国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
国が傾く時、最初に落ちるのは高い物だ。
祭礼荷索籠では、灯油樽が俺より先にそれを証明した。
留め縄が一本切れ、右側の樽が籠の縁へ滑る。荷揚げ人が押さえようと手を伸ばした。
「触るな。左へ跳べ」
三人で左の網へ体重をかける。
樽は縁を越え、白い深霧へ落ちた。もったいないが、燃える樽と一緒に籠が落ちるより安い。空いた重さで左縄が戻り、籠の横振れが少し収まる。
「上へ行けるか」
荷揚げ人が制動輪を見る。
「右縄が噛んでる。上げれば切れる」
「下は」
「下げても切れる」
選択肢が二つとも同じ結果なら、足りないのは三つ目だ。
籠の屋根から点検索を外し、上の支柱へ投げる。右腕は胸に固定したまま、左手だけでは輪が作れない。荷揚げ人へ端を渡す。
「支柱を回して、左縄へ二重。籠の重さを半分だけ預ける」
「半分?」
「全部預けると支柱が抜ける」
三人で索を回す。安全環へ掛ける時、左肩が悲鳴を上げた。体重は索へ預け、腕で持たない。
仮の三本目が張る。
籠の床へ粉墨を引く。右縄、左縄、点検索の三本が受ける重さを、線の開きで見るためだ。右縄は一息ごとに細く裂け、左は戻りすぎ、点検索だけが一定だった。
「点検索へもう一割」
「支柱が持たないと言っただろ」
「二割は持たない。一割なら、右縄が切れるより先に上へ着く」
荷揚げ人は俺の資格を聞かなかった。籠が傾いている時、肩書きより粉墨線のほうが役に立つ。
空樽を二つ左へ転がし、残った灯油樽は中央で寝かせる。一人が手回し輪、もう一人が三本の線、俺が上の支柱を見た。右腕を使わないぶん、口だけが忙しい。
「上の外壁まで、手回しで二十歩」
荷揚げ人が制動輪を一歯ずつ進める。
上では屋台が滑り、人が左へ走っている。走る方向は上り坂だが、その先には祝祭鏡の水が溢れていた。混ざれば押し戻される。
「走るな! その場の留め柱へ掴まれ!」
籠から叫んでも、楽団の太鼓と悲鳴に消える。
荷揚げ人が赤灯を連続で振った。緊急停止の合図。今度は上の詰所も赤を返した。
外壁へ着く前に、王都の傾きがもう一段増えた。
ラグナの右後ろ脚はまだ上がったまま。五本の脚で十八万人と祭礼の余分を支えている。止まった国獣を動かそうと、操路塔が細い一音を繰り返していた。
鳴るたび、右奥歯の休みが削れる。
「止めろ」
詰所へ上がるなり、制御鐘の索を掴んだ兵へ言う。
「王城命令だ。歩調を戻すまで継続」
「戻す前に右脚が裂ける」
「資格札を見せろ」
「下で亀裂を止めた継骨工だ」
「上背資格は」
「ない。だから今すぐ、ある奴を呼べ」
兵は迷った。
正しい手続きだ。いまは待つ時間がない。
詰所の制動棒を左足で蹴り落とす。操路鐘の索が止まった。
「貴様」
「あとで名前を書く。レン・カーヴ。吊街。骨貨はないから罰金は分割で頼む」
次の一音が消える。
ラグナの右脚は戻らないが、傾斜の増え方が鈍った。
王城へ続く段丘へ出る。
金布が外れ、黒い甲の継ぎ目が見えていた。右へ滑った屋台が三軒、農地の低い壁へ引っかかっている。騎獣車の一台は横倒し。中の騎獣が暴れ、留め鎖をさらに引いていた。
人を数える。
動ける者。動けない者。挟まれた者。
祭礼の身分札は見ない。落ちる時、貴族の金札も露店の木札も同じ速さだ。
「屋台を支えるな、中を出せ。車の鎖を切れ。祝祭鏡の水門を全部開けろ」
周りの兵と商人が、誰の命令かと顔を見合わせる。
「右へ落ちたい奴だけ残れ!」
言い方は悪いが、動き始めた。
水門が開き、鏡の水が六本の排水路へ分かれる。右へ一気に流せば傾きが増すので、左三本を先、右は半分だけ。荷揚げ人へ順番を伝える。
倒れた騎獣車の扉が開かない。
