめる。

 

直すのは俺一人じゃない。

 

選ぶのも俺じゃない。

 

いま言えるのはそこまでだ。

 

 *

 

試験居住輪の広場では、起動を祝う鐘が鳴っていた。

 

帝国の宣伝だけじゃない。

 

七日交替の試験居住者が、訓練どおり四輪を無傷で持ち上げた床へ自分たちで白を出し、食堂の鍋を広場へ運んだ。突然の前倒しへ赤札も吊ってある。祝いと抗議が同じ紐に並ぶ。

 

壁のひびへ白い樹脂が流れ、三十呼吸で塞がる。

 

子供が指で押すと、樹脂は固まる前だけ柔らかく逃げ、離すと戻る。指を挟まない。

 

「即時修復壁」

 

保全員が説明する。「表面圧、温度、血流を見て、人の身体なら避ける」

 

「どうやって血流を見る」

 

「床反射網」

 

また幼獣だ。

 

アトラスは人が傷つく前に支え、壁へ挟まる前に避け、転ぶ前に床を上げる。

 

国獣に痛いと聞いてから直すより、ずっと早い。

 

床が何を先に読んでいるか、広場の端で小さな試験をした。

 

人を転ばせる試験じゃない。

 

同じ重さの砂袋二つ。

 

一つは保全員が持ち、伏せた三札から直進、右、停止を選ぶ。

 

もう一つは天井索へ吊り、ソラネの振動暗号で留めを外す。落とす時刻は持つ人にも床計器にも知らせない。高さは半指、下に受け布。床荷重は停止値の十分の一。

 

人が持った袋は、運ぶ方向へ床が先に盛り上がった。

 

天井索の袋は、落ちてから床が受けた。

 

どちらも倒れない。

 

返りの時刻が違う。

 

「重さを予測してるんじゃない」

 

ネネが帆糸を示す。「持ってる人の方を見てる」

 

次に空の荷箱を人が押す。床は進路へ先回りする。

 

同じ箱を巻胴で引く。床は車輪が回ってから補正する。

 

生きた身体の筋、呼吸、視線。

 

あるいは、動こうとする前の細い骨振動。

 

「幼獣が人の考えを読んでいる」とは書かない。

 

入力経路は未確認。

 

アデルの公開図では、床皮膚の圧膜、温度膜、血流反射、八核予測網。心を読む装置はない。

 

でも、身体が始めた選択を本人の動作より先に拾い、床が結果を整える。

 

便利さは、意志へ命令しない。

 

右へ行こうとした人を左へ曲げるわけじゃない。

 

ただ、転ばない右床を先に作る。

 

「選んだ後ならいいんじゃない?」

 

ネネが言う。

 

「本人が右を選んで、右を支えるなら」

 

「床が外した時、本人が選び直す前に二度目も先回りする」

 

ミラが四つ目の札を出す。「直進を引いて途中で歩幅を変えた人へ、最初の歩幅を作った。その誤りもすぐ直しましたが、直し方をまた床が決めています」

 

「転ぶよりはいい」

 

保全員が言う。

 

それも本当だ。

 

予測を全部切って自由に転べ、なんて案は出せない。

 

本人が床補正を弱める札。

 

予測なしの練習区画。

 

子供、負傷者、患者では開始値を変える。

 

選べる調整が要る。

 

現在は、全床一律で最大補正。

 

止める権限は主任設計官だけ。

 

完璧だから設定を触れない、という継ぎ目が見えた。

 

俺が要らない床だ。

 

その考えが胸へ刺さる。

 

役に立たない日も席が欲しかったはずなのに、本当に俺が要らない仕組みを見ると、追い出された気がする。

 

勝手だ。

 

「レン」

 

ミラが呼ぶ。

 

「大丈夫」

 

反射で答えた。

 

何が大丈夫なんだ。

 

言い直す。

 

「この床、俺がいなくても直る。欲しかった。なのに、少し嫌だ」

 

ミラは能力がなくても必要だと慰めない。

 

「どこが嫌か、あとで聞きます。今は床の測定を」

 

仕事へ戻す。

 

逃げ道にもできる。具体的な次の予定にもなる。

 

俺は広場の子供たちを見る。

 

木球を転がす遊びをしている。資格学校で床荷重を習っていた子もいる。球の進路へ床が先に浅い溝を作り、外へ飛び出さない。

 

一人の男の子が、わざと逆へ走った。

 

床が左へ盛り上がる。

 

子供は笑って右へ切り返す。

 

床はさらに先回りする。

 

三度目、子供の靴底が、こぼれた煮汁へ乗った。

 

進路の問題じゃない。

 

摩擦が消える。

 

床は腰の下へ支えを出したが、半打遅い。

 

子供が尻から落ちた。

 

高さ半指。

 

痛み一。

 

泣かず、本人は笑っている。

 

アトラス全体から、返りが来た。

 

一つの大きな痛みじゃない。

 

小さい打ち身が、三頭ずつの平均でもない。

 

一番槽から一回。

 

二番槽。

 

三番槽。

 

順に、二十四回。

 

子供一人が軽く転んだだけで、完璧な床の下にいる二十四頭すべてが、小さく痛んだ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。