左手で掛け金を引くが、車体が歪んでいる。右手を出しかけ、固定布が止めた。
「継骨工さん、どけ」
太い肩が横へ入った。
ジオが警備兵二人と車体を持ち上げ、三人目が掛け金を外す。中から老夫婦と子供が這い出した。
「命令を聞かない病気が上背まで来たか」
「事情聴取は明朝だろ」
「王都転覆の現行犯は別だ」
口はそう言いながら、ジオは俺へ手枷を出さない。
次の車へ警備を回し、倒れた屋台の人員を数えている。
「操路塔を止めた」
「見れば分かる」
「逮捕する?」
「避難が先だ」
即答だった。
「王城からは強制駆動を続けろと命令が来ている。俺は伝えた」
「従わないのか」
「避難完了前の操路変更を禁じる安全令がある。王命にも消されてない」
規則の中から、いま人を落とさない一行を選んでいる。
ジオは命令を運ぶだけの人間だと思っていた。実際は、どの命令を先に使うかを選んでいる。
「右段丘の避難を任せる」
「お前に言われなくてもやる。カーヴ、王城へ行け。地図の女が排水管で見つかった」
ジオの後ろでは、警備兵が祭礼布を裂いて担架を作っていた。貴族用の座具は積み上げ、滑る屋台を止める重りにする。商品を守ろうと戻った露店主へは、品名と量を記録して補償申請札を渡し、手だけで追い払わない。
避難は「走れ」で済まない。
寝たきりの老人、迷子、荷を手放せない商人、言葉の違う旅人。先に逃げられる者だけを動かすと、通路の狭い場所へ全員が詰まる。ジオは区画ごとに人数を数え、左段丘の広場へ百人ずつ送っていた。
規則は遅い。
だが、誰が残っているかを記録する規則は、速い人間だけで避難を終わらせない。
心臓が一度強く打つ。
「捕まえたのか」
「まだだ。排水管の床を測って、兵へ三つの退路を描いた。追った二人が、その道で落石を避けた」
「じゃあ、なぜ」
「令状があるから追う。助けられたことと別だ」
第6話のミラと同じ答えだった。
人と命令、結果と責任を分ける。面倒だが、筋は通る。
王城排水管へ走る。
右腕の揺れを抑えるため胸へきつく巻き直し、左肩の台帳袋を背へ回した。坂になった通路を上るたび、足首が右へ流れる。
排水管の点検窓は開いていた。
赤い紐が三方向へ張られている。一本は王城基礎、一本は祭礼広場、一本は角冠外殻。
その中心にミラがいた。
裸足ではない。令状対策なのか、靴底へ薄い響板を結んでいる。地図板の白い粒は一方へ寄り、心律片の小瓶は中央で白く曇っていた。
「戻れとは言わない」
先に言う。
ミラがこちらを見る。
「何を測った。どこで合流する。先にそれを決める」
一拍のあと、赤い紐の一本を渡された。
「王城釘と心律核の間に、遮断層はありません」
「最悪だな」
「ただし、周りに六つの分離継ぎがあります」
地図を見る。
王城を囲む六区画の境へ、二重線がある。祭礼広場、東西の役所、二つの貯水区、操路塔基部。現代の石床で埋められ、台帳には載っていない。
「継ぎを外せば、王城が割れる」
「切り離すための継ぎです。古い設計では、都市区画を一つずつ降ろせました」
国は一枚の大地ではなかった。
背負わせる荷を減らすため、町を分けて下ろせるように作られていた。後から石と樹脂で固め、動かない一枚にしたのは人間だ。
二重線の間には、幅の違う留め穴が並んでいる。大きい穴は区画を固定する主留め、小さい穴は荷を隣へ渡す仮留め。その外側に、降下索を通す丸い窓。いまは石板で塞がれているが、形は吊街の可動棚と同じだった。
「町をどうやって降ろした」
「背籠です。区画の下へ籠骨を組み、国獣が荷を降ろせる場所まで運びます」
「そんな物が残ってるのか」
「リュータには」
そこで言葉が切れた。
沈んだ国に残っている。使える状態か、取りに行ける場所かは今は聞かない。
現代の王都は、分離継ぎの上へ役所の床を張り、税区画を跨ぐ家を建て、外せない硬化樹脂で隙間を埋めた。町を分けられると知らなかったのか、分けたくなかったのか。どちらでも、古い設計は消えずに荷重線だけを残している。
今日は区画を降ろせない。
それでも主留めを残し、仮留めだけを緩めれば、一枚へ集まった重さを六方向へ薄くできる。抜くのではなく、逃がす。その考え方なら右腕を折った俺にも分かる。
「今日は降ろせない」
「はい。でも六区画の荷重を、王城釘から外へ移せます」
「逃がし先は」
「角冠外殻、左右背梁、後方農地。三系統です」
「どれを選ぶ」
「ラグナの返りを見て」
命令ではなく、選択肢。
「俺は周辺継ぎ。あんたは操路」
「右腕は」
「使わない」
「作業条件ですね」
「そうだ」
昨日の言葉が、今度は二人分の工程になった。
排水窓の外から三打が来る。
休みはない。
ミラが三本の紐を順に弾く。角冠には返りなし。左右背梁は短い。後方農地へだけ、長い低音が返った。
「後ろへ逃がす」
六区画の分離継ぎを開けるには、人手が要る。
ジオへ警備二十人、荷揚げ人へ祭礼作業員、修繕局へ継骨工を求める灯信を出した。
最初に来たのはバシュだった。
「右腕は」
「固定してる」
「何をする」
隠した八年へ怒りはある。任せたくない気持ちもある。
だが、この人は六区画の継ぎを知る。知らないふりをして使わなければ、また俺の感情を他人の荷へする。
西役所の下は、八年前にバシュ自身が硬化樹脂を流した区画だ。どこが薄く、どこへ後から水管を通したかまで覚えている。俺が任せないことで守れるのは、自分の気分だけだった。
「安全条件を確認します。主留めは外さない。仮留めは一段ずつ。粉墨が二本切れたら止める」
「周辺四方向を別班で見る」
「俺が聞いたと言っても続けない」
「数字か目視が揃うまで止める」
バシュの言葉を信用したわけではない。
手順を互いに言葉へ出し、周りの職人も聞いた。誰か一人が黙って変えられない形にした。
「西役所と第一貯水区の分離継ぎ。後方農地へ三割ずつ。周辺亀裂も記録してください」
バシュは一度だけ俺を見た。
「分かった」
謝罪も関係の結論もない。
仕事だけを渡す。
王立局の職人が六区画へ散る。バシュは西、別班が東。ミラは排水窓で三経路の返りを測り、俺は王城中央から各区画の粉墨線を比べる。
ジオが住民を左段丘へ誘導する。
王城の貴族が自分たちを先に通せと札を上げた。
「避難順は歩けない者、子供、傾斜下側からだ」
「王族区の安全が国の」
「いま国を支えているのは五本の脚です。札ではない」
警備兵が道を開ける。
ジオは王命に逆らったのではなく、現場安全令の順番を変えない。言葉の違いでも、避難できる人間は同じだ。
第一の分離継ぎが開く。
石床の下から、古い銅色の継ぎ目が現れた。完全には切らず、留めを三段のうち一段だけ緩める。
荷が後方へ流れる。
王都の傾きが爪半分戻った。
地図板の白い粒が中央へ少し戻る。角冠外殻の紐は無反応のまま、後方農地の紐だけが太く震えた。ラグナがその道を選んだと断定はしない。少なくとも、荷を受けても新しい拒否律は出ていない。
第二、第三。
祝祭鏡の水が農地貯水へ移り、騎獣車を中央から外す。屋台は商品より先に車輪を外し、低い床へ寝かせる。
第二継ぎは東役所の記録庫だった。紙を運び出そうと役人が戻る。ジオは人命記録と所有証書の箱だけを二つ選び、残りは後だと封をする。全部を救おうとすれば、避難路が箱で塞がる。
第三は第二貯水区。水を捨てれば軽くなるが、明日の飲み水がなくなる。半分だけ後方農地の空槽へ移し、残りは六つの小槽へ分けた。危機が終わったあとまで町は続く。軽くすることと、生活を空にすることは同じではない。
第四の継ぎで、右奥歯に鋭い返りが来た。
「止めろ!」
東役所班が留めを二段外していた。荷が急に抜け、隣の操路塔基部へ落ちている。
バシュが走る。右膝の継鉄が鳴り、途中で速度が落ちた。
「ジオ、支えを!」
警備兵四人が仮柱を入れる。
バシュは床へ伏せ、継ぎを一段戻す。三十年の手が迷わず留めを拾う。
俺は中央から粉墨線を読む。
「戻しすぎるな、半段! 後方へ二割増やせ!」
ミラが農地の紐を弾く。
返りが長い。受けられる。
荷重が再び流れ、操路塔基部の線が止まった。
六区画のうち五つ。
最後は操路塔そのものだ。
この時点で右段丘の住民は七割が左広場へ移っていた。まだ王城使用人、操路官、足の遅い者、荷を守る商人が残る。ジオの記録板には区画ごとの残数が書かれ、警備兵が一列ごとに消している。
王都の傾きは半分まで戻った。
ラグナの右後ろ脚は上がったままでも、五本の脚と後方へ逃がした荷で数刻は持つ。急いで動かすより、いま止めて避難と荷下ろしを続けるほうが安全だ。
「出力を落とします」
ミラが言う。
「塔を止めれば、右脚へ命令が行かない」
「命令だけではありません。七本の静釘へ律を送る管も弱まります」
王城釘を抜かず、周辺荷重を移す。
塔の出力を落とし、釘へ新しい痛みを吸わせない。
今できる手順はそれしかない。
「落とす」
バシュが主鐘の調律輪へ向かう。
ジオは避難路を確保したまま、王城伝令の前へ立った。
「国王代理命令! 操路塔を最大出力へ戻し、国獣を強制駆動せよ!」
伝令の声が広場へ通る。
王家は静釘を知らないふりをしなかった。
王城側にも理屈はある。
ラグナがここで止まれば、三日後に隣国との交易索を張れない。祭礼へ来た旅人と荷が王都に取り残され、深霧の流れが変わる前に進路を戻せなくなる。右脚を着かせれば、表面上は傾斜を止められる。
ただし、そのために何を吸わせるかを伝令は言わない。
避難中の人間へも、ラグナへも、強制駆動の代価を選ぶ時間を渡していない。
「鎮動杭七基へ同時充填。拒否律を遮断し、右後脚を接地させよ!」
七基。
はっきり言った。
「避難が終わっていない」
ジオが返す。
「王都の転覆防止が優先だ」
「強制駆動で転覆が進んでいる」
「ハル隊士、命令を執行しろ」
ジオの手が警備章へ触れる。
外すのかと思った。
外さない。
「現場安全令十二条により、避難未完了区画の操路変更を保留します。異議は記録へ」
章をつけたまま、命令を止めた。
伝令が後ろの操路官へ合図する。
別系統の制御室がある。
王城の奥で、大鐘が鳴った。
音は一つでも、返りは七方向から来た。
右後ろ脚の低い擦れ。左肩甲の熱。旧坑の冷たい空白。腹中央では濾過水が一瞬止まり、背骨根から王都の床へ細かな震えが走る。首の操路節で祭礼灯がまとめて揺れ、角冠部の真下では心律片の小瓶が白く曇った。
ミラが赤い紐を三本とも掴む。
「充填を始めています」
「どれから止める」
「一つではありません。同時です」
王家は一頭の身体を七か所に分け、同じ命令を一度に押し込んだ。どこか一つの返りを見て止める手順がない。安全装置ではなく、止める人間を工程から外した設計だった。
充填が終われば元へ戻るという保証も、命令書のどこにもない。
一音目で、右後ろ脚が震える。
二音目で、ラグナの背が沈む。
「出力を切れ!」
バシュが調律輪へ槌を入れる。だが、王城側から鎖が固定され、回らない。
三音目。
ラグナが右膝をついた。
王都が跳ね上がり、避難路の人々が床へ倒れる。五つの分離継ぎへ一度に荷が戻り、粉墨線がすべて切れた。
隠し台帳の薄板が、袋の中で七枚同時に鳴る。
右後脚。左肩甲。旧坑。腹中央。背骨根。首の操路節。王城角冠部。
七本の静釘が、同時に痛みを吸い始めた。